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    うめこ

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    うめこ

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    【小説】サマへの好きを拗らせているイチと、イチが他の男を好きになったと勘違いしてるサマが2人で違法マイクを回収する話②
    ※H歴崩壊後
    ※名前があるモブ♂が出張ります、モブいちっぽい瞬間がありますがサマイチの話です。

    #サマイチ
    flathead
    #ヒ腐マイ
    hypmic bl

    へまをするつもりはないが、失敗すれば相手の術中にはまる可能性だってある。家族を――二郎や三郎のことを忘れてしまうなんて絶対に嫌だ。けれど、自分がそうなってしまう以上に左馬刻が最愛の妹、合歓を忘れてしまうことが恐ろしいと思った。
     左馬刻は過去、中王区の策略によって合歓と離れ離れになってしまった。あの時は一郎もまたその策略に絡め取られて左馬刻と仲違いする結果になったが、一郎が弟達を失うことはなかった。
     それが誤解の上の擦れ違いだったとしても、あの時左馬刻にされた仕打ちはやはり許せない。けれど、あの時左馬刻が世界でただ一人の家族と離れ離れになってしまったのだと思うと、なぜだかこの身を引き裂かれるように辛くなった。
     一郎がこんなことを考えていると知れば、きっと左馬刻は憤慨するだろう。一郎のこの気持ちは同情などではないが、それ以外の何なのだと問われても答えは見つからない。
     左馬刻は他人から哀れみをかけられることを嫌うだろう。それも相手が一郎だと知れば屈辱すら感じるかもしれない。「偽善者だ」とまた罵られるかもしれない。
     それでも左馬刻が再び家族と引き裂かれる可能性を持つことがただ嫌だと思った。自己犠牲に酔っているわけでもない。正義の味方を気取っているわけでもない。あの時の左馬刻の言動を許したのかと問われると、それも分からない。
     一郎にも自分の気持ちがよく分からないのだ。

    「一郎。テメェ何考えてやがる?」
    「この依頼をさっさと終わらせることしか考えてねぇよ。俺は変装道具も持ってきてる。仕事で何度か経験もあるし、MTCの碧棺左馬刻よりも『ただの客』の方が警戒されないに決まってる」

     アンタを行かせたくない、だなんて口が裂けても言えないのだから、これで左馬刻が納得しなければまたさっきの口喧嘩に逆戻りだろう。
     頼むから引いてくれと祈るように左馬刻の目を見ると、何を考えているのか感情の読み取れない表情の左馬刻もまたじっと一郎を見つめ返した。

    「……」

     たっぷり数秒は沈黙が続き、やはり左馬刻が一郎の指図など受けるわけがないのだろうか、気を悪くした左馬刻にヒプノシスマイクでも起動されたらどう対処しようか、と悪い「もしも」にばかり考えを巡らせた。
     けれど、左馬刻が取り出したのはマイクではなく、いつもポケットに忍ばせている馴染みの銘柄の煙草だった。
     一郎は左馬刻が咥えた煙草に慣れた手つきで火をつける様をただ茫然と眺めていた。
     煙草の味は今も分からないし、何度か試してもみたが美味いとも思わない。けれど、左馬刻が煙草を燻らせる横顔が好きで、高校生だったあの頃はよくこっそりと盗み見たものだった。
     あの時の気持ちがフラッシュバックしたのか、暫くその姿に見惚れてしまったが、ここが萬屋ヤマダでも左馬刻の事務所でもないただの他人の賃貸物件なのだということをようやく思い出し、慌てて左馬刻の腕を掴んだ。

    「おい、ここで吸うなよ」
    「あ?」
    「アンタの家じゃねぇんだよ」
    「はっ、ンなもん俺が知るかよ」

     そう言ってまたうまそうに煙草を味わった左馬刻は、なぜだか突然一郎の頭に手を置いた。

    「なッ……?」

     突然のことに呆然としていると、くしゃくしゃと雑な手つきで頭を撫でられていた。

    「相変わらず生意気なガキだな、テメェはよ」

     骨ばった大きな手の懐かしい感触に、心臓がドクドクと大袈裟に鼓動して頬のあたりが一気に熱を持った。
     そうだ、この人はこうしてよく自分の頭を撫でていた。髪が乱れるからやめろと訴えると「セットもしてねぇんだから大して変わんねぇよ」なんて意地の悪いことを言って笑っていた。そのくせ、最後には必ず優しく髪を梳いてくれるのだ。
     左馬刻の手の感触からあの頃の気持ちまで蘇ったようで、一瞬指先の一本すらも動かせずされるがままになってしまったが、すぐに我に返ってようやくその手を払いのけることができた。

