2024お誕生日祝い夢を見ていた。
穏やかな陽光が差し込む洋館のテラスで、彼女と午後のティータイムを過ごす夢を見ていた。
休憩にしましょう、そう笑って、彼女は手づからフルーツティーを淹れてくれる。
そうした彼女の誘いを、任務中だから、と固辞できたのは最初の数回だけだった。一度決めたらどこまでも引き下がることを知らないらしい彼女の強情さに根負けして、出会ってすぐに、結局これも仕事のうちであると認めさせられてしまったのだ。
しかしそうして彼女と食事や休憩を共にするのは、決して悪くない気分だった。
ガラスのティーポットに満ちた琥珀色の液体の中では、踊る茶葉と一緒に林檎のかけらが浮き沈みしている。
小さく微笑んで礼を述べて、カップを口に運ぶ。
しかしその液体からは、強烈な薬品臭と刺すような血の味がした。
取り落したティーカップが床で割れて、真っ赤な液体がどこまでも広がっていく。
はっと顔を上げると、彼女の姿はどこにもなく、そこは人工的な青白い光だけが灯る薄暗い実験室だった。
ティーポットが置かれていたはずのテーブルの上には、得体の知れない臓物がぷかぷかと浮かぶガラスシリンダーが無数に置かれていた。
とにかくその場から逃げ出そうとして、床に広がる液体に足を滑らせて転んでしまう。
慌てて立ち上がろうと手をつく。
そして、己の腕が異形のそれに変貌していることに気づき、悲鳴を上げようとした。
代わりに喉から絞り出されたのは、悍ましい獣の咆哮だった。
そうだ、そのまま、決まって最後には……。
「朝でっせ~!! 起きなはれ~!!」
耳元でうるさくわめきたてる声が突然割って入ってきて、その男――ヴィンセント・ヴァレンタインはいつもと変わらぬ悪夢から呼び覚まされたのだった。
頭痛に近いほどの獰猛さを持つ眠気に苛まれながらも、うんざりした顔で瞼を上げる。
――ここは、どこかの街の宿だったか。
視界を埋め尽くすのは、黄色いプラスチックの円錐……この奇矯な猫のぬいぐるみがいつも喜んで振り回している拡声器だ。
この自称ロボットの設計者とやらは、一体どうして、ただでさえうるさいケット・シーにそんなものを持たせようと思ったのだろうか。
理解に苦しみはするが、しかしその強烈なやかましさのおかげでこうして朝早くにヴィンセントが目覚めることができるのも事実だった。
宿屋に泊まった際には、皆が朝食を取っているうちに、その必要のないケット・シーが部屋に残ってヴィンセントを叩き起こすのが日常になっている。
その狂騒は、目覚まし時計を演じるにあたっては大いなる長所へと昇華されるものらしい。
寝ぼけた頭でそんなことを考えているうちに、また意識が落ちそうになる。
「お誕生日、おめでとうございます!」
再び寝入りそうになったとき、不意の言葉に少し意識が覚醒した。
まったく喜ぶ気になれないそれに対する鼻白むような思い、個人的な情報を一方的に握られていることへの気に食わなさ……実に神経を逆撫でしてくれる。
「……関係ない」
しかし、寝起きの不機嫌をぶつけたところで仕方がない。
寝返りを打ってまた眠ろうとする。
毛布越しに腹の上に乗っかっていたケット・シーが横に転がり落ちたが、すぐにまたヴィンセントの上に這いあがってくる感触があった。
「起きひんのやったら皆さんのとこ行って言いふらしますよ。今日はヴィンセントはんのお誕生日やから盛大にお祝いしたりましょ~! って」
「……よせ」
その言葉にいよいよ耐えかねて、ヴィンセントは身体を起こしてケット・シーの首根っこを掴んで持ち上げた。
「あ、お目覚めですね。それ、コーヒーもらってきたんで良かったら召し上がってください」
ぷらんとつままれた状態のまま、悪びれる様子もなくケット・シーが指し示した先を見れば、大きなマグカップが置かれていた。
