幸福泥棒拝啓 ネア・ブラディーボ・ヴァロア様
娘──と呼ぶにはまだ慣れませんが、新しく家族の一員になった愛しい子、エヴァのことでお礼を申し上げたく、筆をとった次第でございます。
児童保護施設のシスターに、あなたが施設の運営のための多額の寄付をしてくださったと伺いました。
三歳(というのは、これは発育状態をもとにした、シスターの予想です。彼女は自分の本当の年齢はおろか、名前も誕生日も知りません。)で施設に引き取られたとき、娘は寒さと飢えと、それらから守ってくれるはずの親に捨てられたショックで、ことばも話さず震えるばかりだった聞きました。娘に、帰る場所と眠れるベッド、あたたかい食事を提供してくれた施設も、あなたの寄付なしでは運営が難しかったそうです。
あなたのおかげで、娘はすっかりまわりの大人に愛されることを受け入れ、プリンセスのようなふるまいをしています。「エヴァ」と私と妻が祈りを込めた名前の通り、彼女は命をむき出しにして、人生を謳歌し始めました。
あなたの優しい心が娘を救ってくれたこと、私たちを最愛のプリンセスに出会わせてくれたことへの感謝は、とてもことばでは言い尽くせません。
どうかあなたに、たくさんの幸せが訪れますように。
ニコラス・ウィズ
手紙は、差出人の名前で締めくくられていた。
受取のサインをして、手紙を届けてくれた伝書鳩の足に結んでやる。ご褒美の小さくちぎったパンをつつく真っ白な鳩は、毎日朝と正午に、ここ──モナコの高所得者や高級車を見下ろすように建つ岬の上の屋敷の、最上階のバスコニーに手紙を運んでくる。頭脳明晰容姿端麗な大富豪への妬み嫉み(と主人は思っている)を遠ざけている屋敷の主人に繋がる、唯一の連絡手段だ。
映画「美女と野獣」の主人公よろしく、愛すらも遠ざける屋敷のてっぺんで、愛をぎゅうぎゅう詰めにした手紙を読む執事。彼の横顔を、夏の向日葵を揺らす爽やかな風がなでていく。揺れる髪の隙間で、文面を追うエメラルドグリーンの瞳がゆるりと下がっていた。
手紙を宛てられたネア・ブラディーボ・ヴァロアの執事──シド・マイティ・ゼンは、手紙を胸ポケットに入れながら、屋内に続く階段を軽やかに降りる。普段なら、主人宛ての手紙を検め、必要なものだけを主人に渡すべく彼のもとへ向かうのだが、このときは仕事が一つ増えていた。
伝書鳩の足元には、郵便局に差出人からの贈り物を受け取りに来るよう命じる手書きのメッセージが添えられていた。鳩に荷物を括りつけるわけにはいかないと手をこまねいた、モナコ伝書鳩センターの職員からのものだろう。
郵便局に出向くのは別の人間でもいいが──。
シドは主人のもとへ向かう足をぴたりと止めた。少し考え、呼び止めた使用人に、書斎で億単位の金を転がしている主人のことを頼んで、外出の旨を伝えた。
地中海とは反対側、旧市街に続く坂道を上っていく。屋敷のある岬から離れれば離れるほど、人の数も飛び交う会話も多くなる。正午前の飲食店のテラス席はほぼ満席で、テイクアウトの専門店には行列ができている。この稼ぎ時に客を逃すまいと、雑貨屋や服飾店もドアを開けて客の出入りを期待するが、結果は空振りと言ったところ。店員がレジスターの脇で頬杖をつきスマートフォンをいじるのは、いつもの光景なのだろう。
そんな中、飲食店以外に盛り上がりを見せる店があった。花屋だ。長身のシドが、人々の頭越しに覗き込む。赤やピンク、オレンジといった鮮やかな花々を押しのけるように、可憐な白い花を鮮やかなグリーンが包むようなブーケや鉢植えがたくさん売られていた。人々の視線と興奮の声は、どうやらそれに注がれているらしい。
「やぁ、シドさんじゃないか!」
明るいストロベリーブロンドの髪を見つけた店主が、小柄をぴょんぴょんと跳ねさせて手を振った。しまったとシドが思ったときには手遅れで、店主とシドの間に人一人通れるほどの道ができてしまっていた。視線を集めた彼は人好きの笑顔をして、「困ったなぁ」というように少し眉を下げ、それでも胸に手を当てて腰を折った。
「こんにちは」
「よかったら買っていかないか? あのご主人様に」