    「や、めろ! 俺はもうガキじゃねぇ」

     すると左馬刻は素直に手を引っ込めて、特に気分を害した様子もなくゆっくりと立ち上がった。それからすたすたとベランダの方へと歩きだし、静かに窓を開け放った。
     どうやらベランダで煙草を吸うつもりらしい。
     結局どちらが接触役を引き受けるかという話は振り出しに戻ってしまったのだろうか。思わず頭を抱えたくなってフローリングを睨みつけていると、「一郎ぉ」と名前を呼ばれた。
     その声に顔を上げると、とっくにベランダに出たのだと思っていた左馬刻がこちらをじっと窺っている。

    「いいぜ。テメェの言うこときいてやるよ」
    「え……?」
    「準備が終わったら呼べ」

     それだけ言うと左馬刻はくるりと背を向けて、さっさとベランダの戸を閉めてしまった。
     髪を撫でる大きくて温かい手のひらの感触がまだ残っているような気がして、残された一郎はしばらくその場から動くことができなかった。


    ***


     あっさりと引き下がった左馬刻は、それ以降驚くほどに協力的だった。
     変装した一郎が客を装って対象に近づき、相手がマイクを取り出したことを確認したところで近くで待機する左馬刻が先んじて攻撃を仕掛ける。
     上手く不意を衝ければその一瞬で方がつくかもしれないし、そうでなくても一郎と左馬刻が組んで二対一となれば有利にことを運べるはずだ。
     対象とやり取りをする間、スピーカー通話で電話を繋げておくこと、そして危険を感じたら引くことを条件に、左馬刻は一郎の提案を了承してくれた。
     変装を終えた一郎は今、対象が現れるという路地裏に一人で向かっている。
     その数メートル後ろには少し遅れてマンションを出た左馬刻が歩いているはずだが、前を行く一郎にはその姿は見えない。
     特徴的なオッドアイをカラーコンタクトで茶色に隠し、目元の黒子もコンシーラーで塗りつぶせば、誰も自分を山田一郎だとは認識しなくなる。仕上げに髪を縛ってキャップを被れば同じ顔でも雰囲気はがらりと変わる。
     準備を終えてマンションを出る一郎を見て、あの左馬刻が一瞬驚いたように目を見開いていたからきっと上手く化けられているのだろう。
     つい数十分前にこの道を歩いていた時は一郎の顔を盗み見る視線をいくつも感じたが、今は誰も一郎を気に掛ける人間はいなかった。
     五分もしないうちに目的の路地裏にたどり着く。
     ポケットに忍ばせたスマホが左馬刻にかかっていることを確認すると、ひとつ小さく息を吐く。それから、液晶のなるべくスピーカーに近い部分に爪を立てるようにして五回タップする。
     これは「今から対象に接触する」という左馬刻への合図だった。
     それから曲がり角の向こう側へとゆっくり足を進めると、奥まった倉庫の入り口にダボダボの黒いパーカーを来た人影が見えた。

    (居た。あれだ)

     身長は一郎よりもずっと低く、女性と見間違えるほど華奢に見えた。
     しかし、銃兎の情報では相手は男のはずだ。目元まで深くフードを被っているせいで顔は見えないが、退屈そうに背の高い椅子に腰かけてぶらぶらと脚を揺らしている。

    「なぁ、記憶を消してくれるってのはアンタのことか?」

     男の目の前で足を止めてそう問いかけると、僅かにこちらを見上げたフードの隙間から見覚えのあるアクア・グリーンの瞳がちらりと見えた。
     自分の右目よりも少しばかり明るいその緑を、一郎はよく知っている。

    「……何を消して欲しいんだ?」

     男が口を開いたその瞬間、思わず声を上げてしまいそうになった。
     それは一郎のよく知る人物――乱数とまるで同じだったからだ。
     アクア・グリーンの瞳、フードの隙間から見えるピンク色の髪、そして何よりあの声は乱数そのものだ。
     それは一郎の知る乱数のものよりもずっと低かったが、あのおどけた語り口調を止めた時にこんな風に喋るのを三年前に何度か聞いたことがある。
     思わず「乱数」と零してしまいそうになったが、相手は一郎に対して全く反応がない。
     もしこの男が元TDDでシブヤ・ディビジョンの「飴村乱数」なのだとしたら、いくら変装をしているとはいえこの声と口調で一郎だとすぐに気付くはずだ。
     この反応を見るに、恐らくこの男は――。

