スパイス バレンタインデーの翌日、松井が目を覚ましたのは昼近くになってからで、同じ布団に寝ていたはずの桑名の姿は、既に隣になかった。今日は平日だけれど、大学は後期試験が終わって春休みに入ったところなので、もう授業はない。松井が寝坊している間に桑名が起きて活動しているのはいつものことなので──とくに散々泣かされた翌日は──とりあえず起き上がって服を着替える。歯磨きをするために洗面所に立ったけれど、桑名の姿は台所にも見当たらなかった。今更そんなことで不安に駆られるほどの関係でもないので、買い物にでも出たのかな、と、鏡の前で身支度を整えながら、ぼんやりと昨日のことを思い出す。
そうだ、昨日僕が買ってきたチョコ、まだ残りを机の上に置いたままだった。中身がガナッシュクリームのやつだから、冷蔵庫に入れたほうが良いのかな? 二月なら、室温でも大丈夫だろうか。まあ、僕はエアコンを付けていなくても、いつもすぐに暑くなってしまうのだけれど…。そこまでつらつらと考えて、一人で赤面したところで、がちゃりと玄関のドアが開いて、コートを羽織った桑名が現れた。
「あ、松井、起きた?」
洗面台の前の松井に気づいて、朗らかに声をかける。その手に輸入食材を多く扱っているスーパーのレジ袋が下がっているのを見て尋ねた。
「買い物?」
「うん、家に食べるもの、袋麺くらいしか無かったし。起きたんなら外で食べてもいいんだけど」
「起こしてくれても良かったのに」
「んー? 松井が起きれるか、わかんなかったからねぇ」
言外に含められた意味に、また赤面する。目が覚めたとしても起きれるかわかんない、くらいには、ナニカをした自覚はあるらしい。
「平気だよ。どこか食べに出ようか」
努めて平静を装って答えると、桑名は、「うん、でもその前に、ちょっと試したいことがあるから」と言って台所に立った。
松井が布団を片付けていると、台所から甘い匂いが漂ってきた。試したいことって、急に思い立ってお菓子でも作っているのかな。コンロの前で猫背気味に屈み込む背中に近づいて覗くと、桑名は片手鍋の中で、艶のある茶色い塊をぐるぐると練っていた。
「……土?」
「あのねぇ」
「フ、冗談だよ。ココア?」
「一応、ホットチョコレート、かなぁ」
「それ、どう違うんだい?」
「粉から作るか、チョコレートから作るか。たぶんね」
わざわざ刻んだチョコレートを溶かしてココア、もといホットチョコレートを作っているらしい桑名を、松井は意外そうにしげしげと見つめて、でも、桑名はときどき妙なところでマメな奴なんだった、と思い直す。
「もうできるよ、座ってて」
と言って桑名は鍋の中に、それとは別に煮立てていた牛乳を注いでかき回した。それからすぐに、卓袱台の上に湯気の立つマグカップがふたつ運ばれる。
「松井が昨日くれたチョコのお返しは、ホワイトデーにちゃんと用意するけど、なんだか僕もあげたくなっちゃったからさ」
そう言って目の前に置かれたそれは、子供の頃に飲んだ、粉をお湯で溶かして飲むココアとはまるで違う、なんだかすごく上等な飲み物に見えた。
ふうふうとカップに息を吹きかけてから慎重にひと口飲んで、それでもあちち、と言って舌を出す桑名を見て、思わず松井の頬が緩む。「可愛いな」と思ったことは口には出さずに、自分もゆっくりと口をつける。
「うわぁ、スパイスの香りがする…チャイみたいだけど、こんなホットチョコレートもあるんだね」
目を丸くして感嘆の声を上げる松井を見て、桑名は、さすが松井鋭いね、とにっこりした。
「チャイ用のスパイスミックスで作ったんだよぉ。あといくつかは、自分で足したんだけど」
