mysterious eyes 今年の町内の地蔵盆のお知らせだよぉ、と言って、僕の一人暮らしの部屋に遊びに来た桑名が、一枚のビラを僕に見せた。にこにこ笑いながら、スイカとラムネの描かれた素朴なイラストを指差す。
「懐かしいでしょ」
僕たちが初めて会ったのは、十二年前の地蔵盆だった。その頃の僕は「地蔵盆」という、この京都の風習を知らなくて、まるで夢の中のお祭りに迷い込んだみたいに思ったっけ。
昨年桑名と再会したのもまた、地蔵盆の町内会テントの下だった。今年は桑名は一応受験生だから、子ども会の手伝いは免除されているらしいけれど、あのどこか幻想的なお祭りをちょっとだけ覗きに行ってもいいな、と考えると、少し胸が弾んだ。
スーパーボールすくい、射的、型抜き。余所者の僕が迷い込んだときにもたしかあったものや、新しく加わったのであろう「妖怪謎解きゲーム」なんていう出し物のラインナップを目で追っていると、一番下のところに「肝試し」と書かれているのが目に入った。
「肝試し? お祭りには珍しいね。お化け屋敷とは違うんだ?」
「ああ、そうそう。地蔵盆には結構つきものだよ。うちだと毎年一日目の夜にやるんだよねぇ。二日目の最後が数珠回しで、一日目の最後が肝試し。町内のお寺の境内を一周して戻ってくるだけだけどね」
「お化け役もいるのかい?」
「まあ、一応。小さい子供相手だから、そんな本格的に脅かしたりしないけどね。それでも昔はちょっと怖かったなぁ」
チェックポイントでちゃんと目印を持って帰ると賞品が貰えるんだよぉ、と楽しそうに話す桑名を見て、「小さい頃の桑名と一緒に行ってみたかったな」とまた思う。京都育ちの桑名の子供時代の話は、僕には珍しいことが多くて、いつもそれを共有していないことを少し悔しく感じてしまうのだ。
「桑名はホンモノのお化け、見たことはある?」
「ないに決まってるでしょ。松井はあるの?」
「僕も心霊現象に遭ったことはないな。でも、この間、学部の前期打ち上げの席で怖い話大会になってね。その場の皆で自分の恐怖体験を披露し合ったんだ。なかなか面白かったよ」
へえ、と桑名はさほど興味無さそうに相槌を打つ。僕はこのリアリストで合理主義者のひとつ年下の恋人を、是非とも震え上がらせてやりたくなった。でもその前に。
「桑名が今までで一番怖かったことって何だい?」
「…こないだ、炎天下の温室で熱中症で倒れてる松井見たときより怖かったことなんて、僕の人生にないよ」
桑名が前髪の下から僕を睨んで言う。完全に藪蛇になってしまった。
「あれは、待ち合わせより早く着いてしまったから桑名を迎えに行って、うっかり居眠りしてしまっただけだよ」
「だけもへちまもないよぉ。もう松井は実験農場にくるの禁止だからね!」
珍しく桑名がぷりぷりしている。あれほど顔面蒼白で慌てふためいている彼を見たのは後にも先にも初めてだったので、その後めちゃくちゃ看病されたのも含め、案外悪くない思い出なのだけれど、そんなことを言おうものなら熱中症の危険性について五分は止まらない説教をされるのが目に見えているので、僕は「あのときは心配かけて悪かったよ」と神妙な顔をして見せた。桑名は、
「僕がどんだけ怖い思いしたか、松井絶対わかってないよね」
と、まだむくれている口調で言ったけれど、僕が膝の間に滑り込んで胸にぴとりとくっつくと、むぅ、と口を尖らせながらも誤魔化されることにしたようだ。
「松井の一番怖かった話は? どんな話したの?」
そう言われて、改めて思い出す。
僕が人生で一番怖かったのは、地蔵盆で会って、また来年会おうねって約束した桑名が、幻だったのかも知れないと思ったときだ。
東京に戻って誰に話しても、あの地蔵盆の数珠回しの光景を誰も信じてくれなくて、大人にまで「夢でも見たんじゃないの」って言われて。皆に否定されるうちに、自分でもあれは夢だったんじゃないかという気がしてきて、あの優しかったふわふわ髪の少年は、淋しい僕が頭の中だけで作り上げた架空の友達だったのかも、って思ったときほど絶望したことは、これまでなかったな。
「『夜におじぞうさまのお堂みたいなとこでへんなじゅもんをとなえながら、大なわより長いおじゅずを子どもみんなで回して、そしたらお菓子とかすいかとかいっぱいもらった』なんて説明をしたから、周囲が信じてくれなかったのも今となっては理解できるのだけれど」
僕は苦笑して、くっつけていた顔を離して桑名を見上げた。
