死ぬにはもってこいの日 十数度目のコール音を聞いたところで、シドは通話終了のボタンをタップした。だらりと下げた腕の先、スマホのロック画面には、今日のTO DOリストとリマインダー通知、ニュースアプリの最新情報の通知がずらりと並ぶ。
そこに、新たな通知とアラーム。出勤のため、部屋を出る時間だ。ベッドサイドの姿見に映った完璧執事の笑顔を確認して、シドは自室を出た。
***
時計を確認し、シドは使用人用のダイニングルームへ向かう。主人が昼食をとる一時間が、シドの昼休みだ。メイドに給仕の仕事をしてもらっているその時間で、昼食をとり、午後の予定とタスクの確認をして、可能であれば仮眠をとる。これがシドのルーティン。
少しゆっくり昼食をとれるな、とシドは考える。明日のパーティーが中止になったため、主人の召し物を選び、主催や招待客のデータを記憶するといったタスクがなくなった。シドは丁寧に椅子を引き、間続きになっている厨房にいちばん近い席に座った。
ほどなくして、
「シド、お疲れさん」
厨房から出てきたシェフが、湯気の立ち上るボウルの載ったプレートを持ってくる。配膳されたのは、あたたかいパンとスープ、サラダと鴨肉のソテーだった。
「このソテーのソース、どうだ? いつもより少しはちみつを多くしてみたんだ」
「おいしいです。主人も気に入ると思いますよ」
「おまえを味見役にしたのは失敗だったな」
苦笑したシェフは、それでも眉を下げて、ほっとしたように厨房に戻った。それから、パンにナイフを入れ始める。バターを塗りやすくするためだ。次に、ローストした鴨肉を丁寧に並べ、カリグラフィーのような筆跡を残すソースでプレートごと彩る。パンとソテーのプレートを、タイミングよく現れたメイドに渡し、休む間もなく今度は冷凍庫を開けた。
「そういや、明日世界が滅ぶんだってな」
「そのようですね」
味見のときのやりとりと少しも変わらない調子で、二人は会話を交わす。
給仕を終えたメイドとも同じ話題になるだろう。今朝、出勤直後にリネン室でかしましい会話も、その話題が独占背していた。このあと、自分の二倍も三倍も熱量のある持論を展開され、意見を求められるであろうシェフに同情する。そんなことを露ほども知らぬシェフは、
「ネア様にはお伝えするのか?」
とたずねた。シドは首を横に振る。
「いいえ。ネア様には、必要のない情報ですので」
そう言って、シドは丁寧に口元を拭った。
──前言撤回。ここはうるさくなりそうだから、早々に部屋に戻ろう。
シェフに礼を言って厨房を出ると、ちょうどこちらに向けて歩いてきたメイドたちと鉢合わせた。
「シドさん。ネア様が、今日は自室でティータイムをされるそうです」
「ローズティーをご所望でした」
「わかりました」
二人に頭を下げ、それ以上シドは会話しようとしなかった。二人の横を通り抜けたところで、「ねぇ、シェフはどう思う?」と高揚感に満ちた明るい声が聞こえてきた。シドの予想通り、厨房ではあの話題が白熱した展開を見せることになった。
廊下を歩きながら、シドは思い返す。
明日、世界が滅ぶらしい。
遠く離れた島国からそんな驚きのニュースが地中海沿いのモナコにやってきたのは、昨夜のこと。東洋には「巫女」なる神の声を聴く占い師やら、夢で見た光景がそのまま起こる預言者の少女やら──神秘的な存在の話したことが、Japanese Animeのブームも手伝って、尾びれどころか背びれや足もついて流れ着いた根拠のない発言だと、シドは思っていた。
しかし、いざ「明日世界が滅ぶ?」というニュースアプリの通知を見た瞬間、空の上にいる友人が浮かんだ。同時に、「東洋の神秘だな」と冷や汗を垂らす真顔も。気づけば、朝六時という時間帯なんて一切考えず、通話ボタンを押していた。彼の反応を答え合わせするわくわく感は、無機質なコール音ごとに冷えていった。「That′s enough.(はいはい、わかったよ)」なんて気持ちで通話ボタンを切った。
