ペアエンドまであとすこし1.ヒルダ
戦後、級友達はそれぞれに忙しく会う機会は減り季節の変わり目に便りをもらう程度となっていた。ヒルダも兄ホルストの補佐をしたり戦時中は我慢していた豪華な宝飾品作りに熱中したりとそれなりに忙しくしている。
クロードがガルグ=マクで新生軍を立ち上げる前、帝国軍と戦うにあたって無駄飯食いを抱え込む余裕はないと言う彼の意向で何度か捕虜交換式が行われ捕虜は全て戻してしまった。しかし最近また首飾り近辺でパルミラ軍との小競り合いが起きているせいかパルミラ兵の捕虜が増えている。
ヒルダは彼らの面倒を見ていた。戦後すぐに姿を消したクロードを偲ぶのに丁度いい。
「それで"絶対に許さない"はパルミラ語でなんていうの?」
ヒルダは捕虜が言うままにその言葉を書きつけた。捕虜たちは最初、小柄で愛らしい見た目のヒルダが捕虜の管理を行うと知って侮った。しかし戦争も終わり頭のてっぺんから爪先まで美しく装った彼女がグラップラーの顎に一発拳を入れて気絶させる姿を見て認識を改めた。どうやら冗談やおためごかしの嘘ではなく彼女は本当にあのホルストの妹らしい、と。ヒルダは捕虜たちから名前と経歴を聞き取って記録を作り薬師や修道士を手配して怪我を治療させ食事と清潔な衣服を与えながらパルミラ語を学んでいた。
フォドラは訛りはあれどフォドラ語を話す者しかいないが広大な領土を誇るパルミラでは東西によって使う言語が違うのだという。パルミラの西部ではフォドラとほぼ同じ言語を使うのでヒルダはパルミラ西部の者から王都がある東部で使われる言語を習っている。
「何故そんな物騒な言葉が知りたいんですか?」
「うーん……言われた時にわかるようにしておきたいからかな?」
小首を傾げるヒルダの仕草と会話の内容が合っていない。
「ヒルダ様にそんなことを言う捕虜はいません!新入りがそんなことを言ったら俺が殴ってやります!」
ヒルダにパルミラ語を教える役を仰せつかった捕虜が必死になって言い返してきた。反抗的な新入りを炙り出すためにそんな言い回しを知りたいわけではない。将来、王宮で悪意を向けられた時のために知っておきたいのだ。目の前で憤慨する彼に実はパルミラの王子と将来を誓い合っている仲だと告げたらどうなるのだろうか。反応を想像しただけで面倒臭くなった。
「なんだか感動しちゃった……私たちって出会ったきっかけは最悪だったけどいい友達になれたのね」
「そう!いい友達になろうとかそう言う言葉なら喜んで教えますよ!」
「はぁい、それじゃあ書き取るから"良いお友達になれそう"はパルミラ語でどういうか教えて?」
クロードの手腕次第ではヒルダが王宮に入ったあと「絶対に許さない」と言われることもあるだろう。その時は笑顔で「良いお友達になれそう」と言ってやるつもりだ。
2.クロード
クロードはヒルダからまともに暮らせるようになるまでパルミラに行くことはあっても絶対に住まないと宣言されている。視線がフォドラから届いた手紙の上で左右に動いた。もう少しゴネリル領で待っていて欲しい、という手紙の返事にはわざわざパルミラ語で"絶対に許さない"と書いてある。
いきなり王宮に住むのは敷居が高かろうと思いクロードはヒルダのために王都に私邸を用意した。そこまでは喜んでもらったのだ。だがその私邸で小火騒ぎがあり住めたものではなくなってしまった。クロードの実験のせいで起きた小火騒ぎなのでなんの申し開きもできない。これが権力闘争の果てに付け火をされたと言う話ならきっとヒルダも許してくれただろう。ひたすら手紙で謝り倒すしかなかった。
フォドラにおける逓信事業はセイロス教会が担っている。大司教座があるガルグ=マクと各教区に点在する教会や修道院の間で交わされる文書を送り届けるついでに信徒の私信や小包を扱うようになった。一方、パルミラでは各地にある法学校の同郷会の者たちが担っている。
