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    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    WS 1幕前半1.
     キリエ・アリュシナオンが港に辿り着いたのは、沈みゆく夕陽が世界を橙色に染め上げる頃のことだった。タラップを渡り、久方ぶりの揺れない地面に足を付いた後、キリエは、肺の中を全て出すような勢いで息を吐き、凝り固まった肩をぐるぐると回した。
     全く、金を持っていないと知れたらすぐにこれだ。荷物同然に長時間貨物室へ押し込まれたなら、どんな人間だって筋肉が凝り固まっちまう。まだおれが若くて良かった、これでヨボヨボの年寄りだったなら、あまりの混雑っぷりに息が止まっちまったかもしれないからな!
    「よしっ、……と」
     郷里の街は、ここから更に内陸へ進んだ先にある。どれだけ急いでも日付を跨ぐことは確実――だとしたら、長旅の疲れもあるし、ここいらで宿を取って明日の朝早くに出発した方が安全牌だろう。道中には鬱蒼と生い茂る森や背丈を超えるほどの草藪が多いので、夜も更けるこの時分に、しかも護衛も付けずにひとりで歩き回るのは自殺行為に等しい。よく見る魔物たちだけならともかく、良からぬ輩に出会ってしまえば、素人に毛が生えた程度にしか剣を扱えない手前、分が悪いのだ。
     ぐーっと両手を頭上へ挙げて、懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込んだなら、折りからの風が彼の翡翠色の髪をかき混ぜる。ただいま、と誰ともなく呟いて、キリエは、呑気に鼻歌なぞ歌いながら記念すべき第一歩を踏み出した。
     ひなびた港町である。
     かつては風光明媚な観光地としての側面もあったようだが、それも昔の話。利益を追い求めるばかりに無茶な整備を繰り返し、結果、島の魅力はことごとく失われ、本当に『ただの島』へと成り下がってしまった。
     それでも、やはりここは港であるだけ、他より多少は栄えている。船着き場には活気があり、多数の露店が軒を連ね、人出もそこそこだ。至る所に木箱が積み上がり――キリエが寝床代わりに使っていたやつだ――商人たちが値段の交渉を行っている。その足下をうろちょろする猫たちは、恐らく、おこぼれに預かろうとしているのだろう。親切な、あるいは猫好きの商人であれば、売り物にならない魚の切れ端や野菜の尻尾をくれたりすると知っているのだ……まぁ、そのうちのほとんどは目的を達成することもなく、追い払われてしまうのだが。
     用水路に架かる橋を渡り、綺麗に整備された石畳の道を北へ抜けると、大きな噴水が見えてくる。豪奢な彫刻が施された石造りの土台から、橙と紺のグラデーションに染まる空へと盛んに水を噴き上げている。世界の果てに沈もうとする夕陽から伸びる光が、飛び散る雫を照らし、さながら宝石がばらまかれているかのようにきらきらと煌めいた。
     周囲を取り囲むベンチには恋人たちを始め、家族連れや老夫婦がぽつぽつと腰を下ろしていて、他愛ない話に花を咲かせていた。子どもたちが駆け回り、犬たちが後を追い、遠く、日暮れを告げる鐘が鳴る。ああ、なんて長閑で、平和で、穏やかな雰囲気なのだろう! 争いも、飢餓も、全く及ばないような、誰もが焦がれる平穏がここに確かに存在するのだ――キリエは立ち止まり、感慨深げに頷いた――そうだ、おれも……こちら側の人間であったはずなのに。小さく苦笑し、後頭部を掻き、唇を結んで顔を上げる。
    「さて、……この辺りのはず……」