    (中王区の……乱数以外にも生き残りが居たのか)

     三年前。反抗的な態度を見せた一郎達、各ディビジョンの代表チームを潰すために中王区は真正ヒプノシスマイクを「乱用」した。
     あの時、「使い手」は乱数のみを残して居なくなったと聞いたが、逃げおおせた者がいたのだ。
     そのことに胸をなでおろすと同時に、この案件は何があっても自分達が解決しなければならないと強く思った。

    「恋人の記憶を消したい」

     この男に精神干渉を受けた人間は八割が若い男女で、その殆どが家族ではなく恋人に関する記憶を消されていた。だからそう答えるのが一番手っ取り早いだろうと踏んでいたのだが、可とも不可とも答えない。
     男がゆっくりとフードを脱ぐと一郎の予想通り、乱数とうり二つの顔がそこにあったが、一郎の知る「今の乱数」とは似ても似つかない冷たい表情をしていた。
     いきなり椅子から立ち上がったかと思うと、男は一郎に近付き、その華奢な身体のどこにそんな力があるのだろうと驚くほどに強い力で両肩をぐっと引き寄せた。

    「ッ」

     澄んだアクア・グリーンの瞳の奥に鈍色が混じって妖しく光を湛えているように見えた。

    「目を逸らすな。俺の声だけを聞け」
    「なッ……?」

     相手はヒプノシスマイクなど使っていない。ただ普通に話をしているだけなのに、その言葉は何かのスピーカーでも通したかのように何重にもなって一郎の頭の中に響いていた。

    「お前の力になってやる。だから嘘は吐くな」
    「……ッ」

     喉元をギュッと絞められたかのように、言葉が発せない。
     電話を通してこの状況を聞いているはずの左馬刻に少しでも情報を伝えたいのに、それができなかった。

    「お前の、愛する者は誰だ?」

     男の瞳の中の鈍色がまるで自分の頭の中に入り込んだような気がした。少しずつ意識がぼんやりとして、感覚の全てがこの男の声に無理矢理繋ぎ止められているようだ。
     用意していたはずの囮の言葉など全て掻き消えて、心の奥をぐちゃぐちゃにかき乱され、ありとあらゆる感情を引き出されているような心地だった。

    「なぁ、いるんだろう? お前が愛している人間。手に入れたい人間。『絶対に忘れたくない』人間」

     不協和音のように男の声が響き、その瞬間心の奥から引きずり出されるようにして頭に浮かんだのは左馬刻の姿だった。

    (愛してる? 手に入れたい? 忘れたくない? ……違う。左馬刻はもう、俺の憧れじゃない)

     けれど、否定する一郎の心の声とは裏腹に、かつて左馬刻を慕っていたあの頃の幸せな記憶が頭の中に次々となだれ込んで止まらない。

     ――行くぞ、一郎! こんな雑魚相手にヤられんなよ!

     隣に立つことが誇らしかった。誰かに依存するのは弱い人間のすることだと思っていたのに、いつの間にかこの人の隣で立っているために強くありたいと願うようになった。

     ――ほら、飯食いにいくぞ。テメェろくなモン食ってねぇだろ。

     あの頃、兄として弟達に愛情を注ぐのが酷く下手だった一郎にとって、左馬刻が自分にくれる愛情は兄としての理想でもあった。
     この人に貰った言葉を、貰った思い出を、幸せだと思った全てを、ずっと弟達にそのまま注いでいた。
     失望して仲違いした後も、一郎の追うべき姿は本当はずっとこの人だった。

     ――ガキがエロい顔しやがって。……もっとして欲しいのか?

