なんてことのない日曜日 幸村を見つけたのはクラゲの展示に足を踏み入れてしばらく経ってからだった。そこは水族館の中でも特に幻想的な空間で、神秘的な暗闇に降り注ぐ青いライトが穏やかな波を思わせる模様を床に投げかけ、ガラスの中ではにじむような照明に照らされたクラゲたちが向こう側が透けて見えるほどの羽衣みたいなからだをひらひらさせている。
幸村の目線の先では淡い紅色のクラゲが踊っている。照明のせいか、ただでさえ白い肌はいっそう青白く、顔を縁取る線は細く淡く見えた。横顔は、絵画やら花やらの話をしているときほど楽しげでもなく、テニスをしているときほど力強くもなく、けれど真田にはうかがいしれない深遠な考えを胸に秘めているかに思えた。さざめきやカメラのシャッター音や足音といったものから隔絶されたように。距離があるからかもしない。歩み寄って声をかければいつものように穏やかで柔和な笑顔が一面に広がるはずだ。
しかし、できなかった。真田は優美にたゆたうクラゲと幸村を食い入るように見つめていた。
と、ある個体が群れを離れてすーっと泳ぎ始めた。傘から触手の末端までがあまりにも美しい直線だったので、その様は真田に、長い尾を引く流れ星が暮れゆく空を駆けていく光景を想起させた。
「ねえ! 弦一郎!」
腕を掴んで揺さぶられはっとする。夢から覚めたような心地だった。
「叔父さん大丈夫? 休む? 帰る?」
真田を見上げる甥の不安そうな顔には確かな思いやりがあった。
「いや、知り合いがいて……」
「なーんだ。そんなの、挨拶すればいいだけじゃん」
指摘はもっともだった。できなかった理由を、幸村の横顔に見入っていたことを、なんとなく言いたくなくて、ぐっと反論を飲み込む。曖昧なことをするのは性分ではなかったが、濁すような微笑を浮かべた。
「気のせいかもしれん。それより、心配してくれてありがとう、左助くん」
甥は顔をしかめると口をもごもごさせながら呟いた。
「そんなんじゃないし……」
十つ下の甥がつれない態度をとりながらも自分を慕ってくれていることはよくわかっていたから、真田は今度こそ心から笑った。一方で、その目と心はいつの間にかふっと消えていた幸村の姿を探し求めてもいた。
湘南の海を望む半円形のスタジアムでイルカショーを観賞している間もそれは同じだった。真冬とは言え日曜日、大盛況の会場がイルカの芸にどっと沸く。楽しいという気持ちは嘘ではなかったが、本物でもなかった。薄明かりの中、一人たたずんでいたあの男にどうして声をかけなかったのだろうかという後悔ばかりが募っていく。
「隣、いいかな」
ちょうどそのとき、トレーナーの呼びかけに応じてバンドウイルカが水面からその体躯を現し高くジャンプをした。尾びれで跳ね上げた飛沫が宙を舞いきらきらときらめく。真田は、どうぞ、と顔も向けずに答えた直後、慌てて声のした方を仰いだ。遠くで着水の音と喝采が聞こえた。
「幸村!」
「やあ」
腰を降ろしたベンチの冷たさに幸村はぶるっと身震いした。
「家族とはぐれちゃって。イルカショーに来たら会えると思ったんだけど、これじゃあね」
「……そうか」
真田は賑わう人々をざっと見渡した。それらしい人影はない。立ち見客もいるほどの混雑では当然だ。前のめりになってショーに熱中している甥をちらと見やってから、真田はからだを斜めにして幸村に向き直った。
「終わるまでここにいたらいい」
「うん」
嬉しそうに頷く幸村は正真正銘の幸村精市であった。あたたかな安堵が真田のからだを駆け巡っていく。ここにいるのが確かに幼い頃から見知った友だという確信を得てようやく真田の口は滑らかになった。
「クラゲの水槽の前でお前を見たぞ」
「声をかけてくれたらよかったのに!」
どうやったら、お前があまりにも儚げでこの世のものではないような気がした、などと説明できる? 真田が苦虫をかみつぶしたような顔をして黙り込んでしまったので幸村は仕方なさそうに溜息をついた。
「水槽を見ながら思ってたんだよね。ああ、かき玉スープみたいだなあ、って」
「何?」
虚をつかれた真田の顔がよほど面白かったらひく幸村はしばらく楽しげな声をたててから、
「中華料理とか出てくるクラゲってだいたいこりこりした食感だろう? でも泳いでいるところはかき玉みたいだなあって」
「お前、水族館でそんなこと考えているのか」
不謹慎だぞ、と言いかけた真田もまた展示されていた伊勢海老を前につい味を思い浮かべていた我が身を顧みてその先は言わないことにした。
「あ、その顔」
「どんな顔もしておらん」
「言い逃れするつもり? 実は真田も俺の仲間なんじゃないの」
「黙秘する!」
「あ、ずるい」
いたずらっぽい幸村の視線から逃れるべく、真田は居ずまいを正した。ショーはもうフィナーレを迎えようとしていた。結局半分もまともに見ることができなかったわけだが、それでも真田の唇は上向きの弧を描き、彼は満ち足りた気持ちでいっぱいだった。