     三年――あぁそうだ、何せここを出て三年が経っている。基本的な街の作りは変わりないが、細部は多少、変化している。あったところが無かったり、他へ移動していたり、無かったものが出現しているなど、街が生き物である以上仕方の無いことだ。ただ、……やはり、気に入りの店が無くなっているという事実は、想像だけでも大分堪えることだが。
     そんなキリエの目が、不意に、ぱちくりと瞬いた。
     家路へと向かう人々の合間に見たのは、見知った看板。真鍮製の猫に流線型の装飾を幾つも絡ませて、大通りの方へと突き出ている。そこからふたつの鎖で釣り下がった木製の板には、黒猫亭と刻んである――多少経年劣化はあるものの、そう読み取れる。
     キリエの口角が、きゅっと跳ね上がった。
    「おお、我が麗しの黒猫亭よ!」芝居がかった口調で叫び、軽やかにステップを踏み、踊るように駆け出す。「おれは、おれは帰ってきたぞ。不肖キリエ・アリュシナオン、ここに戻ってきたぞ!」
     通りの何人かが足を止め、何人かがぎょっとした様子でキリエを振り返った。遠巻きにキリエを眺めては、横から小突かれている者もいた。けれどキリエは一向に意に介さず、玄関ポーチに足を掛けると、両開きの黒樫の扉の前で、大きく深呼吸をした。
     目を閉じれば、かつての光景が鮮やかに蘇る。気の置けない仲間たちと飲み明かした日々。美味い料理に美味い酒。無口な料理人である大将、気っ風の良い女将、そして、可愛らしい看板娘――彼女には一度、求婚したことがあったな。おれは本気だったが、彼女には既に恋人がいて、案の定振られた。あのときは仲間たちも巻き込んでえらい騒ぎになったっけ……はは、懐かしい、若気の至りここに極まれりというやつだ。
     万感の思いで扉に手を当て、ゆっくりと押し開けると――この久方ぶりの感触も、キリエの心に染み入った――目を灼くほどの眩しい光が道路に溢れた。暮れゆく街に、店内の喧騒が漏れ出していく。
    「いらっしゃい!」
     威勢の良い呼び声。調子っぱずれな歌。あちこちで響く、乾杯の音頭。話し声。時折どっと上がる笑い声。食欲をそそる香ばしい匂いに、立ち上るパイプの煙り。忙しなく動き回る給仕。卓上に所狭しと並べられた料理に酒の瓶と空のグラス――店内は満席には程遠いにしろ、そこそこ繁盛している様子だった。皆が皆、顔を突き合わせるように座っていると思いきや、まだ夜には早い時分だというのに、椅子に寝そべっている者、とっくに出来上がって同行者にくだを巻いている者もいる。
    「おや、アンタ……」
     早速声が掛かり、キリエは、賑やかな界隈へと向かう足をひたりと止める。肩越しに頭だけを振り向かせれば、その先に一人の女性がいた。ふくよかな夫人は、こちらに差し出した手――おそらく肩を叩こうと思ったに違いない――もそのままにして、両目も口もあんぐりと大きく開いている。信じられない、といった具合に。
     そうだろう、そうだろう。キリエは満足げに頷き、しかしこちらから何かを述べるのも野暮なので、笑みを浮かべながら唇をきゅっと結んで続きを待った。
     三年前。誰に告げることもなく、こっそりと定期便に乗り込んだのだ。生死不明だと思われていてもおかしくない。
    「キリエ……かい?」おずおずと、彼女は問うた。頭のてっぺんから足下までを何度も何度も往復し、ぱちぱちと、何度も目を瞬かせて。「あの、アリュシナオン先生のところの……?」
     皆まで聞き終えただろうか。
    「ああ、そうさ。ただいま、マダム・マーサ!」キリエは応え、大きく頷き、どんと自身の薄い胸板を叩き、声を張った。「不肖キリエ・アリュシナオンは、ようやくここに、懐かしの黒猫亭に戻ってきた!」
     界隈が、ざわりと沸いた。
     おう、何だ。キリエ……? 聞いたか。キリエ・アリュシナオンだって。えっ、……キリエって、あの……?