     隣に立って、憧れて、だんだんそれだけでは足りなくなって、気まぐれに触れられる瞬間をいつも待ち遠しく思っていた。
     男の自分など暇つぶしの相手だと分かっていたけれど、それでも与えられる口付けがこの世の何よりも気持ちよくて、慈しむように抱きしめられると涙が出るほど幸せだった。
     耳元で甘く低く名前を呼ぶ声を、いつだって恋しく思っていた。
     そうだ。本当はずっと、この人のことを――。

    「ち、がう……違う、そんな奴は……いない」

     絞り出すようにしてようやく口にした言葉は笑えるほどに弱々しい。

    「はは! どうやら拗れた相手のようだが、その方が『やりがい』がある」

     高揚した様子で男が何かを話しているが、今の一郎はそれを聞く余裕すらなくただ頭を抱えている。
     振り払おうとしても、退けようとしても、頭に浮かぶ左馬刻の姿が消えない。
     何かしなければならないことがあったはずなのに、何も考えられない。何も分からない。
     もう立っていることすらできなくなって、遂に地面にしゃがみ込んだ一郎を男が嬉々として見下ろしている。

    「そんなに辛いなら、俺が今すぐ忘れさせてやろう」

     その囁きがなぜか天の助けのように思えて、顔を上げようとしたその時。

     ――ブーーーッ、ブーーーッ!

    「」

     ポケットに忍ばせていたスマホが震えた。しつこく何度も着信を知らせる振動のおかげなのか、頭の中のおかしな靄が僅かに晴れていく。ごちゃごちゃに掻き乱された感情が静まっていく。
     自分は今囮としてここに居るのだということをようやく思い出し、壁に手をつきながらも何とか立ち上がった。
     その瞬間、男は興が醒めたとでもいわんばかりに一郎から距離を取り、つまらなさそうな顔で再び椅子に腰かけてしまった。
     情けないが、これ以上探りを入れるのは無理だ。一郎自身がまともな判断ができない状況でもしヒプノシスマイクを出されてしまえば、囮がただの餌で終わってしまう。

    「……悪いが、もう少し考えさせてくれ」
    「あぁ、そうするといい。心変わりがなければまたここに来い」

     その言葉に軽く手を上げて応えると、覚束ない足取りで騒がしい街中へと戻っていった。



     あの着信は案の定、左馬刻からのものだった。
     入り組んだ路地を出たところで、どこからかともなくやってきた左馬刻に腕を掴まれた。
     スマホ越しに会話を聞いていた左馬刻は俺の様子がおかしいことに気付いて、電話をかけ直してくれたらしい。正直、これ以上にないタイミングだった。
     あれがヒプノシスマイクの力ではないことだけは確かだが、目を見て声を聴いたあの瞬間、暗示にかけられたかのように意識が混濁した。

    「何があった」
    「マイクは確認できなかった……つか、そこまで誘導できなかった。悪ぃ」

     すると、チッと舌打ちの音が聞こえて、強引に肩を支えられる。

    「引き際見誤ってんじゃねぇよ。一旦戻るぞ」
    「左馬刻。あいつ、乱数と同じ顔だった。きっと中王区のクローンだ。俺達が何とかしてやらねぇと……!」

     左馬刻のシャツを掴んで縋るようにそう訴えると、電話の声で予測していたのか「そうか」とだけ返される。

    「詳しい話は部屋で聞かせろ。戻るぞ」
    「あぁ」

     半ば抱えられるようにして何とか部屋に戻った一郎は、玄関で靴を脱ぎ捨てるや否やフローリングの上に倒れ込んだ。
     あの時、左馬刻からの着信が引き戻してくれたおかげで、一郎の意識は通常通りに戻りつつあったが、それでも頭の片隅にあの鈍色の光がぐるぐると渦を巻く感覚が拭いきれないでいる。
     その気持ち悪い何かを追い出そうと、一郎はぼんやりとベランダから見える空を見つめながら何度も何度もただ呼吸を繰り返した。
     体内に、脳に酸素が巡るたび、あの不可解で気持ちの悪い何かが薄れてくれるような気がした。

    「おら、飲め」

     いつの間に調達してきたのか、左馬刻が一郎の目の前にペットボトルのコーラをことり、と置いた。
     一郎が倒れ込んでいる間に近くの自販機にでも行ったのだろう。手に取ったそれはひんやりと冷えていて心地いい。

    「……悪ぃ」

     当然のように一郎の好物を選んでくれたことが、なぜだかどうしようもなく嬉しく感じた。チームを組んでいたあの頃、何度も奢られた記憶があるのだから、左馬刻がそれを覚えていても何の不思議もない。何も特別なことでもないはずだ。なのに、中王区のクローンと思しきあの男に感情をぐちゃぐちゃにかき乱され、心の奥底に仕舞いこんでいた左馬刻への複雑な感情を引っ張り出されたせいなのか、酷く感傷的な気分だった。