実際のところ、朝のヴィンセントの世話をするケット・シーはよくできた執事のように気が利いていて、その協力にはかなり助けられている。
口うるさく一方的に絡んでくる、という難点さえなければ、いつかあの地下室に帰る日にはこれを一緒に持っていくかもしれない。
「やっぱり、お誕生日祝われるんはお嫌ですか」
「祝われて呑気に喜ぶような男に見えるか」
「いえ、まったく」
わかっているならなぜ言い出したのか、と溜め息をついて、掴んでいたケット・シーをベッドの上に落とした。
ぽす、と軽い音を立てて毛布の上に落っこちたケット・シーを、そのまま毛布でぐるぐると巻いて包んで黙らせる。
《ネコ巻き寿司の刑》、と言っただろうか。ユフィが戯れとしてよくやっていることの真似だった。
「一方的に知られているのも気に食わない」
ベッド横に腰かけて、マグカップに手を伸ばすと、巻かれた毛布の側面からケット・シーが頭だけをにゅっと出した。
「あ、ほなボクの誕生日……いや、製造日? 稼働開始日? まええわ、どれでもお教えしますよ」
そうして、そういう意味ではないとわかりきっているくせに、空とぼけた返答をする。
もう会話を続けるのも億劫になって、コーヒーを口に運んだ。
「まあ、いろいろ事情があって素直に喜ばれへんちゅーのはなんとなくわかるんですけど、ボクはめっちゃお祝いしたいねん。皆さんも祝ってくださると思いますよ」
ずるずると毛布から這い出したケット・シーの発言のトーンが代わり、先ほどまでの悪ふざけしたような態度が鳴りを潜める。
ああ、始まった、とヴィンセントは内心渋い顔をした。
おどけた饒舌ばかりを弄して珍奇な立ち居振る舞いをしているかと思えば、突然妙に思慮深くまっとうな言葉を口にし始める。
この緩急のせいで、ケット・シーの悪ふざけにうんざりしながらも、気がつけば口を挟めないような正論に気おされて、反論する隙を失ってしまうのだ。
「好きな人がいまここにおるっちゅー巡りあわせに感謝する日でもあるんやし、祝わせてくださいよ。みんなあなたのことが好きなんやから」
「そこまで深い仲では……」
ケット・シーはその言葉を聞いて、おかしそうに笑った。
「まだ短い付き合いですもんね。でも、あなたもみんなが好きでしょう?」
ヴィンセントは言葉を詰まらせた。
勝手に何を、と思いながらも、咄嗟にその言葉を否定できなかった自分に驚いたからだ。
(何故そんなことを臆面もなく口に出せる?)
そうしてあっけにとられてケット・シーを見つめたが、彼は問うような視線を投げかけてくるばかりでそれ以上の言葉を重ねることはなかった。
ヴィンセントの返答をただじっと待っているのだ。
「……好きにしろ。礼は言わん」
「おおきに~!」
結局、こうして承服させられてしまう。
(だから、苦手だ)
ケット・シーは耳をぴこんと跳ね上げて、嬉しそうにはしゃぎながら床に下りると、ヴィンセントのほうに向き直った。
「ではあらためて、お誕生日おめでとうございます!」
そうして謎のマテリアを拡声器に放り込むと、それを真上に向けてラッパのように吹いてみせた。
すると、拡声器から色とりどりの光が弧を描きながら溢れ出し、それに合わせてツリーチャイムのような煌びやかな音が鳴り響くのだった。
(変な魔法……)
子どもは喜ぶかもしれないが、と仏頂面のままそれを眺めていると、音と光はものの数秒で消え、得意げなケット・シーの笑みだけが残った。
「せっかくやし、一発特別に気合い入れて占ったるで~!」
ヴィンセントが何か反応する前にケット・シーはいつもの巨大な白いロボットを召喚し、その頭上に乗って奇妙な踊りを始めた。
「その踊り……呪術的な意味でもあるのか?」
「ん? あるわけないやろ」
「……」
デブモーグリの口から縦長のカードが吐き出される。
