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    aktc_mhy

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    aktc_mhy

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    現パロ ブラネロ
    ※喫煙、モブ
    SS習作

    After the Ashes 自宅から徒歩五分もかからない場所にある銭湯は、日付を跨いで三十分過ぎる頃まで暖簾を掲げてくれていた。
     決して今どきのクリーンで洒落た湯屋ではなかったが、定時退社を幻のものとしたネロのような社会人には、その存在だけで十分に有り難いものだった。外を数分歩いただけで、商売道具である指先が悴む、今日のような日は特に。
     駅から自宅までの帰路は徒歩十三分。最寄り駅と自宅のあいだ、やや自宅寄りの位置にその湯屋はあった。
     今ネロが歩く住宅街の小道に街灯は少なく、立ち並ぶ家屋からぽつぽつと漏れる光がその代わりを成していた。
     緩慢な足取りで歩を進めながら、スマートフォンの液晶をタップする。疲れ目に追い打ちをかける光量に、ネロは思わず顔を顰めた。
     二十四時十五分。
     乾燥した薄い唇から一際白い息が漏れた。あと十分程度の行水と、入湯料大人一人五五〇円。
     天秤にかけるまでもない。あと五十円足せば、一箱買える。
     こういう金勘定が染み付いていることに初めて気がついた時は、正直かなり情けない気持ちになったものだ。しかし繰り返すうちに慣れた。
     これが社会に揉まれるということなのかと、何かの話の流れで同居人に話したことがあった。その男は、理解できないものを見るような目をネロに向けながら、「だから早く電子にしろよ」とだけ言った。
     一足も二足も遅くたどり着いた湯屋の前で、ネロは足を止める。煌々と漏れる光をじっとりと見つめながら、入り口から少し横に逸れた軒下に入る。そこは、年季の入った屋外灰皿が鎮座する喫煙所になっていた。
     店の外壁を背にして、ネロはいそいそと灰皿に向き合った。『厳禁!敷地外の喫煙、近所迷惑!』と綴られた、やたら勢いのある筆致と対面する。銀の胴の土手っ腹に茶色いガムテープで貼り付けられたコピー用紙に、いつもありがとうございます。と噛み合わない念を送る。
     それにしてもいくら私有地内だからといって、密集した住宅街でのこれが、今どきよく許されているものだ。ネロはしみじみと思う。
     かつてあれだけ存在していたコンビニの屋外喫煙スペースだって、今やもう消え失せた。法律で規制されずとも、時代に合わせた道徳倫理というものは人間社会の確固たる規律であり、そのもとに監視され、時に厳しく目くじらを立てられるもののはずだった。
     この湯屋は町民への貢献度の高さ故に目を瞑られているのか、はたまたご近所からの苦言をどこ吹く風でいなしているのか、もちろんネロに知る由もない。
     しかしこの時代錯誤の喫煙所や、それを置き続ける古びた湯屋、そしてそれを内包するこの町の空気そのものは、ネロの肌にしっくり馴染んでいた。
     くたびれたチノパンの尻ポケットから、もう大分潰れてしまったソフトパックを取り出し、一本を引き抜く。銀のインクで恭しく縁取られている白いフィルターを一瞥してから、唇で挟んだ。
     銀紙の中を覗けば、あと一本。駅前のコンビニで買っておくべきだった。今日寝る前の一本にするか、明日朝に家を出る前の一本にするか。今度は実に悩ましい二択である。
     ネロは熟考しながら、ソフトパックをポケットに捩じ込む。そのままその奥をまさぐって、ライターの不在に気がついた。
     瞬間、膝から力が抜けていくような心地がした。しかしすぐに思い当たることがあり、ネロはなんとか地べたに這いつくばらずに済む。手を後ろに回して、背負ったままのリュックサックのサイドポケットに、無事に目当てを見つけ出す。
     ネロが社員として働く飲食店では、客の頼みに応じてアニバーサリー用のデザートプレート等も提供している。
     プレートに添える蝋燭に火を灯し続けたチャッカマンが、今日突然役目を終えた。前触れがなかったためすっかり油断していた店に、予備のものは無かった。そのとき丁度ポケットに入っていた、ネロの私物を使ったのだ。
     閉店作業を終えて店を出ようとした時に、カウンターに置き忘れたそれの存在に気づき、そのままリュックのポケットに放り込んで退勤した。
     そういえばどうしてライターというものは、買えども買えどもすぐに姿を消してゆくのだろう。そう思う一方で、いつの間にか家のあちこちで増殖している。
     そんな不思議に思考を寄り道させながら、ネロはライターに親指を掛けた。もはや何回耳にしたかわからないカチッという音が、目の前の寂れた灰皿に吸い込まれていく。
     それだけだった。何度か同じ動作を繰り返したが、結果は同じだった。
     火が着かない。
     ……なぜ。どうして。これはまだつい数日前迎えたばかりの、ネロの相棒だったはずだ。