     興味。驚愕。賞賛。期待。そこに混じる、ほんの少しの無関心。
     種々の感情が入り交じった視線が、キリエと、傍で口を覆ったまま立ち尽くす夫人――黒猫亭の女将、マダム・マーサに交互に注がれる。キリエはそれらを余すことなく受け止めつつ、腰に手を当てつつ、余裕たっぷりに周囲を見渡した。
     ああ、なんて。なんて、懐かしい光景。
     天井の梁も、石造りの壁も、吹き抜けも、壁際に山と積まれた酒樽も、煤けたランプも、謎の剥製も、色褪せたメニュー表も、ほとんど変わっていない。女将は健在、大将も、この卓に並ぶ様々な料理を見れば、当時と変わらず元気にやっていると知れる。おれの麗しの君――例の看板娘――の姿が見えないのは残念だが、恐らく、件の彼氏とよろしくしているのだろう。それとも、……フッたはずのこのおれを見て、あまりの気まずさに店内に出てこられないのかもしれない。
     ……そんなわけ、ないか。
    「おうおう、キリエ! 大分ご無沙汰じゃねェか」
     不意に上がっただみ声に、キリエははっと顔を上げた。見れば、角灯の光も届かぬほどの奥まった場所に、厳つい男たちが集まっている。中にはドラフもいるので、肩と肩がぶつかり合って何とも狭そうだ。卓の上には空の皿と空のジョッキグラスが幾つも置かれ、彼らの楽しい宴も既に終盤戦であったことを示唆している。
     だみ声の主もまた、ドラフであった。筋骨隆々の男は太い腕を振り上げ、こっちだとばかりに手招きしている。彼を取り囲む男たちもニヤニヤと笑みを浮かべてキリエを見ている。全くこちとら三年ぶりの帰省だぞ、扱いが雑じゃあないか、とキリエは苦笑したが、それもまた、彼ららしい振る舞いであると理解している。「それじゃあ」と固まったままのマダム・マーサにウィンクひとつ寄越し、追随する多数の視線を引き連れたままで、彼らとはひとつ離れた卓の椅子を引いて腰を下ろした。いかにキリエが細身といえど、彼らの卓には収まる隙間が存在しなかったのだ。
    「どこかでおっちんだかと思ってたぜ」
     健勝で何よりだ。椅子を寄せ、キリエの背中を容赦なくバンバン叩く呵々大笑のドラフ――デルフィズ。豪放磊落な男で、見た目に寄らず心根の優しい、所謂……良いヤツだ。
    「全く失礼なやつだな」応えて、キリエは笑った。「勝手に人を殺すなよ」
    「一度も便りを寄越さず、よく言うぜ」
     言いながらエールのジョッキを煽るエルーンの男は、シュセットという。キリエと同等、あるいはそれ以上の――とは言っても本人談ではあるが――美丈夫であり、この界隈では女性ファンも多いと聞く。まぁ……女癖が悪いところに目を瞑れば、こいつもまた、良いヤツに違いない。
    「仕方ないだろ、地方巡業で大変だったんだ。手紙を書く暇も惜しいさ」
    「お。何だ、ありゃ、ホラじゃ無かったのか」デルフィズはわざとらしく目を瞬いた。「俳優になるっていう……」
    「成る程なぁ」と唸ったのはシュセット。「だからあの芝居臭ェ言い様か。俺ァてっきり、頭でもやっちまったかと思ったぜ」
    「失礼だな、お前」キリエは苦笑する。「ま、そこがお前らしいといえばそうなんだろうけど」傍のグラスを手に取りぐいと煽るが、喉に落ちるのは氷の残骸だけだった。
     この軽口の応酬も何だか懐かしい。肩を竦めながら、キリエは懐古する。親に反抗して家を飛び出し、帰るに帰れなかったあの頃……この酒場でひとり酔い潰れていたときに声を掛けてくれたのがこの二人だった。あの日はそのまま夜通し飲み歩き、二日酔いでえらい目に遭ったっけ。……今も色褪せることのない良き思い出だ。
    「おうい、女将!」
     デルフィズは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。片手に持った空のジョッキを突き上げる。
    「酒を頼むぜ! あと、ありったけの料理もだ! 我らが悪友の凱旋を、皆で祝おう!」
     俺の奢りだ、遠慮はいらないぜ! その声に、店内が堰を切ったようにわぁっと沸き立つ。誰もが顔を見合わせ、拍手を送り、あちこちで喝采が湧き上がった。悪友って何だよ、とキリエは呟くが、別段嫌な気分でも無い。ため息を吐きつつも、唇を薄く笑ませる。
