巴 『巴』
初任務を無事に終えて、浅草へ。
浅草で珠世と愈史郎という特殊な鬼と知り合い、十二鬼月の血を集める約束を交わした炭治郎。
次に赴いたのは——鼓の屋敷。その道中である。
「炭治郎!」
「善逸!」
運命の再会。道のど真ん中で、抱きしめ合う二人。
「会いたかったよぉ、炭治郎〜。元気? あ、元気じゃねーなこれ。肋骨骨折してない? 音おかしいぞお前。ヤダ! そんなんじゃ俺を守れないだろ お前には俺のことしっかり守ってもらわなきゃいけないのにぃ!」
「っ、す、すごいな善逸……よくわかるな……! 実はそうなんだ。でも、善逸は俺より強いから大丈夫だ!」
「強くねーわ! ばか!」
背中に回した手を首の方へと移動させて、改めて抱きつかれる。少しの振動でも痛むが、正直離れ難い。
ぐうううううぅ……。
炭治郎に抱きついていた善逸から聞こえる腹の音。一歩離れるも、手は繋いだままの二人。
「おにぎり食べるか?」
「いいの?」
べしょりと泣いていた善逸に目を細めて、そう提案する炭治郎。懐からおにぎりをひとつ、取り出して手渡した。
「炭治郎のは?」
「これで最後なんだ」
「じゃあ半分こしよう。炭治郎には俺のことしっかり守ってもらわなきゃなんねーんだから」
「善逸……ありがとう」
やっぱり善逸は優しいなぁ、とにこにこ笑ってしまう。
そして、そんな善逸の姿を改めて見つめた。
(善逸だ)
相変わらずとてもいい匂いがする。
金の髪が太陽の光に透けてキラキラと輝き、飴色の瞳は涙で濡れており、過呼吸になるほど叫んでいたせいでほんのり赤みが残っている目元。
それなのにモグモグと大人しく炭治郎のおにぎり(半)を食べる素直さ。
(好きだ)
じっと善逸を見つめながら、炭治郎はそれしか考えられなくなっていた。
鱗滝に言われた通り、将種とは母体種のこと以外考えられなくなる生き物らしい。
もはやこれはそういう生態、としか。
「そういえば、禰󠄀豆子ちゃんは?」
「ああ、まだ寝てるよ。俺が未熟なばかりに、禰󠄀豆子にも戦わせてしまって……」
「え! 禰󠄀豆子ちゃんに なにしてんだよお前ぇ! 禰󠄀豆子ちゃんを……女の子を戦わせるんじゃないよぉ!」
「ぎゃー!」
がぶりんちょ、とおでこを噛まれる。さすがの石頭も噛み技には対応しておりません。
しかも善逸の言うことはごもっとも。
それもこれも、炭治郎が弱いばかりに禰󠄀豆子を戦わせることになったのだ。
「……まあ、お前の育手は禰󠄀豆子ちゃんは鬼だから、必ずしもお前が守る必要はないみたいに言ってたけどさー」
「うん……」
「…………。まあ、今回は俺も一緒だから……禰󠄀豆子ちゃんのことは俺が守るけど」
「善逸……」
さっきまであんなに怖い怖いと泣いていたのに。
炭治郎がキラキラした目で善逸を見ると、善逸はぎろりと炭治郎を睨む。
「その代わり俺のことはお前が守れよな」
「え、あ、う、うん……?」
なお、炭治郎は怪我人である。
***
(善逸は優しいなぁ)
鼓の屋敷を出て、猪頭を被った少年とひと騒動を終えてから中の人を弔って。
屋敷の中にいた少年を助け、その兄妹を麓まで送り届けてから背中の温もりに対してしみじみと思う。
本当に、この人は優しい。
屋敷を出た時、猪頭の少年——嘴平伊之助は表で待っているであろう兄妹を守るために置いてきた禰󠄀豆子の箱を斬ろうとしていた。
だが、それを善逸は庇い、守ってくれたのだ。