     ネロは今度こそ脱力するかと思われたが、彼もまた非常に諦めの悪い男だった。咥えた煙草を一度口から外し指で挟み、ライターを両手で包む。合わせた両手を口元に運んで、腹の底から湿度たっぷりの息を吐き出した。
     一〇〇円ほどの安物のライターは、すこし冷気に当てられただけでうんともすんとも言わなくなることがある。
     この意気地なしが。底辺なら底辺なりに気合いってもんを見せやがれ。
     ドスを効かせた声を脳内で浴びせながら、生温い息と、手先のなけなしの体温で軟弱なライターを温めてやる。
     「なにやってんだ、てめえ」
     手の中の相棒への喝で占められていたネロの思考は、耳馴染んだ声により早々に打ち切られた。
     顔を上げると、訝しげに片眉を上げたブラッドリーが灰皿の向こうに立っていた。
     普段隙なく整えられている白灰と墨の混ざった髪は、艶やかに濡れたまま無造作にかき上げられている。ダウンジャケットの隙間に覗く上下揃いの黒のスウェットは、素人目にも質が良いものだと分かる張りのある生地で、湯屋の入り口から漏れた灯りを受けてしっとりと輝いていた。
     肩から雑に下げられたフェイスタオルでさえ、ネロの目には一等物のストールにでも映るから不思議だった。
     「お前も入ってくるかと思って暫く待ってたんだけどよ、来ねえし。妙に長風呂しちまった」
     精悍なはずの男の頬が、ふっくりと水分を含んで赤らんでいるのが分かる。ネロの口元は無自覚に緩んだ。
     「悪ぃ、着いたらもう時間なかった」
     手元にあった一本を、ライターごとソフトパックに格納したネロを見て、ブラッドリーは僅かに首を傾けた。
     「なんだ、吸わねえの」
     掻き上げられていた前髪の、束のひとつが額に落ちる。
     「いいよ。あんたが出てくるの、待ってただけだし」
     一時間ほど前。店で閉店作業に勤しんでいたネロのスマホに、帰宅時間を問うメッセージが届いた。ブラッドリーからである。
     「そろそろ帰れる」と素早い手つきで送信すると、すぐに既読が付けられた。「銭湯行ってる」と吹き出しが増える。「間に合ったら、俺も寄る」と応えたネロに、ブラッドリーは「おう」の二文字でやり取りを締めた。
     結局、伝票上の売り上げと、レジ内の現金やキャッシュレス決済額が一致せず、誤差の原因究明に手間取っての今である。
     「一本くれたら、付き合ってやるよ」
     ネロは一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。
     ブラッドリーは呆けた顔をしたネロの横に並びながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
     「え……。最近吸ってんの?」
     「吸わねえよ」
     ネロが疑問を口にすると、やや食い気味に返される。しっしっ、と手を振る仕草付きで。
     ブラッドリーはもう十年近く煙草を嗜んでいない。煙を吐く姿をネロが最後に見たのは、確か大学卒業間際だっただろうか。
     「久しぶりにな。そういう気分の時もあんだろ」
     ほら、とブラッドリーが手を差し出す。ネロを煽るように指が動いた。
     形の良い爪を横目で一瞥したネロは、一拍ののち白い息を吐いた。これは至極健全な水蒸気だ。
     決して、残りの煙草全てを灰にすることが惜しかったわけでもないし、「付き合ってやる」という上からの物言いに呆れたわけではなかった。
     むしろ、本当はまた。
     文字通り、けぶる色気を振り撒いていた男のあの姿を、再びこの目に焼き付けられたなら。
     「……だめだ。湯冷めする。あんた、意外とそういうのですぐ風邪ひくだろ」
     小っ恥ずかしい憧憬を、この聡い男に気づかれないように。そうして口をついて出た言葉が、あまりにも肉親の小言だったので、ネロは少し後悔した。
     「関係ねえな。……って言いてえとこだがよ。まあまあ寒ぃな」
     すんっと鼻を鳴らしたブラッドリーは、帰るか、と言って、ネロより先に灰皿から離れていく。二人の距離が少し離れたことで、ブラッドリーの足元までがネロの視界に収まった。
     素足にクロックス。玄関に置き晒されていたネロの外履きを拝借したのだろうが、この時期、この時間帯。湯上がりに屋外でしっぽり一服、というには到底適さない格好だ。ネロは足早にその背中を追っていった。
     特に交わす会話も無く、つぎはぎが目立つ舗装道をザリザリと歩く。
     ブラッドリーが呟くようにネロに話しかけたのは、二人の住まいであるマンションのエントランスが見えたときだった。
     「なんかあったか」
     「……今日?ああ、レジ締めに手間取っちまって」
     「違えよ。んなことじゃなくて、」
     少し考えるようにして、ブラッドリーが言葉を切った。言いたくねえならいいけど、と続ける。拗ねているわけでもない、カラッとした気安い声だった。
     ……なんでこいつには。とネロは思う。
     なんでこいつには、伝わってしまうんだろう。
     なんもねえよ、と起伏のない声で返したネロの脳内で、今日の風景が再生される。

