Ombra mai fù 前編12月とは奇妙な季節だ。
街は煌びやかに飾り立てられ騒々しくなるくせに、時折急に静まりかえっては寂しげな顔を覗かせたりもする。
その時の流れはせわしないようでいて、しかし同時に、どこか穏やかでもある。
エッジの中央広場から東へとまっすぐに伸びる大通りを歩きながら、シェルクはクリスマス・シーズンを迎えた街の様子を観察していた。
グロサリーストアからアパレルショップ、さまざまな店がそれぞれに趣向を凝らして赤や緑の飾り付けをしていて、店先には電飾が巻かれたツリーが置かれている。
冷たい空気には、どこかの店から漂ってくる、甘ったるくて温かい焼き菓子の香りが混じっている。
いつもは永遠に晴れることのない曇天を思わせる暗い灰色の街が、随分と表情を明るくしたものだ。
ストリート・パフォーマーが得意げに奏でる陽気なクリスマスソングは、10年もの長きに渡って世間と交わることのなかったシェルクにも聞き覚えがあるものばかりだった。
(10年……)
不意に襲ってきた黒い靄のような感情に、シェルクは目を伏せた。
あの地獄の底で求められたことは、ただ生き延びて命令に従うこと、それだけだった。
そして今、この街で過ごすシェルクに求められている『生活する』とか『暮らす』ことというのは、そうして長年遂行し続けてきた『生存する』こととはまったく勝手が違っている。
『暮らす』というやつは、何もかも懐かしく、同時に新鮮で、楽しく、何より自由だった。
それでも戸惑ってばかりの日々を、周囲の人々になんとか支えてもらって、かろうじてその体裁を整えているような状態なのだ。
そんな有様だから、煌びやかになった街の様子にはちょっとワクワクしたりするときがあっても、心の底からはその賑わいに馴染みきれず、当惑している。
(そもそも、何を祝うことがあるというのでしょう?)
かつては宗教的な行事だったらしい。
しかし信仰というものは急速に発達した科学技術に取って代わられ、失われて久しい。
今となっては消費を促進する一大商業イベントとしての趣が強く、もう誰もその由来を知らない。
結局、人々は寄せ集められた記号を、その意味もわからないままにありがたがっているに過ぎない。
くたびれた労働者が、サンタやトナカイの被り物をしてセールのビラを配っている光景なんかには、どんな感慨を抱けばいいというのだろう。
そして、ガラスドームのショーケースに並ぶケーキのサンプルを眺めながら、当日にどれだけの廃棄が出るのだろうかなんてありふれた厭世に浸ってみたりもする。しかし、だからといってケーキを買い求める人々が誰も肩を落とさずに特別な日を迎えるには、その余剰こそが必要なのだろうということも理解している。
恋人たちがサンタクロースの格好をした呼び込みの男に冷やかされて、楽しげに笑っている。
そのすぐ横では、路上生活者の男が、レストランの入り口の少し奥まった玄関ポーチに身体を押し込むようにしてうずくまっている。そのレストランが営業しているところは見たことがない。おそらくもう経営者がいないのだろう。
経営者がいなくなってしまった理由は、すぐそばの壁にめり込んだ銃弾の痕が雄弁に物語っている。
(……最悪だ)
浮かれている街を歩いていても、少し暗がりに目を向ければそんな光景ばかりが目に付いてしまう。
当時の作戦に深く関与していたシェルクが、街の賑わいに喜んで混ざろうとは思えるはずもなかった。
暗澹とした気分を抱えたまま、なるべく周囲を見ないように顔を伏せ、足早に目的地へ向かった。
◇
WROエッジ支部のビルの前には、すでに乗車する予定だった本部行きのシャトルバスが停まっていた。
運転手に乗車許可証を見せてバスに乗り込むと、車内には他にふたりの乗客がいた。どちらも知らない人だったので、適当に会釈だけして通り過ぎる。
車内ではラジオがかけられていて、ここでもやはり定番のクリスマスソングが楽しげに流されている。