フォドラとパルミラの国境を越えるような私信や小包はごく僅かにしか存在しないがそれは元捕虜たちの互助会が担っていた。これはお強請り上手なヒルダが自分が面倒を見ていた捕虜たちをパルミラへ返還する際に手紙を持たせたことをきっかけとしている。ヒルダの仕切りで両国の国境を越えた初めての信書はローレンツがクロードに宛てて書いた読む人が読めば激しい憤りがこもっているとすぐに分かる代物だった。一度前例が出来てしまえばか細くも経路は確保される。
そのか細い経路を伝って届けられたヒルダからの手紙をさっさと出ていくはずだった王宮の私室で読み返すたびクロードの口からため息が出た。ヒルダに対する罪悪感に囚われたクロードをよそに廊下からは若い女官たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。日頃は大きな声で話すと女中頭から行儀が悪いと叱責されるのだが怒鳴り声が聞こえないと言うことは彼女たち皆が好む出入りの商人が王宮にやってきたのだろう。
耳を澄ませていたつもりだが意気消沈しているクロードは声をかけられるまでナデルが自分の様子を見にきたことに気づかなかった。
「腑抜けた顔をしてるな……延焼しなかったことに感謝して誠意は形にして届けるしかないだろうに」
「形?なんのことだ?」
「大広間に宝石商が来てるぜ」
フォドラにいた頃と違いくだらない話をする相手がナデルくらいしか居なくなってしまったクロードは街中に構えた館について彼相手に散々愛の巣だのなんだのと言っていたので誤魔化しが効かない。クロードは再びため息をついた。だが今度のため息は修繕費と宝石代でおそらく手持ちの現金が底をつくことに対するため息だった。
3.ローレンツ
自領へ戻ってすぐ恩師から泣きつかれたローレンツはデアドラで目が回りそうになる程忙しい毎日を送っている。ベレトはマリアンヌにも泣きついていた。それほどにクロードが抜けた穴は大きい。だがその穴もリーガン領の南に位置するグロスタール領の未来の領主であるローレンツとリーガン領の北に位置するエドマンド領の未来の領主であるマリアンヌの必死の努力によって埋まりつつある。
フォドラでの立場を投げ出したようにパルミラでの立場を投げ出してこちらに来ようともクロードの席はもうない。かろうじて言うならゴネリル家の婿に入るくらいだろうか。小気味良くはあるがやはり味気なかった。
「ローレンツ様、ゴネリル家のヒルダ様より小包が届いております」
「分かった。小包?心当たりがないな……」
そう呟きつつローレンツは修道士が差し出した受領証に署名した。ヒルダからこんな風に物が送られてきたことはない。いつもの彼女とは異なる随分と大仰な送り方でますます訳がわからなかった。だが手紙ならば心当たりがある。ローレンツはマリアンヌに結婚を申し込もうとしていた。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールが愛しい人に求婚するにあたって指輪がないなど有り得ない。宝飾品作りが趣味のヒルダは学生時代も戦争中も手に入った材料で指輪や首飾りを作ってはマリアンヌへ贈っていた。つまり彼女はマリアンヌの指の寸法を知っている。そこでローレンツは知恵を拝借したいという手紙を書いたのだった。
小包はゴネリル家の印章を押した封蝋で厳重に封じられている。ローレンツはいつも持ち歩いている小刀で紐を切り包みを開けた。木箱の中に手紙と天鵞絨の小さな箱が入っている。ローレンツは手紙より先に中身を見て絶句した。大ぶりな金剛石が嵌まった女性用の指輪が入っている。慌てて同封されていた手紙に目を通した。短い手紙は実にヒルダらしい愛らしくも読みやすい書体で綴られている。
「滅多に手に入らない大粒な良い石を入手できたのでローレンツ君の願いが叶うこと、マリアンヌちゃんが幸せになることを願ってこの指輪を贈ります。代金を払おうとしたら絶対に許さないからね!
