布団の隙間から入り込む冷気で目が覚めた。
冬の朝は日の出が遅い。数日前に初雪が降ってすっかり冬らしさを増した本丸は、朝方には空気が氷柱のような冷たい鋭さを孕む。布団から出した右手の指先はあっという間に冷えて、慌てて中に引っ込めた。寝返りを打った拍子に見えた隣の布団は、昨夜私が綺麗に整えたままだ。
酒盛りに使われることも多い空き部屋は、布団さえ持ち込めばそのまま雑魚寝することも許されている。実際あそこにもいくつか布団の用意はあったのだけれど、誰もそれを使うことはなかった。船を漕ぎだした物吉や浦島は早々に部屋に戻ったし、私を含め比較的元気だったものたちも朝まで飲み明かすことはなく、会話の間に長時間の沈黙が挟まってくる頃合いになると皆が自主的に片づけを始め、目を擦りながら各々自分の部屋へと帰っていったのだった。
りいだあが、夜のうちに帰ってくることはない。それを私はよく知っている。だというのに、自室へと戻った私は、いつものように自分の布団の隣にりいだあの布団を敷いてから床についていた。酔っていたせいかもしれないし、布団を二枚並べるのが癖になっていたのかもしれないし、早く帰ってきてほしいと思っていたからかもしれない。もしくはその全てかもしれないけれど、りいだあがこの部屋にまだ戻っていないことだけは確かだった。
布団を被っているはずの右半身が妙に寒いのは、隣にりいだあが眠っていないからだ。昨日よりずっと冷え込む部屋の布団の中で、身体を震わせる。そういえば、ひとりきりで朝を迎えるのは久しぶりだった。
意を決して上体を起こすと、薄い寝間着越しに寒気が肌を刺した。手に取った眼鏡はまるで氷のようで、鼻根を挟む鼻当ての冷たさに思わず顔を顰める。布団の暖かさは恋しいけれど、寝直したい気分でもない。寒いひとりの部屋で時間を無駄に過ごすより、身体を動かしたほうがよほどいいと思った。
鍛錬所に行けば早起きの誰かしらが稽古に励んでいるだろうし、そうでなければ、今までのようにひとりで朝のれっすんをしてもいい。少し身体を温めて、それから厨当番を手伝いに行けばあっという間に朝が来る。まだうっすら腹の底に残っている酔いを醒ますためにも、きっとそれが一番だ。
着替えた衣装は冷えていて、袖を通すたびに肌の表面温度が下がっていくのがわかる。その冷たさが眠気や酔い、それから私のもやもやとした寂しさを体温と一緒に奪っていくようで、今の私にはありがたかった。
吹きさらしの外廊下は、部屋の中よりもさらに寒い。水平線が茜色に変わり始めているのを眺めながら、寒気に負けないように背筋を伸ばして廊下を歩く。
薄くなりだした暗闇から、微かに誰かの声がした。複数人の会話で、方角からして鍛錬所のものではない。厨当番が、畑に朝餉のための野菜を採りにきたのだろうか。それにしてはずいぶんと早いけれど、今日の当番は誰だったか。
畑のほうへ足を進めていると、いつのまにか会話が聞こえなくなった。そのかわりに、誰かがこちらへ歩いてくる気配がある。今度は一振りだ。途中で別れたのなら、やはり厨当番ではないのかもしれない。そんなことばかりを考えていたせいで、少し早足に歩くその足音の正体に気づくのが遅れてしまった。
「お、篭手切。はえーな」
「り、りいだあ!? お帰りは昼過ぎだと、」
「その予定だったんだけど、隊長がうまいことやってくれたらしくてさ。早かっただろ」
しっかしさみーな。そう言ってりいだあが上腕を摩る。一瞬の間を置いて、何かを思い出したように目を瞠ると、赤い瞳が薄暗がりの中できらりと光った。その目がゆっくりと細められて、私がずっと焦がれていた笑顔に変わっていく。
「忘れてた。たでーま」
「お帰りなさい、りいだあ」
朝日がゆっくりと上っていく。紫の雲を茜色に染める朝焼けが、廊下を照らす。まるでりいだあが朝を連れてきたみたいだ、そう思った。
「このままお休みになりますか?」
「それでもいいけど、その前に風呂入りてーな。さみーし」
