アサイン さて、世界的な大富豪のもとで執事兼ボディーガードとして屋敷に招かれたわけだが、正式な雇用契約をするにあたり、主人直々の面接があるらしい。
乗ったことのない、いや見たこともない高級車に乗せられ、二つの門をくぐり、いざ主人と対面かと思いきや、連れていかれたのは洗面所だった。手早く襟足で髪を切り揃えられたあと、使用人用だという衣裳部屋に案内される。案内役の男は「兄ちゃん、タッパがあるからなぁ」と言いながら、白い執事服と黒にスラックスをシドの胸に押しつけた。シドは言われるがまま、一張羅を脱いで白い執事服をまとう。その間、案内役の男は、シドのジャケットとスラックスのポケットをチェックする。その不躾な行動に何も言わず、シドは淡々と着替えを済ませていく。衣服だけではない。一連の流れには細かいボディーチェックが含まれていた。しかたのないことだ、とシドは思う。何せ、先の執事と殺し屋が手を組んで、彼らの主人を殺そうとした現場に鉢合わせたばかりなのだから。それを寸でのところでシドが助けたことから、話が転がりはじめた。男は電話一本で裏切り者を牢屋にぶち込む話をつけると、シドに向き直った。
「私の屋敷に来たまえ。礼がしたい」
謝辞どころか挨拶を添えることもなく、男は言った。断られることなど微塵も想像していない口ぶりだ。シドはしばし、笑顔のまま沈黙した。なんだ、こいつ。助けなければよかったかな。そんなことを思っていたのだ。シドの悪態を知る由もない男は、絵画を眺めるようにシドを見つめたあと、「きみ、話せる言語はフランス語以外にあるか?」とたずねたのだ。真意を問えば、執事としてそばに置きたいのだと言う。
伝えた連絡先に面接の案内が届いたのは、その数日後のことだった。
そして、今に至る。身なりを整えられたシドは、やっと主人(仮)の部屋に案内された。シドを招き入れた男は、色素の薄い瞳を向けた。それから、数日前に知ったばかりの名を呼んだ。
「やぁ、シド。よく似合っているじゃないか」
満足げに微笑んで、主人(仮)はティーセットに手をつける。シドを部屋に案内した使用人が用意したものだ。茶葉を移したポットに、ケトルから湯を注ぐ。湯気とともに、ふわりとほのかに渋い香りが上がる。ポットに蓋をして、小指に大きな指輪をつけた手で、ジュエリーボックスを開ける。
「私のコレクションなんだ」
指の揃った手のひらで示されて、シドは控えめにそれを覗き込んだ。大小はさまざま、色とりどりの宝石がふかふかのエンジのベッドに横たえられている。色彩豊かな輝きといえば教会のステンドグラスくらいしか見たことのないシドは、エメラルドグリーンの瞳をパチクリさせて、「きれいですね」と思ったまま感想を述べた。
「そうだろう。どれがいい」
「……と言うと?」
真意を催促するのには答えず、主人(仮)は自身の右耳を指した。
「そのピアス、なんの石だい?」
「高価なものではありません。ただのガラスです」
主人はやれやれと言うように手を広げて頭を振った。
「ヴァロア家に──つまり私に仕えるのであれば、使用人であれ一流のものを身につけるべきだよ」
男はレストランのメニューをなぞるように、ジュエリーボックスを指した指を動かした。その指がぴたりと止まり、ペアになったピアスを持ち上げる。
「これなんてどうだろう。きみの瞳と同じ宝石だよ」
シドは静かに首を振った。「きみの生まれ年のワインだよ」と意中の女性を口説く男がいるくらいには世間を知っていたシドだが、使用人(仮)の男にそんなことを言うおかしな金持ちがいるとは初めて知った。
──この話を白紙に戻すなら今しかないな。
げんなりしたシドは、笑顔でそんなことを考えた。
一方、なおも男は饒舌に続ける。
「珍しい石もある。きみも聞いたことはあるだろう。アレキサンドライトだ。三万ユーロで買いつけたものだが、ピアスにするには少し大きいか……。きみが気に入ったなら、好きに加工するといい。そういえばこれも仕入れたばかりだな。神の恩恵や慈愛を受けるに値する賢者にふさわしい石と言われている宝石だ。しかし、きみにだったら譲ってもいい」
自慢げに言って、男は親指の爪ほどの青い宝石を日光にかざす。シドの脳裏には、その瞳の色をした少年が浮かんだ。
「神に愛された私にこそふさわしいと思ってはいたんだがね」ということばは完全に無視して、
「わたしには必要ないものです」
と一蹴した。主人(仮)は、舞台俳優のように広げた腕を下ろして、シドのほうを振り返った。続いて、これまた演技じみた溜息。それも完全に無視して、シドはにっこりと笑った。
「このピアスがお見苦しいならば、勤務中は外します」
「……余程、外したくないようだね」