シェルクは少しうんざりした思いを抱きながら、後ろのほうの座席に腰を下ろした。
しばらく待っていると、他の乗客が現れることもなく、バスが走り出した。昼過ぎの便はいつも乗客が少ない。
窓が結露で真っ白に曇っていて外が見えなかったが、街の景色を見たくない今はそのほうが都合がいい。
街を出たあとも、どうせひたすら殺風景な荒野が続くだけだ。
このシャトルバスは、舗装もされていない道をサスペンションの硬い車両で走行するものだから、毎回揺れがひどく、読書などはもちろん、眠って過ごすのも常人には難しい。
もっとも、常人ではない人たち――ヴィンセント・ヴァレンタインはどんなに車が揺れようが熟睡し続けるし、リーブ・トゥエスティは平気な顔でラップトップを広げて仕事を始める。
その代わりに、彼らが無視しているぶんの三半規管の混乱を押し付けられているみたいにユフィが青ざめて呻き声を出し続けるのだ。
彼らと同乗したときにその様子を観察するのは少し面白いのだが、今日はシェルクひとりなので、考えごとをするぐらいしか時間を潰す方法がない。
シェルクがこのバスに乗って本部に向かうのは、いつも治療を受けに行くためだった。
魔晄を浴びなければ1日と生きることのできない身体。
その体質上の欠陥は、ディープグラウンドの支配下から抜け出したシェルクに残された重い枷のような存在だった。
しかし、現在では特定の細胞の働きを抑制する処置を定期的に受けることによって、少なくともその頻度は相当に減らせるようになり、月に1度、検査と一緒に装置を借りる程度で済むようになっている。
(……都合の良すぎる話です)
だがそれも喜ばしいばかりの話ではなかった、とシェルクは回想する。
ディープグラウンドによる襲撃事件が一応の収束を見せた直後、各地では捕虜となったソルジャーたちが次々と衰弱死していく問題が発生していた。
魔晄が必要だとわかっていたところで、人体に魔晄を浴びせるチャンバーなどすぐに大量に用意できるものでもない。
『捕虜に対する人道的な扱いの一貫として治療を行う。彼らは真相究明のために重要な証人でもある』
余計な言説が誰かの口をついて出る前にと、リーブは反論を差し挟む余地のない綺麗ごとをはっきりと宣言した。
そうして、その機序の解明と治療法の確立は、異例のスピードで進められた。
これにはWROの結成以来、極秘裏に行われ続けていた研究――ソルジャーの劣化を抑制し、その治療法の確立を目指すというもの――が大きく寄与した。
シャルアの功績によるところも大きかったと聞いている。
ディープグラウンドは、もともとはソルジャーの治療のために設立された施設だ。ソルジャーたち自身が襲撃した敵対組織が、最終的にその本懐を遂げるというのは、実に皮肉なことだった。
『しかし、そんなにあっさりと治療法が見つかるものでしょうか?』
そして、そう尋ねたシェルクを前に、リーブは一瞬ためらう素振りを見せてから慎重な憶測を口にした。
かつて脱走したソルジャーによる大規模な反乱があったことを踏まえると、神羅はディープグラウンドソルジャーのこの特異な体質を必ずしも欠点と捉えてはいなかったのかもしれない、と。
彼が含意するところは明白だった。
結局、その時期にはもう、各地に取り残されて抵抗を続けていた残党たちは勝手に息絶え、治療法の確立を待たずに捕虜のほとんどが力尽きていたのだ。
そうして残されたすべての厄介な問題は、きわめて都合良く自動的に解決した。
(いったい、どこまで歪められた存在だというのですか)
そのときに抱いた黒い怒りは、まだ胸の内にしつこく燻り続けている。
そんなシェルクの感情と裏腹に、車内のラジオが陽気な音楽を流し続けているのがいやに耳についた。
(……うるさい)
ジングルベルの澄んだ鈴の音が、耳元で壊れて無数の針に変わってしまうような感覚。
耳を塞いで叫び出してしまいたくなる。
自分があの地獄の底を這っているあいだに、地上の人間たちはこんなにも暢気に日々を過ごしていたというのか?