あんなに怯えた匂いだったのに、宣言通り“禰󠄀豆子を守ってくれた”。
鬼の、禰󠄀豆子を。
そのあとも炭治郎の頭突きで気絶した伊之助に羽織りをかけてあげたり、屋敷の中の人の埋葬を手伝ってくれたり——若干「正一くんは強いから俺を守ってもらうんだぁ!」と騒いでいたのには呆れ果てて手刀を食らわせてしまったけれど——こうして彼を背負って下山できるのは、なかなかに幸せを感じる。
「……おい、そいつなんでメスの匂いがするんだ?」
「え?」
炭治郎の鴉の羽音。カァ、と一声鳴いたその直後、伊之助が隣まで歩いてきてそんなことを聞く。
そいつ、というのは善逸のこと。
メスの匂いとは、またなんとも独特な表現だ。
「…………」
鱗滝の言葉が蘇る。
——『将種は己の対となる母体種を見つけると、その相手を同意もなしに子を孕ませたくなり、襲いたくなるらしい』
そういえば、と炭治郎は伊之助が禰󠄀豆子の箱を守る善逸を蹴り飛ばしたあとのことを思い出して、眉を寄せた。
あの瞬間、伊之助からは“興奮”の匂いがしたのだ。
それはまるで——発情期のメスに興奮したオスの獣のような……。
「「…………」」
炭治郎の本能が告げている。目の前のコレは将種——同種だ。
炭治郎は誰にでも親切にするよう心がけている。そうあるべきだと思っているし、そうしたいと思って生きている。
けれど、なぜだろう。この男——このオスとは、あまり仲良くできない気がした。
背中の温もりが大切で、大切で、仕方ない。
だから近づけたくないし、近くにいてほしくない。
あの瞬間、屋敷を出た瞬間に炭治郎が感じた興奮の匂い——あれは、あの時、あのまま炭治郎たちが出てくるのが、数分遅ければ……。
『炭治郎』
善逸が微笑んでくれる。あの優しい声で名前を呼んでくれる。
けれどあの時、あと少し遅ければ伊之助に襲われていたのではないだろうか。
炭治郎の、誰よりも特別な人が。
「おい、無視してんじゃねぇよ」
「すまない。でもなんでそんなことを聞くんだ?」
「あん? そんなもん……」
これまでの横柄な態度と少しだけ違う。
どこか神妙な空気になり、伊之助は腕を組むと善逸を見つめて無言になった。
「……お前のメスか?」
「そうだ」
善逸の発情期に、頸を噛む約束をしている。
言い方は好きではないが、炭治郎は即答した。
この人は——炭治郎が番にするのだと。
「……おもしれぇ。だったらやっぱりテメェとはやり合うしかねぇな」
「そうか……やっぱり君も将種なんだな」
「しょーしゅ? っつーのはわからねぇけど、それは俺のメスにする。いや、それは俺のメスだ!」
「いいや! 善逸は俺のだ! 俺が番にする約束をしているんだ! 絶対に渡さない!」
「うるせぇ、知るか! 勝負しろ! そのメスは俺がもらう!」
「やらない! 絶対に渡さない! 勝負もしない!」
「勝負しろ!」
「しない!」
「勝負!」
「しない!」
「うがぁぁぁあっ! うっせええええええっ!」
「「」」
——藤の家紋の屋敷。
鬼殺隊を援助してくれる家。
怪我をした炭治郎たちは、ここで快復するまで治療に専念するよう命じられた。
こんなこともあるのかと、三人並んで布団に横たわる。
たいそう手厚く歓迎されたおかげで伊之助も大人しくなったが、炭治郎としては心穏やかではいられない。
善逸の隣は死守したが、あの様子を思うと嘴平伊之助は将種。
そして、炭治郎同様、善逸に惹かれている。
(すっっっっっっごくわかるーーーーーっ!)
