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    6月の月鯉🌙🎏小説進捗〜

    大正15年、春。
    帝都で一人の将校が殺され、上半身の皮を剥がされた死体が見つかる。
    退役し今は隠居の身の淀川から、かつての金塊争奪戦と関係があるのでは、と秘密裏に調査を命じられた鯉登少佐だがーー。
    というなんちゃってミステリ風な、情念不倫もの(になる予定)
    鯉登が妻子ある身のため、何でも来い!な方向けです。
    まだゴリゴリ書いてるので、修正入る可能性あります

    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    帝都メランコリア1
     帝都の春は騒がしい。
     零れんばかりの桜が上野の恩賜公園の周りには咲きほこり、夕方まで残る春の陽気に浮かれた人々がその下を行き交う。
     つい先月には、ここ帝都で若い将校の殺死体が発見され、ちょっとした騒ぎになったばかりだというのに。
     都会の人々の興味は忙しなく、瞬く間に移ろっていくものらしい。
     そんな桜の花弁がそこここに舞い散る帝都の春の通りを、鯉登は砂埃をあげて走る車の中から眺める。
     正直、進んで出向きたい場所では決してなかったが、鯉登の職場である陸軍省にわざわざ電話を寄越された上、車までを回されて呼び立てられれば、出向かざるを得なかった。

     車の着いた先で、庭の石畳を進んで玄関までいくと、一人の老人が扉の前で待っていた。
    「鯉登、久しいな」
    「ハッ、淀川閣下、ご無沙汰しております」
    「最後に会ったのは旭川か。……久方ぶりに会うのが帝都とはな。まあいい、入ってくれ。……鯉登、……少佐か」
    「はい、二年前の春に陸大勤務になるのと共に昇格賜りました」
     第七師団時に鯉登や鶴見の上官であった淀川は、あの金塊争奪戦後、その責務を一部問われ、その代償に昇進の憂き目にあった。その後、それでも少将にまで昇格したが、そこで最後、軍職を辞して退役した。退役後は北海道に残るのではなく、娘のいる帝都に居を移していたらしい。第七師団は元々、さまざまな出身地の者で構成されていた師団だったが、淀川もまた北海道出身者ではなかった。それならば、と、可愛い娘と孫の側で引退後の居を構えよう、と考えたのだろう。

     一般的な民家に比べれば、十分立派ではあるが、薩摩の名家の出である鯉登からしたら、曲がりなりにも少将の位にまでなった者の住む家にしては、幾分控えめに感じる日本家屋の玄関を上がり、板張りの廊下に通される。以前のかくしゃくとした軍服姿と違い、着物姿で杖をつき、頭髪も全て白髪に薄くなってしまったその背に続いて、案内された応接間に入る。
     畳に唐草模様の絨毯が敷かれ、テーブルと椅子の置かれた応接間は、小ぶりながらも、程よく品のいい調度品が置かれ、なかなかに洒落ている。以前の旭川にいた頃の淀川の印象からは少し意外だった。

    「で、早速、本題なのだがな」
     出されたお茶を一口飲むのもそこそこに、淀川が話し始める。
    「はい」
     鶴見中尉の忠実な部下であった(少なくとも淀川はずっとそう思っていたままだろう)鯉登と、その鶴見に弱みを握られていた淀川は、上官と部下として付き合いは長いが、ずっと一線を画して、本音も真実もついぞ言い合うことなく来た仲だ。引退後もお茶を飲んで思い出話をするためだけにわざわざ呼び出されるような仲では決してない。こうして呼ばれたからには、明確な目的があるのは、鯉登もわかっていた。
     それもきっと、あまり喜ばしくはないものだろう、と。
    「……陸軍将校が一人、殺されただろう」
    「はい。先月末に渋谷の方であった件ですね」
    「そうだ。N中尉という将校が渋谷で殺された件だ。警察と憲兵、陸軍内でも調査を進めているが犯人はまだわかっておらん」
    「……ええ」
    「なあ、鯉登、お前も知っているのだろう?」
    「…………」
     知っている。
     報道規制がされており、世間一般の新聞ではそこまで伝えられていないが。
     殺された将校は。
    「……――上半身の皮を剥がされていた件のことですね?」
     そうだ、と淀川は頷く。
     殺された将校の死体は渋谷の界隈の、ひと気のないところに捨て置かれていた。死因は胸をナイフなどの刃物で刺されたことによる刺殺。だが、それだけではなく、その将校の死体は、上半身の皮を剥がされていた。
     その死体の異様さに、警察も憲兵もそして陸軍内でも、犯人の異常性を鑑み、下手に模倣犯などが出ないように緘口令と報道規制を敷いた。
     だが、さすがに陸軍の内部では、下の者はともかく、ある一定の上の者たちは、調査も兼ねて知っている事実だった。
     淀川も退役したとは言ってももちろん、かつての師団の少将であり、いくらでも軍内に伝手はある。どこからかその話を聞いたのだろう。 
    「……鯉登、あの明治末の北海道での金塊争奪戦の折、刺青人皮の囚人は全員捕まえ切ったのか?」
     やはり、と思った。
     鯉登が最初にこの事件について聞いた際に、頭をよぎったことと同じことを淀川も考えたのだろう。
    「…………正直に申し上げると、あの金塊争奪戦の折、二十四人の脱獄囚については全員の所在を我々が把握仕切ってはおりませんでした。土方や杉元達一派だけでとらえた者、またもしかしたら逃げ切られたままの者もいる可能性は否定できません」
    「私も当時、鶴見から報告を聞いただけで、詳細は正直知らないままだったが。……鯉登、お前、この上半身の皮を剥がされていた将校の話を最初に聞いた際に、刺青人皮のことを思い出さなかったか?」
    「正直、私も最初はギョッとはいたしましたが。ただ、あの時は、金塊の所在を示す暗号である刺青が彫られていたために、彼らの皮を剥いだのであって……。まさか今回の件で殺された中尉にあの時の暗号が彫られているはずはなく。確かになぜあの時の我々のように、皮を剥いだのかは気にはなりますが、あのときの囚人や、金塊争奪戦時の関係者が関わっていると考えにくいかと」
    「…………本当にそう言い切れるか?」
     じっと、かつての第七師団の少将にまで昇った老人に睨まれる。
     完全に鶴見中尉にいい様にされているだけの中佐だとは、当時は正直、思っていたが。それでもその後、朝鮮動乱からシベリア出兵と北鎮部隊の中で少将にまで昇りつめた男だった。
    「…………一抹の疑いを拭い去ることはできんのだろう? あの金塊争奪戦は、結局、あの情報将校だった鶴見が一人で指揮をとったものだったし、土方や杉元達の動きを全て把握していたわけではないからな。まだ自分達の知らない何かがあって、今更それがこの帝都で起こっているやも」
    「………………」
     その点は淀川の言う通りだった。
     あの時、始末をつけきれなかった何かが、今、大正十五年のここ帝都で……――。
    「鯉登、当時のことをお前と同じか、それ以上に知っている者で残っているのは月島くらいか? 今でも月島はお前の子飼いなのだろう? お前が陸大勤務に異動なった折に、月島までこちらに呼び寄せたと聞いたぞ」
    「…………はい」
     ふん、と淀川が笑う。それは嘲笑のようでも、また羨望のようでも、憐憫のようにも聞こえた。
    「奴と共に、この件の真相を秘密裏に、警察や憲兵、陸軍内部より早く解明しろ。今更、あの頃の亡霊になぞ脅かされるような日々を帝都で送りたくないわ」

    2
    「月島先生、鯉登少佐殿からお電話が入っています」
     職場である陸軍大学校の教官部屋に残って仕事を片付けていたら、電話が入っていると告げに来られた。
    「はい、ありがとうございます」
     礼を言って電話が置いてある部屋へと向かう。
    「戦地を共にした上官と下士官の仲は夫婦以上ともお聞きしますが、鯉登少佐殿とは変わらず懇意にされているのですね」
     月島を呼びにきた陸大の事務方の者が、廊下を共に歩きながらそんなことを言う。つい先月までは鯉登もこの陸大で教官職に就いていた。なのでこの事務方の者も当然、鯉登のことは知っていて、鯉登と月島が元は上官と下士官の関係である、ということも知っている。
    ……――夫婦同然。懇意にされている。
     そこに変な揶揄や他意は別に無いことは明らかだった。
     鯉登と月島が元上官と下士官の関係であり、退役した月島にここ陸大での露西亜語の教官職を鯉登が自分の伝手で斡旋したことが周知の事実であると同じく、鯉登にはれっきとした妻がいることもまた周知の事実だからだ。
     陸大の廊下の窓からは風に吹かれて花弁を吹き上げるように撒き散らす桜が夕方の薄暗がりの中、見えている。
     そんな廊下を通り過ぎ、電話にやっと出ると、少し緊張したような鯉登の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
     鯉登からは今は神田の方にいるが、今から車で陸大のある青山の方にまで戻ると告げられ、青山の料理屋で待ち合わせの約束をする。
    ……――ああ、これは何かあったな。
     鯉登からは特段、用件自体は伝えられなかったが、鯉登の口ぶりや声の様子から長年の勘で、そうわかった。
     そうわかるくらいには、その隣にいる年月が経っていた。
     ガシャンと受話器をもとに戻して、部屋を出る。
     初めて出会った頃はまだ十代の少年だった鯉登は、今ではもう不惑の四十になる。いつしかとっくに、鶴見と共にいた年月よりも、鯉登と共にいる年月の方がずっと長くなっていた。

