「逃避行」「星」「そっちへ行っても、彼女はいないぞ。」
いつも選択を誤りそうになる時、導いてくれるのは煉󠄁獄だった。
「着替えはどれくらい必要かな。」
「一つも要らないんじゃないか。」
「パンツも?」
「パンツも。」
「風呂の道具くらいは持って行くか。」
「必要なものは後から買えばいいだろう。」
下の駐車場で待ち合わせた時間に、煉獄の部屋を訪ねるとまだ荷造りの真っ最中だった。小振りのバッグに日用品と2、3日分の着替えを詰める友人を見守って、行く宛も決めていない旅路のルートをマップアプリで検討する。
「ちょうどいいのがあった。」
「スコップ?」
「長靴と、タオルも多めに持っていこうか。」
「買えばいいって言ったんだ。」
「こういうのは、あるものから使った方がいい。やっぱり着替えも必要だな。」
「要らないって。」
斜め掛けのバッグを整えた煉󠄁獄が、漸く玄関まで辿り着く。玄関の小さな収納を開いて、折り畳み式のアウトドアスコップとショートブーツ、ゴム長靴まで取り出す姿にいよいよため息を吐く。両手がいっぱいになると、当然のように素山の前に靴を並べて持つように促すので、仕方がなく二人揃って両手に荷物を抱えて部屋を後にする。
ダメ押しに頭の上に手拭いとつばの広い麦わら帽子を乗せられて、呆れることも怒ることもせず、駐車場でアイドリングを続けているオンボロの軽自動車を目指す。
中古で買った軽自動車に乗り込むと、助手席に座った煉󠄁獄が直ぐに座席の角度と距離を変える。最後に乗せた女性は小柄で、いつも緊張していてシートにゆっくりと背を預けるような空気になれなかった事を思い出す。
地図アプリを立ち上げてスマホを預けると、ルートも行き先も決められないまま車を進める。なんとなく、海へ向けて。
「次、右折だ。」
「どこ?」
「ここ、右折。」
「次からは100m手前くらいで言ってくれ。」
「まあ良いだろう、行き先が決まってる訳でもあるまい!」
「飯屋に行くんじゃなかったか。」
「そうだった、宇髄に進められた中華屋がある。」
「それだけは辿り着きたいものだ。」
郊外に来ると途端に駐車場が広くなるとか、チェーン店が多くてどこも同じ景色に見えるとか、田舎のほうが星がきれいなんじゃないかとか、くだらない話しを繰り返す。
トイレ休憩で立ち寄ったコンビニで旅行誌を立ち読みする。海か山、最後までどちらにするか決めかねて、仕方なしにじゃんけんで勝敗を決める。行きすがらある温泉に目処を立てて、この旅のルートを決定する。
「お前、持ってきたスコップを使いたいから山を推したな?」
「そんな事はない。」
「絶対にそうだ。俺に荷物が邪魔になると言われたくなかったんだろう。」
「そんな事はない!」
「俺の目を見て言ってみろ!」
「この話しはこれで終いだな!」
きっと、最後の立ち寄り場所になるであろう田舎のホームセンター。レジャーシートにランタン、虫除け用品に食料品、朝のデジャブそのものの大荷物を抱えて広い駐車場でポツンと待つオンボロ車に戻ってくる。
「こんなに買ってどうするんだ。」
「どこに仕舞う?」
「後部座席の足元。」
「おや、可愛い傘がある。」
「上に置いて良い、もう使わない。」
「トランクにしまうか?」
「無理だ、入らない。」
「そうだったな!」
コンビニで目星をつけた温泉宿に電話をして、宿泊場所を確保する。
「素泊まりでよかったかな。」
「良いだろう、風呂に入って寝るだけだ。」
「朝食、美味そうだぞ。」
「そんなちんたらしている時間あるのか?」
「あるさ。今更慌てても仕方ない。」
「そういうものか。」
「そういうものさ。」
今日はもう、宿へ着いて眠るだけ。そう理解していても、焦燥感に襲われて渋滞で立ち止まる事に苛立ちを覚える。
コントラストの強い二色塗りの車が巡回している様に、無意識に指先が震え落ち着きがなくなると、普段と変わらないままの煉󠄁獄が温かな手を重ねる。
「大丈夫、君は逃げ足が速い。」
「人を卑怯者みたいに言うな。」
「今は運転に集中。」
「分かってる。」
空が燃えて、陽が沈む。
煉獄の燃えるような瞳が運転席を盗み見ると、窓硝子に反射する素山の横顔に藍色の模様が映し出される。
「誰も、トランクに死体があるとは思わないさ。」