最初からきっと恋だった 腰まで隠す枯れ草色が原っぱを埋め尽くす。見晴らしがいいとドラマのロケ地にも使われるその草原で、夏目はすっかり高くなった空の底を見つめていた。日差しは明るいけれど吹き抜ける風はもうすっかり秋めいて、夏目の項を撫でていく。
「名取の小僧はまだか」
いつものように夏目の両腕に抱えられた先生が手足をじたばたと揺らす。
「先生が七辻屋の新作を強請るからだろ。じゃなきゃとっくに着いてたのに」
「どうだかな。またその辺でふぁんとやらに囲まれているんじゃないか」
「そんなこと…」
否定はできない、と口籠った夏目の前を赤とんぼが横切り、それにつられて先生が身を乗り出す。
「わっ、先生?」
「待ちくたびれたわ、小僧が来たら報せろ」
「え、そんな─── 」
豊満ながらも柔軟な姿が夏目の腕から擦り抜けて、ぴょんと跳ねたかと思うとあっというまに草むらに隠れてしまった。
「あぁ、もう」
夏目は空いてしまった手をあてどなく握りしめ、唇をきゅっと窄めて大きく息を吸った。空を見上げて、筋雲の淡い白を目で追った。筆の先を滑らせたように尾を引く白が名取と初めて会った時のことを思い出させて、期待と不安の入り混じったあの夜の気持ちが蘇る。
カサカサと揺れる草葉に視線を落として、名取が寝転んでいたのはあの辺りだったかと見渡してみる。もしも名取があんな所に居なければ、先生がトンボを追って駆けていかなければ、名取と待ち合わせている今はなかったんだろう。そう思うと先生に引き合わされたようなものなのに、名取がいつも目の敵にされているのがなんだか可笑しくてふふっと笑いが漏れる。
「…まだかな」
名取のことを考えると、胸の奥がふわふわとあたたかくなる。名取と恋人という関係になって随分と経つけれど、久しぶりの待ち合わせだ。先生も居なくて二人きり、どんな顔をして名取を待てばいいのだろう。
「夏目」
耳慣れた声が、風の隙間を擦り抜けて夏目を振り返らせる。いつからそこに居たのか、七辻屋の風呂敷を片手に名取がいつものようににこりと笑う。
「待たせたね、猫ちゃんは?」
「さっきまで…いたんですけど」
「また一匹でお散歩かい?呆れた用心棒だなぁ」
枯れ野原を見晴らして、小さく嘆息した横顔が夏目の方に向き直して首を傾げる。緊張していたのはまるで夏目だけだったかのように、いつもの、名取だ。
「これだよね、先生のリクエスト。ひとつ食べてみるかい?」
「あ、はい」
名取は風呂敷と一緒に下げていた紙袋から新作らしいそれをひとつ手に取って、夏目の方に差し出した。柿色に緑の葉を模した水まんじゅうを受け取るとまだひんやりとしていて、その道程を名取も足早に登って来てくれたんだと思った。
「美味しそうだよね。栗とか、葡萄色もあったよ」
名取は自分用にもうひとつ取り出して、プラスチックのケースを開いて一口で頬張る。目を見開いて、一度大きく首を縦に振って夏目にも促すように視線を送る。夏目はパリンと乾いた音を立てたケースを両手に持って、半分をぱくりと口に含む。柿の実の味と、中の白餡が優しく口の中に広がって名取の方を見上げると名取が満足げに笑う。
「よかった、おいしかったなら」
名取は夏目の手からケースの蓋を引き取って風呂敷き包みを差し出した。
「これ、塔子さん達にどうぞ」
「えっ、そんなに貰えないですよ」
「思わず買い過ぎちゃったんだよね。持って帰っても家には食べる人がいないから、人助けだと思って」
そんなことを言って最初から持って帰らせるつもりだったんだろう、という言葉を飲み込んで、夏目はその包みを受け取った。
「ありがとう、ございます」
まだ咀嚼を続けながら俯いた夏目の頭を、名取の掌が撫でる。今まで何度もそうされたことはあるのに、いつまでも離れずに前髪からこめかみへと撫でられ続けるせいで余計に顔を上げにくく、残りの半分も口に押し込んだ。空のケースを見つめながらごくんと嚥下しても、どうにも生唾が出る心地がする。耳の後ろを撫でた指先が耳朶の端に触れて、僅かに上がった肩を見つめて、名取は口の端を引き締めて息を飲んだ。
「先生がいないなら送って行こうか、直に夕暮れだよ」
「え」
名取は夏目の掌からひょいとケースを拾い上げ、紙袋に押し込んだ。確かに空は色褪せ始めて、頬を撫でる風も少しだけ、冷たい。
「遅くなると心配させるからね」
名取の掌が夏目の項を辿って、左肩をゆっくりと擦る。名残惜しそうに押し付けられる指の腹から、名取の体温が沁みる。
「あの」
「うん?」
一歩分の距離を詰めて、夏目は名取の体側に腕を伸ばす。名取の肩に額を乗せる手のひらを背中に這わせて、名取のシャツをぎゅうと握り込んだ。
「なっ、なつめ」
「もう少しだけ……一緒にいたら駄目、ですか」
煩わしいぐらいの鼓動の音が響いて、耳の奥が破裂しそうに疼く。名取と待ち合わせるだけでそわそわしていたのにいざ会えば離れ難くて、まだ、帰りたくない。恋人になったとて、夏目にはそのむず痒い恋慕の情を名取に伝える言葉がなくてただこうして、引き留めるしか術を知らない。
「……駄目だよ、夏目」
頭の上から落とされる名取の声が辿々しくて、夏目は名取の顔をそっと見上げた。ぱちぱちと瞬きをして、夏目は自分の目を疑った。咎められるのかと見上げたそこに在ったのは瞼を伏せて頬染めた名取の姿で、両の手を降参したように夏目の横に挙げたまま顔を逸らそうとしている。
「え、なとりさ」
「あぁ、ちょっと……離れていいかな。ええと…ごめん、見ないで」
駄目だと言いながら夏目の腕を払うでもなく、顔を背けて赤くなった頬を隠そうとしている姿に、夏目が破顔する。
「嫌ですか?」
「そんなんじゃあないよ」
「じゃあいいですよね?」
そっぽを向いたままの名取が瞬目して、思案するように閉じた瞼をまた開いて夏目を見下ろす。夏目の視線が全く逸らされないことに観念したように、頷いた名取は大きく一呼吸して、夏目の背中に腕を回した。
「うん」
こつん、と夏目の額に名取の頬が寄せられる。夏目は名取の頬に額を擦り付けてゆっくりと背伸びをして、それに応えるように名取は身を屈めて顔を寄せる。
「……かっこ悪いね、久しぶりに会えたのに」
眉根を寄せて苦笑いした名取に答える代わりに、夏目は瞼を閉じて風呂敷包を持ったまま広い背中の後ろ両手を組む。名取の手が夏目の後ろ頭を掻いて、すっかりそうされることに酷く安堵してしてしまうようになってしまった。柔く重なる吐息に、その温みに、あぁこれだったんだと思う。名取を思い出す時に胸が温まるのは、きっと、この温度を思い出してしまうせいなんだ。