昔の通信機械はよくこんな風に紙テープを吐き出していたものだと少し懐かしく思ったが、おそらく自分よりもずっと年若いであろう彼にそれを話したところで理解はされないだろう。
ケット・シーはそのカードを引き抜いて、ベッドに腰かけたままのヴィンセントに差し出した。
ヴィンセントはそれに一瞥もくれないまま、受け取ったカードをマグカップと一緒にサイドテーブルに置いた。
「あ~! あとでちゃんと見といてや~。気合い入れたからいつもよりええのが出とるはずや」
「お前の気合いで結果が良くなるのか」
「はい。気に入らんかったら引き直しもできますよ! でもこれは自信作でっせ! 内容は知らんけど」
それはもう占いとして破綻しきっている、と呆れかえりながら、その呆れを口にする寸前にひとつの可能性に気がついた。
この占いそのものが未来に作用してその行く先を変えるのだとしたら、それは唯一成立するのかもしれない。
しかし、この紙切れ1枚がそんな大それたことを起こしているはずもない。
「うーん、せっかくやから本体からも直接ご挨拶させましょうか」
「え?」
本体――神羅ビルからこの猫のぬいぐるみを操っている人間のことだ。
彼についてわかっていることは、ほとんど何もない。
おそらく幾度か話をしたことがあるが、その回数すら定かではない。
ケット・シーとは別の人格を有しているのか、単にひとりの人間が複数の人物像を演じ分けているだけなのか、あるいはもっと思いつきもしないような何か特別な事情を有しているのか、それすらもわかっていないのだ。
しかし唯一わかっていることがある。
おそらく、彼は真面目で良い奴だ。
ケット・シーが指で合図をすると、デブモーグリがぽんっという軽快な音を立てて消滅した。
そうして彼は再び床に降り立って、両手の人差し指を立ててこめかみに当てるポーズを取った。
「無理やり引っ張り出すんで、ちょっと待っとってくださいね。多分こうしてこうやって……こうやろか? えいっ。あ、あかんわこれ……えーと……こうや!」
最後に「あっ」と小さく漏らしてからケット・シーは沈黙した。
そして、がくりと全身から力が抜けたようにその場に倒れたのだった。
「……大丈夫なのか?」
反応はない。
ベッドから立ち上がって、倒れたケット・シーの両脇の下を掴んで持ち上げ、軽く揺さぶってみる。
持っている感触からも、動いているときのような張りが感じられない。
だらりとしていて、まるきりただのぬいぐるみのようだ。
故障してしまったのだろうか? と心配になって、角度を変えていろいろな方向から眺めてみたが、スイッチのようなものはまったく見当たらず、どうすることもできなかった。
(私が壊したと思われては、困る)
何もしていないのに壊れたといっても誰も信じてくれないだろう。
どうしたものかと考えていると、不意にその身体がピクリと動いた。
「ケット、一体何を……あ! バイパスするときはちゃんと実行中のプロセスを安全に……」
そしてヴィンセントに捕まれたまま、何かブツブツと呟いている。
「取り込み中か?」
顔を覗き込んで尋ねてみると、彼は身体をのけぞらせて驚いてみせた。
ケット・シーが普段見せるほど大仰な動作ではない。
これは多分、彼らのいう《本体》なのだろう。
「あれっ? あんなやり方でなんで動いているんだ……?」
私に訊かれても、と首を横に振って、持ち上げていたそれを下ろして床に立たせた。
「ああ、どうも。……動かないよりも怖いですよ。なぜか動くというのは」
彼はそうぼやきながら、猫のぬいぐるみの手足を見つめ、大きな耳を触って感触を確かめ、尻尾を振って、自分の姿を確認していた。
「大丈夫そうですね。なんだかすみません。寝起きに」
「いや……」
そうして確認が済むと、彼はヴィンセントに向き直って小さく会釈を見せた。
「あまり時間も取れませんので、手短に」