つらい過去を共有し、あの閉ざされた空間でできた友だち。彼は今、別の場所でほかのだれかと人生を謳歌しているのだろう。彼が困った顔をしながら、あの怪盗と人工知能と和気あいあいと他愛もない日常の一幕を過ごしていることが、ありありと想像できた。
嫉妬やら絶望やら裏切られたような気持ちやら、苦いのと酸っぱいのを同時に口におしっこ魔れたような気持ちになる。煙幕のような気持ちは煙幕に形を変え、シドの心の隙間から入り込もうとする。
──気にすることなんてないだろ。
煙幕を追い払うように、深く息を吐いてみる。
諦めに似た気持ちは、辛酸を舐めてきた彼がもっと若いころから持っていたものだ。そう長くない人生で、いちばんそばにいたいと思う相手とはいつも離別していたことばかり思い浮かぶ。両親然り、友人然り。
──ま、いっか。それがあいつの幸せなら。
何もかもを押し込んで、シドはぼふんとベッドにあおむけに寝転がった。電話の通知もメッセージの通知もないプライベート用のスマホの電源を切り、シドは「五分だけ」と目を閉じた。
「うん、おいしいね」
「シェフが市場で厳選してきた茶葉です。ストロベリータルトとご一緒にどうぞ」
シドの説明を聞いているネアは、とても楽しそうだ。ティーをもう一口飲んでから、自分好みに焼かれた厚めのタルト生地にフォークを通す。常の如くそばで立っていたシドを近くのソファーに座らせて、ネアは主人然として訊いた。
「招待されていた、あしたのパーティーがなくなったね」
「はい」
「きみは、何か予定があるかい?」
「え?」
シドはことばの意味を考える。休みの届けを出していないのであれば、いつも通りネアの執事の仕事をするだけだ。プライベートのことをたずねられたこともなかったが、今まさにその場面に直面しているのか……。しかし、その思案が無駄なことに気づく。翌日は通常通り仕事。それだけだ。シドは冷静に返す。
「いつも通りです。ネア様のおそばでお尽くしします」
「よかった」
ネアの目尻に、深い皴がくしゃっと入る。ローズティーとストロベリータルトを目の前にしたときの破顔ではなく、なくしたかと思っていた大切な宝物が家の中にあった──そんな、緊張の糸が切れたときのような笑みだった。ふっと一つ息を吐くのに載せて、
「世界が滅ぶとき、きみにそばにいてほしいと思っていたから」
とネアは言って、そばで背筋を伸ばして腰掛ける執事を見た。その先で、世界に一人ぼっちになった気持ちでいた男の、エメラルドグリーンの瞳がきょとんと丸くなる。それにかまわず、
「ティーもおいしいけれど、明日はコーヒーがいいな」
とネアは続けた。もう普段通りの、余裕と自信に満ちた柔らかな笑みをしている。シドもいつもどおり、「承知いたしました」と頭を下げる。
それから立ち上がって、ネアのほうに近づいた。底が見えそうなカップに紅茶を注ぎながら、シドはたずねた。
「このあと少し、外出してもよろしいでしょうか」
「あぁ」
立ち上る湯気から香りを楽しみ、ネアは短く許可を出す。
「さっそく、私の好みに合うコーヒー豆を探しに行ってくれるんだね」
「ご明察です。ネア様に、隠し事はできませんね」
「ここはもう大丈夫だ、シド。店が混む前に行きたまえ。楽しみにしているよ」
「では、ご夕食の用意までには戻ります。必ず」
主人の前で、それからドアを出る直前にも一礼し、シドは部屋を出た。
ティータイムのセットを部屋から下げるように頼む使用人を探しながら、廊下を歩く。世界の終わりを迎える主人が嗜むコーヒーの味を想像すると、そこに居合わせてぜひ感想を聞きたいものだという気持ちになってきた。
シドはプライベート用のスマホの電源を入れることに決めた。通知があってもなくても、あの友人が幸せであればいいと、心の底から思えた気がした。