抗え、服従バニー 午後十時半。多忙な一日を終えたシドは、自室に向かっていた。わがままな主人から解放されたあとも、すれ違う使用人ににこやかに挨拶する。そんなことは、彼にとって造作もないことだ。──たとえ困惑で頭がいっぱいだとしても、だ。笑顔を作るよりも、右腕に提げられた、明朝には爆発する時限爆弾を暴いてやりたくて、逸る心と足をおさえるのに神経を使っている。
右手に下がる紙袋の中身を確認したくて仕方ないのは、「やっぱり爆弾だったか」と証拠をおさえた警察のような勝利宣言をするためではない。爆弾がただのおもちゃであると一秒でも早く確信して、「なぁんだ」と言うために、隅から隅まで確認したいのだ。爆弾が爆発する前に。
すべりこむように自室に入るシド。あられもないビジョンを浮かべて、怒りと困惑と、猶予は九時間しかないことへの焦燥で、その場でへたりこみ、盛大な溜息とともに膝を抱える。
床に下ろした紙袋が、相棒のように寄り添ってくる。床に置かれた紙袋は、ぽっかりと地獄への入り口を開けている。そんなに見せつけなくても、わかっている。紙袋を渡した主人直々に、中身が何かは聞いているのだ。しかし、その中身がシドの考えているものとまったく同じではない可能性がある。シュレーディンガ―の猫実験よろしく、シドは紙袋を開けるまでは、それが時限爆弾かおもちゃなのかはわからない──そう強がった。
なんという望み薄な現実逃避だ。シドは、一縷の望みを太くするために、つぶさに覚えている主人とのやりとりを思い返す。
「あしたはBunny’s Dayらしい。これは英語だけど、日本のあの子──花菱くんが言っていた」
「さようですか」
そう言いながら、シドは検索ボックスにBunny’s Dayと入力する。一秒と待たず出てきた検索結果に、シドはぎょっとした。
黒光りするセクシーな衣装とウサギの耳を模したカチューシャをつけて、こちらにウィンクするポニーテールの女性と、画面越しに目が合った。シドは閉口した。魅惑的な彼女のウィンクから飛び出してくるハートマークを、なんとか視線だけで弾き飛ばす。
シドの脳裏で、シャンデリアに照らされたルーレットが回る。カジノ・ド・モンテカルロのVIPルームに入ったときのことだ。その手の格好をした女性が、男性ウェイターに混じってドリンクを携えて待機していた。その艶めかしさたるや、男性スタッフの何十倍ものチップを胸元に押し込まれるのも無理はないと思われるほどのもので、シドは少しの嫌悪感を覚えた。ありていに言えば、ドン引きした。まったく興味がなさそうに彼女たちを素通りしてくれたことだけが救いだった。
執事兼ボディーガードとして壁際に控えているシドには目もくれず、億単位の金を転がす男たちにドリンクを提供し、ディーラーの真似事をし、勝負が動くたびに歓声を上げる彼女たちに、シドは文字通り壁の一部で居続けられることを祈っていた。
幸い、チップとして多額の現金をネアに渡していたことで、シドは事なきを得た。主人の「そろそろ帰らないと、明日起きられなくなる。帰ろう、シド」ということばに心底安堵した。これほど主人と屋敷に帰りたいと思うのは、後にも先にもこのときだけだろう、とシドは思う。(一人で勝手に屋敷に戻りたいと思ったことは、数えきれないほどある。)
「Bunnyは英語で『うさぎ』という意味なんだね。『うさぎの日』にちなんで、特別な衣装を着るらしいね。アンゲルスくんが教えてくれた」
「衣装」という単語に、シドがびくりと肩を跳ねさせる。彼にとっては少々刺激の強い検索結果やカジノでの夜の記憶が鮮明に眼前を覆う。
背中に冷や汗を垂らしたシドの笑顔が、ぴしりと固まる。何をつきつけられるかわかったものではない。いや、正しくは、わかってしまったからこその恐怖。飲み干したグラスから口を離した瞬間、「今飲んだの、毒だよ」そう囁かれた気持ちになる。
「それでね」
──やめろ、もう何も言うな。こいつ、今すぐ気絶させてやろうか。
物騒なことを考えるシドを尻目に、ネアはチャコールグレーの紙袋を渡す。シドもよく知っているものだ。パリにあるテーラーのショップロゴが白で印字されている。ネアのお気に入りの店で、シドも執事服とスーツを何着か仕立ててもらったことがある。
