いつかクジラになる夢を見るその日は丁度仕事が溜まっていたのだ。丁度討伐任務が重なって、丁度繁忙期が重なって。積もり積もった仕事はこの身を燻るように降り掛かってくる。今も討伐任務終わりに町に向かって歩いているが眠たくて仕方ない。寝たい。最後に寝たのは何時だったか。
ふと、アカツキワイナリーの前を通りがかる。
「いや、こんな姿、旦那様には見せられないな。」
思わずほくそ笑む。どうせ、やれ効率が悪いだの、これだから騎士団には任せられないとか仏頂面で言うに違いない。会うだけで心労が増えそうだ。
いや待てこれはダメだ。眠たすぎる。一歩が牛のように重くて遅い。このままでは町に着くのが何時になるのか分からない。
もういっそのこと、仮眠をとった方が楽なのではないだろうか。
疲れた頭では、思考は安易な方向に流れてしまう。
うつらうつらする体を道から少し外れた木陰まで運ぶと自然と意識が浮上する感覚に襲われた。
――
昔、海のある国に父と義兄と共に訪れたことがある。視察のついでに、クジラの群れがすぐそばまで来ているので見に行くことになったのだ。
沿岸で養父に抱っこされて眺めた時の情景が蘇る。大きな尾が出てきたと思ったらその後水しぶきを上げながら海に隠れていき、次は巨体を海面から重々しく持ち上げて潮を吹く。
その時の光景を覚えている。ガイアはその姿がとても雄大で神秘的に感じた。
その後、屋敷に帰ってもガイアはクジラに夢中だった。土産に購入したクジラの写真を熱心に眺める。暇さえあればそれを飽きずに眺めていたのだ。
「ガイアは本当にクジラが気に入ったんだねぇ。」
ディルックは読んでいた本から伺うように微笑んできた。
「うん!クジラっておっきくてかっこいいなって。俺もクジラみたいにでっかくなりたいな。」
「うーん、クジラになるのは難しいんじゃないかな…」
「えー!」
ディルックの返答が気に入らなかったのか、ガイアはむくれたように振り返った。
「あ!アデリン!アデリンはそうは思わないよな!なれるよな!クジラ!」
よき理解者になりそうな人物をみつけてガイアは必死になった。それに対しアデリンは柔らかく微笑む。
「そうですね、もしかしたらなれるかもしれませんよ、クジラ。」
「えー??」
「だよな!!」
追いかけてきたディルックはその解答に怪訝な顔を向けた。
「ど、どういうこと?」
「いいですか、ディルック様、ガイア様。子どもというものは何にでもなれる存在なのです。あなた方には未来には夢が詰まっているのです。」
「な、何にでも…?」
「ええ。あなた方の可能性は無限なのです。だから努力を重ねれば、報われることもありましょう。だから、信じて努力をするのです。」
「…そうしたらなれるのか?クジラに」
ガイアはゴクリと唾を飲み込む。
「ええ、ガイア様なら。きっと。」
彼女はとても優しい声で答えた。
――
「懐かしいな、クジラの話。」
頭上から声が降り注ぐ。誰かが柔らかく髪を梳く。寝ぼけ眼で顔を擦るとディルックがすぐそばに座っていた。
「へ、クジラ?」
「ガイアさんは気づいてなかったのか?ずっとクジラクジラと話していたぞ。」
どうやら寝言を聞かれていたらしい。それこそもう何年も前の話を持ち出されて思わずへらりと笑う。
「昔、ガイアさんはずっとその話ばっかりだったな。クジラになりたいと。」
からかってやろうという魂胆が見えているのにどうしてか頭を撫でつけるその手は優しい。いけない、仮眠のつもりが寝すぎてしまう。
「そんな昔の話なんてもういいだろ。」
「ガイアさんは今もそうなのか?」
「まさか、そんな子どもじみた事を思う歳じゃあないぜ。」
そう誤魔化しながらも、遠くの方で当時の事が思い起こされる。
使命を託され、たった1人で見知らぬ土地に置いていかれた日のことを。己は、最後の希望としての役割をこなさねばならない。そのためには、今のような弱く幼い子どもではいけないのだ。
例え、どんなにその使命が重くても苦しくても投げ出す訳にはいかない。それがガイアの覚悟だった。
巨大で強く、その上賢さも備えた存在でならねば、使命はなし得ない。
覚悟を貫くにはそれなりの力が必要なことをガイアは知っていたのだ。
だから、願ったのだ。クジラのように強かったら。クジラのように大きかったら。きっと自分は父の、そして祖国の期待に応えられるのだ。そしたら、そしたら、きっと。父は、自分を。
「子どもじみた事といえば、当時は言えなかったんだが。」
過去に意識を飛ばしていたガイアを置いて、ディルックはそのまま思い出話に耽けるつもりらしい。
「クジラとはいえ、あれにも天敵がいる。完全無欠な生物なんていないんだと、夢を見ているお前に言う気にはなれなかったのさ。」
「おや、旦那様は幼い子どもの夢すらも律儀に守ってくれてたわけか。涙が出ちまうな。」
ははっと笑ってあしらう。そして再び目を開くとガイアの目を覗き込むようにディルックが近づいていた。
「ガイア。」
「な、なんだよ。」
「君は君だよ。どんなに頑張ってもどんなに足掻いても、君はガイアにしかなれない。他のものにはとって変えられないんだ。」
それは、 俺は一生不出来なままだということだろうか。使命も何もなせぬまま。このままの俺。
「ガイア。」
「それでも、クジラになる夢を見たんだ。」
静かにその言葉はガイアから滑り落ちた。ここが夢の終着点なのだ。
「好きにしろ。所詮は夢だ。」
ディルックの熱い手が目に触れる。光と闇が明滅し、意識が夢と現を行き交う。何処と無く柔らかな声だった。
あぁ、もうこのままもう一度眠ってしまおう。夢の終わりは見えた。モラトリアムは限られている。それでも、あと少しだけでいいから、夢を見ていたいのだ。