    「もう大丈夫だ」

     ゆっくりと体を起こして胡坐をかくと、貰ったコーラを一口含む。
     すると、向かい合うように左馬刻も腰を下ろして探るように一郎を見つめた。

    「で、何された? さっきのお前は明らかに普通じゃなかったよな?」
    「俺もよく分かんねぇ。ただ目を見て声を聞いた瞬間、何も考えられなくなって、相手の言葉以外は頭に入らなくなった」

     決してヒプノシスマイクを通してリリックをくらったわけでもないのに突然精神干渉を受けたかのような感覚に陥った。
     あの男の言葉に逆らえなくなったのだと当時の状況をできる限り細かに説明すると、暫く何かを考えこんでいた左馬刻が自分用にと買ってきた缶コーヒーを呷る。
     それは三年前によく左馬刻が好んでいたもので、今も同じ銘柄のものを愛飲しているらしい。

    「なぁ、一郎。あの野郎言ってやがったよな? 『絶対に忘れたくない人間はいるのか』って。お前は実際に言われた通りの相手を思い浮かべたのか?」

     一番触れられたくない部分を指摘され、咄嗟に目を逸らす。
     まさか今目の前にいる左馬刻のことを思い浮かべたのだとは言えるはずもないが、この話を避けて通ることもできないだろう。

    「あぁ、そうだ。その気がなくても勝手に言われた相手を思い出しちまう。確かこれまでの被害者は殆どが恋人や家族を忘れたって話だったはずだ。ああやって強制的に誘導されてたのかもな」
    「本当にマイクなしでンな芸当したってのか?」

     一郎の言葉を疑っているわけではないのだろうが、左馬刻が念を押したくなる気持ちもよく分かる。何せ、実際に対峙した一郎もマイクの存在を疑っているほどだなのだ。

    「少なくとも俺にマイクの存在は確認できなかった」
    「なら一種の洗脳……まぁ、催眠術の類っつーわけか」
    「……催眠術」

     あれがマイクの仕業ではないのだとすれば、左馬刻の言う通り考え得る選択肢はそれだけだ。
     催眠術だなんて不確定な要素を信じたくはないが、あの現象を説明するにはもうそれしか残っていなかった。

    「そもそもヒプノシスマイクなんて絡んでなかったってことなのか?」

     半ば独り言のように呟いた一郎の問いかけに、左馬刻は「さぁな」と静かに返したきり何かをじっと考え込んでいる様子だった。

    「ま、少なくとも今日はこれ以上動けねぇわな」

     数秒の沈黙の後、そう告げた左馬刻の言葉に一郎は静かに頷いた。
     確証をがないまま今ここで考えても埒があかない。あのクローンを捕まえるにしても、ヒプノシスマイクの存在を確認してからでなければ意味がないだろう。ならば、確証を握るまでまた探りを入れる必要があるが、接触するならば日を改めるべきだ。

    (そういや、瀬戸さんが何か知ってるかもしんねぇな……)

     ふと、思い浮かんだのはこの依頼を持ち込んだ瀬戸の顔だった。
     公安警察に身を置く瀬戸がこの案件を元TDDに依頼してきた時点で相手が中央区のクローンであることにも、ある程度の確信があったに違いない。
     体調不良というのも嘘ではないのだろうが、それならばこの依頼に最も適しているはずの乱数を敢えて外したのにも納得がいく。

    「なぁ、俺は瀬戸さんに今日のことを話してみる。アンタも入間さんに聞いてみてくれねぇか。何か分かれば連絡する」

     左馬刻からの返事は期待せずにそう伝えると、一郎は「じゃあな」と言い残してカラーコンタクトを外すべく洗面所に向かった。



     蛇口のレバーを引き上げると、勢いよく水が流れ出る。もしかすると水が通っていないかもしれないとも思ったが、どうやら電気同様ライフラインは使えるようになっているらしい。
     慣れた手つきでカラーコンタクトを外し、勢いよく顔を洗う。黒子を隠したコンシーラーは水では落ちないだろうが、べっとりとまとわりつく気持ちの悪い汗さえ流せればそれで良かった。
     しばらく横になった後、左馬刻と会話をしたことで一郎はほぼ理性を取り戻していたが、あのクローンの大きな瞳の中に映った鈍色が今もどこか頭の片隅で薄らと輝いてる気がした。
     その不快な感覚を何とか消し去ろうと大量の水を勢いよく流したまま、何度も何度も冷たい水を顔に叩きつける。
     けれど、真新しい洗面台の排水口に透明の水が渦になって吸い込まれていく様を眺めていると、過去の記憶を土足で踏み荒らされるようなあの感覚がいつの間にか再び一郎の頭をじわじわと浸食していた。
     突然、ぞわりと寒気が襲う。