「せっかくだから、特別な衣装を作らせたんだ。きみに内緒で作るのに苦労したよ。『今日は執事の彼はいないんですか』って聞かれて──」
ネアはわくわくしている。びっくり箱を渡して「ねえ、開けてみて!」としたり顔をする少年のようだ。これから起こることへの反応が楽しみで仕方ないというわくわく感が、きらきらした瞳からこぼれている。
なんとか主人の戯言を最後まで聞いて、
「お戯れを」
と少しだけ声を低くしてみる。しかし、
「遊び心は、大事だろう?」
などと言って、なおもネアははしゃいでいる。
それもそのはずだ、とシドは逆に納得してしまう。この程度で拒否の姿勢が伝われば、無神経な発言によって多くの人間に殺意を抱かせるはずもないのだ。
「もしきみがよかったら、明日着てみてほしい」
あたかも譲歩しているかのような姿勢だが、主従関係を鑑みれば、それはシドにとって命令以外の何物でもない。特に、主人を資金源とするシドが主人のへそを曲げてしまうことを自ら行うのは絶対に「ナシ」だ。野望のためであり、また、完璧執事を自負する己のプライドのためでもある。
「……承知いたしました」
タイムリミットまで約九時間の時限爆弾(仮)を渡されてなお、そう答えるしかなかった。
戦うように言われ続けた収容所ですら、こんな屈辱と困惑を感じたことはない。収容所には、殺意を持った自分に勝てる者など一人もいなかった。本当に逃げ出したくなったときには、教官を殺してやればいいとさえ思っていた。まさに爪も牙も隠した虎のように教官に愛想を振りまいていたシド。しかし今、隠す爪も牙も、主従関係に取り上げられてしまっている。できることは、逃げることだけだ。野兎のように。
「あんの金持ってるだけの若作り変態野郎め……。見捨てるなら今しかないな」
──少々面倒だが、別の金持ちを懐柔してやればいい。
視線を天井に向ける。胸元を掴んで深呼吸しながら、シドは考える。
新しく主人にするなら、金持ちで、出自とか経歴とか気にしなくて、おれが生きてるうちは言うとおりに金を出資してくれるくらいの年齢で、プライベートに口を出してこなくて、ある程度賢くて、顔が広くて──。
そこまで考えて、ふと、我に返ったかのような現実的な問題がポンッと浮かぶ。
──そんな人間が、ほかにいるのだろうか。
「……もしかして、ネアって結構(都合の)いい主人──」
自分で言いながら、紙袋に勢いよく手を突っ込んだ。
──いやいや、それで百点加算だとしても、おれがNOと言えないことをいいことに際どい衣装を着ろと言ってくるやつなんて、マイナス一億点だろ! おれが出て行くって言ったら、「違うんだ、シド」とか言って、慌てるに違いない。やつがそんなふざけたことをぬかしたら、「何が違うんだ。言ってみろ!」ってこのおもちゃなんかじゃない時限爆弾(仮)を突きつけてやるんだ!
シドが「勝訴」の掲示を掲げるように、紙袋から、面積がせまいであろう布を天井に着きあげんと掲げる。
「……ん?」
シドが持ち上げたのは、何の変哲もない白いシャツだ。なんなら、シドもネアのそばで働くにあたって支給された、フォーマルなシャツそのものだ。幾分か落ち着いたシドがゆっくりと取り出したのは、黒い布。バニーガールが身につけていた、胸元のざっくり空いたものだが、シャツに合わせるならばただのベストである。それと、蝶ネクタイ。
「……なんだ、これ」
低俗な衣装とはかけ離れた、いつも自分が身につけているものと同じ高級感とフォーマルさを兼ね備えた逸品であることに驚く。続いて出てきたのは、シルクのようなマット感のある黒のスラックス。自分の予想が大きく外れたと確信させられる。どうやら、時限爆弾はおもちゃだったらしい。
「……んだよ。驚かせやがって」
シドは長いため息を吐き出した。
──まぁ、別にこれくらいなら着てやってもいいか。『驚きました』とでも言ってやれば、喜ぶだろう。
完全に、未就学児に対する対応である。
ネアの喜ぶ顔など宇宙のかなたに吹っ飛ばし、一度着てみることにする。