     待ち合わせの約束は青山より赤坂に近いところの料理屋だった。ここらは、軍関係や官省の関係者が多く、その界隈の者が利用する料理屋や高級料亭も多い。
     あまり他人には聞かれたくないような何か内密な話をしたい時には、鯉登が指定する店だった。
     顔馴染みの女中も慣れたもので、板張りの廊下を進み座敷の個室に案内される。
     しばらく待てば軍服姿の鯉登がまもなくして障子戸を開けて入ってきた。月島が電話を受けた際に思ったとおり、やはり少し浮かない顔をしている。
     酒と料理を運び込む女中の手前、当たり障りのない会話をし、女中が障子を閉じてさがりきってから、月島は鯉登に本題を尋ねる。
    「で、今日はまた、どうされたのです?」
     鯉登は月島に注がれた酒を一口飲むと、うん、と小さく頷いた。
     二十代の頃は無邪気で快活な印象のあった鯉登だが、今ではこうして節目がちに憂いを帯びた表情を見せることも少なくない。それだけ憂いごとと背負うものがこの二十年で増えたということだ。
     前髪をあげて後ろへ撫でつけた髪型が少しだけ乱れて幾筋かの髪が顔にかかるさま。なかなか生えそろわないとぼやく、鼻下と顎下に薄く生えた口髭。上着を脱いだ白い襦袢姿。けれども、そういった鯉登のさまに憂いを感じるのと同時に、なぜだが若い頃にはなかった色気が増したとも月島の目には映ってしまうのも事実だった。
     かつての元上官相手に不敬なことは百も承知だし、もちろん、そんなことを思っていることは決して表情には出さないけれども。
    「今日な、実は淀川閣下に呼び出されてな」
    「淀川閣下に? どうしてまた……」
     第七師団時代の上官ではあるが、淀川も月島自身も退役し、随分と縁遠くなっていた意外な名前に軽く驚く。
    「例の渋谷で将校が一人殺された事件の件だ」
     料理と酒の載った卓を挟んで向かい合った鯉登が、じっと月島の瞳を見つめてくる。電燈の灯りのもと、鯉登の紫がかった黒い瞳がわずかに緊張の色を帯びている。
    「この件、月島とあまりゆっくり話したことは無かったが、月島も知ってはいるだろう?」
    「……私は新聞の報道以上のことはほとんど何も知りませんが」
     陸大の教官職を得ているとはいえ、語学教官の職を持っているだけで、鯉登のような陸軍参謀達とは違う。元々は単なる下士官にすぎず、さらに今は元軍人とはいえ、一般人の部類だ。特段、新聞で見る以上のことは何も知らない。
     だが、この件については不可解なことがあったらしく、陸大でも一部の者達が噂をしていたのを聞いたことはある。
     帝都にいる陸軍関係者の間では、そこそこ知られている事実らしい。
     ……――その将校は、上半身の皮を剥がされていた、と。
     けれども、月島はあくまで陸大内で噂をまた聞きした程度だ。事実かどうかは知り得なかった。
    「……ただ、事実かどうかは知りませんが陸大内で不可解な噂は聞きました。その殺された将校は上半身の皮を剥がされていた、と」
    「それについては事実だ。……なあ、月島、金塊争奪戦の囚人の生き残りや、あの時の関係者が関わっていると思うか?」
    「さあ……さすがに、殺された将校が上半身の皮を剥がされていたからといって、現在の状況だけではなんとも。正直、あれからもう二十年ですよ、今更なんでまた、とは思いますが」
     皮を剥ぐ。
     その言葉で確かに思い出すものは、二十年ほど前の北海道での金塊争奪戦の囚人たちの入れ墨だった。だが、その事実だけで結びつけるのは、いくらなんでも安直過ぎませんか、と、告げる。
    「それは私も同意見だ。ただ淀川閣下の言うように、現状、関係が一切無い、とも言い切ることはできない」
    「それはまあ、そうでしょうが……」
    「正直、淀川閣下は今更あの頃の話が何か蒸し返されるようなことがあって、悠々と隠居している自分の身に何か降りかかることを恐れての、保身からの調査指示だとはわかっている」
    「まあそうでしょうね」
    「ただ、私自身も一抹の疑いを拭いさることはできんのも事実だし。それに殺された将校には私もだが、お前も陸大で教えていただろう」
    「ええ、もちろん語学の授業だけではありますが。それでも確かに講義をした生徒ではありましたからね」
    「だろう? 月島、おいと二人であやつの無念を晴らしてやろうじゃないか」
     そう言った鯉登は好奇心と使命感に満ちた若い頃の面影を少し見せて、口角を少し上げて笑った。

    「そういえば、今夜は奥様は……?」
     もともと遅い時間に始まった夕食で、春の宵はふけるのが早い。奥方が家でお待ちではないのか、と食事と酒の杯が進んだところで、ふと気になって月島は鯉登にたずねた。
    「ん? 今夜は夜会だとかでいないぞ」
     鯉登の妻は商家の出だ。明治の頃に貿易商で成功した裕福な家の娘で、華やかな付き合いも多いらしい。
     月島ももちろん幾度か会っていて、華やかな洋装のドレスを着ている姿なども見たことがあるが、流行に合わせた髪型や舶来の化粧といった装いがよく似合う商家の娘らしい女性だった。
    「初音さまは?」
    「お前に電話をかけた後、家の方にもかけたら、すえさんが出て、いい子にしていると」
     初音というのはこの春に二歳になった鯉登の一人息子だ。忙しい両親の代わりに、すえさんという月島と同じ歳の頃の、鯉登家の女中が家の中のこととあわせてよく面倒をみてくれているらしい。
    「最近はお会いできていませんが、初音様、ますます可愛い盛りでしょう」
     二歳ともなれば幼いながら会話もするし、よちよちとそこここを歩きもする頃だろう。そう思って言ってみたが、鯉登は吸い物の椀を持っていた手をとめてこちらをジッと見てきた。
    「……可愛いと思うか?」
    「ええ、それはもちろん。……?」
     以前会った時から幾月か経ってはいるが、自分の長年の上官で特別な恩義もある鯉登の愛息子だ。月島にとっても、いといけで大切に思うのが道理だ。他の知り合いの者達の子供とは訳が違う。
     たとえそこに一抹の、なんとも自分でも解釈しがたい寂しさを感じないと言ったら、嘘にはなるかもしれなくても。
    「月島は初音が可愛いと思うのか?…………初音が、私の……、……いや、やはりいい」
     何かを言いかけた鯉登だが、途中で言葉を飲み込んで、代わりに黒い漆塗りの椀を啜って、それ以上は何も言わなくなってしまった。
     二人の間にシンとした沈黙が降りると、遠くの方から三味線と賑やかな囃子、何人かの男女の笑い声が微かに聞こえてくる。少し離れたどこかの座敷で宴席でもやっているのだろう。
    「月島」
     かたりと小さな音を立てて、鯉登が箸を置く。
    「ハイ」
    「陸大は明日は講義は休みだろう。私も明日は休みだから、ひとまず、明日、最初の殺人があった渋谷の現場へ行ってみるか。すでに警察や憲兵が片付けてしまって、何もないだろうが」
    「ハイ」
    「……どうした、月島、なんだか少し嬉しそうな顔して」
     そこで鯉登が特徴的な眉を少し上げてこちらを見る。
    「あ、いえ、不謹慎ですし、鯉登少佐殿は忙しい身にさらにこんな内密な案件を背負うことになったわけなんですが。ただ、久々にこうしてあなたと一緒に働けるのが少し嬉しくて。……存外、手のかかるあなたの面倒見ることがなくなると少々倦んでたのやもしれません」
    「……」
     月島の言葉に鯉登が軽く目を丸くする。変わらず健康的な色の肌の頬が、少し紅潮して見えるのは、酔いのせいか、はたまた照れているのか。
    「……退役もして、この春からは職場もあなたは陸軍省で私は陸大と別れてしまい、もはや右腕もついにお役御免かと思っておりましたので」
     かつて函館の海で、鯉登の右腕になることを請われた。それから彼の隣で歩んだ二十年。それもついに終わりを迎えた、と思っていた。
     この春、自分はこれから鯉登のそばを離れてどう生きていくのだろうか、と思っていた矢先の話だったのだ。
    「……月島ぁ」
     以前の新品少尉の頃によく聞いた、語尾を伸ばした甘えたような呼び方で久々に呼ばれる。
    「ハイ」
    「夜桜が見たい。そこの障子戸を開けろ。ここの中庭の桜が見えはずだから」
    「ハイハイ。……ほら、開けましたよ」
     先ほどまでは行儀よく正座して食事をしていた鯉登は、だらりと手を畳について足を崩し、障子の開いたところから、廊下の先の中庭にある枝垂れ桜を眺めている。
     一雨来そうな少し湿気を帯びた生暖かい春の宵の風が、薄紅色の花弁を月島達のいる座敷の畳の上にも運んできていた。

