きみはいいこ 数字の書かれた小さな引き出しをそっと開けると、つやりとした緑の球体が現れる。幼さを残る丸っこい手がそれを取り上げて、頭より上にぱっと掲げた。固唾を吞んで見守っていた周りの子どもたちから、わっとから歓声が上がる。その中心の男の子は、アドベントカレンダーから取り出したそのオーナメントボールを宝物のように胸の前で抱えて、クリスマスツリーに向かう。そこに笑顔で佇む、真っ白な執事服をまとった青年に声をかけた。
「ねぇ、飾っていい?」
「もちろん。どうぞ」
男の子はぱっと顔を輝かせ、たくさんのオーナメントに飾られたツリーに向かって背伸びをする。しかし、精いっぱい伸ばした手もツリーの半分ほどの高さまでしか届かない。つい、傍らの青年が声をかけた。
「手伝おうか?」
「やだっ! 自分でやる!」
容赦ないことばに青年は苦笑して、差し伸べた手をひっこめて、一歩下がるしかない。
もしここに主人──この児童養護施設にアドベントカレンダーや大きなクリスマスツリー、子どもたちに贈るプレゼントの費用などを提供した大富豪がいたら、子どもたちに大人気ない皮肉やら嫌味やらを吐いただろう。しかし今、暖炉のあたたかさが届くその部屋にいるのは、子どもたちと大富豪の執事だけだった。
オーナメントボールをつけた男の子が、そっとその手を放す。完成までてっぺんの大きな星をつけるのみとなったクリスマスツリーを見上げて、誰ともなく子どもたちの間に期待と興奮が広がった。
「サンタさん、来るかなぁ」
「来るよ! 先生が言ってたもん! だからイブの夜は、子どもは早く寝るんだよ」
「大人は、夜中に御馳走を食べてるんだって。だから、大人はプレゼントもらえないんだよ、きっと」
「ねぇ。シドお兄ちゃん。大人は夜中に御馳走食べるってほんと?」
無邪気な子どもたちの会話に自分の名前が飛び出してきて、執事──シドは一瞬目をくるりと丸くした。それからすぐに、目を細めて人好きのする笑みを見せる。
「主人もぼくも、いつも通り時間に眠るよ。屋敷には大人しかいないから、イブの夜中は特別なものではないんだ」
フランスの片田舎の寒い夕方でも、その向日葵のような笑顔は青空を思わせる。子どもたちの表情が、蝋燭を灯したようにぽっと明るくなった。
「じゃあ、サンタさんが来てくれるよ!」
「いい子には、プレゼントがあるものね」
「いや、ぼくにプレゼントは来ないよ」
──大人だからね。そう加えてやんわり否定しようとしたとき、ぽつりと「お兄ちゃん、悪い子なの?」と子どもたちの中から幼い声が上がった。その声だけ、シドには一際響いて聞こえた気がした。晴れた日に落ちてきた雨粒が、今の今まで輝いていた子どもたちの笑顔に影を落とす。シドは「うーん」と唸る。しゃがみこんで子どもたちと目線を合わせた。その瞳には、期待が灯っている。シドが「そういうわけじゃないよ」と否定するのを待っているのだ。期待に応えられないシドは、困ったように眉を下げた。
「そうだね。シドは悪い子なんだ」
「どうして……? わたしたちが生活できるのはシドお兄ちゃんのおかげだって、先生言ってたよ」
傷ついたような表情を見せる女の子。その声があまりにも悲痛に満ちていて、周りの子どもたちも何を言っていいかわからないと言った様子だ。蝋燭どころか、暖炉の火も消えてしまったような消沈に報いる術もなく、シドは努めて明るく返すだけだ。
「友だちとけんかしちゃってさ。仲直りもできてないし」
そう言いながら、自分の頬を指す。そこに貼られた真新しい絆創膏を見て、子どもたちがこくりと小さく息を呑んだ。その下にある痛々しい傷を想像するだけで、自分たちが想像しうる喧嘩とは違うものだとわかってしまう。
自分のことのように身を縮める幼い子どもの頭を撫でて、シドはなんでもないように笑顔を見せた。
「みんなはいい子だから、友だちとけんかしないようにね」
念を押すような口調に、子どもたちは弱々しくうなずくしかなかった。それでも納得できないように、「でも……」と言いながら、自分の気持ちを表すことばを探しているようだった。やがて、一人の女の子がぽつりとつぶやいた。
「でもね、シドお兄ちゃんは……いい人だよ」
「優しくてかっこいいよ」
「会いに来てくれてうれしいよ」
口々に自分を擁護する声が上がって、シドはどうしたものかと頭をかいた。そうする間も、子どもたちはわいわいと持論を展開する。シドが否定するタイミングを計っていることなど、知る由もない。
「サンタさんはきっと、シドお兄ちゃんがいい子だってわかってくれるよ!」
「世界中の子どもたちのこと、ちゃんと見てるんだから!」
サンタクロースの正体なんて、サンタクロースを知ったそのときから知っていた。親がいない子どもだった自分に、クリスマスプレゼントなど与えられるはずもなかった。愛してくれる親と、愛される子どもがいて初めて成り立つ愛の行為に、自分は無縁だったのだ。