     誰かが給仕を呼び止め、誰かが葡萄酒を運び込んだ。空っぽだった卓の上には、次々と美味そうな料理と酒が並んだ。鶏と木の実のホワイトシチュー。オリーブと生ハムのピンチョス。ライ麦のパンに入りきらないほどの具材を挟み込んだサンドイッチ。新鮮な、色とりどりの野菜と果物で飾られたフルーツサラダ。平皿に載りきらないほど盛られた炙り肉からは、香辛料と油の良い匂いが漂ってくる。
    「乾杯!」
     誰かが声を上げる。硝子のぶつかる音が、あちらこちらで響く。
    「我が悪友殿に、乾杯!」
     シュセットもまた、ジョッキを掲げる。乾杯! とキリエも倣って近くのジョッキを取り、シュセットのそれにぶつけた。並々と注がれたエールは衝撃で少しだけ零れてしまうが、関係なかった。ジョッキが空になれば、代わる代わる、誰かが限界まで注ぎに来くるのだ。
     食事が届いた先から、キリエは実によく食べた。塊肉にかぶりつき、シチューを飲み干し、サラダをばりばりと囓る。油で汚れた口を拭おうともせず、ジョッキを煽って喉を鳴らす。それも仕方ない、まともな食事にありつけるなど実に数週間ぶりのこと。体裁どうこうよりも食欲が勝ってしまうのは、生きるためにはやむを得ないことなのだ。
     ――華やかな世界の裏には暗部がある。太陽の光が世界をどこまで照らそうと、物体の裏には必ず影が現れるように。
     キリエの表情が一瞬だけ暗くなるが、辺りで騒ぐものたちは全く誰も気付かない。それはデルフィズもあるいはシュセットも、同じこと。
     ――おれは、選ばれなかった。それだけのことだ。あぁ、……たった、それだけの……。
    「あいよ、お待ち!」
     不意に飛び込んできた声が、キリエを引き戻した。はっと顔を上げると、その先で、夫人が笑っていた。黒猫亭の女将、マダム・マーサが。
    「どうしたんだい、ぼうっとして。まだまだ材料はあるからね、今日はとことん飲んでおいき」
    「あ、……あぁ」
     有り難う。そう言うか言わないかの間に、どん、と卓の上に置かれたのは大量のポテトフライに厚切り肉と腸詰めの盛り合わせだった。隅っこに追い遣られたレモンのくし切りと緑の葉が、茶色の中にひっそりと彩りを添えている。
     ――そうだ。……おれは。
     ――今は、今だけは、自信に満ちあふれた『成功者』だ……そうでなければならない。そうでなければ……。
     ――おれは、……あの子に、一体何を……。
    「もう腹が膨れたのか。珍しいな、大食らいのキリエと呼ばれたお前が」
     シュセットの茶化すような言い様に、キリエは、笑った――笑えた。
    「馬鹿言え。懐かしの故郷の味に浸っていただけさ。大将の料理はここでしか味わえないものだからな」そう言ってジョッキの中身を飲み干した。とん、と置いたその中で、溶けかけの氷が涼やかな音を立てた。「ああ、麗しの黒猫亭……本当に、変わりないようで安心したよ」そこであることに気付き、ふと、辺りを見回す。「そういえば……デルフィズはどうした」
     先ほどから、あの威勢の良いだみ声が聞こえない。さては場だけ提供し、自身はさっさと帰ってしまったのかと思いきや、シュセットは黙ったまま、顎で店の端を指した。長椅子に寝そべったまま、気持ち良さそうに高鼾を掻く――ドラフの男を。
    「はは……」
     そうだ。デルフィズは、なかなかどうして、酒に弱い。しかし場の空気に飲まれやすいものだから、盛り上がってしまえば自身のリミッターも忘れてしまい、後から動けなくなってしまうことも少なくない。もう三年も経つというのに、一向に加減というものを学ばないようだ。
    「それより」
     シュセットはニヤリと笑い、大ぶりのゴブレットを二つ、すっと差し出した。
    「久しぶりにやるかい、キリエ」
     そう言う彼の傍らには、葡萄酒の樽が置かれている。未開封であるのは、誰の目から見ても明らかだ。大きな口を開けて、今まさに骨付き肉にかじり付こうとしていたキリエは、その手を止めて――油まみれだったので近くのナプキンで拭い取って――ゴブレットを受け取った。
    「良いぜ、やろう。ローズ座の底なし沼と呼ばれたキリエ・アリュシナオンが、相手をしてやるぞ」そうして、不敵に笑みを返した。「ところで、何を賭ける?」