善逸は“質が高い母体種”というやつらしい。
なにをもって“質が高い”というのかといえば、将種ならば才能の多さ。母体種ならば多くの将種と相性がよく、妊娠もしやすい者をいうそうだ。
男の母体種は非常に珍しく、女の母体種よりも頑丈で出産による死亡率が低く、また“将種を生む確率が極めて高い”のも特徴だという。
母体種を取り扱った娼館では、そういう男の母体種は非常に高額で政治家や華族、古い家などに売られる。
善逸は借金を返せなければ、そこに売られていたに違いない。
改めてそれを救ってくれた善逸の育手、桑島には感謝だ。
「なぁ、炭治郎」
「ん?」
「あのさ、覚えてる? 俺の発情期……」
「! も、もちろんだ!」
善逸の発情期に番になる。ガバリと起き上がって、正座して頷いた。
すると善逸も布団から出てきて、炭治郎の近くに寄ってくる。
甘い、優しくていい香りに、目の前がくらくらとした。
「そろそろなんだよね」
「そ、そうか。そ、そういえば一ヶ月後、と言ってたな」
「でも、禰󠄀豆子ちゃんどうしよう? 発情期って、ずーっとゆるくシたくて堪らない感じなんだよね。伊之助もいるし、俺ら肋折れてるし……」
「そ、そうだな……。一度鱗滝さんのところに行って、禰󠄀豆子を預けてくるか?」
善逸の切り出した話題で、そういえば、と色々な疑問が湧いてくる。
炭治郎は将種・母体種のことをほとんどなにも知らない。
母体種の体のこと、発情期のこと、番になる方法——は、頸を噛むと聞いたが、発情期中どのようにしたらよいのか、どのくらいの強さで噛むべきなのか、どこで発情期を迎えればいいのか、発情期中の将種の役割とはどんなものなのか……。
(ま、まずい。まずいぞ! 本当になにも知らないぞ! 調べるにしても鱗滝さんも母体種を見たのは善逸が初めてと言ってたしな……)
正座したまま拳を握る。
恥ずかしい。炭治郎はなにもわからない。
わからないことは恐怖だ。じんわりと、焦り始めた。
「炭治郎?」
「っ! ご、ごめん善逸……俺、発情期のことも将種や母体種のことも、知らないことがたくさんあって……」
「なんだ、そんなこと」
あっさり言い放つ。そんな善逸に「え?」と驚いてしまった。
「そんなの当たり前だろ。番契約は俺だって初めてだし。……っていうか、番の契約ってさ……一度きりしかできないんだ」
「! そうなのか」
「うん。昔、花街にいたことあるって言っただろ? そこで母体種の人に色々教わったんだ。俺の魔羅、玉がなくて代わりに穴があってさ……母体種の男には玉なしで穴ありって体の特徴があんの」
「そ、そうなのか」
突然始まった体の話で、炭治郎は少し居心地の悪さを感じた。しかし、とても大事な話だ。
しっかり聞こうと、背筋を正す。
「……生まれてすぐ、俺の母親はそれに気づいたんじゃない? 俺は花街の母体種が売られる店の前に捨てられてたんだ。んで、しばらくそこで育ててもらった。母体種は発情期中に将種に頸を噛まれると、その相手と番になる。発情期香ってのが発情期中に垂れ流しになるんだけど、その匂いが男を誰でも発情させちまう。でも頸を噛んでもらえば、その相手にしか匂いはわかんなくなる」
「うん」
そこまでは聞いた。……その前の、“捨てられた”のは初めて聞いたけれど。
(善逸は捨て子だったのか……)
家族に囲まれて暮らしていた炭治郎には想像もできない。
血の繋がった子を捨てなければならなかった、その理由が“子が母体種だった”から?
そんな理由で、なぜ?