そうしてこみあげてくる感情を、理性で必死に押さえつけた。
(そうじゃない。それは、だめ)
ディープグラウンドではよく使われていた洗脳手法と同じだ、と極力冷静に自分に言い聞かせる。
自分の身に起きた理不尽に対する怒りの対象を一般化させ、広く無関係な他者に対する憎悪へと転換させるのは、まったく難しいことではないのだ。
自分からそんなことをしてはいけない。
あの場所に連れてこられた人間は、初めはみな、直接の苦痛を与える管理官たちへの怒りを抱くものだ。
しかし同時に施される数々の思考操作によって、やがて理不尽な苦痛を受け続けた自分には何らかの特権が認められるのだと考え始め、それ以外の者を自覚的・無自覚的問わず、別の存在として見下し、最終的には憎悪するようになる。
そうして完成するのは、遍く社会への復讐者――矛先を選ばない優秀な兵士たち。
シェルクはその能力上、直接戦闘に加わるよりも情報を扱うことを期待されていたために、民間人への襲撃に喜んで参加するほどにはそのコントロールされた憎悪に染まっていなかった。
……ただ、何も感じていなかっただけだ。
そんなことが免罪符になるはずもない。
街での暮らしで心が満ちていくほどに、奥深くに抱えたままの怒りと罪悪感も膨張していくようだ。
(やっぱり、WROの施設に戻れないか相談してみよう)
治療を終えたシェルクに、街で暮らすことを勧めたのはリーブだった。
不安はあったが、シャルアもきっとそうしろと言うだろうと思い、シェルクは最終的にそれを承諾した。
当時、一連の襲撃事件による被害の全貌が明らかになるにつれて、リーブの笑みにどこか虚ろさが混ざるようになっていったことをよく覚えている。そんな状態だったから、彼の提案はできるだけ聞き入れてやったほうがいいだろう、という判断もしていた。
シェルクの言葉に彼は大袈裟に喜んで、エッジの街で暮らしていくためのお膳立てをした。
セブンスヘブンの近くに下宿を手配して、簡単な仕事先の紹介してくれた。
それに加えて、当面の生活資金の提供、その他諸々、それは世間に疎いシェルクでさえも甘やかされていることがはっきりとわかるぐらい手厚かった。
そして、紹介してもらった周囲の人々はみな親切だった。
彼らはシェルクの境遇――『神羅の実験施設に長年置かれていて、外の世界には疎い』程度の当たり障りのないそれ――も知らされているので、変に普通に振る舞おうと努力する必要もなかった。
今日着ているコートだって、下宿先の大家が娘のお下がりといって譲ってくれたものだった。大きめのフードがついたピンクベージュのダッフルコートは、とてもかわいらしくて気に入っている。これを着て出かけるときは、少し得意な気持ちになったりするものなのだ。
しかしときにそんな気分を抱いてしまうのも苦しくて、どうにも処理できなくなってしまう。
自分の精神が不安定になることで、いつか誰かを傷つけてしまうのではないかという恐怖心もある。
幸い、今日は彼に会う予定があった。
軍の研究施設に身を置くようにすれば、少なくともこのような矛盾にこれ以上思い悩むことはなくなるだろう。
逃げ帰るようで情けない心持ちにはなる。
しかし、もともと送り出されるとき、難しいと感じることがあったらいつでも戻ってきていいとは言われていた。
きっとリーブはシェルクがこうした困難を抱えることも、いくばくか予想していたのだと思う。シェルクが街での暮らしを諦めて帰ったとしても、彼は失望せずに受け入れてくれるだろう。
◇
WRO本部のビルは修繕中で、現在は作業員以外立ち入り禁止になっていた。
本部としての機能は一時的に、すぐ近くにある損壊を免れた掩体壕の中に移されている。
もともとは飛空艇などが格納されていたそうだが、今はもう戻ることのない機体の代わりにテントや折りたたみテーブルが並べられている。