     職場のバックヤード、営業終了直後の更衣室。
     ロッカーの前で、毎日洗濯必須の制服をリュックサックに押し込んでいたネロは、名前を呼ばれて顔を上げた。今日久しぶりにシフトが被ったスタッフが、そこに立っていた。
     彼は、確かネロより二年ほど後に入社した後輩だった。入社直後から、先輩であるネロが舌を巻く要領の良さで業務の諸々をこなしていた。常に快活な人柄。さらに勉強家だったため、料理や接客の知識に富んでもいた。要するに非常な優秀な同僚だった。
     店長を除いた社員は、その彼とネロの二人だけだった。そういう状況もあり、お互い持ちつ持たれつで働いていた。
     料理の腕は確かだが、スタッフに対してやたら気の短い店長。怒号が飛ぶキッチンでの調理、スタッフの数に見合わない広さのフロアでのサーブ、面倒な客への対応。時に起こるアルバイトのとんでもないミスの尻拭いをし、どんなに理不尽なことにだって一緒に頭を下げた。
     労働基準法など、入社早々に頭から消し去った。いつかネロがそうこぼしたとき、「それいいっすね」とカラカラと笑った彼の、毒気のなさには驚いた。その翳りのない素直さに若干戸惑いこそすれ、疎ましく思うことなどなかった。ネロさんネロさん、と無邪気に話しかけてくる彼は、ネロにとってやっぱりかわいい後輩でもあり、戦友でもあった。
     「今日で最後なんです」と彼は言った。身体の前に組んだ両手を硬く握りしめて、ただ柔く静かに微笑みながら。
     入社した時からずいぶん痩せたな。手と顔の表情がチグハグになった人間を前にして、ネロは思った。
     いつか大好きな地元に店を開くのが夢だと語っていた彼は、もう包丁すら持たないのかも知れない。ネロがそう思うほどの悲壮感や無力感が、はにかむ彼の周りには満ちていた。
     そうか、お疲れ様。あんたのおかげでずいぶん助かってたよ。ネロがそう礼を伝えると、後輩はずいぶん恐縮していた。それ以外に、かける言葉はなかった。
     頭を下げて去ってゆく後輩を見送り、店にはネロひとりが残った。
     更衣室を出て、店での閉店作業に向かう途中、なんとなく事務所に寄った。発注業務の書類や、シフト表が乱雑に貼られた薄灰色の壁をぼうっと眺める。これだけの文字や数字が羅列されているというのに、脳は何の情報も処理しなかった。
     さっさと退勤して、銭湯に行こう。熱めの湯で、芯まで固まった身体をほぐして。そのあと、あの喫煙所で一服して帰る。今日はもうそのまま寝てしまいたい。
     気持ちを切り替えるように、ネロは事務所を出た。レジスターが待ち構える店に繋がる、薄暗い廊下を歩く。
     廊下の端には、「可燃」「不燃」とラベリングされたポリバケツが置かれていた。ゴミ捨ての要不要を確認するために覗き込む。今日、前触れもなく不能となったあのチャッカマンだけが、「不燃」のバケツに放られていた。

     ガーッと音を立てて開いた自動扉。自宅マンションの共有玄関で、ネロははっと現実に帰る。
     「そういや今日いたぜ、あのデケぇ紋紋のおっさん」
     「え、いいな」
     揃ってエレベーターに乗りこみ、ブラッドリーが3のボタンを押す。
     普段気にも留めない、少しの浮遊感をネロにもたらして、鉄の箱が上昇していった。
     「あそこまでご立派だと、絶対ご利益あるよな。ヤツがシャンプーしてる隙に、後ろから手ェ合わせといたぜ」
     ブラッドリーが誇らしげに言う。
     「フルチンで?」
     「ったりめえだろ。風呂で前隠す俺様が見たいかよ?」
     立派なモノを丸出しにして、至極真面目な顔で。赤の他人の背中に両手を合わせるブラッドリーの姿を頭に描いて、ネロは思わず吹き出した。
     「ずりいよ。俺の分も願懸けといてくれた?」
     「まあ、ついでに」
     ついでって。まあいいけど。
     チン、と健気な音を鳴らして、エレベーターのドアが開く。
     くだらない言葉を交わしながら廊下の端の角部屋を目指す。
     今日はこのまま寝てしまおう、と改めてネロは思う。
     あれだけ渇望していた一服だって、明日の朝に繰り越して。熱い湯と広い浴槽を逃しても、ネロの凍えるような冷えはいつの間にか和らいだ。
     二人分の足音と小さな笑い声が、マンションの廊下に響いていた。
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