「あいにく、おつかいの途中でして」
「一流の執事が、こんなところまで?」
「わたしがしたくてしていることですから」
角の立たないスマートな遠慮と謙遜をそつなく並べると、老若男女問わず周りがさわりと色めき立った。しかし、誰も声をかけようとはしなかった。完璧有能執事の看板を背負う彼には、一分の隙もなかったのだ。これには、店主も彼を見送るほかない。
「残念だ。また御贔屓に!」
商売魂猛々しい店主はそう挨拶して、すぐに接客に取り掛かった。
店の黒板には、「あなたの大事な人に、ミュゲを送りませんか」というメッセージと、スカートを広げて挨拶するレディのように垂れた花と、それを護衛するような大きな葉の絵が描かれていた。
今日は、ミュゲ(日本語ですずらん)の日だ。愛する人やお世話になっている人の幸運を祈ってすずらんを送る、フランスの伝統的な風習だ。フランス人も多いモナコだから、花屋に人だかりができていたのも納得だ。一度ミュゲの日のパリを歩いたことがあるが、店舗を構えた花屋のほかに、路上にはすずらんをワゴンいっぱいに載せたすずらん売りも多くいた。多くの人に声をかけられ、主人のいるホテルに到着するのが遅くなった。「お出かけは楽しかったかい?」そう言って足を組み替えたネアの苦笑が、シドの脳裏に浮かぶ。苦々しい記憶に、ほんの少し、穏やかな垂れ目が引き締まる。
迷路のように入り組んだ旧市街を進み、赤い看板を提げた郵便局に到着した。住所ではなく、「ネア・ブラディーボ・ヴァロア」の名前を告げて、彼のクラバットを思わせる、白に金の模様が浮かんだシーリングスタンプを剥がして、彼のシグネチャーが書かれただけの紙を見せる。すると郵便局員は目を剥いて、シンプルなシグネチャーと目の前の若造を交互に見た。弾かれたように奥に引っ込み、それからすぐ、大きな箱を抱えて蜻蛉返り。爆発物などの危険物でないかどうかを確かめるため、職員の許可を得て、その場で箱を開封する。
シドは一瞬、目をしばたかせた。それからすぐにいつものように向日葵の笑みを浮かべると、多額のチップを置いて受け取りのサインをし、シドは郵便局を後にした。
旧市街地の坂を下るシドは、「エヴァ」と名づけられた女の子に想いを馳せる。彼女を個人として認識しているわけではない。面識があるかどうかすらわからない。シドが思考を向けるのは、彼女の境遇だった。
──彼女は自分の本当の年齢はおろか、名前も誕生日も知りません。
手紙に記されていた一文を見て、短い黒髪の友人の仏頂面が浮かんだ。友人と同じ境遇の女の子が、今は善良な夫婦にの家族の一員になり、シドにとっては眩いほどの、ことばや体温の形をした愛情を浴びる。なんの躊躇もなく。まるで、雲一つない空から降り注ぐ太陽の光を、両手を広げて受け止めるように。
シドはなんだか、泣き出しそうな気持ちになった。
よかった。本当によかった。これが、おれの望んだ未来なんだ。その資金源がネアで、感謝されるのはネアだとしても──。
そこまで考えたところで、シドの足が止まった。がやがやとした雑踏に立ちすくむ彼を、不思議そうに野良猫が見上げる。それも一瞬で、シドはすぐにたった今決まった目的地に向かって歩きだす。
相変わらず繁盛している花屋の赤いイーブスの下に入った。すぐに長身に気づいた店主の気のいい笑顔に応えるように、シドもにこりと笑った。
***
「やぁ、シド。お出かけは楽しかったかい?」
厭味ったらしい言い方だが、厭味ではない。パリのときも今も、彼は本心から、執事でもある友人のシド・マイティ・ゼンに楽しい時間は過ごせたのかとたずね、「はい、とても」と慎ましい返事があることを期待しているのだ。当然、主人に難があることを身を以て知らされてきたシドは、それをただの厭味と受け取る。しかし、最適な答えは間違えない。
「はい、とても。お心遣い痛み入ります」
満足そうに革張りのチェアに腰を下ろすネアは、歌いだしそうなほど上機嫌だ。
「どこに行っていたか聞いても?」
「まずはこちらを」
