たった一つの「法正殿……?」
執務室を覗けば机に突っ伏し、微かに動く肩に思わず言葉を呑み込んだ。本当は耳に入れて置きたい報告があったのだが、今暫くは休ませておいてやりたい。このまま去ろうとも考えたが、どうも離れがたく密やかに距離を縮めてみる。指先は筆を持ったままとは、本当に仕事熱心であられるな。主君への恩為とはいえ、尊敬に値する。蝋燭に照らされ艶めく前髪の隙間から、意志の強い眉と長い睫毛が揺らぐ。
一族の長になった瞬間から、復讐の為に只管戦うことが正義と信じてきた。その様な俺に、新たな居場所と共に守るべき主君を与えてくれたのだ。燻り消えかけた正義が、再び温かく松明を灯し猛り盛る。
その辺りに放ってある布を拾い上げ、なるべく静かに平服姿でより薄く見える背へと広げた。その滑らかな黒髪に、指先でもっと触れてみたい。小さな吐息が漏れる唇に、月灯りに映える褐色の首筋に。何と欲深く、胸の奥から熱く魂が叫ぶのだ。軍師殿としての敬愛は、何時しか別の感情に変わっていたのだろう。
なるべく潜めなければ、知られることが正しいのかもまだ解らない。そう考えてはいても、溢れる程膨れ上がり抑えきれずにいる。これだけは、明確だ。貴方のお陰で、気が付いた。口にするまでが如何に重く、己の全てを懸けられる意味がある言葉だと。
腕を少しずつ伸ばし、指先だけ肩に触れた。僅かに髪から見えた耳元に唇を寄せ、一度息を吸う。心音が鳴り止まず、幾ら考えても一つしか浮かばない。だからこそ何としても、伝えたい。自らの行いに、躊躇などしていない筈だが。呼吸が、途切れる。声も掠れるままやっと、絞り出せた。
「 」
これまでの道程で初めて、俺よりも『正しさ』を求めていると思えた人に。報いに溢れた、美しい世界を誰より望む人に。
綺麗事と罵りながらも俺の正義を貫かせてくれる、貴方にだけは。今はこの空間にだけでも吐き出した歓喜で満たされ、扉を閉めた。
言葉にならず、息だけが漏れる。
「……っ」
朧げな意識の中で、確かに聞こえた。正義だの魂だの喧しい程己の意志を口にする人間が、耳が痛くなる程の大声で報告してくる様な人間の筈なのに。
何故か耳元に感触が残り、全身が焼き尽くされそうに上気し震える。微かに吐息が混じり、聞いた覚えの無い程消え入りそうな声だった。
この悪党相手に、愚かしいにも程がある。真意が掴めないが確かなのは、これ程感情を揺さぶられたことは無い。柔らかな輝きが脳裏を占め、優しく包まれるのに戸惑いながら反芻してしまう。
夢か現か判らず、瞼も開けられない。
たった一つだけの、言葉で。
『……愛している』