お前は?こんな早くにどうした?そう訊ねられて、私は当初の目的をなくしてしまったことに気がついた。もやもやとした感情も底冷えするような寂しさも、りいだあが帰ってきたことで消し飛んでしまっている。だから今なら鍛錬やれっすんとまっさらな気持ちで向き合うことができるのに、私はそれを選ばなかった。
「私も、ご一緒していいでしょうか」
熱めの湯に浸かれば、寝起きで固まった体が解れていく。全身に沁みる温かさに息を吐いたのと同時に、湯船の中のりいだあが気持ちよさそうにため息混じりの声をあげる。
「あー、あったけー……沁みる……」
「お風邪を召されないように、ゆっくり温まってください。……そういえば、ほかの隊員たちはこちらに来ませんね。皆も寒かったでしょうに」
「疲れたからとにかく寝るってよ。大倶利伽羅は主に報告行ってたな」
りいだあが口にした主の名に、昨夜の席で言われた言葉が頭を過ぎる。今、聞いてみてもいいだろうか。一緒に日々を過ごすのが楽しいとはりいだあが顕現してからもう何度も口にしてきたけれど、それだけではなくて一緒にいたいのだと、改まって伝えてもいいのだろうか。
朝の光でいつもより透明度の高い湯船の中で拳を握る。遠征帰りでお疲れだろうりいだあに、朝からこんな場所で訊こうだなんて迷惑かもしれない。そんな考えも浮かんだけれど、一度伝えたいという衝動が沸き起こるともう止まることはできなかった。口を開く。息を吸う。鼓動が早まっているように感じるのは、体が急に温まったせいだろうか。
「りいだあ、ひとつ聞いていただきたいのですが」
「お、どーした?」
「私は、れっすんが好きです」
「うん、知ってる」
「ひとりで歌や踊りに向き合うのも好きですが、りいだあとするれっすんが、格別に好きです。土を蹴る足音が隣から聞こえるのも、踊っているときたまに目が合うのも、ひとつひとつが嬉しくて楽しくて仕方がない。りいだあがあの日私の手をとってくれたから、大好きだったれっすんがもっと楽しくなったんです。
目を覚まして、隣を見ればりいだあが眠っている。りいだあを起こしておはようございますと挨拶をして、一緒に顔を洗いに行く。それがだんだん私の日常になっていくのは、たまらなく嬉しくて幸せなことです。りいだあの衣装の乱れや寝癖を整えるのを任せてもらえていることが誇らしくて、……他の誰にも任せてほしくはないと、なぜかそう思ってしまうのです」
言葉を選ぶ間もなく、伝えたいことは次々と口から零れ出る。突然姿勢を正した私から一度も目を逸らさずに、りいだあは黙って私の話に耳を傾けてくれていた。緋色の瞳に促されるまま、次の言葉が口をつく。
「りいだあは、私が起こさなくても定刻に起きることができるでしょう。もう私の手を借りずとも、衣装や武具を身に着けることだってできるでしょう。でも、それでも、私はりいだあに一番におはようございますを伝えたいし、布団の中からおやすみなさいと言いたい。出陣前に上着の紐を結ぶのは私の仕事であってほしいし、美味しい菓子をもらったときには部屋でふたりで分けたいのです。
……もし、わがままを聞いていただけるなら、主から世話係の任を解かれたあとも、私にりいだあのお世話をさせてくれませんか? 毎日布団を二枚並べて、一日の始まりと終わりをともに過ごしたい。りいだあと一緒にいたいです」
言いたいことをすべて伝え終えて、ようやく口を噤む。私が黙ってしまうと、広い浴場には水音だけが響いた。
これは全部私のわがままで、したいこととしてほしいことを言い連ねているだけだ。そんなことはわかっている。いきなりこんなことを長々と訴えられて、きっとりいだあだって面食らっているに違いない。けれど、反応に困っているだろうりいだあへの申し訳なさはあっても、不思議と率直な気持ちをぶつけたことに対する後悔はなかった。
「あのさ、」
ざぱん。水音とともにりいだあが湯船から右手を上げて、頭を掻いた。濡れた黒髪が朝日を受けて光る。言葉を選ぶように口元をもごもごさせて、それから、外れていた視線をもう一度私へ向けた。