     心が躍るような体験というものは、黙って待っているだけでは決して享受できない――それがミナ・ルイゼの信条であった。だから彼女は方々の酒場を回っているわけだし、今宵黒猫亭に訪れたのも、何か特別なことが起こりそうな予感がしたからだ。ミナの勘は決して馬鹿に出来ない。
     ミナは踊り子だ。褐色の肌に銀色の髪。色素の薄い瞳は切れ長で睫毛も長く、人をして美人だと言わしめるような整った顔立ちをしている。手足は長く、すらりとしていて、踊り子独特の露出の多い衣装がよく似合う。更に、自身のことは黙して語らない辺りが、その容貌と相俟ってミステリアスな雰囲気を醸し出し、主に若い男性陣を虜にしているのだとか。
    「……ふぅん」
     そんなミナは、今は、吹き抜けになった二階の手すりに身体を預け、階下を眺めている。グラスにたっぷりと注がれた葡萄酒を、舐めるようにちびちびと飲みながら。
     ホールは久しぶりの喧騒に満ちて、笑い声と話し声が絶えない。卓の上には次から次に料理が運ばれ、給仕たちがひっきりなしに厨房とホールとを行ったり来たりしている。人々の熱気と興奮は収まることを知らず、乾杯の音頭と硝子が触れ合う音があちこちから聞こえてくる。そうしてまた、どっと界隈が沸く。
     それも仕方ない。先ほど、デルフィズというドラフの男が、俺の奢りだ、好きにやってくれ、と派手に宣言したのだ。流石は貿易商の御曹司である。全く、羽振りが良い。ミナもお言葉に甘えて多少の料理と酒とを頂いたが、すぐに腹が膨れてしまった。酒場の料理というのは、酒に合わせるため、どうしても味が濃くなってしまう。酒も料理も楽しみたければそれなりの胃袋が必要なのだ――ミナは自身が小食であることに、これほどがっかりしたことはなかった。黒猫亭の大将が作る料理は絶品なだけに、何だか悔しい。
    「それより……」
     ミナは呟き、再び階下に目を遣る。ルージュを引いた形の良い唇がきゅっと笑んだ。
    「あいつ、……生きてたのね」
     キリエ・アリュシナオン――……
     三年前、唐突に失踪した男は、今、何食わぬ顔でそこにいる。エルーンの男――シュセットと何やら飲み比べでもしているようで、凄い勢いでジョッキを煽り合っている。勝負はいよいよ終盤戦といったところだろう。見たところ、ややキリエがリードしているようだが、実際はどうだろうか。互いに譲らない上、互いが負けず嫌いであるものだから、いつも決着が付かないのだと――その割にたらふく飲んでくれるので店としては有り難いと――マダム・マーサが冗談めいて言っていたのを思い出す。
     ――なぁ、ミナ。……兄さんを見なかったか。
     あれは、……そうだ、確か、酷い雨の日だった。昼間だというのに薄暗くて、雨音と雷鳴だけがずっと響いているような。そんなときに、彼は……多分、傘も差さずに駆け回っていたのだろう、息を切らしたまま、その足下に水溜まりが出来るほどに頭の先からぐっしょりと濡れそぼって、軒先に立っていたのだ。
     その顔は血の気を失って、陶器のように真っ白だった。
     ――一体どうしたっていうのよ、セイン、落ち着いて……キリエが、どうしたって……?
     ――戻ってこないんだ。書き置き一つもない。……なぁ、ミナ、兄さんは……!
     わぁっと喝采が起こった。
     雨音が遠ざかり、代わりに聞こえたのは大歓声。割れんばかりの拍手と、賞賛が降り注ぐ。薄暗い世界の記憶は霧散し、ミナは、ひとつ息を吐くとおもむろに歩き出す。階下に広がる人いきれの中に、するりと紛れ込む。
     人の輪の中心には、二人の人物がいる。無数の空のジョッキを背景に、卓に伏せる者と、勝ち誇ったように笑む者。成る程、三年の月日は人をこうも変えるのか、とミナは思う。随分と酒に強くなったものね、……キリエ。
    「ん……?」
     そのキリエは、視線に気付いて顔を上げる。流石に飲み過ぎたのか、癖のある翡翠の髪の下、白磁の頬はやや上気している。ミナはにこりと笑い、唇を、わかりやすいようにはっきりと動かした――曰く、久しぶり。
    「ミナ……」
     呆然と、キリエは呟く――否、そう言ったように見えた。辺りは普通の声量ですらかき消されそうな騒ぎであったから、彼の様子を気に掛けるものは誰もいない。ミナは笑みを崩さずにひらりと手を振る。それから、くるりと踵を返し、人混みから抜け出す。