何が入ってるか当ててみて、と楽しげに言われて、松井は首を傾げた。
「ええと…浮かんでる黒いの、ピリッとするけど、もしかしてブラックペッパーかな」
桑名はぱちぱちと手を叩いた。
「正解、胡椒だよぉ。あと、実はほんのちょっとトウガラシも入ってる」
松井は目をぱちくりさせながら、その香り高い飲み物をもう一口飲んだ。
「すごい、まるでお店で飲むやつみたいだ。美味しい…」
「松井好きでしょ? こういうの。こないだ松井が行ってみたいって言ってた四条のお店のホームページでメニュー見たんだ」
そう言えばこの間、二階のティールームでショコラショーやパフェも出している、チョコレート専門店のことをバイト先で聞いて、スマホでその店を見せながら桑名に話したのを思い出す。でも、いかにも女の子の喜びそうな可愛らしい外観の写真に、男二人でデートで行くのはハードルが高いかな、と苦笑して、諦めるともなくそのまま宙に浮いた話題だった。
「あそこテイクアウトもやってるみたいだから、今度買って外で飲もうよ。でもその前に、これはそのお店っぽくまねっこしてみた試作品」
うん、美味しくできたね、と桑名は満足そうに頷いている。
「ほんとはカカオからチョコレート作ってみたいなぁって思ったんだけど、調べたらむっちゃ大変そうだったから諦めたんだよねぇ」
あながち冗談でもなさそうにそんなことを言って笑う桑名を見て、彼らしいなと可笑しくなった。コーヒーの木なら、花屋で鉢植えを見たことがあるけれど、カカオの木っていうのも売っているのかな。僕が秘密で育てたら、桑名は何て言うだろう。
松井が自分の想像にくすりと笑っていると、桑名は学科で育てている研究植物の説明をするかのような真面目な口調で言った。
「チョコレートって、いちばん最初の起源は固形じゃなくて飲み物だったんだって」
「そうなんだ」
両手で包むように持ったマグカップでホットチョコレートを惜しそうに少しずつ飲みながら、松井は桑名の蘊蓄をふむふむと聞く。
「トウガラシとか、スパイスもたくさん入ってて、精力剤とか、媚薬として閨房で飲まれてたらしいよ」
松井はその熱い液体を思わず喉に詰まらせて咽せた。
「……それを僕に聞かせて、どうしたいんだい」
「んー? 効いたらいいなぁと思って」
いつも通りのんびりした口調の桑名の声は、このチョコレートみたいに甘いのに、ほんの少しだけ毒が含まれているような気がした。
前髪の奥から覗く視線に、指先が痺れる。
なんだか頬が火照るのは、きっとトウガラシとかスパイスのせいだし、そう、熱い飲み物を飲んだからでもあるし、そもそも、この声と、瞳だけでも、僕は。
…だから媚薬なんて迷信だ。
そんなこと、当然解ってはいるけれど。なんなんだ、もう。桑名はずるい。
「松井昨日、チョコ食べてえっちになってなかった?」
悪戯っぽく言われて、松井は目を泳がせる。
「あれは…」
チョコレートじゃなくて、別のスパイスのせいだ。すぐに思い当たる理由はあったけれど、もちろん言えなくて、松井は黙って桑名を睨んだ。
桑名が松井の耳朶に触れる。
「血の巡りが良くなった?」
「鼻血が出そうだ…」
「効いてきたかなぁ」
確かに効いてきたかも知れない、と、桑名の触れている部分がおそらく赤くなっていることを自覚しながらぼんやりと思う。けれど、桑名の指も同じ温度だ。だって。
「桑名だって飲んだじゃないか…」
「それもそうだねぇ」
桑名は松井の耳元で、囁くように訊いた。
「でも、夜まで待とうか?」
「……、──。」
俯いたまま悔しげに小さな声で答える松井の返事を聞くと、桑名は笑って、松井の頭の後ろに手を回して引き寄せた。