キス我慢選手権_今山「今井くん、ダメ」
ぐいっと、山本さんに大きな手のひらで遠ざけられて、俺はぱちりと目を瞬かせた。
時刻は夜十時頃。日曜日の今日は珍しく俺も山本さんも仕事が休みだった。朝は二度寝をしてごろごろと過ごして、お昼頃になって適当にお昼ご飯を食べて。午後は最近話題の映画を見たり、山本さんがパスタを作ってくれたりアイスを食べたりしてのんびりとした一日を過ごしていた。ちょっと食べすぎたかな、と思ったけど俺はともかく山本さんは細いのでまぁいいかなと思っておくことにした。
お風呂に入って、麦茶を飲みながらぼーっとテレビを見ていると、山本さんがお風呂から戻ってきて俺の髪の毛をすこしだけ乱暴にわしゃわしゃとタオルで乾かしていく。早く乾かさないと明日爆発するよ、と山本さんは笑っていて、そんな山本さんを見て…俺は、なんとなく隣に座る山本さんの顔に自分の顔を寄せていく。山本さんは急に寄ってきた俺の顔に少しだけ驚いた表情を見せて、そして── 大きな手のひらで俺の顔を遠ざけた。
「何がダメなんですか?」
ダメと言葉少なに俺を遠ざける山本さんに、俺は首を傾げる。
「何って…君、キスしようとしたでしょ」
「そうですけど」
そうですけどじゃなくてね、と目を逸らす山本さんに俺は更に首を傾けていく。
「キス、嫌ですか?」
「え、うーんと…嫌じゃないよ、嫌ではないんだけど…今井くんは、キスしたいの?」
「え、まあ、はい」
なんで?と聞かれたので、なんとなくと答える。本当は山本さんの笑った顔が可愛いと思って、胸がぎゅ〜っとしたからなんだけど、山本さんは可愛いと言われるのがあまり好きではないみたいだから言わないでおいた。目の前の山本さんは、遠ざけるために触れていた俺の顔面から手のひらを離してはぁ、と小さく息を吐く。
「…今は、キスはダメだ」
「え、そ、そう、ですか」
わかりました、と俺は瞳を伏せる。山本さんにキスはしたいが、山本さんの嫌がることはしたくない。山本さんがダメだと言うなら仕方ない、我慢しようと俺はぐっと唇を引き締めた。ただ、どうして山本さんがそんなにキスはダメと言うのかが分からなくて問いかける。
「…ちなみになんですけど、なんでキスしちゃダメなんですか?」
「それは、」
山本さんは居心地が悪そうに瞳を泳がせて、あーっと、その…と何事か口をもごもごと動かしている。俺はそんな山本さんの反応に心当たりがまったくなくて、首を傾げる。
「歯は磨いてますよ」
「いや、そうじゃないんだ」
「髪の毛濡れてるの嫌なんですか」
「それはまぁ、そうだけど」
「……そんなに、俺とキスするのが嫌なんですか」
俺の言葉に、どんどんと目の前の山本さんが顔を顰めていくのを見るのがなんだか寂しくて、悲しい気持ちになってしまって思わず声が震えてしまった。山本さんの顔を見るのも少し辛くて、目を逸らしてしまう。視界の隅に映る自分の毛先から、ぽたりと水が垂れて肩に掛けたままのタオルを濡らした。そんな俺を見てか、慌てた山本さんが口を開く。
「い、嫌じゃないよ」
「じゃあなんでキスしちゃダメなんですか」
「それは、その」
うーんと頭を抱え始めた山本さんを見て、これ以上困らせるのは可哀想だなと思って俺は小さく息を吐く。まぁ、キスするのは嫌ではないという言葉は聞けたので少しだけ安心はできた。山本さんは俺よりも年上で、大人の人だからきっとこういう日もあるのだろう。そういうことにしておこう。山本さんちょっと普通の人とは感覚ずれてるみたいだし。