その広い建屋内を隊員たちがせわしなく駆け回っていて、どこか避難所のような雰囲気になっていた。
シェルクは入り口すぐに位置している受付のスタッフに声をかけて名を名乗った。
「ああ、シャルアの妹さんの! ホントにそっくりなんだ!」
スタッフの女性はシェルクの顔を見て微笑んでから、鍵を手渡してくれた。
「場所はわかる?」
「はい、本部の右奥のほう、ですよね」
「そうそう。あっちは電気も水道も止まってるから、トイレはここで済ませてから向かってね」
「大丈夫です、ありがとうございます」
そんなやり取りをしてから、シェルクは一度建物を出た。
なんだか随分と子供扱いされたものだ、と思ったが、あまり悪い気はしなかった。態度からして、シャルアの知り合いだったのだろうか。
向かう先は、女性隊員用の営舎だった。
今日シェルクが本部を訪ねたのは、いつもの治療とは違って、シャルアの部屋の私物を回収するためだった。
営舎もボロボロになっているので、修繕が入る前に必要なものは回収しておくようにリーブから頼まれたのだ。
シェルクが取っておきたいものだけを回収すれば良いと言われている。残されたものは、すべてWROのほうで処分しておいてくれるそうだ。
そのメールには、負担に感じるようであれば、シャルアと仲の良かった女性隊員に依頼するので無理はしないでいいと添えられていた。ひょっとしたら、さっきの受付の女性のことだったのかもしれない。
(まあ、意味するところとしては遺品整理になりかねないですし)
頭はそれを冷静に理解したが、そう考えると胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ミッドガルには何度も捜索隊が出ていて、墜落したシエラ号の破片や他の隊員の遺体は少しずつ回収が進んでいる。
まだ探索されていないのは、魔晄濃度が高く簡単には近寄れないエリアに限られてきた。
そんな危険な場所から、瀕死のまま昏睡した状態で行方不明になった姉が帰ってくる確率がどれほど低いかなど、考えるまでもない。
しかし、同時にそれは希望の持てる条件でもあった。
シャルアが収容されていた生命維持装置は、仮定に仮定を重ねれば、という前置きつきではあったが、まだ稼働を続けている可能性があるとリーブは教えてくれたのだ。
どんな仮定が積み重なったかは、聞かないでおいた。
それがどれほど細い糸をたぐり寄せて編まれたものなのかは、彼の表情を見ればすぐにわかったからだ。
あのときどうしてシャルアにあんなことを言ってしまったのだろう、とか、どうして約束通り飛空艇を守れなかったのだろう、とか、姉と最後に過ごした時間のことを思うと、後悔することばかりだった。
シャルアはこんな苦しい思いを抱えながら10年ものあいだ、シェルクが生きていると信じて探し続けていたのだろうか、と幾度となく考えた。
そして、姉がそうしてくれたから、自分もそうすることにした。
シャルアは、きっと生きて帰ってきてくれるだろう。
近いうちにまた捜索隊が派遣されると聞いている。シェルクも参加を申し出たが、色々な事情から丁寧に断られてしまったので、彼らを信じて待つよりほかにない。
だから、こうして姉の部屋を片づけにきたことには、気持ちの整理とかそうした特別な意味はともなっていない。
さらに言えば、わざわざエッジからここまで足を運ばずとも、人に任せてしまっても良かったのだと思う。
それでもここに来た理由は、再会する前に、少しでも姉のことを知っておきたかったからかもしれない。
そんな考えを巡らせながら、明かりのついていない薄暗い営舎内を歩いて、シャルアの部屋の前までやってきた。
鍵を差し込んで扉を開けると、中は小さなワンルームの部屋になっていた。