     
     次の日は昨日とはうって変わり、花冷えの昼間でも寒い日で、おまけに花散らしの小雨まで降っていた。陸大の講義の際には背広姿の月島だが、休みの今日は着物を着たものの、肌寒く、上に羽織も着てきた。休みのため、珍しく見慣れた軍服ではなく背広姿の鯉登も外套を上に羽織っていた。
     鯉登と二人、それぞれに黒い傘をさして渋谷の界隈を歩く。
     月島は待ち合わせの渋谷まで路面電車で来たが、鯉登は家の車で来たらしい。ただ、そのあとは歩き回るから、と運転手と車は家に戻したようだった。
     ばたたたと、雨が月島と鯉登のさす傘にあたっては、雫が傘を伝って流れ落ちていく。
     この界隈は、二年半前の大震災時、焼け野原になった東京市の中央から東側にかけてに比べ、比較的、被害はましだったところの一つだ。元々、そこまでまだ発展しておらず、建物や人も少なかったこともある。
     けれどもそのため、震災後に家を失って焼け出された人が多く流入し、この二年半で急速に街が発展した。
     急速に人が増え、発展し、次々と建物が建っていく中、所どころにいまだに未開発の素朴なままの土地が残る。そんな界隈だった。
     月島と鯉登が二人並んで歩く道路を、水飛沫をあげてときたま車が走り去っていく。
    「殺されたN中尉……。私は陸大勤務時は、直接、演習などは見たこともあったが、正直、個人的にはそんなに関わりはなかったんだが。月島はどうだ?」
    「ちょうど彼の露西亜語の授業を持っていましたので、私はまあそれなりには話したこともありましたが。まあでも私も一語学教官に過ぎませんでしたので」
    「N中尉は原隊は第一師団だったか」
    「はい。……ああ、でもお父上は確か長州の出だとかで……」
     講義の間の雑談などから見聞きした話を思い出す。
     そういえば……、と亡くなったN中尉の姿を思い出して、ふと、隣に並ぶ鯉登を、傘の陰からジッと見上げた。
     月島の視線に気づいた鯉登が、ん?、とこちらを見る。
    「……なんだ?」
    「いえ、そういえば、あなたにどことなく似た方だったな、と」
    「はあ?」
    「なかなかの男振りな美男子でしたよ」
     元々、陸大にまで進むような出世街道を歩む将校達は、薩長閥や名家の出が多く、眉目秀麗、成績優秀なものたちばかりで、どことなく皆、似通った所はある。もちろんその中に、鯉登も例外に漏れず含まれる。
     ただ、その亡くなった将校はその中でも、どことなく若い頃の鯉登に特に雰囲気が似通った所があった印象があった。
    「…………何を言っておるのだか」
    「あの男振りであれば、女性も放っておかなかったやも……。……ああ、そういえば、陸大に通うあなたの姿を見てかつて奥方もあなたに一目惚れしたとか、あなたの御母堂様に伺いましたが……」
    「そんなずいぶん前の話はいい。……ほら着いたぞ」
     そういえば、とかつて鯉登の母親に聞いた話を振ると、鯉登は途端に、険しい顔をして、話を打ち切った。月島もそれ以上は何も言わない。
     ここが殺害現場だ、と立ち止まった鯉登に続いて、月島も足を止めた。
    「……何もありませんね」
    「うん、そうだ。今日来る前にも私が見れる範囲で陸軍内部の報告資料と地図を見てきたがな。ここは最近急速に人や建物が増えている渋谷のあたりでも、まだ整備が進んでいない区画のひとつで、ただの通りがあるだけだ」
    「ここで殺されていたのですか?」
    「正確に言うと、ここに死体があった、ということだけがわかっている。ここで殺されたのか、どこか別の場所で殺されてから運ばれたのか。ただ、現場付近にはさほど血だまりがなかったことから、おそらくは別の場所で殺されたと見られているようだが。凶器も見つかって無いから、めぼしい指紋も取れていない。……いずれにせよ、胸元をナイフみたいなもので刺された後、上半身の皮が剥がされていたようだ」
    「その人皮は?」
    「それもまだ見つかっておらん」
     少し先に行ったところには飲み屋などの繁華街もあるが、あいにくここらはまだ整備もよくされていない、道があるばかりの所だった。
    「……これだけ何もない場所だと目撃者もなかなかいなかったでしょうし、手がかりがなさすぎますね」
    「死体が見つかったのは夜も明けてからで、死体の死後の状況から犯行は深夜、と報告書にはあった。深夜から明け方なんてなおさら人もいなかっただろうしな」
     なるほど、確かにこれでは警察も憲兵も陸軍も手がかりがなく、捜査が難航しているはずだ、と納得する。
    「しかしなんでまた、殺した後にわざわざ皮を剥いだのでしょうね」
    「わからん。まさか暗号が彫られていたわけでもないだろうにな」
    「はあ、まあ、世の中には数奇な者もおりますからねえ。あの争奪戦の折には、驚くほどたくさんのおかしな奴らを見ましたから」
    「まあ、私もかつては、鶴見中尉殿を真似て刺青人皮の襦袢を作って着ていたしな! そういえば、かつて死体の皮で服飾を作っていた者もいたな。ほら、夕張での……。芸術家気質で数奇な犯罪を犯す者もいるかもしれんな」
    「江渡貝君か……。なるほど、そういう犯人の線もあるのか」
     ピシャピシャと舗装されていない道路に落ちて跳ね上がる雨が、かつての夕張での記憶の中の雨音に重なった気がした。
    「いずれにせよ、ここはこれ以上見ても仕方がないな。少し先の代官山近くにN中尉の住んでいたアパートメントがあるらしい。この機会だ、そこまで行ってみるぞ」
     
    「こんなモダンなアパートメントに住んでたのですね」
     雨の中を二人で歩いてたどりついた代官山近くのそこは、モダンな新しい洋風建築のアパートメントだった。
    「N中尉以外にも何人か同じくこのアパートメントに住んで、青山の陸大まで通っていたらしい。私の時はこんなモダンなアパートメントに住んで通うなんてことはなかったが。震災で大方、下宿になるような所は焼けたからなあ。代わりにこうして新しい建築物が建っていく。……時代の流れだな」
    「……はあ。私なんてもう、明治の遺物ですよ」
     目の前の白い瀟洒な五階建ての建物を見上げて、月島はボソリとつぶやく。
    「まあ、そう言うな。ほら、中入ってみるぞ」
     鯉登は傘をたたむと、躊躇も遠慮もせずアパートメントの扉を開けて中に入っていく。
     一階は、住民達が集まれるように寝椅子などが置かれたホールや食堂など、共有空間のようだった。個々の部屋は二階から上にあるらしい。
    「はっ、これは鯉登少佐殿、月島教官殿っ!」
     そこで威勢よく敬礼されて一瞬面食らった。見れば、陸大でも教えている将校の一人だった。
    「ああ、貴官はS中尉か。ここに住んでいるのか?」
    「はい、そうであります。……あの、お二人はもしかしてN中尉の捜査か何かでこちらに?」
    「ああ、まあ、そんなとこだ。……警察や憲兵とは別のところからの指示だから、内密にな」
     流石に鯉登がわざわざこのアパートメントまで訪れたとなると、事情は察せられてしまうようだった。
    「少佐殿、N中尉の部屋、ご覧になりますよね。私、大家の管理人に言って参ります。……まあ警察やら憲兵やらがだいたい検分に持って行った状態かもしれませんが……」
    「ああ、それは助かる」

     程なくしてアパートメントの大家に話を通して部屋の鍵を借りてきたS中尉と共に、三階の殺されたN中尉の部屋の扉を開けた。
     開けた部屋の中は、畳ではなく、板張りの床で、その上に唐草模様の絨毯が敷かれ、机や小さな卓が置かれており、奥の方にはベッドもある。一部屋ではあるが、一人暮らしをするには十分な広さだった。
     ただ、明らかに置いてある物が少なく、残っているものも無秩序に置いてある。憲兵なり警察なりが捜査をし、手がかりになりそうなものについては持って帰ったあとなのだろう。
     どうやらここもこれ以上は見ても、新しいことは分かりそうにない。
    「Nはどんな奴だったのだ?」
     机の所に置かれた椅子に腰かけた鯉登は、玄関に直立で立ったままの姿勢でいるS中尉に向かってきく。
    「ハッ、そうですね、Nは原隊は第一師団ですが、もとは長州の出で……」
    「長州の士族出か……」
    「ええ、陸大の仲間内でも長州出を鼻にかけているところがないわけではありませんでしたが。気も良く快活な奴ではありました。私は同じここに住んでいることもあり、時には一緒に飲みに行ったりもするような付き合いをしていましたが。ただ……」
    「ただ?」
    「殺される数日前ですかね。アパートメントの中ですれ違った時に少し悩んでいる様子ではありました」
    「……悩んでいた?」
    「ええ。いつも快活なやつなのに、暗い顔で少し不安げだったというか、悩んでいるというか……。でもNはすぐ部屋に入ってしまったので、詳しくは聞かずのままになってしまって、これ以上は何も……。お役に立てず申し訳ありません」
    「いや、そんなことはない。助かった」
     礼を言って鯉登が椅子から立ち上がる。
    「今となっては、無理にでも聞いておいてやれば、こんなことにはならなかったやも、とも後悔しております」
     そう言うS中尉の肩をポンと、慰めるように鯉登は軽く叩いて部屋を後にする。
    「……軍人とは親しい者同士でも自分の胸のうちを互いにそんな明かし合うことはないものだ」
     