「…でも今の話、打ち上げでは話していないんだ。僕の大切な思い出だから、余興みたいなその場のノリで皆に教えたくなくて」
つまらない奴と思われたかもしれないけれど、怖い目に遭ったことなんてとくに無いから思い付かない、ってパスしたよ、そう話すと、桑名は腿に乗せた僕を、背中に回した腕でぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「松井はずるい…」
何かをこらえるような複雑な表情で、僕の肩におでこをぐりぐりと押し付ける。
可愛いなぁ。桑名は夏服のほうが体格の良さが目立って大人びて見えると思うけれど、相変わらず大型犬みたいだ。
「そうだ、僕が聞いて一番怖かった話、教えてあげようか」
「えー、まだ怖い話するん?」
「桑名も聞いたらきっと怖がるよ。フフ、泣いてしまうかもしれないな…」
「はいはい、わかったよぉ、聞くよ」
桑名は大人しく「待て」をしているわんこみたいに、顔を上げて口をへの字にした。
「これは、学科の先輩の体験談なんだけれど。彼のお姉さんが結婚することになってね、もちろん先輩も参列した。新郎新婦が入場して滞りなく披露宴が始まってしばらくして、彼のいる親族席が妙な雰囲気になった。先輩は従姉妹に耳打ちされて、新郎友人のテーブルを見た。そうしたらね、そこに」
僕は俯いて低い声を出す。
「白いドレスでブーケを持った女がにこやかに座っていたんだ…」
たっぷり間を取って話したのに、桑名は拍子抜けしたように「それだけぇ?」と言って呆れたように僕をまじまじと見た。僕は負けじと続ける。
「あとから新郎を問い詰めたけれど、その女の子、元カノでも何でもなかったらしいよ。しかも、その女の周りに座っている新郎友人の女の子達も、誰もそれを咎めたりもしないで普通に盛り上がっていたというから、……あれ、ゾッとしなかった?」
「結局『人が一番怖い』みたいな話やん。僕、どうせならほんとのお化けの話のほうが良かったなぁ」
桑名は平然として、「待て」を解除されたとばかりに再び僕を抱き込んで、そのまま後ろに倒れた。僕は一緒になって倒れ込みながら、むっとして更に低い声のままで言い募る。
「本当に怖いのはここからだよ。…その話を聞いて思ったんだ。将来桑名が結婚することになったら、僕は絶対白いタキシードで新郎友人席に座ってやる。その格好で新婦の前に立って、桑名君には学生時代とっても仲良くしてもらっていました、って言ってやるからね」
桑名はそれを聞いて、ぷっと吹き出して、「うん、ぜーんぜん怖くない」と言った。
「どっちかと言うと、かなしい話だよねぇ? それ」
桑名は笑った口元のままで、僕の頬にむにゅ、と口付けて、それから耳元で言った。
「松井は、そんなことが怖いの?」
多分いま、「そんなこと」が指す内容が、少し逸れた気がした。このモラトリアムが終わって、いつか別れて、平然と「普通」に他の誰かと結婚式を挙げるような、そんな将来のイメージに。
「ふふ、松井いま、僕のこと試したでしょ。あは、これがほんとの『肝試し』? だね」
下手な駄洒落めいたことを言って、桑名はまだ笑っている。でもその笑い方が、面白がるようなものから次第に愛おしむような笑みになって、床の上に仰向けに転がされた僕を、上から両手が囲うように閉じ込めた。
「そんなことより、自分が逆の立場になったときどうやって僕から逃げるか、考えたほうがいいよぉ」
こんなふうに下から見上げるときだけ、手を使わなくてもいつもは前髪で隠れている桑名の両の目が見える。幼い日、初めて会ったときに見惚れたそのままの、べっこう飴みたいな、蜂蜜色の瞳。
逃げるわけなんて無い、と思った。でも同時にすこし怖い、とも思った。逃げられないことが、ではなくて。
「……離さないって、言ったやん、僕」
ふわふわの懐っこい大型犬の毛皮一枚下から狼の気配を感じて、僕は、僕自身の意志とは別のところで、本能的に背中がぞくぞくするのを感じていた。あ、いま僕、肝、試されている?
ここでぎゅっと目を閉じたら終わりだ、そんな気がして、僕は熱っぽく光るふたつの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そして、精一杯の虚勢で笑ってみせながら、手を伸ばしてふわふわ髪の後頭部を撫でた。
「……逃げないけど、もちろん、優しくしてくれるんだよね?」
さて、今試されているのは、一体どちらの何なんだか。