シェルクの住んでいる下宿よりもずっと狭い。
しかし、何人かで同じ部屋に寝泊まりしている兵士たちに比べると良い待遇だろう。もっとも、研究員であった姉の生活は兵隊と違って不規則なので、個室に隔離されていたのかもしれない。
玄関で靴を脱いで、シェルクはすぐ目の前にある冷蔵庫に気づいて表情をこわばらせた。
まさか電気も通っていないなか、長いこと放置されていたりはしないだろうか。
恐る恐る扉を開けると、中身は空っぽで、どこかぬるい無臭の空気だけがシェルクの顔を撫でた。ここだけあらかじめ誰かが手を入れておいてくれたのだろう。
はぁ、と安心して居間に向き直る。
家具はベッド、デスク、衣装ケース、本棚だけだった。そして、空の段ボール箱と、本棚に入りきらなかったであろう専門書の山が床に置かれている。
箱はWROのスタッフがシェルクのために用意しておいてくれたものだろうか。そうでないとしても、とりあえず必要なものをそこに詰め込んでいくことにした。
大量の本はWROのほうで適切に処理してくれるだろう。
それ以外のものはほとんどないから、すぐに片づけは終わりそうだ。
まずはシャルアが帰ってきたと仮定してみて、しばらく困らない程度の衣類を衣装ケースから引っ張りだして箱に放り込んだ。
次にデスクのほうを見ると、いくつかの写真が飾ってあった。
写真の類いは全部持って行った方が良いだろうと思い、何かまとめて持ち帰るのに使えるものはないかとデスクの引き出しを漁った。
幸い、大きな茶封筒があったので、シェルクは写真立てから中身だけ取り出してはそこに入れていくことにした。
写真立てはかさばるから、高価そうなものだけ持って行くのがいい。
そのうちアルバムを買って、取り出した写真はそこにまとめておくことにしようと思った。
「ん?」
ほとんどは知らない人たちとシャルアが写っている写真だったが、そのうちの1枚に見知った顔を認め、シェルクは写真を整理する手を止めた。
どこかの実験室で撮られた写真だ。
そこに白衣姿のシャルアとふたりで写っているのは、リーブ・トゥエスティだった。ダークグレーのスーツを着ていて、今よりも髪が短いが、その代わりみたいに少し髭が濃い。
ふたりは何か無色透明な溶液と結晶の入ったガラスシリンダーの前で笑って、ピースサインまで見せていた。
(この結晶体の精製に成功した、ってことなんでしょうけど……)
それにしても、この人ってこんな風に無邪気にはしゃぐことがあるんだ、とか、シャルアもこんなに屈託ない笑顔を見せるんだ、なんてことを思ったときに、シェルクは少し違和感を覚えた。
なんだかちょっと雰囲気が親密すぎないだろうか。
「んん……?」
他に男性とのツーショットの写真なんてなかったはずだ。
それにこの写真は、他より高価そうな写真立てに入れてある。それだけ大事なものなのだろうか。
シェルクは眉間に皺を寄せながら、その意味を考えてみた。
そうした下世話なことを考えるのはまったく得意ではないが、そう考えると辻褄が合うことが多い気がする。
シェルクがシャルアに再会してすぐに彼女に危害を加えようとしたとき、シャルアの身の上をシェルクに説いたときのリーブの態度は、ただの知り合いというには少し熱が入りすぎていたように思える。
それに何より、シェルクがずっと疑問に思っていた、彼があまりにもシェルクに対して親切すぎるということに対して、簡単に説明がついてしまう。
(恋人の妹だから?)
そうでもなければ、敵対関係にあった見ず知らずのシェルクの生活の面倒を見て、無償でその体質の治療までして、などということは普通しないだろう。
そうすると、シャルアが帰ってきたらどうなるかを考えて、シェルクは変な気分になった。
(リーブ・トゥエスティが……お兄ちゃん?)