     その背の向こうで、扉の閉まる音を聞いた。
    「ちょ、……ちょっと、待てって……!」
     どれくらい歩いただろうか。
     後ろから追い掛けてくるのを知っていてわざと足を速めていたので、黒猫亭からは大分離れてしまった。夜気に時折混じる快哉の声は徐々に小さくなって、今や木々を騒がせる風のまにまに、淡く響いているくらいだ。
     振り仰いだ空は既に群青に沈み、墨染めの雲のあわいに大きな月が見え隠れする。暗がりの通りは昼の賑やかさとは打って変わって、通りすがる人すらも実にまばらだ。その殆どが酔っ払いか、これからお楽しみであろう男女ばかり。後は、酒場から出る残飯……もとい、彼らなりのご馳走を求めて辺りを彷徨う猫たちくらいだろう。
     ああ、でも。
    「おい……ミナ!」
     手首を掴まれてしまったなら、最早、立ち去ることなど出来はしまい。
     ミナは足を止めた。止めざるを得なかった。ただ十分に予想し得たことであったため、それほど驚くことでもなかった。ひとつ、間を置いてから振り向く。
    「あら、主役が抜け出して、いいのかしら」そうして、悪戯っぽく笑いながら目の前の青年を見た。「ね、……キリエ・アリュシナオン」
    「構うものか」
     あの酒量に反してしっかりとした声で、彼は言う……ほっとしたように、頬を緩めて。
    「彼らが今楽しんでいるのは無秩序の騒ぎだ。そこに主役など要るわけがない」
    「へぇ」
    「それより、どうして君がここに……? おれはてっきり、……」言い掛け、迷うように視線を動かし、唇を舐めて、苦笑して頭を掻いた。「ま、……お互い様か」
     ミナは、応えなかった。応えない代わりに笑みを崩さないままでキリエを見据えた。
    「ねぇ、……少し、話さない? いいところを知ってるの」


     月明かりだけを頼りに路地裏を進めば、急に視界が開け、その足は大通りへと至る。
     件のカフェは一際大きな三叉路の端にあって、もう夜も大分深い時間だというのに、薄ぼんやりとした明かりを窓の形に切り取って道端に落としていた。風に揺られ、突き出した看板がキィキィと鳴く。周囲はしんと静まり返り、さざめきも、喧騒も、何もかもが遠い。
    「ここは……」
     足を止め、ぼうっと呟くキリエを置き去りにして、ミナはさっさと歩いて玄関ポーチに足を掛け、躊躇うことなく扉を開けた。ドアベルが鳴り、蝶番の軋む音と共に、珈琲の香ばしい匂いと、焼き立ての洋菓子の香りがふわりと周囲に漂う。
    「いらっしゃい」
     そうして聞こえた穏やかな声にはっと顔を上げたなら、その先にひとりの青年。茶色の混じった癖のある黒髪の、なかなかの美丈夫である。多少幼さの残る顔立ちに見えるのは、アンダーリムの丸い眼鏡を掛けているからだろうか。
     深い真紅の双眸が、立ち尽くすキリエと、我が物顔で店内を闊歩するミナに向けられる。
    「やぁ、君か」ふ、と笑んだ。「良かったな、そろそろ閉めようと思っていたところだ」
    「あら、間に合って良かった」
     言いながらミナは大きな窓の傍、クッションのたっぷり置かれた長椅子に腰を下ろす。
    「飲んだ後の締めはここの珈琲って決めてるの、そうじゃないと、なんか調子が狂うのよね」頬杖を突き髪の毛をいじりつつ、不意に、視線を上げる。「ね、いつまでそこに突っ立ってんのよ、キリエ。寒いんだから、早く扉を閉めて」
    「あ、……あぁ」
     扉が閉まると、店内は本当に静かだった。客は自分たち以外に誰もいないので、余計にそう感じるのかも知れない。湯の沸く音、硝子の触れ合う微かな音、観葉植物の葉擦れの音。店員であろう青年の足音――ヒールのある靴だったから、床板を叩くそれが尚更に目立って大きく聞こえるのだ――、差し出されたメニュー表の紙をめくる音。キリエは長椅子に身を沈めながら、手頃なクッションを抱えて、ぼうっと店内を眺めていた。
     店の中心に置かれた真鍮製の鳥籠の上には、同じく真鍮製の風見鶏がくるくると回る。鳥でも飼っているのかと目を懲らしても主の姿も鳴き声もなく、内部には真っ白な羽根が一枚落ちているだけだ。天井から吊されたいくつものペンダントライトは全て可愛らしい星の形をしていて、いろいろな色で以てきらきらと淡く周囲を照らしている。