そう言って、シドは手紙を載せた銀のトレイをネアに差し出した。開封済みという点から、ネアは、差出人が自分とは関係のない個人であると気づく。(差出人が、シドが覚えているパーティーで知り合った相手や探偵卿局の人間でない場合は、シドが中身を検めることになっている。これは、恨みを買うのがあまりにも多い主人のために、シドが申し出たことだ。)
フランス語の手紙を読むネアは、シドの外出の様子を訊いたときとは打って変わって、退屈そうだ。メインディッシュを待つ客のように。
肘置きに頬杖をついて、確かめるように言った。
「『まずは』と言ったからには、『次』があるんだろうね?」
「ネア様にサプライズはできませんね」
シドが苦笑する。種明かしをされてしまったマジシャンのような口調でそう言って、シドは後ろ手に隠していた花束を差し出した。ネアが飛びつかんばかりにそちらに興味を向けた。シドは構わず、とびきり優しい声で、ささやくようにゆっくりとことばを紡ぐ。
「本日は『ミュゲの日』です。幼少のみぎり、フランスでお過ごしだったと聞き及びました。ネア様は、その習慣になじみがあるかと思いまして」
「……きみが買ってきてくれたのかい?」
「そうです」
「わたしに?」
「はい」
「昼に出かけたのは……」
「こちらを買うために。どうかネア様に、たくさんの幸せが訪れますように」
ネアはあんぐりと口を開けて、しばし呆然とした。それから、色素の薄い瞳を細めると、ぽろりと大粒の涙をこぼした。
「シド、ありがとう……。本当にうれしいよ。しかし、困ったね。きみのような友人がいてとても幸せなんだ。これ以上の幸せが訪れることがあるんだろうか」
「一介の執事には、身に余るおことばです」
シドはしっかりと主人との関係に訂正を入れて、真っ白なハンカチを差し出した。
「……飾っておいてくれ。あぁ、五月一日の『ミュゲの日』を『友情の日』と改めなければ」
「大袈裟ですよ。では、さっそく用意してまいります」
シドは頭を下げて、目下の仕事は終わったとばかりにさっさと退室した。
庭師に、花束を生けておく花瓶を用意してもらう前に、自室に向かった。そのベッドサイドテーブルには、あのすずらんのブーケがある。郵便局で受け取った、ネア宛てのものだ。
そうだ、あの宛先も幸福を祈ることばも、ネアに向いていた。しかしきっと、金の出入りとその結果にさして面白みを覚えない無粋な主人は、少しすれば貧しい家庭に生まれた子どものことなど忘れ、枯れゆくすずらんの花といっしょに愛情の詰まった手紙を処分してしまうかもしれない。
それが嫌だった。シドには耐えられなかった。
同じ境遇の子どもを想って暗躍することに、見返りなど求めていなかった。子どものころは笑うことができなかった友人がふいにほほえんだのを素直に喜ぶみたいに、幸福な子どもが一人でも増えれば、ただ「よかったね」と思うだけだ。
思うだけだった、はずだ。
そんなふうに名前も顔も知らない誰かの幸福を願っていたら、ふと幸福を祈り返してくれる人がいた。感謝の手紙と幸福を祈るブーケという形で。
感謝など求めてなどいなかったのに、いざ舞い込んでくると、なんと離しがたいことか。恵まれない子どもの気持ちなど考えようともしない金持ちに捨てられてしまうことを想像するだけで、喪失感に震えてしまう。
いつか枯れて、あの可憐な花が純白ではなくなっても、幸福を祈ってくれた心を、所有物である植物園の花のように、何でもないことのように処分してほしくなかった。
──これくらい、許されるだろ。
シドは鈴の形をした花に触れて、本を読み聞かせるときのような声色で語りかけた。
「ごめんな、おれのものにして。でもさ、あんたたちの神様は無粋なやつなんだ」
シドは窓を開けて、モナコの輪郭をつくる地中海を見下ろした。太陽の光を浴びた水面が反射しているように、シドのエメラルドグリーンの瞳がきらきらと輝く。そのきらめきを閉じこめるようにそっと瞳を閉じて、組んだ手を額にあてた。
「どうかあなたとあなたの大切な人に、たくさんの幸せが訪れますように」
そのささやかな祈りを、可憐な少女の広げたスカートのようなすずらんだけが知っている。
〈終〉