その生活を想像してみようとしたが、まったくしっくりこなくてシェルクは難しい顔をした。
ケット・シーのほうなら、まだなんとかそんな感じがするかもしれない。
しかし本体のほうは少し年上すぎて、とてもじゃないがそんな感覚は抱けそうにない。
「ええ……。うーん」
複雑な心境になりながら、まあそれも姉の決めることだと考えて、シェルクは片づけに戻ることにした。
デスクの写真と文房具の整理が終わって、最後にベッドのヘッドボードに目を向けると、メガネケースや髪留め、そんなものたちと一緒に、そこにも写真立てが置かれていた。
飾られていたのは、ひときわ色褪せた写真だった。
その中では、幼いシャルアとシェルクがふたりで手を繋いで立っている。シェルクの姿だけが今とほとんど変わらない。
シャルアはニコニコ笑っていて、シェルクは拗ねたような顔をしている。
幼い頃、写真を撮られるのは好きではなかった。
今も、あまり好きではない。
それでも、次にふたりで写真を撮るときは、シェルクも笑えるように努力しようと思った。
シャルアはベッドにこの写真を置いていた。
長い歳月のあいだ、ずっとそうして、シェルクにおはようとおやすみを告げてくれていたのだろうか。
(一緒に、取り返そう)
シェルクはその写真立てを手に取って、箱には入れずに、今日背負ってきていたバックパックに入れて持ち帰ることにした。
これだけは多分、そうしたほうがいいものなのだろうと思った。
◇
段ボール箱を抱えて仮設された本部に戻ると、シェルクはリーブのところへ向かった。
これまでに何度か訪れたことがあるから、場所は覚えている。
執務室代わりに使用されているテントの前には、パイプ椅子が置いてあり、その上には呼び鈴を抱えた小さいケット・シーのぬいぐるみがあった。
『御用の方はRING RING!』
スケッチブックにマジックでこのうえなく適当に書かれた感じの案内にしたがって、両手で段ボールを抱えたまま四苦八苦しながらなんとか小指を伸ばしてベルを鳴らしてみると、すぐにテントの入り口の布の隙間からにゅっと人の顔が出てきた。
「あっ、来た来た! おつかれ!」
ユフィはそう言ってにっかりと笑うと、シェルクをテントの中に招き入れた。
中は小型の石油ストーブが灯っていて暖かかった。
本部から無事だった家具を持ち出したのだろうか、テント内には来客用に高価そうなテーブルとソファが置かれていて、完全な野営とも違う独特な空間になっている。
奥のデスクにはリーブが座っていて、手前のソファにはヴィンセント・ヴァレンタインが目を閉じたまま、長い手足を持て余すように組んで偉そうに腰を下ろしていた。
ヴィンセントはシェルクをちらっと一瞥して僅かに表情をやわらげるような素振りを見せたが、すぐに向き直ってまた瞼を閉じてしまった。
(ルクレツィア・クレシェントの前では絶対にそんな横柄な座り方、してなかったくせに)
シェルクはそれに少し呆れながら、ソファのすぐ横に箱を置いた。
部屋の片づけが終わったらここを訪ねる約束になっていたが、ユフィとヴィンセントがいるのは聞いていなかった。
「早かったですね。片づけはすべて済んだのですか?」
リーブはデスクから立ち上がって、シェルクに問いかけた。
足元にはケット・シーが付いてきていて、片手を振って存在をアピールしている。
「はい。あとのものは好きに処分していただいて問題ありません」
「って、こんだけ? ほぼ空っぽじゃんか!」
シェルクが置いた箱を覗き込んだユフィが声を上げた。
中身は、半分も埋まっていない。入っているのも、結局ほとんどが衣類という状態だった。
「あまり、私物が無かったもので」
「まあ、シャルアさんはほとんど研究室に住み着いているような状態でしたからね」
隙間にはお菓子でも詰めて送りましょう、とリーブは笑った。
それを聞いて、シェルクはまたWROに戻りたいと伝えようと思っていたことを思い出した。そうなった場合、荷物を一度送ってもらう手間をかける必要はないだろう。
しかしそれはリーブとふたりきりで話すつもりでいたので、なんとなく切り出しづらくなってしまい、シェルクは黙って軽く頭を下げるに留めておいた。
「ティファさんからあなたにお土産を預かってきました」
一度そのことは忘れることにして、シェルクはバックパックから白い包みを取り出してリーブに渡した。
ヒイラギを模した飾りがついているそれは、見た目から想像されるよりもずっとずっしりと重たい。
