演劇「酷いと思わない? 私を愛していると言った男、既婚者だったのよ」
女はまるで演劇のような大袈裟な手の動きをして、我が身の哀れさを表した。
ぴんと美しく揃った指先は、彼女が身体の細部に至るまで、意識を向けることに長けている、或いはそういった教育を受けていたことを。一方で締まりのない口をへらへらと動かす様は自棄であることを匂わせた。
敏い者がこの女と対峙すると、どこか落ち着かない気持ちになるのは、そういったアンバランスな不穏さからだろう。我が身を魅せる術を持つ者の粗野は、どことなく“転落”を連想させるからだ。
女はだらしなく机にしなだれかかると、ちらりと上目遣いに目の前に座っている人物に目を向けた。目線の先には似たような年ごろの、桃色の特徴的な髪色をした女が鎮座している。
それなりに賑わっている店内で、女の周りだけ騒がしさが消えているのは女が場の空気、ここで言うならば声を荒げ、感情を露わに会話する様式に乗っ取っていないからだろう。桃色の髪の女は相槌を打つわけでも、目の前の女のだらしなさに顔をしかめるわけでもなく、黙って自分の酒を口に運んでいた。
「酷いと思わない? 私を愛していると言った男、既婚者だったのよ」
女は――ガルフストリームは先程と寸分違わぬ言葉を口に出した。
まるでテレビゲームの、何度話しかけても同じセリフしか口にしないキャラクターのように、相手から何かの反応を得られるまで同じことを繰り返すのだと言外に主張しているようであった。
ねぇ、タラサ、と本名なのか偽名なのかも分からない名前を最後に呼ばう。静かなる念押しであった。するとタラサと呼ばれた女は、グラスを音が鳴らない程度の丁寧さで机に置いて、一度目を瞬かせた。
「馬鹿じゃない限り、分かるでしょ」
「あんた私を馬鹿だって言いたいの?」
「さぁ。気づかない馬鹿なのか、それとも気づかないふりして、今になって被害者然している、こすっからい奴なのか、そこまでは。あたしは思い込みで物を言いたくないの」
辛い二択を提示した。
厭味ったらしく、その癖保険の利いた隙のない言い方だったが、意外なことに攻撃性は含んでいない。何故なら、恋人が既婚者だったと騒ぎ立てているこの女は、そんな言葉を提示されて無意識の盲点を突かれたと傷つき、自己を顧みる奴ではなかったからだ。
だからこの返答は単なるリズムに則った呼応であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
酷い、とガルフストリームは机に突っ伏した。
彼女のこの反応も会話の一部である。そこに感情が込められていようが演じていようが、タラサにとってはどうでも良かった。ガルフストリームは子どもの、それも大声で喚き散らすのではなく、母親の膝でしくしくと泣くような、そんな子どもの泣き方で小さな声をあげた。
「どうしてそんな酷いことを言うの? あんた、私がどういう気持ちで泣き言を言ってるかなんて分からないでしょう。でも、少なくともそんな風に責められたいと思って愚痴ったわけではないこと位、分かるじゃない」
「だとしたら、あたしの沈黙で、あんたの男事情に興味がないんだなってこと位、察してくれても良いんじゃない?」
酷い、酷い、とガルフストリームは相手の言葉を打ち消して、今度こそ我儘いっぱいの子どものように泣いた。彼女たち二人以外にもその店に客はいたはずだが、誰も気にも留めなかった。
誰もかれも、他人に興味などないのだ。
☆ ☆ ☆
ガルフストリームは陽気で自暴自棄な人間だった。恥も外聞もなく己をさらけ出しているようで全てが嘘くさく、演技がかっているようにも見えた。
彼女は男にだらしがなく、そして一般的な感覚に照らし合わせれば、どうしようもない類の男によく引っかかった。それでも、他人の私生活に口を出す人間は彼女の周囲にはいなかった。身綺麗でないのはお互い様だと思っていたし、敢えて口を挟んで起こるトラブルとそれによって得られる人間関係を秤にかければ、自ずと答えが出ていた。
「私ねぇ、お屋敷でみんなからとっても愛されていたの」
そう、とタラサは短く返答する。周囲にはガルフストリームが死体に変えたターゲットとその護衛達が転がっていた。むせるような血の匂いが漂って、タラサの鼻を刺激した。
鼻に匂い止めを塗るよりも先に、彼女にはやることが多くあった。諜報としての役割が多い彼女であったが、医術の心得は十分にある。
横たわるガルフストリームの身体の下に重ねた服を敷いて、患部を高くする。機械的に患者の服を割いて、タオルで腹部を軽く圧迫した。すると白かったタオルはゆったりと黒ずんだ朱色に染まっていく。どくんどくんと日常では聞こえるはずもないリズムが手から直接伝わってきた。
