平行世界。あるいは、あったかもしれない未来ドアから店内を見渡すと、真っ先に目に入ったのは重厚なカウンターだった。その奥では店のマスターらしき人物がサイフォン式のコーヒーを淹れている。窓際に目を移すとテーブル席が平行して三つほど並んでいた。寧々の生きている時代ではあまり見かけなくなった、いわゆる懐かしの喫茶店という奴だ。
その店には以前にも来た記憶があった。しかし寧々の記憶の中にある店は今いるこの場所ではなく、境界にあったのでまったく違う店なのだが。彼女は以前、境界でこれとそっくりな内装の店で花子と源光とで切り盛りしたことがあった。七不思議伍番の土籠監視の元、アルバイト感覚で店を手伝ったのだ。中でも、たぶん生前こんな経験をすることはなかったであろう花子が一番楽しそうにしていたのが印象的で、彼のその満月のような瞳が三日月になるぐらい、終始笑顔だった。もちろん、それは寧々にとっても楽しい思い出であることは間違いない。その様子を見ていた彼女もなんだか嬉しいような心持ちがしていたし、その頃のことは今でもありありと思い出すことが出来る。月日が経ち、遠い思い出になっても、ふと思い出した瞬間、切ないようなこそばゆいような気持ちを携えながら、ふふっと笑顔を浮かべて懐かしむ、そんな思い出になるはずだったのに……。
(花子くんのバカ!)
今となっては彼の三日月になった瞳を思い浮かべるだけでも腹が立つ。
「で、そろそろ話してくれてもいいかな? 八尋さん」
目の前の人物に話しかけられ、ハッと我に返る。彼もまた、満月のような瞳の持ち主だった。
夏休みに入る前日、かもめ学園では毎年恒例となっている宿泊学習を終えた帰り道、寧々は行く当てもなく繁華街を彷徨っていた。家に帰ればいいだけの話なのだが、寧々にその帰る家がこの世界にはないのだった。
だから、彷徨っていた先でこの世界での担任教師である彼に呼び止められ、事情を説明することを要求されても寧々は口ごもるしかなかった。自分が未来からこの1980年に来た、と言ったら頭がおかしくなったと思われるだろう。どう説明したって、目の前の人物が自分の言うことを納得するとは到底思えない。この年頃に多い、夢見がちな女子高生の妄想話とでも思われるのも心外だ。確かに寧々は夢見がちなところはあったが、それは恋愛に関してのことで、こんなSF小説じみた選民意識の固まりのような妄想は範疇外なのだ。
「さっきから、ずっとだんまりだね……。そんなに俺のこと、信用できない?」
「そ、そういうわけじゃなくて!」
ため息交じりにそう聞いてくる普に寧々は反論した。
「じゃあ、今から八尋さんの家に電話していい? 親御さんもきっと心配しているだろうし」
「……はい」
仕方なしに寧々が気弱な返事をすると、普は鞄からゴソゴソと財布と手帳を取り出した。彼が手に取るビジネス用の茶色い手帳は、寧々が生きている時代に流通している量産型のものとは違い、しっかりとした作りをしていた。たぶんオーダーメイドなのだろう。彼は重厚なレザーのカバーを捲り、その裏に付けられた紙のポケットから古ぼけた四つ折りにされた紙を引き抜いた。それはわら半紙に校内の印刷機でプリントされた緊急連絡網だった。それには普の直筆でクラス全員の電話番号が書かれていた。コピー機などない時代だ、テスト用紙も学内で配られるプリントは全てわら半紙に印字するのが主流だった。所々掠れている上、お世辞にも達筆とは言えない文字のせいで、読みづらいといわれることも多かったが、時代のせいか、それで大事にするような保護者はいなかった。この頃、まだ教師に対する信頼が厚かったのだ。だからこんな場所で女子生徒とふたりでいたところで、好奇の目で見られることはあるかもれないが、犯罪者まがいの扱いをされるようなことはなかった。
「電話してくるから、待ってて」
普は立ち上がり、連絡網と財布を携え入口脇にある電話機のほうへと向かった。寧々はその様子をぼんやりと見ていた。
普は電話機を前にすると、薄いピンク色をした受話器を取った。手をクロスし、利き手と反対の耳へ当てるその仕草は花子を思い出させ、寧々を少しだけ困惑させた。やはり柚木先生は花子が成長した姿なのだと改めて思った。やはり最初に思った通り、ここは柚木普が十三歳で死なずに、生き延びた世界線なのだろう。
財布から取り出した小銭を連続で数枚、電話機の中へ入れる音がチャリンチャリンと音を立てる。それは店中に響いて寧々のいる場所にまで聞こえてきた。普の様子を変わらずぼんやりと見続けていると、広げた連絡網に目を落とし八尋寧々の自宅の番号を確かめているようだった。直ぐにダイヤルを回せるようにとそこに指をかけている。しかしダイヤルを回す前に普の動作が止まり、寧々のほうへ振り返った。彼は寧々に戸惑いの表情を見せると、手にしていた受話器を元に戻し彼女のいる席へと戻ってきた。
「八尋さん……君はいったい……」
普は寧々を見下ろし、困惑したような声で言った。自分が作ったはずのその連絡網に、八尋寧々という名前も電話番号も載っていなかったからだ。