お菓子よりも甘いひと時 上背がある屈強な体を持ち、顔には酷い傷のある男は落暉飯綱。
飯綱は極道の若頭という立場にあるが、薬物はおろか煙草すら嗜まない男だった。そんな飯綱の嗜好品は甘味。和菓子であれば草餅、洋菓子であればチョコブラウニーを好む飯綱は、今日も仕事終わりに喫茶店へ足を伸ばして奥の席を陣取ると、チョコブラウニーとカフェラテを注文し、その甘みとほろ苦さで疲れを癒した。そうしてチョコブラウニーを食べ終えてカフェラテの半分を飲み切った頃、ふとテーブルの隅にある小さな広告に目が留まった。そこには「バレンタインデー」という文字と、食欲をそそるチョコレートケーキの写真があった。
飯綱はそれを見て一瞬辟易とするものの、少しの間を置いてもう一度広告に目を向けた。広告のケーキはテイクアウト可能と記載されていた。それをしっかりと確認したのち、席を立って会計を済ませた。
……
喫茶店からタクシーで20分行った場所に、目当ての建物はあった。それは8階建てのマンションだった。
飯綱はマンションを車窓から一瞥したのち、手早く支払いを済ませて下車した。そして慣れた様子でロビーに入り部屋の番号を押して呼び出ボタンを押した。無機質な呼び出し音から幾分か経ったのち、部屋の主が応答した。
「どうぞ」
言葉と共にガラス扉が開いた。
飯綱はその声に短く応えると、ガラス扉の先にあるエレベーターに乗り、鏡で前髪とネクタイを整え、手土産を持ってにやりと笑った。それからすぐにエレベーターは目的階へ到着したので、一直線に目的の部屋へ向かってインターホンを押した。それから間もなくして扉を開けたのは、桃色の長髪が印象的な青年だった。青年の芸名は桃樂亭甘露。この部屋の主であり噺家を生業としている男だ。
甘露は扉を開けて飯綱を一瞥すると微笑して言った。
「いらっしゃい、ワンちゃん」
「誰が犬だよ!」
「はいはい、怒鳴らない。貴方の声は無駄によく響くんだから静かにしてください」
「お前が先に言ったんだろうがっ」
「まったく、あんなの挨拶みたいなもんじゃないですか」
甘露は楽しそうに笑うと、玄関の奥へ行ってしまった。飯綱がそれに合わせて部屋へ向かうと、リビングのソファーに腰掛けて煙草を嗜む甘露が居た。
飯綱も甘露の隣に腰を下ろすと、手に持っていた白い紙の箱をテーブルに置いた。それを見た甘露は興味深そうに双眸を細めると、紫煙を吐いて訊ねた。
「なんですか? それ」
「べつにっ……その、組長に貰ったから、やるよ」
「わざわざ持って来てくれたんですか?」
「そ、そうだよ!俺は優しいからなっ」
「……そうですか、ありがとうございます」
甘露は礼を言ってから箱を開けた。箱の中には見た目から美しく、とても美味しそうなチョコレートケーキが2つ入っていた。
「2つもくれるんですか?」
甘露の問いに飯綱は答えず、目を逸らして唇を尖らせた。それを見た甘露はくすりと笑ってから箱を閉めてキッチンへ向かった。そして未だ口を閉ざす飯綱に柔らかな声で言った。
「独りで食べるのは寂しいので、一緒に食べませんか?」
「ふんっ……まぁ、お前がそこまで言うなら食ってやるよ」
「ふふふ、ありがとうございます。飲み物はコーヒーでいいですか?」
「おう」
「ではそれで」
それから甘露は手早く湯を沸かすと、2人分のコーヒーと、ミルクポットとシュガーポット。そしてケーキ皿と小さなフォークを盆に乗せて戻って来た。それらをテーブルに置いて腰を下ろして言った。
「もしコーヒーが渋すぎたり酸味が強すぎたら使ってください。幾分か飲みやすくなります」
「おう、ありがとな」
「いいえ、こちらも稽古が一区切りついた所だったので良かったです」
「そっか」
「ええ……」
二人は和やかな空気のなか午後のひと時を堪能した。そのなかで特に会話らしい会話は無かったが、傍らに恋人が居るというだけで心は満たされていった。
そしてケーキ皿が空き、コーヒーを飲み終えた頃、甘露は飯綱の左半身に寄り添って囁いた。
「ケーキ、美味しかったです」
「それは良かったな」
「ぜひ組長さんにお礼をしたいのですが、お返しは何がいいですかね」
甘露が上目遣いに聞けば、飯綱は視線を上に逸らして顎をさすってから答えた。
「あー……まぁ、お前のお勧めの和菓子とかで良いんじゃねーか?」
「そうですか、分かりました」
「おう、お前の選ぶ菓子はどれも美味いって喜んでるから、今回も美味いの頼むぞ」
「ふふふ、それはもちろん……ところで」
「ん?」
「今日は泊まっていくんですか?」
「おれはっ、べつに……どっちでも、いいけど?」
甘露はその言葉を聞いて艶笑を浮かべて寄り掛かっていた身を起こすと、無防備な唇に自身の唇を重ねた。
……
それからしばらく時が経ち、桜がもうじき咲くと言われる頃、甘露は風呂敷に包んだ品物を飯綱に渡した。渡された品物を手に眉を顰めて首を傾げる飯綱に甘露は言った。
「以前いただいたチョコレートケーキのお礼です」
それを聞いてようやく合点が入った飯綱は苦笑した。そのなんとも言えない顔を見て甘露は微かに笑いながら言った。
「組長さんの好みが分からなかったので、貴方が好きな草餅と、それによく合うお茶を選びました。とても美味しいので組長さんと一緒に召し上がってください」
「おう、ありがとな。これで組長も喜ぶよ」
「まったく、飼い主思いな犬だこと」
「んだとコラァ!」
飯綱が凄んだ瞬間、甘露は深く溜息を吐くと飯綱の額を叩いた。
「ぁいたっ」
痛がる飯綱を他所に、甘露は楽しげに笑って言う。
「来週にはあの店で桜餅の販売されるようなので、時間があったらまた来てください」
「おう、じゃあまたな」
「ええ、また」
2人はそう言って別れると、踵を返して互いの世界へ戻った。1人は落語の世界、もう1人は極道の世界へと。