無題 主人が私室に入ったのを見送り、ようやくふっと息を漏らす。自室へ向いた足は自然軽やかになる。起床時間までの七時間はシャワーと最低限の睡眠に費やすのみだが、それでも一人になれる時間は、人の気配に敏感すぎる男にとって羽を休めるような気分になるものだ。だから、驚いたのだ。普段誰も立ち入らない私室に、人影が落ちていたことに。探ったスイッチの上にある指先を動かすことができない。久しぶりの「恐怖」だ。
「……シドくん」
普段であれば主人の身を案ずるところだが、そんな余裕はない。自分が気配を察知できないほどの何かが、自身の名を呼んだのだ。暗闇であったことは、何の問題もない。一般人にとっては視界を妨げる暗幕であっても、彼にとっては自身を覆い隠す味方のようなものだ。
名前を呼ばれた青年──シド・マイティ・ゼンは二歩下がって構えた。浅い呼吸に動揺が乗らないよう、慎重に息を吐く。
「……だれだ」
思ったことをそのまま口にする。声が震えないよう丹田に力をこめ、構えたまま身を低く落とした。シドは決めた。「それ」が答えるために息を吸った瞬間、攻撃を仕掛ける。しかし、答えはない。シドの頬に、汗が垂れた。
「ふぇん、ひゅ、ぐしゅん……」と情けない声がしたかと思えば、影が動いた。拳を固く握った瞬間には、頬を柔らかい何かになでられていた。ついでに、暗闇に慣れた視界には月明かりに照らされた白い天井が広がる。体を起こすために手をつく。主人の用意したペルシャ絨毯の感触に安堵するのも束の間、天井と同じく白い光に包まれた銀髪が揺れた。
「あなたは……!」
「シドくんッ!」
シドは理解した。そして、悔しいが納得した。自分に気づかれず自室に入れる人間、ありとあらゆる格闘術を使う自分を暴風のように押し倒せる人間は、一人しか知らない。
「怪盗クイーン……!」
涙で潤んだ瞳に見惚れて、それきり口が止まった。一瞬だ。それよりも先に、クイーンがしゃべり始める。
「シドくんっ! ジョーカーくんがいなくなっちゃったよぉぉおお!! ねぇ、きみのところに来ていないかい? あの子が頼るとしたら、きみだなっていちばんに思ったんだ! だから来たの! 正直に答えてくれ! 正直に答えないとわたしと月に代わって舌切り雀が──」
そこまで聞いて、シドが自分の唇に人差し指を立てた。クイーンのそれも塞いでしまおうかとも思ったが、クイーンはおとなしく口元をおさえてこくこくとうなずいた。そして、こしょこしょ声で「失礼。ネコちゃんが起きてしまうね」と言う。
──いないネコの心配をするなら、万が一主人が起きてきたとき、この状況を説明する俺の身を心配してほしいんだけどな……。
そんなシドの心情を知る由もないクイーンが、押し倒したシドのもとを離れ、窓際でくるりとターン。シドのほうを向いて、一礼する。それから、
「取り乱してすまなかったね。それほど、大事な友だちなんだ。きみにとってもそうだろう? 探すのに協力してくれたまえ」
と両手を広げた。さながら、「仰せのままに」と次のせりふが決まっている舞台に立った俳優である。実際にやってくる次のせりふは「訂正します。ぼくは仕事上のパートナーです」と様式美をかざるものだろうが、待てどもその声はやってこない。
シドの空っぽの胃に、冷たい風が通り抜ける。名前をつけるならば、「心配」とか「さみしさ」という類のものだ。別れを告げたあとの十年ですら、そんな感情にはならなかった。どこかで「あいつは生きている。また会える」と思えたから。しかし、いちばん身近な人間が「いなくなった」と言う。身震いするような感情を覚えるのも、無理はない。
「……仰せのままに、と言えばよろしいのでしょうか」
「いいね。執事らしくて」
クイーンは満足そうにうなずいて、「きみの笑顔は、夜でも向日葵のように明るいね。ジョーカーくんがきみと友だちでいたいのもわかる気がするよ」と、月光のような笑みを浮かべる。それから、シドの手を引いてお仕着せを着たままの身を起こす。重なった二人の手が、シドには悪魔との契約の証のように感じられた。
「さぁて、シドくん。いくつか質問をさせてくれ」
──おれ、明日も仕事なんだけどな。何時間眠れるかな……。
シドの心配をよそに、クイーンはここに至るまでの経緯を話し始めた。