    「ッ……!?︎」

     頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されたかのように平衡感覚を失って、視界がぐるぐると揺れ出した。

    (何だこれ……気持ち、悪ぃ……っ)

     もう立っていることすらできなくなって、蛇口のレバーも引き戻せないまま洗面台に寄りかかって何とか自分の体重を支えている。
     こんな状況ではとても家に帰ることなどできないだろう。自力でイケブクロに辿り着けるのかという問題もあるが、何より弟達に心配をかけることだけは避けたかった。
     いっそのこと、今日は一日この部屋で過ごした方がいいのかもしれない。左馬刻は恐らくとっくに帰っているだろうから、誰の目を気にすることもなく存分に休んでいけばいい。
     あまりの苦しさがそうさせたのか、ふと今連絡をすればまだそう遠くまでは行っていないであろう左馬刻は戻ってきてくれるかもしれない、だなんて馬鹿らしい考えが頭をよぎった。

    (左馬刻に、会いたい……)

     ここまで甲斐甲斐しく肩を支えてくれ、飲み物を差し出してくれた先ほどの左馬刻はまるで三年前の幸せだったあの頃のようだったから、弱った心が縋りたいだなんて女々しい感情に流されているのだろうか。
     弱い心を振り払おうと頭を振って愚かな自分を叱咤したが、不快な眩暈は強くなるばかりだ。

    (クソ、何考えてんだ俺は。左馬刻に頼る? ンな格好悪ぃこと死んでもするかよ)

     そうだ。今はあの煩わしい催眠のせいで心が弱くなっているだけ。
     左馬刻が気まぐれに頭など撫でるから、少し調子がおかしくなっているだけだ。
     左馬刻はもう頼るべき相手ではない。憧憬も親愛もこの心には残してはいない。否、残してはいけないのだ。
     失望や怒りは消えたのだろう。左馬刻にも事情があったことは知っている。けれど一郎はまだ、心から左馬刻を許せていない「はず」だ。
     隣に立つだけで誇らしかったあの日々はもう過去のものだ。和解したとはいえ、簡単にあの頃の自分には戻れない。
     それに、自ら進んで囮を引き受けておいて、あんなにも弱った姿を見せてしまったのだ。これ以上、左馬刻に無様な自分を晒したくはない。
     意地を張る理由など知らない、分かりたくもない。けれどもう、左馬刻に失望されるのは嫌だった。
     しかし、強がる心とは裏腹に一郎の視界はだんだんと光を失っていった。

     ――何かあれば必ず相談しろ。

     これは意識を失う直前だと悟った一郎の脳裏に、ふと瀬戸の言葉が浮かんだ。
     そうだ。瀬戸に助けを求めればいい。一郎にとってはいわばただのビジネスパートナーである瀬戸にならば、左馬刻に抱くような意地を張る必要もなければ気兼ねする必要もない。
     本当は瀬戸にだって弱っている姿を晒したくはなかったが、よくも悪くも思いつく中であの男は最も一郎に無関心だ。
     最後の力を振り絞って、瀬戸に連絡をしようとポケットに手を突っ込んでスマホを探したが、いよいよ膝に力が入らなくなり、一郎は床の上に倒れ込んでしまった。

    (クソ……何だってんだよ)

     視界にはもう何も映っていない。心なしか聴覚も麻痺しているように感じる。倒れた拍子に肩を強く打ったらしく、身体がズキズキと痛んだ。

    「オイ! ……ちろ!」

     不意に硬い床から体を抱き起こされた気がした。誰かが何かを叫んでいる気配がするが、まともな判断がつかなくなった今の一郎にそれが誰であるかを判断する能力はない。
     ただ、頬に触れた体温が無性に懐かしくて、咄嗟にその手を取っていた。
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    うめこ