ブルーサファイアをジュエリーボックスに戻し、男は再びシドを見据えた。それから、今度は自身の左の耳を指した。
「こちらには、同じものを用意させようか?」
シドはそっと、左の耳たぶにふれる。物心つくころから十数年空けられていたピアスの穴は、空っぽになったあとも、しこりのような跡になって残っている。
「──いいえ」
強い口調で、シドははっきりと拒否した。
「左耳は、このままでいいのです」
言いながら、シドは別れを交わした夕暮れ時を思い出す。故郷の村に、あのような風習があってよかった。友に形あるものを残せること。その証が耳たぶに残ること。分け与えたピアスの行方は知れない。もう二度と、その主には会えないかもしれない。しかし、それでもいいのだ。この左耳が空っぽである限り、彼と「友情」を交わしたことは、決してなかったことにはならないのだ。
「……そうか」
男は短く返す。黙ったままジュエリーボックスをぱたんと閉めて、すっかり熟した紅茶をティーカップに注ぐ。それから、目を伏せて紅茶の香りをたっぷり楽しんだ。
「……そろそろ帰っていいかな」とシドが思うのと同時に、主人(仮)はある書面を見せてきた。文面を目で追うシドに、万年筆を握らせる。書面の最後には、「ネア・ブラディーボ・ヴァロア」と男の署名がある。はっとシドが顔を上げると、笑顔の主人と目が合った。
「合格だよ、シド」
「え?」
「正式に、きみを私の執事として迎えたい」
紅茶を一口飲んでから、主人が続ける。
「悪かったね。ずいぶんプライベートなことを聞いてしまった。きみが金目当てでないことを知りたくてね」
──おれはまさに、あんたの金と人脈をどう利用してやろうかと考えてるんだけどな。
シドはにっこりと窓から入る陽光に負けない笑みを浮かべ、「至極光栄に存じます。誠心誠意お仕えいたします」と頭を下げた。それから、主人の署名の下に、描き慣れぬフルネームを連ねた。
「さて、きみに最初の仕事を与えよう」
「その前に、ピアスは外しますか」
「いや、好きにしなさい。きみの右耳で輝いているものだから、ガラスもそんなに悪くないなと思ったよ」
「……もったいないおことばです」
自分のことは棚に上げて、シドは「こいつ、おれを篭絡しようとしてるのか?」と警戒する。しかし、主人からの最初の命令は、ごくごく自然なものだった。
「シド、紅茶を淹れてくれないか」
ネアは、一口飲んだだけの紅茶をソーサーに戻し、首を振った。シドは一瞬、肩の力を抜けるのを感じた。それでもすぐに人好きのする笑顔を浮かべて、ケトルのスイッチを入れた。
「カップに注ぐ前にポットの中を一度混ぜるのです。そうすると、紅茶のポット内の濃さが均一になります」
「ほう」
「この茶葉は、ご主人様のお好みのものですか」
「あぁ、そうだ」
「覚えておきます」
執事がケトルを傾けると、右耳のガラスがきらりと光る。コレクションと並べるにはあまりにも不釣り合いなそれを、主人は楽しそうに眺める。
──いつか友人として、そのピアスの話を聞けたらいい。それまでこの青年がわたしを満足させてくれるかはわからないが。
熱湯を注がれた茶葉が、ポットの中で広がり、芳醇な香りが立つ。しかし、すぐに蓋をされてしまった。かき消えた柔らかな香りが名残惜しく、同時に、いつまでも彼をそばに置いておきたいと願ってしまった。
熱烈な視線には知らぬふりをして、シドはポットの中の紅茶をそっとかき混ぜて、おそらく自分のために用意されたティーカップに注ぐ。それを真っ白なソーサーに載せ、「どうぞ。ご主人様」ときれいにそろった左手で示す。一口含み、ネアは「うん、おいしいね」と穏やかに目を細めた。
「友人と飲む紅茶は最高だな」
「私は友人ではなく、あなたに仕える執事です」
胸に手を当てて、シドが腰を折る。ネアは苦笑して、「まぁ、今のところはそれでいい」と心の中でつぶやいて、ティーカップに口をつけた。
そんな平行線のやりとりを数年経った現在も続けることなど、まだ知る由もない。
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(あとがき)
タイトルの「アサイン(Assign)」には、assign「(シドを執事として)任命する」とas sign「(ジョーカーと友情を交わした)象徴として」、動詞のsign「(契約書に)署名する」を込めています。
ネアさんは、最初はシドくんの外見(長身、珍しい髪色、きれいな瞳)を気に入ってアクセサリー感覚でそばに置いていたはずが、気づかぬうちにシドくんに篭絡されてしまったんだと妄想しています。その実、「(ネアに仕えるのは)金のためだ」と原作ではっきり言われちゃっているネアさんが好きです。