その仕事のような態度につられて、ヴィンセントも姿勢を正して頷いた。
「ハッピーバースデー、ヴィンセント・ヴァレンタイン。経緯はどうあれ、あなたがいまここに居てくださって私は嬉しいですよ。あいにくプレゼントのご用意はありませんが」
その言葉に、まるで職場で上司を前にしているような気分になって、ヴィンセントは苦笑した。
ついさきほどまでふざけていたケット・シーと同じ猫のぬいぐるみの身体なのに、どうしてここまで妙な風格を出せるのだろうか。
「いまは、何をしているんだ?」
「オフィスで仕事中です」
「こんな時間からか?」
「9時からのミーティング資料をいまから作るんですよ。……ほんまヤバいわ」
返事に窮して雑談を振ってみると、彼は少し砕けた調子になって乾いた笑いを見せた。
「朝食はちゃんと取ったのか」
「あー……はい」
「……何を食べた?」
「ええと、甘いカフェラテを飲みながらやっていますから、大丈夫ですよ」
話し始めてすぐになんとなく察したとおりに、彼は典型的なワーカホリックなようだ。
ケット・シーはヴィンセントにさんざん食事について小言を口にする癖に、《本体》はまったくそれを守れていないらしい。
「昼はちゃんと食べろ」
「あはは、はい……」
彼の苦笑に合わせて、ケット・シーの大きな耳がぺたんと垂れさがる。
「今日はまともな食事を取って早く寝ると約束しろ。プレゼントとやらはそれでいい」
「それって結局私のことではありませんか。よろしいのですか?」
「貴重な目覚まし時計に倒れられては困る」
彼はヴィンセントがそのような冗談を口にすることに少し驚いたようだったが、すぐにくすくすと笑ってくれた。
「わかりました、お約束しますよ。もっとも、何か緊急事態が起こらなければですが」
勿論、ヴィンセントは彼がそのとおりにしたかどうかを確認する術など持ち合わせていない。
それでも、彼は必ず約束を守るだろうと、不思議と確信できる。
目の前にしているのは、そんな雰囲気を持っている人物なのだった。
「では私は仕事に戻りますよ。はあ……」
気重そうに溜め息をついて、おそらく帰ろうとする彼の姿に、なんとなく名残惜しさを感じて、ヴィンセントはほとんど独り言のように呟いた。
「いずれ、直接会うこともあるだろうか」
その言葉に、彼はまっすぐにヴィンセントの顔を見つめて笑うのだった。
「お互い生きてこうして歳を重ねていけば、チャンスぐらいはあるでしょう」
「……それならば、歳を重ねるというのも悪くはないか」
「まあ、実は美女、とかは100%ありえませんから、決して期待なさらぬよう」
誰もそんな期待はしていない、と言い返す前に、ケット・シーがまとう空気が変わった。
「お話しできましたやろか?」
「言い逃げされた」
「おや、何をでしょう? 言い返したいことがあれば、苦情、要望、不具合報告、何でも受け付けまっせ!」
「……気にしなくていい」
そう言われるとかえって気になります、と言い始めたケット・シーを制して、ヴィンセントは話題を変えることにした。
「連中にも伝えに行くんじゃなかったのか?」
「あれ、それもよかったんですか?」
「そうしたいのだろう」
「そらもう! おおきに! ほんなら皆さんにお伝えしてきます!」
ケット・シーは喜び勇んでドアに向かって走っていき、ドアノブに向かってジャンプした。
そうしてドアノブにぶら下がってから、器用にそれを回してドアを開ける。
「あ、二度寝したらあかんで! ちゃんと身支度しといてくださいよ」
そう言ってケット・シーが出ていくと、騒がしかった部屋の中が途端に静かになった。
このほうが性に合っている、とはいえ、狂騒のあとの静寂というものはどうあれ少しは寂しく感じられるものだ。
しかしどのみち、すぐに乱痴気騒ぎに巻き込まれることを覚悟しなければならない。