髪の毛を乾かそうと、俺は立ち上がる。途端に、くいっと袖を山本さんに引っ張られて俺は前につんのめった。どうしたんですかと俺は山本さんに声をかけると、頭を抱えて唸っていた山本さんはこちらを見つめて何か言おうと口を動かしていた。山本さんが何か伝えようとしている、と俺は理解して慌てて腰を下ろす。
「その、キスするとさ」
「はい」
山本さんはゆっくりと言葉を紡いでいく。隣に座って、目線は同じになったが一向に目は合わなかった。
「……したくなっちゃうから」
「え?」
ものすごく小さな声で、山本さんが呟いた。俺はその言葉が聞き取れなかった訳ではなくて、言った言葉の理解が出来なくて思わず聞き返してしまう。え?今、山本さんなんて言いました?そんな俺に山本さんは元々細めの目をぎっと吊り上げて声を荒げる。
「だから、キスするとしたくなるからキスはダメだって言ったんだよ」
「………え?」
「俺も君も明日は仕事だし、特に君は明日は朝からなんだから無理だろうって思って、だからダメだって言ったの。わかった?」
そう強く言われて、俺は勢いでこくりと首を頷く。山本さんは少しだけ顔を赤くして、あーもう、俺寝るからおやすみと言って布団に潜り込んでしまう。
俺は何が起きたのかなかなか理解ができなくて、少ししてからようやく意味が分かって慌てて横になった山本さんに飛びついた。山本さん!と俺が布団ごと抱きしめると山本さんはうわぁ何!?と驚いて体を起こす。そんな山本さんに、俺は再び抱きついてぎゅ〜っと山本さんを腕の中に閉じ込めた。
「山本さん」
「な、何、今井くん。言っとくけどキスはダメだからね」
「わかってますよ!」
そう言って俺は山本さんの背中を優しく撫でる。キスはしないと言った俺の言葉に安心したのか、山本さんの体から少しだけ体の力が抜けていく。よしよしなんて子供をあやすように山本さんの頭を俺の胸に抱き寄せて、そんな山本さんの頭に気づかれないように俺はそっとキスをして呟いた。
「それじゃあ、次のお休みはいっぱいキスしますから覚悟しててくださいね」
「……うん、期待しておく」
表情は見えなかったけど、山本さんの肩が揺れていて笑っているんだなとわかった。嬉しかった。年齢のせいなのか、それとも個人差の問題なのか山本さんはそういったことにあまり積極的ではなくて、いつも俺からお願いしたりすることが多かった。だから、山本さんに今日こんなことを言われて正直少しだけほっとした気持ちが強かった。良かった、俺だけが山本さんと繋がりたいなんていう欲求を持っている訳ではなくて…と俺は安心感から小さく息を吐く。
ふと、机に置きっぱなしにしていたスマホが震えている。何だろうと腕を伸ばしてスマホを起動すると、そこには仕事先の店長からのメッセージが入っていた。俺は、その文言に目を通してぴしりと固まってしまう。
「山本さん」
「どうしたの?」
「あの、その…明日の仕事なんですけど」
俺、遅番になりました。と伝えると、山本さんはきょとんとした表情でこちらを見つめる。仕事仲間の柴垣が、どうやら急に本業の仕事が入ったらしくて遅番と早番を交換できないか〜という連絡だった。俺は画面を見ずに片手で、OKです!とポーズを決める動物のスタンプを返してスマホを机に放り投げる。そして、再び山本さんに向き直った。
「…というわけで、明日の早番が遅番になりました」
「ああ、そう」
「なので、その」
キスしてもいいですかね、と俺が尋ねると山本さんは少しだけ笑って答えた。その笑顔があまりにも可愛くて、俺は胸がまたぎゅ〜っと苦しくなるのを抑えてそっと山本さんの頬に手を添えた。
時刻は、もう十一時になろうとしていた。
「髪の毛乾かさないと、明日爆発しちゃうよ」
「いいですよ、どうせまた明日シャワー浴びますから」
「それも、そうか」
「はい!」