同情と餞 同情
「待ってたわ」
緑髪の少女―いや、女性は落ち着いた様子で薄暗い研究室の椅子に腰掛けている。何年も変わらない、彼女の定位置。突然の来訪も予期していたようで、優雅に珈琲を啜っていた。
「…ケビンが聖痕計画の遂行者になるようだ」
「ええ、聞いているわ。それが?」
何の気なしに返されて、思わず眉がぴくりと動く。どうして声色ひとつ変えずに話せるのだろうか。
「彼にばかり全て背負わせるなって、今更じゃない?」
くつくつと意地悪く笑い、此方の言いたいことを見透かすように、蛇の双眸がじっとりと見抜く。
「ほら、貴方は何も言い返せない。しょうがないわ、それが事実だもの」
それでも、ただでさえ孤独な彼をこれ以上独りにしていいものか。これまで共に肩を並べて戦っていたのに、どうして大多数の人と同じように彼の手を離してしまうんだろう。関節が白くなるほど強く拳を握りしめて、歯を食いしばる。がり、と削れるような音がしてもお構いなしだ。
「はぁ……少し落ち着きなさい。貴方らしくないわ、スウ」
教えてあげる、とメビウスは天井を見上げる。不本意ながらも、その動きに合わせて上を向けば、海水のような青緑色のブロックが敷き詰められていた。廊下から入る蛍光灯の光だけでは分かりにくいが、魚のような紋様も見える。彼女の目線に合わせて、壁に目を向ければ様々な動植物の標本が並んでいた。
「人間は、自分とかけ離れた存在になればなるほど共感能力を失っていくの。ラットが実験のために死んでいく様子に、貴方は深く心を痛めるかしら?」
突拍子もない語り口から始まった授業のような問答に、苛立ちを抑えながらも彼女に付き合う。
「…必要な犠牲だと思うよ。僕たちが生きるためにね」
「ええ、そうね。いちいち気を揉んでいたら、貴方がここまで生きているはずないわ」
次、と淡泊に続ける彼女は椅子から立ち上がり、実験室の床に乱暴に放り投げられていた骸骨の人体模型を引っ張り上げた。メビウスより幾分か高い背丈にも関わらず、薄汚れた冷たい手の骨を握っておもちゃを見せるように広げる。
「こうやってよくダンスパーティーをしたものね。まぁ、わたしに骸骨と踊る趣味はないけど」
気が変わったと言わんばかりに、また放り投げられた骸骨は座らない首をおかしな方向に向けてだらんと床に寝そべった。
「何を考えてるか分からない、って顔」
当たり前だ、聖痕計画をケビンに任せると知っていながら止めなかった彼女の真意を聞くためここに来たのに、関連性の無いような授業とも言えない彼女の奇行を見せられている。
「人間とかけ離れた存在になればなるほど共感能力を失う…なら、崩壊獣や律者の位置づけはどこかしら?」
恐らく、彼女は人間同士でも思考の真意を推測できないと話したいのだろうが、なぜここで崩壊獣が出てくるのだろう。少し思案する。その真意ではなく、投げかけられた問いについて。崩壊獣は名前の通りだが、ゾンビや律者は人間と同じ見目をしていることが多い。
「哺乳類…少なくとも、人間からそう遠くない位置にあるはずだ」
「うん、悪くない回答ね。でもそれじゃあだめ」
満足そうに笑いながら椅子に座る彼女は、いきなり人が変わったように冷たい目線で言葉を投げる。
「人間同士ですら理解し合えないのに、崩壊獣や律者の気持ちが分かるわけないでしょう?」
メビウスの言いたいことが線の様に繋がり、やがて輪を描く。それじゃあまるで、ケビンが人間じゃないみたいな言い方じゃないか。思わず目を見開いて、ガンと近場の壁に拳をぶつける。
「彼だって一人の人間だ! どうしてそんなことが出来るって言うんだ」
壁の鈍い音も荒げた声も気にする様子も見せずに、彼女はふらふらと椅子から立ち上がった。そして、呆れたように笑いだす。
「ふふ、あはは! 智者である貴方がそんなに愚かだったなんてね」
「…彼がまだ、人間だって証拠はどこにあるの?」
縦に割れた瞳孔が揺れる。白衣を引きずった彼女は冷え切って震えた声で堰を切ったように叫んだ。
「エリシアだって! 人間じゃなかったのよ、私たちと何も変わらなかったでしょう、でも! あの女が考えることなんてひとつも分からなかった!」
「ケビンだって同じ、あそこまで崩壊獣を取り込んだ彼をもう人間とは呼べない。あれはもう、神よ。私達の理解が及ばないもの。貴方に彼の考えてることが分かるっていうの?」
「それこそ…取るに足らない、仲良しごっこの友情ね」
錯乱したように笑い、噛み合わない目線の先にあるのは空虚だけだ。よく見れば、彼女の珈琲が入っているマグカップの近くには中身のない睡眠剤のゴミが積み重なっている。
「同情なんて要らないわ」