ただ、今子どもたちがごねているのは、自分が愛された子どもであったかどうかではない。過去を何も知らない彼らが、ただ自分を悪い人間ではないという一点にこだわっていることに、シドは確かなぬくもりを感じた。シドは「いや、ぼくは子どもじゃないから、プレゼントなんてないよ」と言いかけた口を噤んだ。その一瞬の沈黙は、子どもたちの声であっという間に埋め尽くされる。
「知ってる? 枕元にワインとニンジンを置いておくんだよ!」
「ね? お祈りしよう。サンタさんが、シドお兄ちゃんがいい人だって気づいてくれますように」
子どもたちが胸の前で手を組んで、目を閉じた。垂れた大小さまざまな丸っこい頭が並び、なんだか教祖様にでもなったようで居心地が悪かった。シドもそれに倣い、指を絡めて目を閉じた。
子どもたちを、暖炉のぬくもりと、そこで薪が軋むぱちぱちという音が包む。背の高いクリスマスツリーだけが、彼らの清らかな儀式を見守っていた。
***
「えーっと、シャポンは明日届くし、ブッシュドノエルは明日飾りつけをしてもらえるし。うーん。一応、明日は早めに起きるか……」
クリスマスイブの夜、最終確認を終えたシドはカレンダーを指でなぞった。各児童養護施設に寄贈したクリスマスツリーも、アドベントカレンダーの最後の一日に入っていた星を飾ってもらえただろうか。ワインとニンジンを置いて、あたたかいベッドに入ったんだろうか。来年のクリスマスツリーは、もう少し小さめのものにしようか。そんなことを考える。
自室に戻り、ベッドサイドテーブルに、キッチンから拝借したワインを注いだグラスと、昼間主人からもらったクッキー(老舗パティスリーの新作らしい)を置いた。ベッドサイドランプの明かりが、ゆらゆら揺れるワインの影を映す。間に合わせの儀式だ。こんなものでいい。プレゼントがほしいわけではない。ただ、あの子どもたちの祈りに報いたかった。「いい子にしていたらサンタさんからプレゼントがもらえる」なんて、明かりを照らせばなんてことはない、身近な大人の仕業だ。ただそれは、間違いなく愛の証だと、シドは知っていた。それを、子どもだましだなどと思いたくなかった。明かりの灯る家の数だけ、愛情まみれの儀式が行われることを、シドはあの子どもたちのように、信じていたかった。
「おやすみ」
誰にともなくそう言って、シドは眠りについた。
***
「……は?」
それが、翌朝ベッドから体を起こしたシドの第一声だった。冬の透き通る朝には似つかわしくない、不信感たっぷりの声。訝しげな視線の先には、空のグラスとクッキー皿、それから片手ほどの大きさの箱。ネイビーの箱に交わった白い線、くるんと巻かれたリボンが結ばれたそれは、「サンタさんからのプレゼント」と主張している。しかしシドの頭には「侵入者」という物騒なことばが浮かんでいた。眠っているとはいえ、自分に気づかれずベッドサイドまで近づいて、質量のある箱を置き、ワインを飲んでクッキーを食べるなんて、普通の人間ではない。痕跡を探ろうとサイドテーブルを見てみると、赤い封筒が目に入る。嫌な予感がした。手に取ると、バラの匂いがふわりと漂った。嫌な予感が、じとりと濃くなっていく。
手紙にはこう書かれていた。
親愛なるシドくんへ。
先日はモナコにお邪魔したから、今度はトルバドゥールに遊びに来てね。ジョーカーくんとRDと待っているよ。
追伸 ワインとクッキー、ごちそうさま。来年はよりワインに合うものを期待しているよ。
ぐしゃりと握りつぶしたい衝動をなんとか抑える。
ワインはサンタへ、ニンジンは彼を乗せたソリを引くトナカイへの労いの品として用意する習わしだ。形式上用意しただけのものを一人で勝手に食べて失礼な感想を残していく人間離れした差出人には、心当たりがあった。
「クイーンか……」
プレゼントの中身によっては、探偵卿である主人に報告することも考えないといけない。箱を開封しようとしたとき、プレゼントの箱の底にカードを見つけた。遠慮がちにリボンに挟まっているだけのそれには、シンプルなメッセージが書かれていた。「ごめん、シド」と。
その「ごめん」が、仕事上のパートナーの侵入計画を止められなかったことに対する謝罪なのか、先日の殴り合いへのものなのか、一緒に働くことを拒否したことへのものなのか──それを判断する材料はない。「きみは悪い子じゃない」というクイーンのことばと、高さを合わせてくれた瞳が月光のように柔らかく輝いていたことを思い出していた。
「おれも……、ごめんな」
──いや、おれのほうが正しい行いをしているんだから、直接謝ったりはしないけど!
シドは心の中だけでそう加えて、これから屋敷で始まる盛大なクリスマスパーティーの準備をするため、ベッドから抜け出した。
それから、一応主人に報告するため、不法侵入者からのプレゼントを持ち出すことに決めた。
友だちからのカードは抜いて、ピアスケースの底に隠してから。
(了)