「手作りのシュトーレンです。お店で出すのにたくさん作ったので、と」
「それはありがたいですね。到底クリスマスらしいことをしている余裕なんてなくて……ちょうどいい、少しお茶にでもしましょうか」
それを聞いて、リーブはもともとシェルクと話をするつもりでヴィンセントとユフィをここに留め置いていたのだろうと思った。
リーブが電話をかけるとすぐに秘書が姿を現して、にこやかにシュトーレンの包みを受け取ってテントを出て行った。
「コート、お預かりしますよ」
「あ、はい」
リーブがそのままさりげなくシェルクの後ろに回ってそう言ったので、シェルクは慌ててボタンを外そうとした。
「ゆっくりでいいですよ。こういうときはね、ボタンは下から外します」
「そうなのですか?」
「そうなのです。もっとも、実際のところ誰も気にしませんけどね」
この地上には、コートの脱ぎ方ひとつに面倒な作法があるらしい。
本当に自分は何も知らないな、と思いながらゆっくりと言われたとおりに下からボタンを外していった。
「そうしたら、襟のあたりを両手で掴んで、後ろにずらして肩口が抜けるようにしてください」
「こうですか?」
「そう、そう。あとはペンギンみたいに両手をなんとなくまっすぐ後ろにやって、動かないでいればオーケーです」
「ペンギン……」
言われるままにしているうちに、抵抗なくコートがするりと両腕から抜け落ちる感覚があり、シェルクのコートはリーブの腕の中に綺麗に収まっていた。
「はい、お上手でしたよ。こうすると少し素敵な大人に見える。たまにお店などでこんな風に上着を預かってもらえると思いますから、覚えておくと良いでしょう」
「はい、ありがとうございます」
そのような丁寧な扱いを受けたことなどなかったから、なんだか照れくさい感じがして、シェルクは礼を言ってから「そんな上等なお店に行く機会なんてありませんが」と付け加えた。
しかし、もしもこの人とシャルアが先ほど推測したとおりの関係だったら、一緒にそうした場に連れ出されることは多くなるのかもしれない。
「なあにそれー!! アタシにはそんなことしてくれないくせに!」
そのシェルクとリーブのやり取りを見ていたユフィが不満げに声を上げた。
「アンタは人が手ぇ貸す前に自分で勝手に脱いどるでしょうが! だいたいユフィさんはたまーにレディ扱いされるとキモがるやないか」
「そらまあ確かにちょっとキモいけどさ、たまには良いなあと思ったりもするワケよ」
「そんときの気分次第ですか。なんちゅーワガママやねん」
そうしてケット・シーとユフィが言い合いを始めたのを眺めて、リーブは愉快そうに笑った。
「もちろんあんな風に、やったりやらなかったりする自由がある」
「自由……」
どうにも『普通に暮らす』には、自分で選択しなければいけないことが多いようだ。
軍に身を置いていたときは、ほとんど選択を委ねられることなどなかったから、シェルクにとって、それはとても難しいことに感じられた。
そのままリーブに促されて、シェルクはヴィンセントの隣に座った。
テーブルを挟んで向かい側にはユフィが座って、その隣、シェルクから見て斜め前にケット・シーを抱えたリーブが座り、4人と1匹――あるいは1機――でテーブルを囲むかたちになった。
「街での暮らしはいかがですか? 何かお困りのことは?」
「……特に、問題はありません」
あまり触れられたくない話題を切り出されて、シェルクは言葉に迷いながら返事をした。
嘘、というわけでもない。
内面の都合を除けば、万事問題なく過ごせているのだから。
「それはよかった」と笑ってくれるリーブを前に、少し罪悪感を覚えながら、シェルクは目を伏せて別の話題を探した。
しかし驚くほど何も浮かばない。
当たり前だ、自分には何もないのだから。
そうして、しばらく考えて、自分以外の身近な誰かの話――シャルアの話をするのが良いだろうと思った。
今日はシャルアの部屋の片づけに来ていたわけだし、話題としても自然だ。
それに、ちょうど尋ねてみたいこともあるのだ。
(しかし、あまり不躾に訊くのは良くない、ですよね……)
どうしたものかと思い悩みながら、シェルクはおずおずと口を開いた。
「ずっと不思議に思っていたのです。リーブ・トゥエスティ、あなたはなぜこんなに私に親切にしてくださるのですか? 以前言っていたみたいに、これもただのお人好し、というやつなのでしょうか?」
その問いかけに、リーブは少し不思議そうに首を傾げた。
「ええ、そうですよ。手が必要な方に親切にするのは当然のことです」