    3
     代官山のアパートメントを月島と二人で後にする。
     変わらず、春の雨は降り続けており、ビシャビシャとぬかるんだ道を歩く。
     冷たい雨だが、自分のすぐ隣、少し目線を下げたところに月島がいると気分は不思議と高揚する。
     ……――久々に鯉登少佐殿と一緒に働けることになって、存外、嬉しいみたいです。
     昨晩、鯉登に月島はそう言ってくれた。
     それは私も同じだ、と。そう言えば良かった。
     だが、言えなかった。言ったら思わず、ずっと心の内深くに仕舞い込んで見ないようにしている思いまでが、酔った勢いで口をついて出てきてしまいそうで。
     だから代わりに、二人きりで店の中庭の夜桜を眺めるに留まった。中庭用に植えられた小振りの枝垂れ桜が、ひらひらと春の湿った暖かい夜風に乗って落ちる様を二人で静かに見ていた。このままの時間が少しでも長く続けばよい、と。
    「……少佐、鯉登少佐殿」
     傘の下から月島に呼ばれ、ふと我に返る。
    「ん? どうし……、っ」
     月島の短く強い調子の呼びかけに、一瞬片眉をあげてから、自分も気配に気づいた。
     ……――殺気というほどのものではないが、背後に感じる視線。……何者かに見られている。
     月島と自分でなければ気がつかないほどのちょっとした違和感だった。
     渋谷の通りは雨の昼下がりでも、人出が多く、傘を差した人々が通りを行き交っている。
    「……次の角はそのまま、もうひとつ先の角で右に折れましょう」
     月島は鯉登の方を見ることはせず、前を向いたまま、傘の陰から小さな声で言う。
    「……警察か憲兵か、軍内の者か。はたまた別の者か……」
     頭の片隅に、淀川の言った言葉が蘇る。――明治末の金塊争奪戦の際に始末をつけ切れていなかった何か……――。
    「鯉登少佐、我々の思いすごしかもしれませんし、いったん深追いはせず、ここはやり過ごしましょう」
     月島の言葉に同感だ、と軽く自分も前を向いたまま頷いて、示し合わせた角をなんでもないように曲がって、少し先に進んだところで自然に軽く後ろを振り返った。
    「姿を見たか?」
    「いえ、傘のせいでうまくそれらしい人物は見つけられませんでした。……昨日の今日で、少し疑り深くなっているのやも」
    「いや、ただ用心するに越したことはなさそうだな。まあよい、電話を借りれそうなところを見つけたらさっさと車を呼ぼう」
     自分は路面電車で帰ると言う月島を、やがてきたハイヤーに、やや強引に押し込んで一緒に自分の家へ連れて帰った。
     ひとつは、先ほどのことが引っかかって、この後、月島を一人で街中を帰らす気になれなかったせいだ。
     月島が陸軍の中でも、幾つもの死線をくぐり抜けてきた屈強な兵だということは誰よりもわかっている。だが、今回の件は、どういう手合いの者か皆目わからない。現に、陸大に来るような将校が一人、やすやすと殺されてしまっている。ましてや、月島は今は、兵としては完全に退役して、あれだけ見慣れた軍服も脱いでしまっている。今では銃も銃剣も持ち歩いてはいない。
     そして、二つ目には、もっと単純に、鯉登自身が立場も年もわきまえずに、いまだに月島と離れ難く、少しでも一緒にいたいだけだ。
     ……――いや、違うな。今まではいたのだ。常に隣に。それがだんだんと、離れていってしまっているのだ。それが途方もなく、思ったよりもずっと、苦痛に感じて――。

    「お帰りなさい。あら。月島さんもご一緒でしたの」
     ハイヤーに乗って、家に帰ると妻の草子がにこやかに出迎えた。
     今日は雨で一日、家にいると言っていたが、色鮮やかな花柄の銘仙を着て、きちんと赤い紅まで引いている。草子は裕福な商家の娘らしく、家でもいつも身なりを気遣うような女性だった。
    「奥様、突然に申し訳ありません。お邪魔いたします」
     月島が草子に頭を下げて、中へと上がる。
     鯉登は玄関先で脱いだ外套をほんの一瞬、月島に渡そうとして、すぐに隣にいた草子に渡す。
     きっと二人ともに気づかれなかったはずだ。鯉登はいまだに妻というものに慣れない。共に幾つもの死線をくぐり抜けてきた月島との方が、ずっと自然に身体が感じてしまうのをどうしようもない。
     月島と草子の二人の見ていないところで小さく嘆息する。
    「月島さんもお夕食一緒に召し上がっていかれるでしょう?」
    「ええ……と、」
     月島は草子の誘いに、遠慮がちにこちらを振り返って見上げてくる。その背を、よかよか一緒にたもっど、と叩くように押して奥の客間に連れていった。
     
     純和室にあつらえた客間に月島を招き入れると、お茶の用意を運んできた草子と女中のすえが、白い襟衣に紺色のズボンをはかせた息子の初音も連れてきた。
    「初音さんも健やかにお育ちで」
    「ええ、最近では、話す言葉の数も随分と増えてまいりましたのよ」
     ふくふくと育つ二歳の息子は男児にしては愛想が良く、座布団の上に座った月島の上にちょこんと座って、何をか懸命にしゃべっている。
     ふにゃふにゃと話す言葉は大人たちには分かり得ないものも多いが、月島は膝の上に座らせた初音の言葉を生真面目に聞いてやっている。
    「初音、月島はなあ、兵隊さんの学校の先生なんだ」
    「そうよ、月島さんは日本語だけじゃなく、外国の言葉もお上手にお話しされるのよ」
    「そんな、私なんて……」
     月島が謙遜するかのように首を軽く降ると、息子が、つーしま、つーしま、と言って、ざりざりと月島の顎髭を小さな手を伸ばして触る。
    「初音さんは、お父様とお母様に似て賢くいらっしゃいますね」
     そう言って月島は、穏やかに少し笑って、初音の頭を撫でる。一見すれば、この上なく穏やかで健やかな光景だ。
     けれども、こうして鯉登の息子に穏やかな表情を見せる月島が実のところ、本当は何を考えているのか、鯉登にはわからない。態度と表情通りに、心底、穏やかな心持ちであるだけなのか、それとも……――。
     鯉登が家庭を持ってしまったことを月島はどう思っているのか。
     自分だけ、家庭なんぞを持って幸せになって? 
     かつての鶴見中尉の金塊争奪戦の際の家族の話を忘れたのか?
     はたまたそれとも……――。鯉登にとって月島こそが、右腕という名の伴侶で、それはあえて互いに口にせずとも、承知のものだったのではないのか……――。
     いや、余計なことは考えてはらならない。
     ……――自分には家があり、美しい妻がいて、息子がいて。右腕として長年支えてくれた元下士官だった者に退役後までこうして慕われて。それが正しいあり様なのは間違いないのだ。
     
     次の日、鯉登は職場の陸軍省に出向くと、手の空いた頃合いを見計らって同じ陸軍省内の法務局の友人のもとを訪ねた。
    「山﨑!」
    「おお、鯉登、人事局のお前がどうした?」
     山﨑は陸大の際に一緒だった友人で、この春、鯉登が陸大の教官から陸軍省に異動になって久しぶりに再会した。
     山﨑は、陸大での成績は中の上といったところだったが、度胸もあり、気のいい人柄で、鯉登の数少ない友人の一人だった。
    「ああ、実は例の将校殺しの件で少し聞きたいことがあって」
    「あれか。今は警察よりも憲兵側が捜査の主導になったようだが、でもいっかな犯人はわからんらしいな」
    「軍内部の者の犯行の線で調べているのか?」
    「いや、それももちろん調べているが、軍に恨みのある一般市民か、思想犯か、イカれた愉快犯的な犯罪者か、あとは痴情のもつれか……。なかなかこれといった進展はないみたいだ」
    「そうか」
     法務局は軍法規や軍法会議などを専門とする業務で、鯉登のいる人事局よりは仕事柄、多少は今回の件の情報が入りやすいだろう、と声をかけてみたが、これといった情報はなさそうだった。
    「なんだお前、この件、仕事絡みか?」
    「ああいや、殺されたN中尉は陸大勤務時代にみた一人だったからな。大勢のうちの一人ではあったが、まあさすがにな」
     本来は淀川の指示を受けてのことだが、そこまでは言えない。だが、気のいい山﨑は疑いもせずだった。
    「ああ、なるほどな。そうか……。まあ憲兵側からの情報で何か進展したりわかったことがあれば教えてやるよ」
    「助かる」
     将校仲間にしては気のいい友人に礼を言って部屋を出る。
     重苦しい雰囲気の陸軍省内の廊下を歩きながら、そういえば、山﨑は、かつての金塊争奪戦の際の杉元に少し面影が似ているな、などと他愛ないことをふと思った。
     思い返せば、あの樺太の先遣隊での旅はまだまだ新品少尉の頃で、ただただ前へ前へと突き進むだけのものだった。だが月島がいて、杉元、谷垣と無茶苦茶なこともあったが、何も知らず、まだ無邪気でいられた最後の楽しい時であったかもしれない。