「まだここに来てちっとしか経ってねーけど、篭手切と一緒にれっすんしたり飯食ったりすんの、俺は楽しいよ。歌ったり踊ったりなんて今までやったことなかったけど意外とやってみたらおもしれーし、箸の持ち方とか教えてくれたし。服の手入れとかよくわかんねーから俺の分までやってくれんのありがてーし、お前に起こしてもらえるのも助かってる。
こんなに世話ばっか焼いてもらっていいもんなのかって思ったりしたけど、いっつも楽しそうにやってくれてんだろ、篭手切。それがすげーいいなって思うんだよ。
……んー、なんて言ったらいいかわっかんねーけどさ、れっすんのときとか、すていじの話してるときとか、お前が楽しそうにしてるの見ると、俺まで嬉しくなるんだよ。こいつはやりてーことを思いっきりやってんだなって。だから俺はお前のやりてーことを手伝いたいし、お前が楽しそうにしてるのを見てたいって思う。俺の世話焼くのがお前にとってのやりてーことなら、俺はそれに甘えてーなって思うよ」
うまく言えねー、やっぱ話すのって難しいな。そう言ってりいだあが笑う。りいだあらしい率直で飾り気のない言葉は直接私の心に沁みて、湯船だけでは届かないところまで温めてくれる。まっすぐ私に向けられる言葉の、そのひとつひとつが嬉しい。嬉しいけれど、なんと返せばいいのかわからない。私はりいだあよりも早くこの本丸に顕現して、ずっと言葉を操って生活してきたというのに。
「俺は、これまで通り篭手切と一緒の部屋でいてーよ。世話係じゃなくなっても、れっすんしないときでも。俺もお前も同じ気持ちなんだから、部屋余ってようがこのままでいいんじゃねーかな」
私が言葉を見つける前に、りいだあが続けて口を開いた。同意を求めるような視線を向けられて、やっと声が出せるようになる。真っ先に口をついたのは、私だけが呼んでいるその四文字だった。
「っ、りいだあ!」
「うん?」
「これからも、よろしくお願いします!」
感情のままに右手を突き出せばりいだあもさすがに驚いたようで、上がった水飛沫に目を瞬かせる。けれどすぐにその口の端を上げて、私の手を握り返してくれた。
「おー、よろしくな」
湯船に温められたりいだあの手のひらは、なのにどうしてか私の手よりも温かく感じる。こうして私の手を握り返してくれるのは今日が初めてではなくて、れっすんに誘ったときも、りいだあは衒いなく私の差し出した手を取ってくれた。あの日すぐに離れた手は今日は離れず、りいだあはしげしげと私の右手を観察している。
「篭手切、いい手してるよな」
「そうですか?」
「きれいだけどきれいなだけじゃねーっつーか、強いやつの手。うまく言えねーけど」
手入れさえすればどんな怪我も消え失せるこの身体には、もちろん胼胝だって残らない。顕現したてのころに必死に刀を振って作った胼胝は、戦場に出るたびに跡形もなく消えた。けれど、出陣を重ねて練度が上がるたび、手入れ部屋に担ぎ込まれる回数が減っていくたびに、それが消えることも少なくなっていった。きれいだと主に褒められたのはきっと傷ひとつない状態のそれで、今の私の手はあの頃とは少し変わってしまっている。
だからこそ、りいだあの率直な言葉が嬉しかった。
「ありがとうございます。……なんだか、こうしてりいだあに褒めていただくと照れてしまいますね」
「っはは、もっと褒めてやろうか? いっぱいあんよ、お前のいいとこなんて」
りいだあが笑う。浴場の大窓から差し込む朝日を浴びるその笑顔が眩しくて、でも視線を逸らしたくはなくて、私は目を細めながらりいだあを見つめていた。私にも同じように光が当たっていたのだろうか、りいだあも眩しそうな顔を浮かべている。
「もうすっかり朝になっちまったな」
「そろそろ上がりましょうか。朝餉はどうしましょう」
「せっかくこの時間まで起きてんだし、食ってから寝っかな」
ひとりで食うより一緒に食ったほうがいーだろ。駄目押しのようにそう言ってざぶざぶと湯船を割っていってしまうのだから、りいだあは本当にすごい刀だ。浴槽の床で滑らないように気をつけながら、慌てて後を追う。
ぎゅっと私の手を握ったりいだあの手はさほど力強かったわけでもないのに、どうしてか、その日一日中私の右手にその感覚を残していた。