追伸・どうしてあんな質問をしておいて私が作らないと思ったの?」
ローレンツは忙しい合間を縫ってデアドラの宝石商を巡っていたがマリアンヌに相応しいものは中々見つからなかった。グロスタール家には歴代の嫡子を経由して伯爵夫人に受け継がれる見事な紅玉の指輪があるのだがそれを取りに戻れば家人全てに勘付かれありとあらゆることが親同士の打ち合わせで決まってしまう。領民のために人生を捧げるのは嫌ではなかった。その立場に立てることは天佑であり誇りに思う。だが誰がなんと言おうと政略結婚ではなく恋愛結婚であった証として求婚だけは自分で全てを取り仕切りたい、それがローレンツの細やかな望みだった。
「ますます頭が上がらなくなってしまったな」
この借りを返すべくヒルダのために出来ることはなんでもやろうとローレンツは誓った。
4.マリアンヌ
マリアンヌは窓掛の隙間から差し込んだ朝日を頼りに自分の左手を見た。ヒルダが作ってくれたと言う婚約指輪の真ん中に据えられた金剛石は本当に大粒で存在感を放っている。紛失したらと思うと恐ろしくて外すことが出来なかった。少し角度が変わるだけで美しく輝くので目が離せない。夢中で眺めていたので召使が自室の扉を叩く音にも気付かなかった。
エドマンド辺境伯は家を空けていない時は必ずマリアンヌと朝食を取ることにしている。引き取られたばかりの頃は父のことを話そうとしては涙を流して口をつぐんでしまう養父と何を話せば良いのか分からずマリアンヌは食事以外に口を使わなかった。だがいまは違う。ローレンツの話をすれば良い。自分も相当な変わり者だがローレンツはそれに輪をかけた変わり者で共に戦い、働いた彼の話ならいくらでも出て来る。それに宝飾品に詳しい養父がヒルダが作りローレンツに託した婚約指輪を褒めてくれるのが嬉しかった。
「マリアンヌ、手が止まっているよ。せっかくなのだから焼きたてのうちに食べなさい」
養父に指摘されマリアンヌは瞬きをした。榛色の瞳で向かいに座るエドマンド辺境伯の皿を見てみれば殆ど空になっていると言うのに自分の皿にはまだ乾酪入りの麺麭が半分近く残っている。二人の皿に乗っているのはエドマンド領にしかない麺麭で二重になった麺麭生地の内側に生の乾酪をいれ軽く焦げ目がつくまで焼いたものだ。
「嫁いだらきっと朝食の献立も変わるのでしょうね」
「土地によって名産品が異なるからこそ私は巨万の富を築くことが出来たのだよ、マリアンヌ」
「ガルグ=マクやデアドラでローレンツさんからいただいたのですが……グロスタール領の茶菓子は本当に美味しいのです。だから懐かしく思うことがあってもきっと向こうの食事に馴染める筈です」
エドマンド辺境伯はそんな風に自領への未練を断ち切ろうとする養女を見て思うところがあったらしい。
数節後、輿入れするためエドマンド領からやってきたマリアンヌを迎え入れたグロスタール伯爵家の人々は驚愕することになる。エドマンド辺境伯が用意した嫁入り道具の中にエドマンド種の種牛と雌牛がいたからだ。ローレンツとマリアンヌは自領で酪農の振興に成功し後に"牛馬の父母"と讃えられるようになる。ローレンツはその二つ名を喜んでいなかったが彼らの代で成し遂げられた品種改良の成果はそれほどに素晴らしくそのきっかけとなったのはグロスタール伯爵夫人となったマリアンヌの嫁入り道具だった。