「でもさ、その……番になった相手からしか、番の契約は解除てきないんだって」
「えっ」
「そんで、番契約を解除された母体種は気を病んで死んじまうんだ。だから、娼館で働いてた母体種の中には、番にそのまま娼婦として働かされ続けてた人もいたよ。母体種は性処理にすごく便利だからさ……番にした将種が、店で働かせた金を店からもらって、そのまま死ぬまで働かせるんだ。……覚えてる? 俺が会ったことのある将種は……——みんな……」
「…………そうか」
みんな怖かった。
善逸は質の高い将種をそう評していた。
母体種のことを性処理の道具としてしか見ていない、そんな将種ばかりだったのだろう。
(なんてひどい……)
母体種も人間だ。発情期があっても、性行為が好きなわけではないだろう。
とにもかくにも、母体種たちは一度番にされるともう逃れられなくなる。
番の解除は『死』だ。彼らは文字通り命を握られ、生涯そこで客を取らされ続ける性奴隷となる。
「炭治郎はそんなこと……」
「するわけない!」
「……うん、だよな。炭治郎はそんなことしないよな……」
こてん、と肩に載せられる頭。
その後頭部に右手を添え、左手で善逸の右手を握る。
そんなことをするわけがない。炭治郎は善逸が好きだ。絶対に幸せにする。
「善逸の育手、桑島さんとも約束した。善逸のことは、俺が必ず幸せにするよ」
「……炭治郎……」
善逸の手が炭治郎の背中に回ってくる。
改めて「好きだ、善逸」と伝えた。
善逸は——炭治郎の大事なものを理解してくれる。
それどころか、命懸けで守ってくれた。
そんな人に果たしてこの先他に出会えるだろうか?
答えは否だ。絶対出会えない。
世の中優しい人はたくさんいる。けれど、鬼になった禰󠄀豆子を身を挺して、命を賭して守ってくれる人は他にいない。
(善逸、善逸、善逸、善逸……好きだ、好きだ好きだ……!)
はっとした。
だから、今後のこと——番になるための発情期のことも、報らねばならない。
さすがに養生でお世話になっているこのお屋敷で発情期を迎える、のは難しいだろう。
なにより、善逸の発情期香で炭治郎以外にも興奮しそうな男がいる。
嘴平伊之助だ。
あいつマジどうしよう。
「ええと、じゃあ鱗滝さんに手紙で聞いてみるよ」
「あ、う、うん。禰󠄀豆子ちゃん、な」
「あ、ああ。それからどこで過ごした方がいいとか」
「あー、それなら近くの花街で専用の宿借りればいいよ。要予約だったけど、番いのいない母体種が発情期を過ごすお宿があるんだ。だいたい遊郭の店の裏側にあって、客を|そ|の|気にさせるのに利用されるんだぜ」
「へ、へぇ、そうなのか」
持ちつ持たれつ、というやつだ。
漂ってくる発情期香に毒された客が、たとえ酒だけのつもりでも匂いに興奮して夜鷹を買う。
母体種は居場所を確保でき、発情期中の飲食代は無料で安心して過ごすことができる、というわけだ。
「上手く考えてあるんだなぁ」
「発情期は人によって期間も重さも全然違うんだって。期間が長い人は七日とか八日。短ければ二、三日で終わる。ゆるく発情して飯食ったり水飲んだり平気でできたりする人もいれば、飲食ができないくらいずっと発情してる人もいるって聞く。あとは、発情期香が弱い人とかもいるし、強すぎて困る人もいる」
「お、おぉ……」
もう、それだけで「母体種の人、生きるの大変そうだな」となる。
そしてこれが善逸が捨て子になった理由でもあるらしい。
母体種の発情期は、早いと十にも満たない歳の頃からなることが多いのだそうだ。
女の子でいうと、初潮のようなものがきて、それから三ヶ月ごとに発情期がくる。