「……では、やはり特段の理由はないと?」
そうして疑問を重ねるシェルクの様子に、リーブは何か別の意図があるのを感じ取ったようだった。
「神羅の人間としての罪滅ぼしであるとか、理由があったほうが信用できるというなら、好きに考えていただいて構いませんよ」
かすかに表情を曇らせたリーブを見て、シェルクは慌てて首を横に振った。
「あ、いえ、その、そういう話をしたかったのではなくて……えっと、単刀直入に言えば……姉と付き合っていたんですか?」
シェルクが意を決してそう言い切ってしまうと、ケット・シーとリーブが同時に仰け反って「へ?」と声を上げた。
そうしてしばらく顔を見合わせてから、堪えきれなくなったようにふたりで笑いだした。
「わ、私は真剣なのですよ! ちゃんと根拠があって……」
「すみません、よりによってあなたがそのようなことを言い出すとは」
ちらっと周囲を見れば、ユフィは興味津々という感じで身を乗り出して目を輝かせているし、ヴィンセントまで横を向いて忍び笑いを漏らしている。
シェルクは顔が熱くなるのを感じながら懸命に弁解した。
「えっと、姉の部屋にあなたとの写真が飾ってあったのです。普通、深い関係でもないのに自室に異性との写真を飾ったりはしないかと思って。なんか、すごく親密そうでしたし。だから、私に色々と良くしてくださるのも、ひょっとしたら恋人の妹だからなのかな、なんて……何を言っているのでしょう、私は?」
「そういうことを意識してくださる方ならどれほど良かったか」
シェルクがちょっとしたパニックになりながら必死に言葉を繰り出していると、リーブは苦笑いを見せてから、深い溜め息を吐いた。
「だいたい、恋人があんな格好で仕事に来てたら止めるに決まってるじゃないですか」
「それは、確かにそうですね」
「彼女には、完全に弟か何かだとしか思われていませんでしたよ」
「お前のほうが年上だろう」
ヴィンセントが呆れたように口を挟んだ。
「だいぶ年上、しかも仮にも上司ですよ……」
リーブはヴィンセントの言葉に頷いてから、渋い顔をして俯いて片手で顔を覆った。
代わりにケット・シーがずいっと顔を突き出して喋り始める。
「夜中におもろいデータが出たからすぐ来なはれ~って呼び出されるわ、見る見る~って行ったら行ったで下着が干しっぱやわ、ボクが慌てて片してくれやゆうても『初心なんだな、局長は』ときたもんです」
「それは……お恥ずかしい……」
姉と別れる前に言葉を交わした時間は短かったが、確かにそんな雰囲気だったので、ありありとその様相が想像できてしまい、シェルクは呆れてしまった。
そもそも、昔のことを思い出してみても、シャルアはそういうデリカシーにはやや欠けていた覚えがある。「お姉ちゃん、恥ずかしいからやめてよ」は何百回も口にして、よく姉妹喧嘩のきっかけにもなっていたものだ。
「そんでデスクの周りもプロテインバーやら栄養ドリンクやらの空き容器だらけやったから、見兼ねて簡単な夜食を作って掃除して帰る、なんちゅーことも、まだ本部がエッジのボロ屋だった頃はようあったもんやで」
「完全にねーちゃんと弟だね、それは」
「なんだか、姉が本当にすみません」
いたたまれなくなって詫びを入れると、リーブは「まあ、なんだかんだ楽しくやってましたよ」と苦笑いしながら首を振った。
そうした話を聞いているとやはりすべて身に覚えがあり、シェルクの遠い記憶の中の幼いシャルアが鮮明に浮かぶ。
必ずしも優しいばかりではなかったというか、むしろどちらかといえば大人しいほうだったシェルクが姉の傍若無人さに振り回されることのほうが多かったのだ。
しかし、その頃に怒ったり泣いたりしたことも今となって思えばすべて大切な思い出で、何も悪いことではなかった。
「まあ結局、彼女、そういうことを気にできないぐらい、ずっとあなた一筋だったのですよ」
さすがにフォローしようとしたのか、リーブはそんなことを口にして微笑んだ。
(いえ、あの人は昔からそうでしたよ)
内心そう思いながら、シェルクはその好意を無下にしたくもなくて、曖昧に苦笑して頷いた。
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ねーちゃんってそういう生き物だから
ペンギンはキキキアチョにしようと思ったけどキキキアチョが思ったよりペンギンポーズしてなかったのでペンギンになりました。
後編はもうクリスマス絶対間に合わない予感しかしていません。さようなら……