    4
     それからしばらくは特段なにも動きがないようで、月島は陸大で講義、鯉登は陸軍省での本来の仕事に忙殺されていた。時折、鯉登から何か変わったことはないか、とは電話で聞かれたが、月島の方にはあの日のような違和感はその後、感じたことはなかった。
     いつしか桜もすっかり散ってしまい、新緑が目に眩しい季節になっていた。
     そんな中のある日、月島の元へ鯉登から電話があった。
    「実はひとつ頼まれて欲しいのだが」
     電話の向こうからは申し訳なさそうな鯉登の声が聞こえてきた。
    「はい、なんです?」
    「今度の日曜、草子が日本橋の方へ友人達と買い物に行くというのだが、ついていってくれないか? 私はその日は仕事でついていってやれなくて」
    「はあ、それはもちろんよろしいですが」
    「お前にこんな私の妻のお付きのようなことをさせて心底すまなく思うが。ただ……」
    「ただ、なんです?」
     ……――どうもここ数日、私と草子の周りを付け狙っているものがいる……かもしれなくてな。
    「っ?! それは……」
     大丈夫なのですか、と思わず聞いてしまってから、意味のない問いかけだと慌てて詫びる。そんな月島に鯉登はいや、構わん、と堅い声で答えてくるが、口ぶりはやはり重く、どうやら思いのほかずっと、事態は緊迫しているのかもしれない。
    「私自身も少し違和感があるし、草子もどうもそうらしい。だからあまり街中に行くのは、とは思ったのだが、まあ親しい友人と前から約束していたらしいし、このままずっと家の中にいるわけにもいかないしな」
     まあ、人の目のある街中で堂々と何かあるとは思わないが、逆に有象無象に紛れて誰がいるとも限らん、お前がいてくれれば安心だ、と、鯉登に言われれば、月島にしてみれば引き受けるほかなかった。
     ……――私は結局、お前しか、真に信頼できるものがおらんのだ、などと言われてしまえば。
      
     日曜日、月島が麻布の鯉登の家に着くと、綺麗に身支度をした草子がすぐに出てきた。今日は帽子に洋装で、いかにも流行りのモダンガールといった装いをしている。山吹色の帽子と同系色のスカートに紫色の差し色のベルトのリボンが洒落ていると無粋な月島でも思う。日本橋で友人と会うと言っていたので、それに相応しい格好なのだろう。
     対する自分はいつもの着慣れた着物姿で、大学の講義のときのようにせめて背広姿の方がよかったか、と思ったが、鯉登も草子も月島の格好などは何も気にしていないようだった。
    「それではあなた、行ってまいります」
    「うん、くれぐれも気をつけてな。……月島も。本当にすまないが頼んだぞ」
     玄関先まで鯉登と女中のすえと一緒に見送りに出てきた息子の初音の頭を撫でてから、草子が車へ向かう。
    「月島さんもごめんなさいね。音之進さんには大丈夫と言ったのですが、月島といれば安心だからついて行ってもらえ、と言われて」
    「いえ……」
     運転手の開けた車の後部座席の扉から、車の中へ入り、草子と並んで座る。
     黒いこの車は草子が鯉登と結婚する際に、運転手ともども実家から連れてきたものらしい。
    「吸ってもよろしくて?」
     やがて走り出した車の中で隣の草子が月島に聞いてきた。
     どうぞ、と言うと、草子は小さな手鞄から煙草と燐寸の箱を取り出す。草子から漂う舶来ものの香水の香りと煙草の煙の香りが車に満ちる。細い指に煙草を挟んで吸う様に色香があった。
     鯉登の妻である草子は商家の出だ。
     月島はそれを聞いたとき、少し意外に思った。なんとなく、鯉登は武家出の人と一緒になるように思っていたからだ。もしくは由緒や爵位のある華族出のような。
     貿易商で財をなした裕福な商家で、財閥や政府の高官とも付き合いのあるような家の令嬢ではあるので、もちろん、鯉登とは十分釣り合いは取れているが。
     着物姿の時も流行に乗った銘仙などの柄物を着こなし、夜会の時などは華やかな洋装のドレスをよく着ている。
     さすがは大きな商家の令嬢というだけはある。
     いつも綺麗に引いた赤い口紅の色が鮮やかな印象だった。ニコリと微笑む姿は子供もいる婦人なのに、少女のあどけなさも妙齢の女性の妖艶さもある。夜会などに行けばさぞかし引く手数多だろう。
     そんな場所に自分の愛妻がいくことが心配なのではないか、と月島は思うのだが、鯉登はそこはあまり気にしていないようだった。
     付き合いもあるだろうし、本人のしたいように好きにさせてやろう、ということらしい。しがない庶民に過ぎない月島には分かりえないが、上流階級の者たちには、それ相応の付き合いとしがらみもあるのだろう。
    「渋谷の方で亡くなった方は陸大に通われていた中尉の方だったとか」
     それまで過ぎゆく車窓を見ていた草子が月島の方に黒目がちな瞳を向けて尋ねてきた。
    「はい」
    「恐ろしいわね」
     ポツリと草子がつぶやく。
    「陸大に通われていた将校の方といえば、音之進さんを……」
     赤い紅の引かれた唇から鯉登の名前がこぼれる。その赤い紅の唇で、鯉登の口を吸うのだろうか。
     閨では……、鯉登はどんな様なのだろうか。あの身体でどうやってこの草子の白い身体を愛撫するのだろう。気を遣る時には声を殺すのか、あげるのか。
    「……音之進さんを初めて私が見たのは、陸大へ通われる中尉の頃でしたわ」
    「草子様はその頃は……」
    「私はまだ女学生で、毎朝、陸大近くにある女学校に通っていて。毎朝学校に向かう途中で彼とすれ違うのが楽しみだった」
     ふっと、その頃のことを思い出しているのか、草子が少しだけ微笑み、それから少しだけ視線を逸らした。
    「音之進さんの方はすれ違う女学生の顔なんてひとつも覚えてなかったみたいですけど」
     鯉登は聯隊旗手を目指していたくらいで、北海道にいた頃から、他の兵卒や将校連中などとは違って花街にも行っている様子はなかった。
     もともと、貴公子然とした潔癖なところがあって、そういった女性との色恋沙汰など、俗に浮ついたことには興味は薄そうに感じた。
     ……――どちらかというと、そういう方面には、うぶで幼い印象だったのかもしれないな。
     草子の言う通り、行き交う女学生を興味を持って眺めるということはなかったというのは想像がついた。
    「私が通う女学校は陸大のちょうどすぐ近くにあって、女学生達はよく若い将校様のお顔を見て噂話をしたものですのよ。中には澄ました顔しながら、流し目にこちらを見て下さる将校様もちらほらいらっしゃったけれども」
     陸大に鯉登が通っていた頃、時折、北海道にいる月島の元には彼から手紙が来た。それには陸大での講義や演習の様子、東京で見た光景、最近の東京での流行りものの話などが書いてあったが、確かに女性の話などはひとつも書いてはなかった。
    「鯉登少佐殿は、そういうことには潔癖でいらっしゃるご気質のようでしたから……」
    「…………そのようですわね」
     すっと、一瞬冷たい風が吹いたかのようなヒヤリとした視線と声を感じたような気がした。
    「…………?」
    「…………でもだからこそ、惹かれたのかもしれませんわ。他のキザったらしいだけの将校様たちとはどこか少し雰囲気が違っていらして」
     確かにあの頃、鯉登は既に金塊争奪戦を経てさらにはその後始末という、年齢と階級に比して、荷の重い大仕事をやっとなんとか乗り越え、そのまま朝鮮動乱にも赴いてまでもいた。陸大に共に行っていた連中の中にはいまだ、戦地に出ていない者もいる中、肝の落ち着きは頭ひとつ抜きん出ていたかもしれない。
     けれど、だからこそ、そんな鯉登から結婚をする、と聞いた時は意外だったのだ。
     そして、なんとも勝手な思いだが、裏切られたかのような気持ちにすらなった。あれだけ、月島、月島と言っていたのに、と。
     ……――地獄の果てまでも面倒を見てやってついて行ってやらねば、と思っていたのは、自分ばかりの勝手な思いだったのか……。
     