    TIRED【小説】サマへの好きを拗らせているイチと、イチが他の男を好きになったと勘違いしてるサマが2人で違法マイクを回収する話④
    ※H歴崩壊後
    ※名前があるモブ♂が出張ります、モブいちっぽい瞬間がありますがサマイチの話です。
    カーテンの隙間から薄い紫の空が見える。 まだ日は昇りきっていないが、どうやら朝になったようだ。
     のろのろと体を起こしスマホを手に取ると、時刻は五時を過ぎたばかりだった。
     隣で寝息をたてている一郎は起きる気配がない。
     昨晩は終ぞ正気に戻ることはなかったが、あれからもう一度欲を吐き出させると電池が切れたように眠ってしまった。
     健気に縋りついて「抱いてくれ」とせがまれたが、それだけはしなかった。長年執着し続けた相手のぐずぐずに乱れる姿を見せられて欲情しないはずがなかったが、その欲求を何とか堪えることができたのは偏に「かつては自分こそが一郎の唯一無二であった」というプライドのおかげだった。
     もう成人したというのに、元来中性的で幼げな顔立ちをしているせいか、眠っている姿は出会ったばかりの頃とそう変わらない気がした。
     綺麗な黒髪を梳いてぽんぽん、と慈しむように頭を撫でると、左馬刻はゆっくりとベッドから抜け出した。
     肩までしっかりと布団をかけてやり、前髪を掻き上げて形のいい額に静かに口付ける。

    「今度、俺様を他の野郎と間違えやがったら殺してやる」

     左馬刻が口にしたのは酷く物騒な脅 4404

    うめこ

    MOURNING【小説】サマへの好きを拗らせているイチと、イチが他の男を好きになったと勘違いしてるサマが2人で違法マイクを回収する話②
    ※H歴崩壊後
    ※名前があるモブ♂が出張ります、モブいちっぽい瞬間がありますがサマイチの話です。
    へまをするつもりはないが、失敗すれば相手の術中にはまる可能性だってある。家族を――二郎や三郎のことを忘れてしまうなんて絶対に嫌だ。けれど、自分がそうなってしまう以上に左馬刻が最愛の妹、合歓を忘れてしまうことが恐ろしいと思った。
     左馬刻は過去、中王区の策略によって合歓と離れ離れになってしまった。あの時は一郎もまたその策略に絡め取られて左馬刻と仲違いする結果になったが、一郎が弟達を失うことはなかった。
     それが誤解の上の擦れ違いだったとしても、あの時左馬刻にされた仕打ちはやはり許せない。けれど、あの時左馬刻が世界でただ一人の家族と離れ離れになってしまったのだと思うと、なぜだかこの身を引き裂かれるように辛くなった。
     一郎がこんなことを考えていると知れば、きっと左馬刻は憤慨するだろう。一郎のこの気持ちは同情などではないが、それ以外の何なのだと問われても答えは見つからない。
     左馬刻は他人から哀れみをかけられることを嫌うだろう。それも相手が一郎だと知れば屈辱すら感じるかもしれない。「偽善者だ」とまた罵られるかもしれない。
     それでも左馬刻が再び家族と引き裂かれる可能性を持つことがただ嫌だと思 10000

    うめこ

    MOURNING【小説】サマへの好きを拗らせているイチと、イチが他の男を好きになったと勘違いしてるサマが2人で違法マイクを回収する話①
    ※H歴崩壊後
    ※名前があるモブ♂が出張ります、モブいちっぽい瞬間がありますがサマイチの話です。
    「だから、俺が行くっつってんだろ!」
    「!? テメェになんざ任せられるか、俺様が行く」

     平日の真昼間。それなりに人通りのある道端で人目もはばからずに言い争いを続ける二人の男。
     片方はとびきりのルビーとエメラルドをはめ込んだような見事なオッドアイを、もう一方は透き通るような白い肌と美しい銀髪の持ち主だった。
     ともに長身ですらりとした体躯は整った顔立ちも相まって一見モデルや俳優のようにすら見える。
     そんな二人が並んで立っているだけでも人目を惹くというのに、あろうことか大声で諍いをしていれば道行く人が目をやるのも仕方のないことだった。
     況してやそれがかつての伝説のチームTDDのメンバーであり、イケブクロとヨコハマのチームリーダであるというのだから、遠巻きに様子を窺う人だかりを責める者など居はしない。
     もちろん、すっかり頭に血が上った渦中の片割れ――山田一郎にもそんな余裕はなかった。

    「分っかんねぇ奴だな! あんたのツラ明らかに一般人じゃねーんだって」
    「ンだと? テメーのクソ生意気なツラも似たようなもんだろうがよ!」

     いがみ合う理由などとうの昔になくなったというのに、 9931

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