彼女は脈を頭で数えながら患部を一瞥し、これは縫合後に輸血が必要だと早急に結論を叩き出した。最も、染まっていくタオルを見れば誰でもその結論にたどり着いたかもしれない。これらは全てガルフストリームの血液なのだから。
ガルフストリームはきゃはっと笑った。まるで初めて遊園地に連れて行ってもらった子どものような、満面の笑みのようであった。同時に不気味さが伴った笑みである。
死は忌避すべきものだと、人間の本能は告げる。それにも関わらず、死の迎えに微笑む人間は人の論理から外れている。
「……それで?」
一拍も二拍も遅れて、タラサは続きを促した。舌を動かすことは、意識を手放すことを防止する。医師としての判断だった。
息が上がってきているガルフストリームは、それでも嬉しそうに続きを語り出した。
「使用人が命がけで必死に私を逃がしてくれたの。ね、凄いでしょう。そんな、本当の血が繋がった家族でもないのに、あんなに命がけで」
恍惚とした表情だった。
断片的な言葉から、ドラマチックなストーリーがあるのだと予感はするものの、それに意識を飛ばす余裕は無い。話している間にタラサはアルコールの瓶を腹部と腕に挟んで片手で器用に蓋を開け、右手に持っていた針に振りかけた。その流れでポケットから取り出したライターで炙る。既に局部麻酔薬は打っていた。それでも、ガルフストリームは少しばかり顔を顰めた。
弾が取り出される瞬間。自分の肌が縫われている感覚。痛覚が伴わなくても、その全てが発狂しそうな位気持ちが悪い。
「私、何をしているんだろう」
ふと、ガルフストリームは涙を流していた。タラサの神経は縫合に割かれているので、顔を見たわけではなかったが、涙ぐんだ声位は識別できる。言葉も行動も、何もかも演技がかった女が漏らす、タラサが初めて耳にする(と認識した)本音だった。
「生きてって言われたのに」
ぽつり、と言葉を漏らしたと同時に、ファミリーからの迎えの車が見えた。
その後経過を見に来たタラサを、ガルフストリームは病室のベッドから笑顔を振りまいて出迎えた。タラサに対する礼すら口に出さず、独り身は寂しいから早く新しい男を探すのだと、はしゃいでいた。
生きろという言葉が彼女を呪いのように縛っていて、間接的な自殺しか許さないようであった。誰も望んでいない呪いが、独り歩きしている。
「あんたさ」
「なぁに?」
「あたしを試すのはやめなさいよ」
ぴしゃり、とタラサはガルフストリームに対して境界線を敷いた。ガルフストリームはその時ばかりは目をまん丸くさせて、首を傾げた。自然にその動作になってしまったというよりは、そうすることで、敢えて理解できなさを表明しているようであった。
「あたしは医者だから患者がいたら治すだけよ。あんたのはた迷惑で回りくどい自殺を、どこまで許容してあげるかなんて杓子、端から無いんだから」
今度こそガルフストリームは口角を上げて、息を漏らした。それが自嘲の笑みであったことに、自覚があるのかないのか、天井を見上げてケラケラと声を上げた。
「何を言っているのか分からないわ。全然、全然分からない。全然、全然分からない。分からないわ。私、それは愛されたお姫様だったんだから。みんな私に優しくしてくれたのに、そんな私にどうしてそんな酷いことを言うの」
再び、人の輪から外れたガルフストリームがするりと姿を現した。
この女はいつの頃からか、螺子が外れている。憐れだと思うには、彼女は人を殺し過ぎているし、本人も恐らく同情を望んでいるわけではなかった。タラサの価値観から言えば、人を殺すことと憐れみの余地がないことは、必ずしも地続きではなかったが、お姫様だったガルフストリームはそうではないだろう。
下卑た女になることでかつての己を緩慢と殺し続ける。観客など誰もいないのに、己の中の帳尻を合わせるために、彼女は今も本来の自分と違う自分を演じ続ける。
タラサは冷ややかにガルフストリームを一瞥すると、部屋の外へ出た。
泣いているような、愉快でたまらないような、それでいて悲痛に叫んでいるような、なんとも言えない笑い声が病棟の廊下に響いていた。
☆ ☆ ☆
「振られたの!」
今度こそ真実の愛を見つけたと思ったのに、と陳腐でセンスのかけらもない言葉を吐きながら、ガルフストリームは持っていたジョッキを一気飲みした。
タラサはいつものようにガルフストリームに適当に相槌を打つと、ウェイターにつまみの追加注文をした。
ガルフストリームの腹には、今もタラサの銃創の縫い痕が刻まれている。
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