冬海話したいと思ったのは、あなたを理解したいと願ったから。どうしたらあなたの痛みを楽にしてあげられるか、どうしたらあなたがあなたの幸福を許せるようになるのか、それをずっと探し続けている。
吐いた息は白く、空中を漂っている。
空と海面の境界が無くなって、冬の海はどこまでも灰色だ。押し寄せる白波に足をつけるときんと冷たく、足元の砂を波が攫っていった。
ぱしゃぱしゃと戯れに足で海水をかき混ぜれば、冷えた大気に潮の香りが混ざって鼻の奥をツンと突き刺す。
プランクトンが少ないのだろう。海の水は澄み切って、それでいて凍てつくように冷たい。
己の体温が海水に溶けだして、じわじわと身体が冷えていくのがわかる。くしゅん、と思わず漏れ出たくしゃみが遮るもの一つない海に響いて、吹き付ける風と潮騒がすぐにそれをかき消した。
「雪さーん!風邪引きますよ〜!こっちで温かいココアでも飲みましょ〜!」
振り返ったコテージから手を振る紫苑に手を振り返して、雪哉はのろのろと海から上がった。
ぱちぱちと火の粉の爆ぜる暖炉の前で毛布を体に巻き付けてココアを啜ると、体の芯から温まる。
ほわほわ湯気を立てるそれはマシュマロがいくつも浮かべられて、ほんのりスパイスの香りがする。
雪哉は現在、紫苑の所有する別荘のうちの一つに身を寄せていた。というのも、住んでいるボロアパートの給湯器が故障したからだ。修理するにしても部品やらなんやらの取り寄せで時間がかかる。修理が終わるまでホテルでも取ろうか、と相談していた所に遊びに来た紫苑がならばうちに来ればいいと半ば拉致のような形で連れてこられて今に至る。彼女が居を構えるマンションでないのは、海が見たいと言った自分の言葉を覚えていたからだろう。
「冬の海みたいだなぁって、思ったんです」
ことり、と自分の分のカップを置いて、窓の方を見ながら紫苑が口を開いた。
海を一望できる大きな硝子窓は今は重たいカーテンに閉ざされて、室内の温もりを閉じ込めている。
それを透かすような眼差しは、確かにあの灰色を捉えているのだろう。
「博陸侯として、私を見下ろすあなたの瞳を。」
紫苑がひとつ、息をつく。黒絹の髪が揺れて、暖炉の火を反射して煌めいた。
「あんなに冷たかったですか。私は。」
あの頃の自分は、少し触れただけで体温を奪い去るようなそんな色をしていたのだろうか。
「ええ。けれど、冬の海のようにあなたを凍えさせたのはわたくし達、ですから。」
「姫様…。」
自分が許したところで、意味は無い。きっとこの人は自分自身を許さないだろうから。
紫苑の手を取る。自分よりひとまわり大きい、滑らかな手を包み込むように挟み込む。紅の塗られていない爪は短く切りそろえられて、桜色だ。
「まだ、冷たいですか?」
「いいえ…いいえ。今の雪さんの手は、温かいんですね」
こつり、と重ねた手の上に額が載せられる。黒絹に隠されて、表情は分からない。
「今はもう、寒いところに身を置くのはやめましたから。」
「そうですか。」
紫苑の手は冷たくて、微かに震えている。
大きくなったな、なんて場違いな感想を抱いた自分に思わず苦笑して、雪哉は言葉を続ける。
「ねぇ、姫様。私は、私を不幸だと思った事なんて、一度もないんですよ。」
「……!」
ぱっと弾けるように顔を上げた紫苑は、沙汰を待つ罪人のような顔をしていた。
「全て、好きでやったことです。その結果死んだのなら、それはそれで幸福でしょう?」
今の雪哉は、紫苑の望む雪哉では無いけれど。
好きなように生きて、その結果が理不尽な死に終わったのだとしても、きっとそれだけは変わらないはずだ。
後悔なんてしないと、雪哉は、雪斎はそうであるように最善を選び続けてきたのだから。
「………」
紫苑は答えない。
薪に含まれていた僅かな水分がぱちんと爆ぜる。
暖炉に踊る炎は橙を鱗粉のように散らして、紫苑の頬を明るく照らしている。少しの甘さを含んだ煙の香りが、肌に、髪に、ゆっくりと染み込んでいく。
かつて仕えた姫君は息を吸って、魂まで吐き出すように長く、長く吐き出した。
「…幸せって、難しいですよね。私が望んだ貴方の幸せも、貴方が望んだ私の幸せも、全然違う形をしているのですから。」
「ええ」
自分の思う幸福を押し付けたところで、本人の納得がなければ地獄となにも変わらない。その結果が今の摩耗しきった紫苑と雪哉だ。
「雪さん。わたくしはね、ただあの頃に戻りたかったんです。幼い頃の陽だまりの中の暖かい世界に。その中で穏やかに笑いかけてくれる優しい貴方が大好きで、だからわたくしから貴方を奪い去った山内が許せなかった。無理にでもあなたから山内を引き剥がせば元の貴方に戻るかもしれないと、身勝手にもそう思っていたんです。」
結果はこのとおりですけれど、と紫苑は柳眉を下げて力なく笑う。
「もう全部、過去のこと。それでも今、あの時伝え損なった気持ちを伝えられて、とても、うれしいのです。」
「姫様…。」
互いの幸福を願いながらも、互いの思いを蔑ろにしてきたせいで悲劇を招いたのであれば。
「今度はちゃんと教えてくださいませんか。貴方様の思う幸福を。貴方様の望む、この先を。」
言葉にしなかったもうひとつは、満たされたマグカップの中に音もなく落ちる。未だ温かいココアを飲みきってしまうまで、どれだけ話ができるだろうか。
今度はもうすれ違わないように、互いの望む未来に近づけて行けるように。今を交えて、言葉を探して。
もう誰も冬の海のように凍えてしまうことがないようにと、雪哉は言葉を紡ぎはじめた。