それも自分が主役にされるなどというのはたまったものではない……と、そこまで考えて、彼らが誕生日を祝福してくれるのだと確信している自分が少し妙に思えて、苦笑した。
そんな風に、最後に人に誕生日を祝われたのはいつだっただろうか。
そう思いながら、もう一口コーヒーを飲もうとテーブルに手を伸ばすと、先ほど見もせずにそこに放り投げた占いのカードが目に入った。
一応、目を通しておいてやるか、とカードをめくってみると、そこにはデブモーグリとケット・シーのシルエットのイラストと一緒に、占いの文言が書かれていた。
『中吉。ロマンチックなスポットで大告白すると仕事運アップ。靴下を表裏逆に履いて出かけると新しい自分に出会える予感! デートはドタキャンされます』
「……なんだ、それは」
これが自信作? なにもかもめちゃくちゃだ。
軽く失笑してカードを置こうとしたとき、下のほうに小さく書かれた文言を目に止めた。
『ラッキーフード:紅茶のケーキ』
その瞬間にふっと蘇った記憶に、ヴィンセントは目を見開いた。
(最後に人に誕生日を祝われたのは……そうだ、あのときだ)
『もう、もっと早く教えてくれれば良かったのに!』
(ルクレツィア……)
偶然その日が誕生日だと知った彼女に、まずひどく叱られたことをよく覚えている。
どうして当日に誕生日を知られたのだったか。何かの保険の契約更新の書類とか、そんなつまらないものがきっかけだった気がする。
何故怒られなければいけないんだと思いながら、「訊かれなかったから」と答えた。
彼女はそんな自分に呆れかえりながら、すぐさま仕事を放り出して厨房に向かっていった。
白衣を脱ぎ捨ててエプロン姿になった彼女が作ってくれたのは、紅茶で香りづけした小さなパウンドケーキだった。
素朴だが甘く上品な香りの、紅茶のケーキ。
それに舌鼓を打ちながら、いままで食べたどんなケーキよりも美味いと彼女に伝えると、彼女は用意していればもっと美味しく作れたのに、と膨れっつらをして、来年はちゃんと準備をしてショートケーキを作るのだと意気込んでいた。
誕生日を伝え損ねたことを何度も謝罪しながら、ヴィンセント自身も彼女の誕生日を尋ね、来年はプレゼントを交換しあうことを約束したのだった。
しかし、その約束が叶うことはなかった。
そうだ。どんなに甘やかにきらめく記憶も、行きつく先はすべて同じ――暗澹とした罪と絶望の忌まわしき記憶。
(それでも、楽しかった。……あれは、楽しかった)
頭に沁みついた血と消毒液と湿った黴の糜爛な臭いを、今日は不思議と、記憶の中の鮮やかなアールグレイの香りが掻き消してくれる。
……そんな風に過去を想起できたのは初めてだった。
精神深くに澱のように堆積しつづけている暗闇の底から、思い出をひとつ綺麗なまま拾い上げることができたような気がした。
これは、あの奇矯な猫とその背後にいる男のまじないの力なのだろうか。
たとえいつか悲劇的に喪われるのだとしても、楽しかったはずの思い出までを忌まわしいものに変容させてはならない。
何か、そんな正論を説かれている気がする。
(いや?)
妙な感慨に耽りそうになって、慌てて占いのカードを見直した。
……やはり文言があまりにも支離滅裂すぎる。
記載されたアイテムひとつが記憶と重なっただけの、単なる偶然だ。
そんなことがおかしくなって、気がつけば少し声に出して笑っていた。
(不思議なやつだ)
彼についてわかっていることはあまりにも少ない。
それが動く仕組みも、操る者の素性も、目的も、何もわかっていない。
それなのに、どうしてこれほどまでに気を許してしまうのだろうか。
ヴィンセントは占いのカードをテーブルにそっと伏せた。
そしてベッドに横になると、再び舞い戻ってきた睡魔に身を任せ、気分良く目を閉じたのだった。