貧しい家ならば売ったり捨てた方がいいというわけだ。
穀潰しを育てると同じだから。
その上、肉親であっても発情期香には狂う。
近親相姦の危険性が高く、一緒に生活するのはどうやっても難しいのだそうだ。
だから、余程の金持ちでなければ母体種と分かったらすぐ売られるか捨てられる。
縁があれば金持ちの家に養子に出されることもあるらしい。
男の母体種は、金持ちや古い格式を持つ家に人気があるから。
けれど、善逸の母はおそらくそんな伝手も知識もなかったのだろう。
ただ、母体種とわかったから捨てた。
「……っ」
炭治郎なら。炭治郎の家なら、きっとそんなことはしない。
たとえどんなに大変でも、家族が離れるくらいなら必ず乗り越える。
一緒に暮らすのが難しくても、きっとなにか。
……だが、そこまで考えて将種や母体種の存在すら知らなかった数ヶ月前の己を思うと、それは想像を絶する困難なのだろうとわかる。
無知ゆえに家族同士で傷つけあうことにもなるのだ。
誰も悪くはないのだろうが、考えただけでつらい。
「えっと、それで俺の場合はな」
「あ、ああ」
「六日間くらいなんだ。基本そんなに重くない。飯も食えるし水も飲める。割と自由に歩き回れるんだけど、匂いがめちゃくちゃ薄くて……炭治郎を上手く興奮させられる自信がないんだよな」
「なっ! じゅ、十分だぞ 今だって、すごくいい匂いがする!」
「そ、そう?」
そんなことで悩んでいたのか、と驚くくらいだ。
なんにしても、心配ごとはやはり禰󠄀豆子のことだけのようだ。
善逸と手を繋いで、額を合わせて見つめ合う。
「口づけても、いいか?」
「うん、俺も炭治郎と口づけしたい」
顔を傾けて、目を閉じて、唇に柔いものが重なる。
すぐに顔を離して目を開けると、弛んだ顔の善逸。
しばらく二人でもじもじと身を揺らし、ちらりと視線を相手に向ける。
「え、ええと、う、鱗滝さんに、手紙を書いてくるよ……」
「う、うん」
恥辱が勝る。
お互い顔を赤くして、叫び出したい衝動。
転げ回ってしまいてい。
炭治郎はひとまず部屋を出て、文机のある部屋を借りて手紙を書いていいかおばあさんに聞きに行く。
墨も紙もタダではないので、最低限の礼儀だ。
そこへ——。
「おい、話は聞かせてもらったぜ」
「伊之助」
「あのメス逸と番う話だっただろう? あいつは俺のもんにする。俺と勝負しろ! 剣八郎!」
「だから俺は竈門炭治郎だ! そして善逸は俺の番になる! あと、俺たちは静養中だし鬼殺隊は隊士同士戦っちゃいけない!」
「うっせー! メスは強い方が番にするのが常識だろうが!」
「それは山の常識だろう! 人の社会の常識は、相手に選んでもらった方が勝ちなんだ!」
つまり伊之助は出会う前から炭治郎に敗北していることになる。
実際選別の時に伊之助は善逸に気づかなかった。そう言われても仕方ない。
「人間決まりなんざ知るか! 勝負しろ!」
「くっ、まるで納得しそうにないな……」
元々伊之助は『強者と戦うこと』にこだわりがある様子だった。
炭治郎とは決着つかぬまま。そこにきての善逸。
渡りに船状態なのだろう。
「……わかった」
「!」
「だが、それはお互いの怪我が治ってからだ!」
「いいだろう! 万全の状態でぶっ飛ばす!」
隊士同士の諍いはご法度だが、番を賭けた勝負は隊士である前に“将種”としてのものである。
鱗滝に伊之助との勝負を受けることも書き記し、鴉に託して数日後。
「えー……隠の後藤と申します。なんでも将種同士の決闘を行うとか」
「え、あ、はい」
「鬼殺隊の規律に基づき、立ち会い人として参りました。それで、将種二人と、母体種はどちらに?」
