愛を纏う 大きな窓から柔らかに朝陽が差し込み、乱れた白いシーツがそれを照り返す。小鳥がささやかに唄うのを聞きながら、ジャミル・バイパーはするりとベッドから抜け出す。衣擦れの音が微かに鼓膜を震わせて、レオナ・キングスカラーが瞼を震わせた。
「……もう行くのか」
起き抜けの、掠れた声がジャミルを咎める。目を閉ざしたままの男に、ほんのりと眉を下げる。ただのポーズだ。気配でその表情を覚ったレオナが、不機嫌そうに喉を鳴らす。
「仕事がありますから」
「はっ……その雇い主を陥れようとした男が」
「何年も前のことを未だに蒸し返すのは、俺か貴方くらいですよ」
呆れたような声がレオナの耳を打つ。そうだろう。当の本人であるカリムは、あのとおり。当時も、今も、まるで気にしちゃいない。それがレオナには気に食わないのだが、いい子の従者くんはそれで納得していると言うのだから、どっちもどっちだ。
ようやく瞼を押し上げたエメラルドグリーンの瞳が映したジャミルは、愉快さを僅かに滲ませた表情でレオナを見つめていた。衣服と、事後の気だるさを中途半端にその身に纏って、それでも朝陽の中で穏やかな顔をする。そんなジャミルが憎らしくて、愛おしくて、なんて。素直に口にする性分でもないので、舌打ちで誤魔化した。
「カリムなんて捨てちまえ」
「はは、それはいい」
旅をしたいと言ったその口で、曖昧な答えを紡ぐ。逃げたいのではなかったのか。自由になりたいのではなかったのか。自らが高みを目指したいのではなかったのか。言いたいことは星の数ほどあれど、それでも飲み込んだのはレオナももう、学生の身分を捨てきってしまったからだろうか。
わざとらしく衣擦れの音を立てて、それでも足音だけは消したままでジャミルはベッド脇へと歩み寄る。本当は衣擦れの音すら消せるくせに。口端を歪ませて、レオナは恋人を迎え入れる。ベッドの端に腰掛けたジャミルの横顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
「貴方がここを捨てられないのと同じですよ」
「お前が俺の気持ちを知った気になるのか? お前の気持ちを理解できねぇ俺の?」
「――貴方は本当に、意地悪だな」
呆れ返った半眼を向けられて、レオナは鼻をひとつ鳴らした。俺の気持ちなんて分からないくせにと喚いたあのジャミルは、どこに消えたのだろうかと。それを確かめたくて、レオナは腕を伸ばしてその頬に触れる。細まった瞳。規則的な呼気。滑らかな肌。昨夜抱いたのと変わらないそれが、そこには在った。
「俺は、ここへ来れるだけ幸せものですよ」
リップサービスだ。分かっている。本音が多少混じっていたとしても、全てでは無い。レオナは吐息をこぼした。そして、諦めた。何を言ったところでジャミル・バイパーという男はレオナのただ一人になることはない。そして、そういうところをレオナは気に入ってしまった。
手に入らない獲物ほど執心してしまう。それはライオンの遺伝子が組み込まれた獣人だからこその本能だろうか。それとも、それほどまでにレオナはジャミルを――
「それなら」
思考をかき消すようにして、レオナはジャミルの頬から手を離す。名残惜しそうな瞳がレオナを見つめた。そんな顔をするくらいなら、とまた堂々巡りになりそうなことを言いたくなる。
サイドチェストから手のひらに収まるほどの小箱を取り出す。ジャミルが小さく息を飲む。ここで「それ、なんですか?」などと間抜けなことを言わないから、この男はいつまで経ってもレオナのお気に入りなのだ。
「お前が今のご主人様を捨てたら、今度は俺をご主人様にしろよ」
女のようにレオナの下で鳴くくせに、その手はしっかり男のそれであることをレオナは知っている。だから、ごつごつと骨ばったそれを確かめるようにしながら、左の薬指にゆっくりと永遠を嵌め込んだ。この世のどの石よりも硬い煌めきが、朝の光を受けて愛を証明している。
「……捨てられなかったら?」
喉を詰まらせながらジャミルが問う。困ったように眉を下げるその顔には、ほんの少しの嬉しさが滲んでいる。分かっているくせに。レオナは口端を持ち上げた。
「第二王子の番を従者にするとは、アジーム家の発展は止めようがねぇな」
捨てろと言うくせに、捨てないことを許してくれる。そんなレオナの言葉に、ジャミルはますます眉を下げる。まったく、貴方は。そうやって言うけれど、心はくすぐったいし、誰にもかれにも自分のパートナーを自慢したい気持ちになってしまう。
俺は、こんなに愛されている。
そうやって自信を持って言えるなんて、きっとむかしのジャミルでは想像もできなかった。もしも未来からやってきた誰かがそんなことを言っても、鼻で笑って病院を勧めていた。でも、今なら。積み重ねてきた時の上に立つ今なら、目の前にいるレオナの愛をたしかに信じられる。
「俺にはもったいない品ですね」
「あ? 俺の審美眼を疑うってのかよ?」
レオナの意地悪に、ついくすくすと笑ってしまう。そういうつもりじゃないですよ、と。微笑んだジャミルの顔は、幸せの形をしていた。
瑞々しいその表情のまま、ジャミルはそっと薬指に嵌る愛に口付けを落とした。なるべく気障に見えるようにして。
「ここに来れない日でも、貴方の愛を纏えるなんて光栄ですよ」
「……お前、ほんといい性格してるぜ」
呆れたような溜息と、弾けるような笑い声。手放しがたい永遠がそこには存在している。
ジャミルは一頻り笑って満足すると、レオナに背を向けて部屋を出る。そのとき、見せつけるように薬指に口付けを落とすのをもちろん忘れなかった。あなたがここまで生き汚くさせたんですよ、と。心の中でだけ呟いて。
「また、来ますよ。俺の旦那様」
揶揄う様な言葉に、レオナは乱雑に自分の頭を掻いた。自分の手のひらで転がされている、小生意気な後輩。それがいつしか、レオナの執心を弄ぶ男になってしまった。いったい誰の入れ知恵なんだか。
嬉しそうに口元を綻ばせているレオナを知るのは、窓辺に集った小鳥たちだけだった。