(Untitled)「椎名さん」
夜闇の中、囁くような声が聞こえた。腕の中のマヨイがこちらを見つめている。
「どうしたんすか?」
「私……抱き心地悪くないですかぁ?」
「え〜? 本当にどうしたんすか、急に」
今晩のマヨイは腕の中でもぞもぞと、ずっと落ち着かない。そのことにはだいぶ前から気がついていた。
「その……今日共演した俳優さんと、少しお話したんです」
「ああ、確かあの新婚の」
「そうです」
今日のマヨイの予定を、ニキは思い出した。確か今日は、ゲストとして呼ばれたバラエティ番組の収録だったはず。司会は今大人気の俳優で、つい先日結婚したという発表があったばかりだった。
「同じ男だからという理由でその……」
もごもごとマヨイが言いよどむ。何となく、ニキは察した。
「えっちな話されたんすか?」
「ヒィッ、え、えっちというか、その……! ええと、まあ……そうですねぇ……そんなような話ですぅ。胸が大きい子と小さい子、どっちが好きかって訊かれましたぁ」
意外だな、とニキは思う。ニキはその俳優と直接の面識はなかったが、好青年といった見た目と語り口で、下ネタや下世話な話とは無縁だと思っていた。でも、そういえばかなり昔に1回、セクハラ発言で炎上していたような気もする。いくら取り繕っても、人間の本質は変わらないということだろうか。
「マヨちゃんなんて答えたんすか? まさかその流れで男と付き合ってるとか言えないっしょ、しかも同業者だなんて」
「当たり前ですよぉ。とっさに答えられなかった私を見て、まだ若いから色んな子と付き合って、好みを探していけばいいって言われました。胸の大きな子と付き合ったら、柔らかいから触らせてもらいなって……」
「何となく分かったっすよ、マヨちゃんが抱き心地がどうとか言い始めた理由」
きっと、女性と比べればもちろん、男性としてもかなり痩せ型で、肉があまりついていないマヨイを抱いて眠るニキが、ひそかに抱き心地の悪さを感じていないかと気になり始めてしまったのだろう。余計なことを吹き込んで、マヨイを不安がらせた俳優への好感度がニキの中でみるみる下がっていくのが自分でもよく分かる。
「ね、マヨちゃん。僕がマヨちゃんを抱いて寝るの、もしかしてマヨちゃんの抱き心地がいいからだと思ってたんすか?」
「えぇと……いえ、そんなことは……」
「マヨちゃんが好きだから。いつでもそばにいたいからっすよ。マヨちゃんはいい匂いだから、マヨちゃんと眠ると、いい夢が見られる気がするんですよね〜。少なくとも、お腹が空いて夜に起きる頻度は大分減ったっす」
不安そうに縮こまるマヨイを抱きしめて、ニキはマヨイの背中をゆっくりあやすように撫でた。
「好きでもない女の子より、大好きな男の子のマヨちゃんの方がいいっす。それに、抱き心地の話だけで言うなら、そもそも人間より抱き枕が一番いいに決まってるじゃないっすか。マヨちゃんにも、女の子にも失礼っすね、あの俳優。僕のバイト先にきたら、嫌がらせしてやろうかな」
「……ふふ、店長さんに叱られますよぉ」
「あ、やっと笑ってくれた」
マヨイが、困ったように、控えめに笑った。困ったような顔は元々だから、これが普段のマヨイの、精一杯の笑顔であることをニキは知っている。
マヨイは、ぽつりと言った。
「その俳優さん、最後に一言言ったんです。ずっと胸が大きい方が好きだったのに結婚するほど愛したのは胸が小さい子だったって。本当に好きな子なら胸の大きさなんてどうでも良くなるから、胸の小さい子を好きになる前に存分に触っておけって」
「……いやいや、いい話っぽくまとめてるけど、やっぱり女の子に失礼っすよ!」
「ですよねぇ。私もそう思います」
珍しく、マヨイの方からニキの方にすり寄ってきた。ふわりと、機嫌が良い時のマヨイの匂いがする。
「でも、悔しいですが、好きになってしまえば相手の見た目が自分の好み通りかなんてどうでも良くなるという点にだけは、私も同感です」
うつむきがちのマヨイの表情は暗くてよく見えない。けれど、きっと微笑んでいるであろうことが、ニキには分かった。