「あ、少々お待ちください」
訪れたのは隠という職業の人。彼も鬼殺隊らしい。
隠は剣士が最前線で戦い、鬼を倒したあとの後処理などを行う。
怪我人を運んだり応急処置をしたり、死体を処理したり、一般人の避難や生存者を送り届けたりとその役目は多岐に渡る。
炭治郎が沼鬼を倒したあと、浅草で暴れた鬼を押さえつけたあとも隠が町に入り色々と後処理をしてくれたそうだ。
そして、鬼殺隊の規律の中には『将種』と『母体種』のこともあるのだという。
元々数が少なくほぼほぼ噂の域を出ない『将種』と『母体種』ではあるが、『母体種』は呼吸を用いると『将種』よりも強くなる者が多く、『母体種』で柱にならなかった者はいない。
故に隊士の中で母体種とわかった者は、継子のいない柱には積極的に紹介する決まりがあるらしい。なんと。
また、将種も平均的に能力が高く、柱になる可能性が高い。
現に、今の柱の九人中五人は将種。
それを説明されて炭治郎は目を剥いた。
将種の存在すら「そういうのがいるらしいぞ」と鱗滝に聞いていた程度の炭治郎。
善逸に会って、「本当にいるんだなぁ」くらいにしか思っていなかった。
めちゃくちゃいっぱいいるじゃないか。
「まあ、そんな感じで柱になる人は将種、または母体種の人が多くてですね。昔から諍いも多かったそうです。隊士同士の諍いご法度の隊律ができたのはそれが原因だとか」
「うわぁ……そ、そうなんですか……」
居間に通され、炭治郎と伊之助、善逸が揃うと、まずそのように説明される。
そして、そうやって隊律を作ったところで、将種同士が母体種を巡る諍いを収めることはまず不可能ということがわかった。
よって、隊士同士が双方申請した場合と、将種同士が母体種を巡って諍いを起こした場合は立会人を設けて決闘をすることが許可される。
今回、鱗滝が鬼殺隊の柱を通してより上の者にお伺いを立ててくれたらしく、後藤が派遣された、というわけらしい。
「決闘って……」
「あ、ご心配なく。基本的には命のやり取りはなし。獲物は木刀を使い、相手を殺したら負けとなります。ちなみに、どちらともまだ番ってはないんですよね?」
「は、はい。えっと、俺は炭治郎と番うつもりなんですけど、伊之助がなんか割って入ってきて?」
「なんかむかむかすんだよ、テメェ見てると」
ああ、これは間違いなくムラムラしてるんだな。
男だからか、将種だからか、伊之助の言いたいことを察してしまう炭治郎と後藤。
完全な横恋慕なのね、と後藤が理解してくれるのには、十分な説明。
「ではまず血判状に誓いを」
「!」
心配そうな善逸だが、鬼殺隊方式の決闘はなかなか古風。
紙に炭治郎の名前と、文字の書けない伊之助の代わりに後藤が代筆して名前を並べて書く。
真ん中に母体種の善逸の名前が入り、炭治郎と伊之助は親指に少し切れ目を入れて血を血判状に押す。
「確かに。では怪我が治り次第また参ります。よほど緊急の任務がない限り、決闘が優先しれますので。ちなみに、母体種の方は次の発情期、いつ頃のご予定で」
「来月です。来月の半ばごろかな、と」
「結構ギリギリですね。最悪番契約を見送ってもらうかもしれませんが、ご了承いただけますか?」
「うっ……。……わかりました……。怪我が治るのが優先、ですよね」
「はい。そちらを優先してください」
伊之助との決闘ではなく、まずは怪我、ということらしい。
それについて異論はない。
しかし、いざ怪我が治った炭治郎たちを待ち受けていたのは“緊急任務”——那田蜘蛛。
大怪我をした三人は、見事に決闘も発情期も見送ることになるのだった。
「いや信じられんわほんと。ひどすぎ」
「これはこれで可愛いけどなあ」
