デガ小刀から伝い落ちた血液が、ディルックの手を汚していく。赤色だ。ディルックと、己の父親の髪の色によく似た鮮やかな赤色が、薄暗い明かりの下でもなぜかよく見えた。正当防衛だった。けれど、それなら仕方ないと割り切れるほど、ディルックは非情になれていなかった。男の身体がずるりと滑って、物のように勢いよく地面の上に倒れ込む。見開かれたまま瞬き一つしない瞳と目が合って、気付いたら駆け出していた。手のひらに散った血液がとっくに乾いてもなお、あの生温い体温が頭から離れない。父親を手に掛けた時によく似た温度だった。
「こっち座れよ。もう閉店だろ」
「まだ最後の客を帰してない」
「俺はいいんだよ。なんなら一杯奢ってやろうか?」
ディルックは少しの逡巡のあとに、ガイアが指したスツールに腰かけた。彼の目元はアルコールでほんのり赤らんでいる。
「今日の討伐、お前が付き合ってくれるとは思わなかった」
「理由もないのに断った覚えはないよ」
「どうだか。旅人の誘いはよく断ってたくせに」
「あれは…君も同じ秘境に20回も30回も誘われてみればいい」
旅人が炎元素必須の秘境に凝りすぎて連日連れ回された日々を思い出す。遠い目をしたディルックを見て、ガイアはおかしそうに笑った。
「旅人の頼みなら聞いてやるさ。俺だって雷のトリックフラワー何体倒させられたか覚えてないぜ。あいつ一回のめり込むとしばらくは手の付けようがないよな」
ガイアはトリックフラワーの蜜を集めるのがいかに大変だったかをつらつらと語る。いつもに増して口数が多い彼の話を、ディルックは穏やかな相槌と共に聞いていた。上気した褐色の頬が酒場の明かりに照らされて滑らかな光を集めている。長い睫毛が涙袋に影を落としているのを、ディルックはじっと見つめた。
「トリックフラワーの場所全部覚えてるんだよ。おかしいだろ」
そこまで言って、ガイアは唐突に口を閉じた。ほとんど一方的な会話だったので、ガイアが話を止めた途端にエンジェルズシェアが沈黙で満ちる。酔いで饒舌になっているのかと思ったが、青い瞳は案外理知的な光を宿していた。しばらく目を合わせたのちに、ガイアが耐えきれないと言ったように視線を彷徨わせる。それから、彼はディルックがカウンターに置いていた左手に指を絡ませた。俯いたままのガイアが「ディルック」と小さく呼んだ声は、恋愛感情に疎いディルックにもすぐに真意が伝わってしまうような湿度をしていた。ディルックは彼が可愛らしく絡めてきた右手を握り込んでしまうと、俯いた頬に手を当てて、顔を上げさせようとした。
「…っ」
ディルックは小さく息を呑むと、すぐに手を離した。顔色も悪く黙り込んでしまったディルックを見て、ガイアは「気分じゃなかったか?」と助け船を出した。
「…すまない、明日早いんだ」
「そうか。ワイナリーのオーナー様は大変だな」
先ほどまでの雰囲気を霧散させたガイアの表情は、笑みを形作ってはいたけれど僅かに引き攣っていた。ディルックが弁明を用意する前に、彼は逃げるような早さでカウンターから離れてしまう。「おやすみ」と言い切る前にエンジェルズシェアを出て扉を閉めてしまうくらいの勢いだった。いつの間にかカウンターの上には数枚の札が置かれている。こうなることを見越していたのだろうか?ディルックは自らの手のひらに視線を下ろして、唇を噛んだ。
夜風が頬に当たって冷たい。散々アルコールを摂取した割には指先は冷たくて、むしろ心臓の内側から冷えていくような心地がした。早足で歩く靴音が、静かな裏道に響いている。ほとんど走るような速さでガイアはアパートへ向かった。
「だめか…」
やっと一言だけそう零せたのは、玄関に滑り込んで扉を閉めてからだった。シャワーを浴びる気力もないままソファに倒れ込む。酔いなんて緊張のせいでとうの昔に吹き飛んでいるが、身体を動かすのがひたすらに億劫だった。
「すまない」と言ったディルックの表情を脳裏に描いて、彼に突き放された感触を思い出して、自傷行為じみた回想を繰り返す。ガイアは「あ~…」とクッションに顔を埋めたまま呻いた。失敗した。結果なんて分かり切っていたけれど、彼からの拒絶は何度繰り返したって慣れない。
酔った勢いでディルックに告白まがいのことをしてしまった日から半年。紆余曲折あって付き合い始めた日から3ヵ月。身体的接触を避けられ続けて2ヵ月――
「そろそろ振られるだろうな」
呟いた言葉があまりに現実味を帯びていたので、ガイアはここまでぎりぎりのところで堪えていた涙腺が少し緩むのを感じた。自宅で一人なのだから、泣いていたって咎める人も奇異の目で見る人もいはしない。クッションに滲む塩水をそのままに、ガイアはぐるぐると悪い考えに浸っていく。そもそもガイアの告白を受け入れてくれたところからおかしかったのだ。憐れみで人と付き合うような残酷な男ではないと思っていたけれど。それとも、恋人としてのガイアに至らない点があったのだろうか。彼の気持ちがもうガイアにない以上どちらでも同じことではあるが、後者の方が少しはマシだ。3ヵ月前の時点ではまだガイアを愛してくれていたということなのだから。その僅かな思い出だけでも地獄へ持って行けるのなら、ガイアの情けない恋愛感情は成就したと言ってもいいかもしれない。
せめて着替えよう、となんとか思考を切り替えることができそうだったので、ガイアはソファの上でほとんど液状になったまま服を脱ぎ散らかすと、パジャマに着替えた。こういうところがだめなのかもしれない。ディルックは面倒だからなんて理由で風呂を翌日に持ち越したりしないし、服を床に脱ぎ捨てたりもしないだろう。彼の前でだらしないところを出さないように気を配ったつもりではあったが、やはり貴公子には良家のご令嬢が似合いだったということか。そもそもガイアが隣にいていい相手ではなかった。
全く思考を切り替えられないままに、ガイアはふらふらとベッドに辿り着いてマットレスに倒れ込んだ。厚顔無恥で強欲な願いだが、思い出として持って行くなら一度くらい抱いてほしかったと思う。付き合い始めて、そろそろいいだろうと思って何度もアタックを繰り返したのだが、結果はすべて今日のような惨敗だった。ガイアもそう経験豊富というわけではないので、一般的なスピードではなかったかと思ってしばらく様子見をしていたのだが、3ヵ月経って未だにキスのひとつもしていないだなんて。ティーンの恋愛のほうがもっとずっと進んでいる。
こちらから終わりにしてやるべきかもしれない、と思い始めてからしばらく経っても、ガイアは未だに別れ話を切り出せずにいる。ディルックの優しさに付け込んでいる自分を情けなく思いながら、それでも縋っていたかった。