    「ほら、着きましたわ。月島さん、降りましょう」
     ぼーっとしていたら、軽く草子に肩をたたかれ、慌てて車から降りる。
     いつの間にか車は、休日の日本橋のそれまた中心近くという人の波が行き交うところに止まっていた。
    「草子さん!」
     待ち合わせ場所だという百貨店の前のところには草子と同じ年頃、同じような服装の女性と、さらにその隣にその母親と思われる着物姿の女性の姿があった。
     その娘の隣にいる着物姿の女性が、草子の後ろからついてきた月島の顔を見て、目を見開いた。
    「……はじ……めちゃん……?」
     まるで幽霊を見たかのような驚いた顔でその着物姿の女性は月島のことを見つめてくる。
     丸みを帯びた輪郭に、くるりとした瞳。懐かしい面影が残る顔立ち。綺麗に結い上げられているが、艶やかな黒髪は特徴的な癖っ毛だった。
     ……――生きて、いた、……。
     鶴見中尉から財閥に嫁いだとは一度聞いた。だがその後、それは本当だろうか、と疑い持ってしまってからずっと答えを求めたまま、心の奥底に沈めていたもの。
    「……ちよ…………」
     もはや何十年ぶりかすらわからない、その名前を喉元から絞り出すように出した。
    「お母様?」
    「月島さん、お知り合いですの?」
     そばにいる草子と、ちよの娘だろう洋装の女性も目を見開いて驚く。
    「……昔の同郷の……」
     そこまで言って止まってしまう。同郷の……、なんだ。かつては、駆け落ちまでを約束したが……――、今は……。
    「……幼馴染みよ」
     ちよが月島の言葉を引き継いで答える。
    「まあ、すごい偶然! 素敵ねえ。こちらの月島さん、音之進さんの元下士官でいらっしゃった方で、今日は私のお供でついて来て下さったのよ」 
    「え、あ、はい。最近、帝都で将校が殺されるような事件もありましたし、何かと物騒ですから、草子様のお付きで……」
     慌てて、言い訳のように自分が、今日、こんな場違いな婦人たちの集まりの場にいる理由を説明する。
    「そうなのね。ふふ、草子さん、鯉登様に大事にされてらっしゃるじゃないの」
    「…………ええ」
     友人のからかうように言う言葉に、草子が少しだけ目を伏せて頷いた。
     ……――そうだ、今日の自分は大事な鯉登の奥方を守るというお役目だ。
     
     百貨店の化粧品の棚を見たり、新しい夏帽子を探す草子とちよの娘を少し遠目から見守る。立派な妙齢の婦人ではあるが、女学生時代の親友と言っていただけあって、きゃっきゃと、はしゃぐ様子は女学生のままのようだった。
     休日の百貨店では、人が立ち替わり入れ替わり買い物をしていく。そんな店内で、二人とも帽子を被り、薄い洋装の姿で快活に話し、いかにも今の時代を謳歌する女性といったように月島には見える。
     ちよも月島と一緒に並んで少し離れたところから、娘とその友人を眺めている。今隣にいるちよと、もしあのまま一緒になれていれば、あのような娘達が自分たちの間にいた未来もあったのだろうか。
    「……はじめちゃん」
     娘たちを見つめたまま、隣のちよが優しい声で言った。
     人間が最初に忘れていく人の記憶というのは声だというのを、鯉登か誰かから聞いた気がする。反芻するうちにだんだんと忘れていってしまっていたはずの、ちよの声。だが、久々に聞いた彼女の声は、遠い佐渡ヶ島の潮騒まで思い出させるほど懐かしく、変わっていなかった。
    「はじめちゃんは、今も軍でお仕事をしてるの?」
    「今は退役はしたが、草子様の旦那様である鯉登少佐殿の伝手で陸大で露西亜語の教官をしてる。あとはごくたまに通訳の仕事をしたり……」
    「まあ、すごい……」
    「いや、……全部、今までの上官達が……、鯉登少佐殿と……」
    「……私、以前に将校様に会ったことあるわ。はじめちゃんの上官だと言っていた。亡くなったとその方に聞いたから、代わりに一緒にはじめちゃんの墓前に埋めてくれと髪を預けたのよ……」
    「そうか……」
     鶴見中尉は本当にちよには会いに行っていたのか。考えれば、財閥との縁を少しでも持つ機会になるやも、という打算もあったかもしれない。
    「お前さんももうあんな娘がいるんだな……」
    「はじめちゃんは……、ご家族は……?」
    「俺はこの通り、日清の後も結局ずっと軍人の身で、なかなか縁がなくて……気がつけば今も独り身だ」
     はは、と渇いた笑いを見せる。
    「……そう」
    「……でも、お前さんが幸せそうで、あんな娘までいて、よかったよ」
    「…………私も、はじめちゃんが生きててくれてよかった……。今日、娘の誘いに乗って来て良かった」
     そう言って、ちよがそっと白いハンカチで、目元を拭う。ハンカチを持つ手に指輪が見えた。
     伴侶がいるのだな、とその指輪を与えた人物の存在をこの場にいなくとも感じる。
     ちよの指にも、鯉登の指にも嵌った控えめだが綺麗な金色の指輪。人生の伴侶がいる者を示すもの。
     かつて鶴見が他の者達を犠牲にした上で、自分の家族を優先することは許せなかった。彼には大義の夢を見せ続けてもらわねば、気がすまなかった。
     だが。
     ただ、ちよと鯉登の二人には幸せになって欲しいとは思う。かつての自分に居場所を与えてくれた二人だ。
     ただそこの場所が、二人の伴侶という場所ではなかっただけで。
     今では二人の幸せを願える自分に少しだけ誇りを持つ一方で。
    ……――少しだけ、ほんの少しだけ寂しい。

    5
    「そうだわ、あなた、すごい偶然があったのよ。月島さん、市子さんのお母様の幼馴染でいらしたんですって!新潟の方のご出身とは聞いてましたけど、まさかお二人が佐渡で幼馴染だったなんて。素敵な偶然もあるものですわね」
     ……――は? なんだ、それは?
     鯉登の朝の身支度を手伝いながら、草子が昨日の日本橋での外出の話をする中で、そんなことをなんの前触れもなく、突然告げた。
     草子相手には、それはすごい偶然だったな、と、少しだけ驚いたように見せかけて、相槌を打つ。
     だが内心ではざわざわと胸がさざめきたつ。
     ……――『あの子』だ。
     直感でわかった。小樽のアシリパのフチのもとで、谷垣とインカラマッの一人目の子供の出産に立ち会ったときだ。
     あの屈強で何事にも動じないと思っていた月島が見せた、「あの子は……」と言った声のわずかな震えとその表情。今でも覚えている。
     日清戦争も日露戦争も生き抜いた兵士であった月島にあんな表情をさせる、心の奥深くにいる女性。
     正直、ずっとずっと気にはなっていた。だが、聞けなかった。
     月島がいつか自分から言い出す日が来てくれるかもしれない。その時まで待てばいい。そう思ったまま幾年を重ねてここまで来た。
     そんな彼女にまさか、この帝都で再会したというのか。それも昨日。
     月島からは昨日、草子を送り届けて、特段なにもおかしなことはなかった旨の報告を受けたが、そんな話は聞かなかった。
     月島の中で、鯉登に報告するほどのことではない瑣末なことだと判断したのか。
     それとも鯉登には報告せずにはおこうと月島が判断するような心持ちを引き起こす再会だったのか。
     草子の女学校時代の親友である市子は財閥の娘だ。
     ……――なるほど、あれは佐渡の鉱山を買い取った財閥だ。月島の幼馴染という『あの子』はそこに嫁入りしたのか。
     なんとなく、月島とあの子の身の上に起こったことが読めそうだった。
     鯉登はかつて月島に所帯を持つ気はないのか、と幾度か聞いたことはある。
     だがいつも答えははぐらかされた。
     ……――私はあなたの面倒を見るので手一杯ですよ。これ以上女房や子供らの面倒を見るなんてとてもとても。
     一生と決めた相手がいて、その女性に操をたてていたのか。月島にはそういう頑固に一途なところがあった。
     ……――心が惑ったまま、結婚というものをしてしまい、いまだ惑ったままのおいとは違うな。
     過去の記憶を思い出し、あてのない考えに耽っていたら、鯉登の自室の中にいつしか初音が入ってきていた。
     身支度をしている鯉登と、それを手伝う草子の周りをぐるぐるとしていたが、やがてガサゴソと鯉登の文机の抽出しを開け始めてしまった。
     抽出しの奥にしまってあったものを、細い腕と小さな手で器用に次々と取り出してくる。
    「初音、お父様のものを勝手に触って出してはいけませんよ。……あら、これは。まあ、メンコだわ。あなた、これは初音が遊んでも、」
    「触るなッ!!」
     咄嗟に出てしまった鯉登の大きな声にびくりと草子も初音も動きを止める。その直後、あまりに驚いた初音がしゃくりをあげて泣き出してしまった。
    「あ、いや、すまぬ……」
     軍人の自分が出す大きな声は草子と初音にはあまりに理不尽に恐ろしかっただろうと、慌てて詫びる。泣いてしまった初音を抱き上げてあやしてやりながら、床に散ったメンコを拾って小さな手に渡してやった。
    「とと、これ」
    「悪かったな。うん、構わん。良いぞ。……しかしお前、懐かしいものを見つけてくれたなあ」
    「とと、……つーしま」
    「ふふ、私も月島もよく似てるだろ? 私がずっと前に描いたんだ」
     それはかつて自分がまだ少尉だった折の、金塊争奪戦の最中に月島と遊んだ時のものだった。あの時、待機の空いた時間に戯れに鶴見中尉と自分とそして月島の似顔絵を描いて作った。待機の間の暇つぶしに過ぎず、ほんの戯れではあったのだ。だが、意外なことに月島が本気で勝負に乗ってきた。さすが二度の大戦を生き残った兵士だ、上官相手にこの負けず嫌いが、上官の私相手にお前出世せんぞ、と悔し紛れに言ったら、楽しそうに笑い返された。
     それから随分後になって、「あんなふうに、子供らしい遊び、人と一緒にしたことなかったものですから。……親とも友人とも」と聞かされた。
     ……――あなたは存外、いい父親になられるでしょうね。きっと子供とも上手に遊べますよ。子供からも愛されて尊敬されるような父親に……。
     金塊争奪戦からはすでに十年以上が経って、経満州駐在をしていた時のことだ。満州のどこまでも広がる広い空の下で言われた言葉。あれはおそらく、月島の心情を思うと、彼の中で最上の褒め言葉だったのだ。
    「一緒に遊ぶか……?」
     そう聞くと、腕の中の幼い子供は、うん、と頷く。泣いてしまったせいで出てきた涙と鼻水を、軍服の袖口で拭ってやる。
    「初音、だがここは大事なものもたくさん入ってるんだ。あまり触ってくれるなよ?」
     メンコのあった抽出しには、かつての自分がまだ若かりし頃の、捨てきれない私的な書類が入っている。
     自分の想いも一緒に隠すかのように奥の方へ仕舞い込んでいたものたち。
     懐かしいそれらは頼むから引っ張り出してきてくれるな、と初音に頬ずりしながら、やんわりとたしなめた。