     随分と雰囲気のある洒落たカフェだな、とキリエは思った。この島は廃れる一方だと思っていたのに、こういう前向きな変化も中にはあるらしい。喜ばしいことであるのかどうか、今のキリエには何とも判断しがたいが。
    「あらあら随分と大人しいのね」ミナがメニューを差し出す。「飲み過ぎて眠くなったのかしら」
    「そんなわけがあるか」キリエはそれをひったくるように奪って、乱暴にページをはぐった。「あれくらいの酒量、おれにとっては、準備運動にもならない」
    「強がっちゃって」
     ミナは声を上げて笑い、手を挙げて店員を呼んだ。メニュー表を開きながらあれもこれもと頼むミナを、こんな遅い時間によくぞそこまで食べるものだ、と半ば呆れたように眺めながらも、キリエはついでのようにして珈琲を一杯頼んだ。メニュー表には沢山の種類が書いてあって、珈琲に詳しくないキリエにはどれも同じように見えたのだが、ミナが勧めるままに一番上に書いてあったオススメというものにした。ああ分かった、と書き留めた後に店員は頷き、ヒールの音を響かせながら厨房へ戻っていった。
    「知り合いなのか?」
     その背を見送りながら、キリエが呟くと。
    「まぁ……、そうね」ミナは気怠げに答える。「そういうことにしておいて」
     やがて運ばれてきた色とりどりのケーキや洋菓子を前に、知己の二人は、三年の間を埋めるようにしていろいろな事を話した。島のこと。港町のこと。かつての悪友たち、デルフィズやシュセットのこと。黒猫亭のこと。マダム・マーサや大将、看板娘のその後――何でも例の彼氏との間に子どもが出来たらしい――のこと。
     提供される洋菓子の数々はひとつひとつが小さいため、話ながら摘まんでいるとあっという間に無くなった。しっとりとした食感でありながらも、そこまで重たくないからかもしれない。形も可愛らしいし、成る程、甘い物好きの女子が好みそうだ、とキリエはフィナンシェをひとつ口に放り込み、珈琲を啜った。苦めのこれとも実に合う。
    「それで、……この島にはいつまでいるつもりなの」
     話題も尽き、目の前の皿も殆ど空っぽになった頃、ミナはぽつりと呟いた。色素の薄い彼女の双眸がキリエを見据える。
    「……っ……」
     キリエは僅かにたじろいだが、カップを煽って一息吐いた。砂糖が溶けきってなかったのか、口内に妙な甘さが残る。
    「おれは」掠れた声で言って、俯く。「暫く、……いるつもりだ」
    「暫くって、いつ」
    「……その、気が、……済むまで」
    「へぇ……」
     そうか。ミナが聞きたかったのは、確認したかったのはこれか――キリエは察した――ああ、……ああそうだ、これはひとときの帰省などではない。
    「売れっ子なんでしょ、大丈夫なの? 舞台に穴を空けて」
    「その辺りは問題ない」やけに口が渇く。カップは既に空っぽだというのに。「今は、次の舞台に向けての準備期間中なんだ。配役も、台本もまだ決まってない。長期休暇のようなものさ、団長も、みなそれぞれに羽を伸ばしてこいと言っている」
    「ふぅん」
     気のない返事。見ればミナは早々に興味を無くしたようで、指に髪を絡ませ、もてあそんでいる。不自然な沈黙が落ち、キリエは、ズボンの上で何度も両手を擦った。掌がぐっしょりと濡れているように感じて、何とも落ち着かなくなる。
     口を開こうにも何を話していいか分からず、うっかり喋り出そうものなら墓穴を掘りそうだった。ただでさえ酒のせいで――大分酔いも醒めているのだが――正常な判断能力を失っているのだ、口を滑らせて、今までの苦労を水の泡にする必要などどこにもない。
     そうだ、おれは『成功者』だ。
     故郷に錦を飾るのだ。そうでなければ、おれは何のために……――
    「ま、いいけど」
     暫くして、ミナは突然、立ち上がった。
     驚き、弾かれたようにミナを見るその視線を振り切り、足早にカウンターに近付き、店員と何かを話している。立ち上がりかけたキリエを広げた腕で制しておいて、代金は、と言い掛けたその台詞に被せるようにして声を上げる。