なじみのテーラーの製品だから間違いないだろうが、動きづらいと仕事にも支障を来す。なにせ、岬の上の屋敷から一歩でも出れば、殺気のこもった視線を感じるのも珍しくないのだ。その視線がレーザービームならば、ネアの体は外出するたびに蜂の巣状態になっていることだろう。視線を送る以上のことをしてこないとは言い切れないから、動きにくいならば主人にその旨を伝える必要がある。(『一応着用した』という言い訳もできる。)
──うん。着心地は問題ない。
姿見には、パーティー会場の脇役にもってこいのウェイターが映っている。にこりと百点満点の笑顔を作るシド。しかしすぐに、その顔が訝しげに変わる。
「なんだ、これ……」
今日何度か目の呆れと疑問の漏れた声。姿見に映った自分の胸元──ベストの胸ポケットには、うさぎの耳が白い刺繍されている。ご丁寧に、ポケットの中には一羽のウサギが「I got caught(見つかっちゃったぁ!)」と楽しそうだ。よく見るとカフス部分が二重になっている。ちらりとめくると、「You can't get me(鬼さんこちら)」とおしりと丸いしっぽを向けている。同じく自分の自分の履いているスラックスにも、尾を模した白いふわふわの毛玉がくっついていることに気づいた。
「どんなオーダーしたんだよ、あいつ……」
冷や汗をかきながら、紙袋を覗き込む。そしてすぐに、心してかかるべきだったと後悔することになる。
「……」
なんの変哲もないコスチュームだと安堵した自分をぶん殴ってやりたい──シドは後悔した。わかってしまった。時限爆弾を解体しきれていなかったことに、爆発一分前に気づいてしまったかのような心地だった。「分」表記がゼロになり、五十九から減っていく。
やけくそに紙袋をひっくり返すと、ぽとんとカチューシャが落ちてきた。うさぎの耳の形をしたカチューシャが。
再び、シドの脳内にあの過激なコスチュームが降臨し、途端に黒い渦が再びごうごうとうねり始める。それから、ネアが主人でなかったら言ってやりたいことがマグマのようにどろりとした質量を持って流れ出る。
「おれ、男だぜ? しかも、いくつだと思ってんだよ。まぁ、おれも知らないけどさ……」
ぶつくさ言うシド。しかし、紙袋を受け取ったときの殺意はないことに気づく。
「……」
金持ちで、出自とか経歴とか気にしなくて、おれが生きてるうちは言うとおりに金を出資してくれるくらいの年齢で、プライベートに口を出してこなくて、ある程度賢くて、顔が広くて──加点百点の主人と、コスチュームを着ずに彼の機嫌を損なうリスクを天秤にかけると、リスクのほうに大きく傾いていたのだ。
「しかたないか……」
シドは腹を決めた。
穏やかに健やかに子どもたちが生きていける世界のため、完璧有能執事のプライドにかけて、ネアの(無自覚ド迷惑)サプライズを完遂させてやろうと決心した。その瞬間、シドの脳内イメージの時限爆弾のタイマーが、ぴたりと止まった。
翌日、シドは用意された衣装を完璧に着こなして、ネアの前に現れた。「驚きました。ネア様は遊び心を溢れたお方です」と歩計画通りのことを言ってやると、ネアは楽しそうに「きみは何でも似合うね」と手をたたいた。ただ一つ、うさぎの耳のカチューシャを突けていなかったことに言及されると、
「親愛なるご主人様に頭を下げるとき、お見苦しい姿を見せたくなくて。年に一日しかないイベントとは存じますが、それでも私は今日も、ネア様に傅き、跪く身です。どうかご容赦ください」
とびきりの笑顔で、考えておいた言い訳をアドリブだといわんばかりに言ってのける。
ネアは「なるほど」と感嘆し、「確かにあれは不安定だな」と納得してうんうんとうなずく。「もっともらしい言い訳」とはつゆほども思っていない、信頼を寄せた深いうなずきだった。
その後、別の使用人に「え? しっぽがついたスラックスなんて用意されていないけど?」と衝撃の事実を告げられ、シェフたちには「よぉ、シド。可愛いしっぽつけてるな」とからかわれ、メイドたちには「ネア様ったら、困った人ですね」と上品な笑みと憐れみの目を向けられたシド。笑顔の完璧執事でいることがこんなに大変なのは、後にも先にもこの日だけだろう。
──こんなことが何度もあってたまるか!
「シドさんって、意外にネア様に甘いのよね」
シドの野望も時限爆弾の無効化までの葛藤も知らないメイドたちの無邪気な声は、幸いにも本人には届かず、ただダイニングを明るくするに終わった。