     それからしばらくして、梅雨入り前のじわりとした重苦しい湿気を帯びた日々が増えてきた。
     そんなある日、陸軍省で働いている鯉登の元に、再び皮を剥がされた死体が見つかったと連絡が入った。
     聞けば、今度は湯島の方で、どうやら今回の被害者は東京帝大に通う学生だと言う。陸軍省内で聞いた話では、今度の被害者は将校ではないので、直接は関係がないということで所管は警察に一任することになった、ということだった。
     だがもちろん、最初の殺人との類似性は大いにあるので、憲兵も警察も同一犯の方向で捜査は進めるのだろう、というのが陸軍省内での将校達との会話だった。
     急いで、本来の自分の仕事を終えると、まだ陸大で働いているだろう月島に電話をかける。
    「月島、また殺された。……今回は将校ではなく、帝大生だ」
    「どちらです?」
    「今度は湯島の方だ」
    「行きますか?」
    「ああ。お前いけるか?」
    「ええ」
     電話の向こうの月島は最後に会った日十日ほど前から変わりはない。ここ最近で最後に会ったのは、日本橋に行った草子を家に送り届け、特段何事もなかったと報告を受けたあの日だ。
     月島がかつての幼馴染に会ったと草子に聞き、もやもやとしたまま、だが何も月島に自分からそのことについて尋ねる、ということはできなままだった。
     月島には会いたい。だが、会ってその話を振って、もし月島が……――。
     月島が、どうだったら、自分はどうだというのだ。
     ちよには亭主ももう妙齢の娘もいる。孫を持っていてもおかしくない。十分な分別もあるだろう。
     まして自分だってそうだ。妻子のある身だ。
     それが独り身で、もはや部下でもない月島の何をどうこう言う権利があるのだ。
     そうだ、月島はもはや鯉登の部下ではない。かつての戦友で、右腕。それはそうだ。だが今は、月島は鯉登の何だ……――。
     
     待ち合わせの駅には月島の方が先に着いていた。
     もうすぐ、夏至も近い。まだ陽の光が残って明るい街通り、駅舎から出てくる人々の中に、背広を着た月島が立っている。
     鯉登に気づくとすぐにこちらに向かって小走りに走ってくる。五十を過ぎて背広を着ていても、元軍人だとすぐにわかる身体つきと所作だった。
    「……今度は帝大生ですか……。これはいよいよ、よくわかりませんね」
    「まだどんな学生だったかはこれからだが。まさか帝大生の背中に刺青なんぞが入っているとは到底思えないがな……」
    「ええ……」
     現場だという場所へ二人で夕焼けの中を向かう。
    「そういえばあなた、付け狙われていた、という件はいかがです?」
    「うん、あれはどちらかというと素人な気がしている。こう、玄人の憲兵や軍人ではなく、また殺意のこもったものでもなくな。逆にそれが気味が悪いと言えばそうだが。でもそれほど頻繁ではなく、ふとした折にたまにな。ただ、草子も同じようだと言っていたから」
    「え、あなた、それ、もしかして女性ではないですか? いやもしかしたら男性もあり得るか」
    「はあ?」
    「あなたに懸想している女性ないしは男性がですね……」
    「月島、おまえ、ついには耄碌してきたか?」
    「失礼な。あなた、だいたい昔から自分の容姿や身なりに気を使うわりに、周りからそれがどう見られてるかは無頓着すぎるきらいがあるのですよ」
     月島はぐだぐだと言う。
    「だいたいそれを言うなら、月島、お前の方がだな……、」
     そういうことを注意するのならば、お前こそ、先日の再会したという幼馴染はどうなのか、と聞こうとしたところで、月島が立ち止まった。
    「あ、ここではないのですか」
    「ああ、ここだな」
     死体は湯島天神近くの、最近ではもう使われていないという古井戸に隠すように、投げ入れられていたらしい。
     警察はすでに引き払ってはいたが、夕方の人通りもある時間で、町の人々がコソコソと横目で見ながら噂をしては通って行くので、すぐにはわかった。
    「前回と違って、ある程度は人通りもあるようですが」
    「東京の夜は明るくなったとはいえ、夜は夜だ。見るに、この界隈は住宅街のようだから、夜遅くになると、人通りも絶えるだろう。闇夜に紛れれば、人目のない所なら、まあ死体を遺棄することもさほど難しくはないだろうな」
    「犯人は同一人物なのでしょうか?」
    「どうだろうな……。両方とも上半身の皮を剥がされていた、というが。一般市民には一件目のその情報は確かに伝えていない。だが、まあ月島も聞いていたりと、軍内部では結構な者が知っていたりもするからな。犯人だけしか知り得ない極秘情報と言うほどでもないのが事実だ」
    「そうなると、まず一件目の事件の犯人、あなたの周りをつけていた者、それから今回の二件目の殺人と、最大で三人の別々の犯人がいる可能性もあるわけですか」
    「そうだな。それら三つが全て別々の犯人の可能性もあるし、うち二つが同じ犯人の可能性も、もちろん全てが同一の犯人の可能性もある」
    「しかし、皆目、皮を剥いだ目的がわかりませんね」
    「そうなんだよなあ。金塊争奪戦の時のように皮を剥ぐことの方が目的だったのか、それとも、今回は殺人が目的で、殺しのついでに皮を剥いだのにはまた別の意味があったのか……」
    「殺人者の動機、ですか……」
     ふっと、月島が暗い目をする。
    「まあ帝大生の死体も検死結果がそのうち出てくるだろうし、あわせて彼の身辺についてももう少し詳細がわかってくるだろう」
     結局、その日もこれといった収穫はなく、月島とは解散した。
     
    「鯉登、新しい情報が入った」
     それから数日して法務局の山﨑が鯉登のいる人事局にまでわざわざやってきた。仕事でもなく、なんの得にもならないのに、鯉登に情報が入ったと伝えにきてくれるあたり、やはり気のいいやつだ。
    「何かわかったのか?」
    「ああ、一件目と二件目ではな、皮の剥がされ方が少し違う」
    「え?」
    「一件目はな、とりあえず上半身の皮を無理に剥いだ、という感じだったが、二件目については、猟師なんかが獣の皮を剥ぐようにだな……綺麗にこう……」
     山﨑が自分の身体の真ん中、ちょうど軍服の釦が並ぶところに手刀を当てて身振りで説明しようとする。
    「正中線から綺麗に剥いでいるのか?」
    「よく知ってるな」
    「私の原隊は旭川の北鎮部隊、第七師団だぞ。獣には詳しい」
    「はは、そうだったな。平時にも羆とやり合う隊だったな」
    「だがそうか……。そんな違いがあったのか……。ちなみに警察や憲兵は犯人の目ぼしはついているのか?」
    「いや。それが元々の一件目は憲兵の所管で捜査が進んでいたが、ここにきて二件目は全くの民間人が被害者で、今度は警察の所管だ。犯人が同一かそうでないかもわからない上、所管が別れているせいで、それぞれの捜査班は協力もし合わない。そのせいで、被害者の共通点なんかの洗い出しも進まないから、まあ難航はしている。おそらくどちらもこれといった犯人の目ぼしはついていないのだろう。犯人のすぐ周辺の人間にはアリバイ調査なんかもしてたみたいではあるが」
    「そうか……」
     正直、今までは淀川の指示を受けながらも、争奪戦と直接の関係はなかろう、と思っていた。
     しかしこうなってくると、これはいよいよ、と今更ながら金塊争奪戦の頃のことを詳細に振り返る必要がある、と思い直した方がいいかもしれない。
     だが、あの頃、軍内でも鶴見中尉のもとでの極秘任務であるが故に、徹底的に情報は漏らさないよう、手元に資料は残さなかった。
     残っていたわずかなものは査問の前に自分達の身に不利にならぬよう月島と二人で極秘裏に処分し、それでも処分しきれなかったものは査問の際に押収されてしまい、それきりだ。
     その夜、自宅に帰ってから自室の、少し前に初音が開けてしまった抽出しに手をかけた。
     あれ以来、初音はメンコを気に入ってしまい、度々、鯉登に一緒に遊んでくれ、とねだってくる。
     そのたび、付き合ってやりながら、これを最初に月島とやった時の郷愁が襲ってくるのをどうしようもなかった。
     メンコも入っていたそこには、鯉登のごく私的なものを入れていた。
     友人と取り交わした手紙や、日記の類。その中に、あの金塊争奪戦当時、私的につけていた覚書きもあった。査問の際に、発言に齟齬が出ないよう、月島と事前に互いの記憶を出し合い、打ち合わせた際の整理用につけていたものだ。
     久々にそれを取り出す。ここ数年どころから、もう二十年近く触ってこなかった物だ。
     だが、それを取り出すと、それはまるで昨日の続きのように開いて、鯉登の眼前に広がって懐かしい記憶を呼び戻した。
     