    「今日のところは奢らせてよ、売れっ子俳優さん」そうして、肩越しに振り向き、にっこり笑った。「ここでコネを売っておいた方が、アタシも、ローズ座の舞台に立てるかも知れないでしょ」
    「……考えておくよ」
     カフェを出ると最早時刻は日付を跨ぎ、通りは一層静まり返っている。二人と一緒に店員も出てきて、外に出ていた立て看板を丁寧に畳んで店内へ引っ込めた。どうやら店仕舞いらしい。「気を付けて帰れよ」の声を最後に、カランカラン、とドアベルの音が続き、扉が閉まり、鍵の音が後を追う。
     送ろうか、と申し出たがミナは迷いもせずに断った。
    「それほど治安の悪いところじゃないから大丈夫よ」近いしね、と言いながら、あふ、と欠伸をかみ殺す。「それじゃあね、おやすみ」
    「あ、……あぁ、おやすみ」
     ひらりと手を振って、銀髪の踊り子は夜の闇にその身を溶かす。不意の風が周囲をさざめかせ、看板がキイキイと軋み、翡翠の髪をかき混ぜ、キリエは顔の横で手を留めたそのままで立ち尽くす。おれは……、と呻くように呟き、唇を噛むと、首を勢いよく横に振ってそれ以上を追い出した。そうして踵を返し、逆方向へ踏み出した一歩は、思ったよりずしりと重く響いた。


    「よぉ、……塩梅はどうだ」


     青年は。
     不遜な声に、読んでいた書物から視線を上げた。君か、と呟き、口に付けたコーヒーカップを僅かに傾ける。
     カウンターの向こうには少女がいた。緩く巻いた金色の髪に、深く澄んだ紫色の瞳。小さな卵形の顔のパーツは愛玩人形のように全て整っていて、見る人に愛くるしい印象を与える……流石は可愛らしさに拘り、美を追求し続ける錬金術師である。
    「まだ、何とも」
     青年は素直にそう告げた。カップがソーサーに戻り、微かな音を立てる。
    「だが、君の見立ては間違っていない。現に、例の装置も反応していたのだし」
     彼の深紅の双眸が、部屋の中央に置かれた鳥籠に向かう。真鍮で作られたそれの上には、同じく真鍮で作られた風見鶏が載っている。風の吹かない室内では回るはずもなく、ただのオブジェと化している。
     そう、……元来はこうあるべきであったのだ。それが。
    「当たり前だろ。オレ様を誰だと思っていやがる」
     少女はその愛らしさに似合わぬ顔でニヤリと歪に笑い、どかりと直ぐ傍の長椅子に腰を落とした。そこには沢山のクッションが備えてあったから、勢いはあっても、彼女の小柄な身体くらいなら難なく受け止めた。
    「まぁ、ここまでは想定内だ。だが、……本当にアレが存在するとはな。全く、余計なことをしてくれたもんだぜ」
     大きくため息を吐き、彼女はクッションの海に身を沈める。青年はそんな彼女を横目で見てから、そうだな、と気のない返事をして再度書物に目を落とす。
     静かだった。
     二人の他に、人はいない。だから互いが口を開かなくなると、途端に静寂が満ちる。
    「さて、……と」
     しばしの後に。
     彼女は唐突に、身を起こした。考えでも纏まったのか、と青年が目を向けると、彼女は、ようやくその容姿に相応しい愛らしい笑みを浮かべた。じっと、上目遣いに彼を見つめる。
    「おつかいしてたら、疲れちゃった。マスター、美味しいお菓子と珈琲をお願い」
    「……分かった」
    「珈琲は、お砂糖と、ミルクをたぁーっぷり、ね」
    「了解だ」
     苦笑し、青年は席を立つ。その姿が厨房に消えたのを見送って、彼女は窓の外を見遣った。世界は宵闇の中にあり、鏡のようになったその窓には、お洒落なカフェを背景にした可憐な少女の姿が映り込む。紫の双眸を眇め、顔にかかる黄金の一房もそのままに、面白くなさそうな顔で頬杖を突く少女の姿が。
    「ったく」サクランボのような唇がきゅっと尖った。「あいつめ、……一体何処に消えやがった」
     ぼそりと零れたその言葉を、拾うものは誰もいない。
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
    11028

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