毒蜘蛛の鬼に当たった善逸は手足が縮んで一番の重傷。
しかし、おそらく炭治郎と伊之助では“鼻をやられていた”という。
確かに那田蜘蛛はひどい匂いがしていて、炭治郎は度々鼻をやられていた。
それの発生源と戦ったというのだ。すごい。
善逸ですら喉が痛くなって目の奥からじくじくした、というのだから炭治郎なら進むことすらできなくなっていただろう。
伊之助も将種にしては鼻がいい野生児なので、近づけなかったかもしれない。
なにより、伊之助であれば襲ってきた人面蜘蛛も殺していた。
殺されたら、人面蜘蛛にされた人たちは治療を受けられなかっただろう。
そう思うと、善逸が山に入って戦ってくれてよかった。
実際善逸があの蜘蛛を倒してくれたおかげで、例の悪臭が薄まり、炭治郎たちも戦いに専念できる環境になったのだ。
遠回しにまた命を救ってくれた善逸。
ベッドの上で、炭治郎は縮んだ善逸を膝に乗せてにこにことした。
「ほら、食事の続きだ。あーん」
「……あーん」
指もとても短くなって、一人で食事するのも大変だという善逸へ、炭治郎は食事を代わりに食べさせる係を申し出た。
おかげで毎食、善逸を脚の間に抱いて食事を手ずから与えてやれる。
炭治郎の手から食事を食べさせてもらえる善逸も、悪い気はしないらしくて大人しく口を開けてくれた。とてもかわいい。
「食後はお薬だな」
「それ飲まなきゃダメぇ? 苦くてつらいよぉ」
「ちゃんと飲まないと元に戻れないだろう? このままでもかわいいんだが、このままの善逸と番うのはちょっと不安だし……頑張って元に戻ってほしい」
「うっ、うう……じゃ、じゃあさ、た、炭治郎が口移しで飲ませてくれたら、甘く感じて飲めるかも?」
えっ」
それはちょっと、と思うが、口移しで、と言われると炭治郎も悪い気はしない。
やってみようかな、と薬の入った湯飲みを見ると、にゅっといい笑顔が生えた。
「だめですよ」
「「ひぃ!」」
「善逸くんが飲み干すように、量も計算してありますからね。薬ですから、炭治郎くんが飲んで体に異常が出たらどうするんです? 薬は毒にもなります。馬鹿なこと言ってないで頑張って飲んでくださいね。そもそも、大部屋で一人用ベッドでひっついて仲がよろしくて大変結構ですが、他の方もいるのでほどほどにお願いします。苦情が後を立たないので。ええ、ほどほどに」
「「は、はい」」
柱、胡蝶しのぶ。
早口で捲し立て、ニコニコ青筋の立った笑顔で言われて善逸に抱きつかれる炭治郎はしかしそんな状況も「いい!」と思ってしまう。
那田蜘蛛山は本当に多くの犠牲が出た。一般人にも、隊士にも。
この部屋の大半は、そういう隊士の生き残り。
自信喪失した伊之助を励ましながらも、善逸が炭治郎を頼ってひっついてくれるのは嬉しい。
堂々とイチャイチャできて、全身ギシギシに痛むが幸せだ。
「叱られちゃったなぁ。はぁ」
「仕方ないから、薬は頑張って善逸が飲まないとな」
「うん。でも飲むまで炭治郎のとこにいてもいいだろ?」
「もちろんだ」
満面の笑みで答えると、善逸も嬉しそうに微笑む。
この時点で、炭治郎と善逸の視界からはまた大部屋の他の隊士の存在は消え失せる。
彼らがどんなに恨みがましい視線を送っても、謎の空気に弾かれて二人には届かない。
「頑張れ、善逸!」
「おえー!」
「ちゃんと飲めて偉いぞ!」
「うぉーん、炭治郎もっと褒めてよぉ!」
「偉いなぁ、善逸、とても偉い! こんな苦い薬をちゃんと飲めて偉いぞー」
「……ふへへへへへ」
「「「…………」」」
翌日、炭治郎と善逸と伊之助だけ隣の大部屋に移されることになるが、二人はそれをまだ知らない。