思わず伸ばした手は、場違いなほどに軽快な音を響かせて跳ねのけられた。自分よりも酷い精神状態であることは誰が見ても明白だ。それでも、彼女は眼を見開いたまま、口元に弧を描く。
「どうせ貴方は彼に着いていくんでしょう。人間のまま彼を引き留めようなんて……馬鹿な人」
もう回答は終わったと言わんばかりに、彼女は研究室を出て冷たい廊下に行ってしまった。一人、薄暗い無人の研究室で思わずうずくまってしまう。どうして、とはもう言えなかった。だってどうしようもない。彼女の意見に何一つ間違いはなかった。
それでも、彼を手放しに神にしてはいけない。彼の救世を全部背負うことは出来なくても、彼が捨ててしまうものを拾うことくらいはできる。それが仲良しごっこの偽善であれ、どうにか彼を「ケビン」という一人の人間にしていたかった。
餞
「言葉にしないと伝わらないよ」
この文明の記憶回顧装置である古の楽園。それは、一人の英傑の命を以て完全なものになる。その前に、仲間たちとの会議室として使われた、生活感のある姿が見たくて寄ってみると静かな、でも芯のある声にくいと引っ張られた。
振り返れば、深くヴェールを被ったアポニアが暖色のライトに照らされるロビーソファに座っている。全てわかったように語られても、いい気がしなかった。それも理解しているはずでありながら、彼女は話を続けようとする。
「アポニア。僕は君と話をしに来たんじゃない。もう帰るから、詮索するのはよしてくれ」
「邪険にしないで。私はただ…貴方の負担を減らしたいだけ」
最期に少しお話ししましょう、と誘われてしまえば、どうにも断れなくて嫌々ながらもソファの少し離れたところに腰掛ける。
「貴方は彼に全てを語らない…それでいいと思っている」
「違う。僕とケビンはもう、十分なくらい言葉を交わしているよ」
僕と彼はお互いの事をよく知っている。そう、確信にも似た自負があるはずだった。離れていた時間はあれど、僕と彼は今でも親友のままだ。でも、メビウスの話を聞いてからそこにあった一抹の不安が、波紋を広げて心に波を立てている。それが彼女の見る『糸』までもを震わせたのか、口元に薄く弧を描いていた。
「昔、彼にも同じ言葉を言ったことがある」
「嘘は、罪だよ」
曇りがかったオパールの瞳が、じっとりとこちらを見つめる。優しく首を糸で絞めるような、威圧感ともとれる重い空気のせいで、落ち着かないまま握られた手に目線が向いた。
「言葉にすれば終わってしまうと思っているんだね」
違う。そう言いたいのに、否定できない自分に吐き気がする。
「スウ、それは甘えだよ」
心の中を無遠慮に覗かれていい気分になる人間なんていない。言葉にしてしまったらきっと彼を困らせてしまう。だから、僕が黙っていれば全部済むと思った。甘えなんかじゃない、彼女の言葉を借りるなら、これが僕を縛る『戒律』だ。どうにか心の奥底から絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「僕は、彼が綺麗なものだけを見続けられるように、汚いもので心をすり減らさないようにしたいだけだ」
精神感知型の融合戦士は、他の人より多くものを見る。でも、見えるだけで何も干渉できない。僕たちに出来ることは、幸せを願う人にヴェールを被せて、いつかそれが破られるまで隣で歩き続けることだけだ。
『人間』の道を歩ませ続けるために、善意で舗装された冷たい神への階段も、心ない言葉も、ぐずぐずになった僕の心までも隠して、それで彼の負担を減らしたい。それだけ、それだけしか、僕が彼にしてあげられることがない。
「それじゃあだめだよ」
「結局……私達は運命から目を逸らせないのだから」
分かっている、全部一時の慰めにすぎない。優しさのヴェールを被せたところで、向かう先は『使命』と名がついた地獄だけだ。じゃあどうすればいいって言うんだ。彼を杭に打ち付けて、残酷な現実と無常な運命を見せ続けるだなんてことは、僕にはできない。
「スウ、智者である貴方もいつか…天慧の権化と成るはずだ。ケビンと同じようにね」
「言葉を尽くし、行動で示して、互いの運命が来るその時まで…救おうともがけばいい」
一方的で投げやりのような言葉には、諦念と慈悲の色が見え隠れしている。お互いに出来なかったこと、したかったこと。それらを並べて自傷に浸っていても、救いたい人が救えるわけじゃない。
「それも、予見かい?」
「いいえ……これは、死に行く私から貴方への餞。どんな形であれ彼を――崩壊さえも理解して、ください」
戒律のないそれは、運命でも枷でもなく、エリシアの友人であるアポニアからの、人間らしい最期の願いだった。