     次の日、鯉登は月島を、赤坂の料理屋に呼び出した。最初にこの一連の殺人の調査を淀川に指示された際に、月島にその話を告げたのと同じところだ。あの時には見事な夜桜だった中庭の樹は、今は青々とした葉がついた枝を、月明かりの元、伸ばしている。最初の殺人からは二か月ほどが経とうとしていた。
    「皮の剥がされ方が違うと言うことは、一件目と二件目では犯人が違うということですか?」
     陸軍省内で山﨑から聞いた話を月島に伝えると、月島は鯉登に酒を注ぎながら聞いてきた。
    「まあ可能性としては十分あり得る、という話だ。まだ決まったわけではない」
    「一人目は刺殺で、二人目は絞殺でしたよね。殺され方も、皮の剥がされ方も違う……。逆に二人の被害者に共通点は?」
    「将校と帝大生だからな。出入りする場も同じ帝都内だから重なるところもあるだろうから、そこも調べてはいるようだが」
    「歳の頃はまあ近いといえば近いですよね」
    「若者……、という点ではな」
    「……身分は?」
    「帝大生の方は、特段、華族や士族出ということはない。ただ、資産家の家の高等遊民ではあるな」
    「……裕福な身の上の若者、ですか」
    「まあな。……痴情のもつれ、というのもこうなると線としてはあるが。ただ女性が一人だけで、というのは、難しいだろうな」
    「ですね。……どちらも、網走監獄の脱獄囚には繋がりそうにはないですが」
    「最初に殺されたN中尉は長州の出だからな……もともと中央の方では、薩長閥で金塊を争っていた節があるから、なんらか関わりがあった可能性はあるが……。ただ帝大生の方はなあ……。資産家の家の方から繋がるか……? だが、だからと言って、なぜ彼らが殺された上に皮まで剥がされるのだ……?」
     鶴見中尉は当時、軍内の関係者だけではなく、争奪戦のために武器や資金の調達のため、様々な資産家たちとも繋がりを持っていた。
     だが、そのうち、鯉登が月島からの情報とあわせて知り得たのはほんの一端に過ぎず、全貌は二十年経つ今でも知り得ない。
    「昨晩、金塊争奪戦の頃の記憶を振り返ろうと思って、覚書をつけていたのを久しぶりに見返したがな」
    「ああ! 懐かしいですね」
    「色々と改めて思い出しはしたが、ただ今回のことの手がかりとなりそうな事実は特段無くてな」
     ほら、とその覚書きの帳面を月島の膳の横に置いた。
    「はは、これはまた懐かしいですね。思えば、あなたこの頃はまだ、可愛らしかったですね……」
    「はあ?」
    「まだまだ手のかかる新品少尉で。ほら、先遣隊として樺太へ行った折なんかは、荷物は非常識に多いし、トナカイの子供を見にふらっと行ってしまうし、安易にクズリには襲われるし」
     月島は帳面を見て、その頃のことを思い出したのか、くすくすと笑いだした。退役してから月島にはずいぶんとこういった柔らかい表情が増えた。いつの間にか目尻の皺も増えたな、とその笑う顔に思う。
    「……ふん、そんな私の世話をするのもやぶさかではなかったくせに」
     酒が入っているせいで、ついつい強気な言葉が出てしまう。
    「ふふ、そうですね。やぶさかではなかったですねえ」
     だが、月島も酔いのせいか、ふふと笑って、口軽くそう言った。
    「………………今は?」
    「え?」
    「今はどうなのだ、月島?」
     ジッと月島の瞳を覗くように凝視する。
     向かいの席にいた月島のところへ、ずり、と畳に膝をついたまま擦り寄っていった。そのまま、肩と肩が触れ合う距離で、月島にしなだれかかるように隣に座る。
     月島の猪口を持った手をとり、その指先から猪口を外し、卓に置く。
     月島は、鯉登の行動に、ぎょっとした表情をして固まってしまっている。
     そんな月島のかさついた手の、ささくれのある太い指に唇をつける。それから舌でベロリと指を舐めてから、口に含んで、じゅっと吸う。
    「…………ッ!!」
     月島がぐっと下唇を噛んでから、見ていられないというように、顔を少し逸らした。だが、そのまま、鯉登はちゅうちゅうと赤子のように月島の指を吸い、口の中で舌でその太い指を舐めたくった。
    「……こいっ、と少佐、殿……ッ……!」
     月島はもぞっと片足の膝を立てて、足を崩したが、それでも、無理に鯉登のことを引き剥がそうとはしない。拒絶は決してされていない。
     だから調子に乗って、唾液の音を立てさせてまま月島の指を吸い続ける。
     ……――自分は何をやっているのだ。
     頭の片隅に残る理性はそう言っている。だが、やめられなかった。
     ふう、はあ、と月島が荒い息を噛み殺しているのが聞こえくる。
    「……アンタ、ッ酔ったからって、戯れで……こん……な、」
     単なる戯れ、なのだろうか。
     月島に甘えたい、と本能が思った時にはもう身体が先に動いてしまっていた。
     いくら五十を過ぎたからと言って、こんなことを止められないような月島ではない。指先を好き勝手に舐めさせることを許し、あまつさえ、それに興奮してきているらしい月島に、もっと、という気持ちになる。
     ちゅぽと、口から唾液に濡れた指を離して月島を見る。
    「なあ……月島、」
     酔いのせいだけではなく、顔に血色を帯びた月島と視線があった。
     ……――なんという甘やかな。
     先ほどまで噛み殺していたのだろう月島の唇に、ふっと吐息を吐きかけた。
    「なあ……――、」
     そこへ女中が酒の追加を運んできたのが、閉じた襖の先のカタンという音でわかった。
     スッと月島に乗り上げかけていた身体を引く。
     だから、これはこれきり仕舞いになってしまった。
    「あらあら、仲のおよろしいこと」
     酒を運んできた女中は、向かいの席ではなく、隣同士にいる月島と鯉登を見て、にこにこと笑う。
    「この月島はな、私のことをいつまでも可愛い新品少尉だと思っておるんだと」
     そうあって欲しいと本当は思っていることを、女中相手の軽口に乗せて自分で口にする。
    「まあ、こんなご立派な少佐様ですのに」
    「なあ! ひどい男だろう?」
     そう言って女中と笑いを交わす。
     ……――ひどい男なのは、どちらだ。……間違いなく、それは私だ。
     先ほどの行為は酔い任せの戯れや悪戯心、ましてちょっとした浮気心なんかでは決してない。
     長年ずっと心の奥底に秘めていたものが、もうここいらでいっぱいいっぱいになり始めているのだ。
     
     月島は今も私のことを、新品少尉だったあの頃のまま可愛いげがあると、今でも思っているのか。今もそんな手をかけて世話をすることをやぶさかでないと思ってくれているのか。
     ……――私は今もお前に世話を見てもらえるのか……。日本帝国陸軍の少佐にまでなり、そしていつしか、妻と子を抱える身にまでなったというのに、その本質はあの頃のまま、何も変わらない私を。
     刻一刻と軍を取り巻く情勢も、時代も、身の回りも、そして何より月島とはもはや上官と部下という関係も無くなったというのに、何も変われない私を……。

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    のぞむし

    PROGRESS6月の月鯉🌙🎏小説進捗〜

    大正15年、春。
    帝都で一人の将校が殺され、上半身の皮を剥がされた死体が見つかる。
    退役し今は隠居の身の淀川から、かつての金塊争奪戦と関係があるのでは、と秘密裏に調査を命じられた鯉登少佐だがーー。
    というなんちゃってミステリ風な、情念不倫もの(になる予定)
    鯉登が妻子ある身のため、何でも来い!な方向けです。
    まだゴリゴリ書いてるので、修正入る可能性あります
    帝都メランコリア1
     帝都の春は騒がしい。
     零れんばかりの桜が上野の恩賜公園の周りには咲きほこり、夕方まで残る春の陽気に浮かれた人々がその下を行き交う。
     つい先月には、ここ帝都で若い将校の殺死体が発見され、ちょっとした騒ぎになったばかりだというのに。
     都会の人々の興味は忙しなく、瞬く間に移ろっていくものらしい。
     そんな桜の花弁がそこここに舞い散る帝都の春の通りを、鯉登は砂埃をあげて走る車の中から眺める。
     正直、進んで出向きたい場所では決してなかったが、鯉登の職場である陸軍省にわざわざ電話を寄越された上、車までを回されて呼び立てられれば、出向かざるを得なかった。

     車の着いた先で、庭の石畳を進んで玄関までいくと、一人の老人が扉の前で待っていた。
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