淡雪に咲け【淡雪に咲け】
「フェンリッヒ様〜! ご要望の品、お届けにあがりましたッス」
「……ご苦労、下がれ」
手渡したイワシ10匹は報酬というよりも、むしろ口止め料の意味合いが大きい。規律正しく敬礼するプリニーに今一度、念を押す。
「改めて言うまでもないが……今回のことは綺麗さっぱり忘れる、そういう話だったな?」
「アイアイサーっス! もう何が何だか、すっかり忘れましたッス!」
足早に去っていくプリニーが完全に姿を消したのを確認すると、俺はドアの内側から鍵を掛ける。手塩に掛けて教育を施したプリニーであるとはいえ、所詮はプリニー。情報が漏れるかもしれぬという不安は拭い切れなかったが、いざとなれば片っ端から投げ付けて爆発させてしまえばいい、そんな目論見で、俺はとある品を秘密裏に手配させていた。
ドアにもたれ息を吐くと、改めて手元の紙袋へと視線を落とす。プリニーから受け取った品の良い濃紺のショッパー。意を決すると、内容物を取り出し、包まれている薄葉紙を開いていく。勢いに任せ破いてしまうことなく、そっと丁寧に。
薄紙の中からようやく姿を現したそれは、レースのあしらわれた黒のランジェリー。有り体に言ってしまえば、Tバック。繊細なレース使いの他、妖艶に咲くリコリスの花が目を惹くデザイン。刺繍はひと針ひと針緻密に施されており、上質な逸品であることは一目見て明らかだった。
この気品漂うレースに透ける主人の白い肌。そのコントラストを想像し、悦に入る。けしから……美しい……我が主には頭の天辺から爪の先まで、勿論、見えない下着に至るまで完璧でいていただかなくては。
高潔なる吸血鬼、ヴァルバトーゼ様。その忠実なシモベとして俺はかれこれ四百年、お側でその務めを果たしてきた。身の回りの世話は俺が買って出て、一通り任されてはいたが、かつてはここまで手が回らなかった。何故か。──金銭的な余裕がなかったのである。
地獄に堕ちたあの頃はその日暮らしと言っても差し支えないような、毎日ギリギリの生活であったものだ。衣服どころか、食い繋ぐのに必死だった。しかし今や拠点を据え、十分とは言えないまでも、政拳奪取に向け軍資金も貯まりつつある。そう遠くない未来、上級議員たちとも相見えることになるだろう。貧相な身なりではコケにされるというもの。絢爛豪華に着飾れば良いというものではないが、赴く戦場には見合う衣装というものがある。
そこで、ヴァルバトーゼ閣下にはその格に見合ったラグジュアリーなものをお召しいただきたい……そんな真っ直ぐな(邪である)思いで此度、この一張羅をようやく準備することが出来た。淡雪の肌にさぞ似合うことだろう。
「フム、これは……下着か? この布面積ではほとんど意味を為さぬのではないか」
「ええ、これは下着そのものの機能というよりもむしろ……ってかかか閣下?! どうして此方に?!」
「随分個性的だな……お前はこういうものを好んで穿くのか?」
敬愛する我が主が自分の真隣で苦々しい顔をしている事実を俺は受け入れなければならなかった。咄嗟に距離をとるが最早後の祭り。俺の手元にはエロティックな下着。これは、大変、まずい。こんな悪寒は、二千年の悪魔人生において初めてかもしれない。
「押しても引いても扉が開かんので蝙蝠に化けてそこの窓から入ってきてしまったが……なんだ、その……邪魔したな」
「ち、ちが…これは……」
閣下の気まずそうな声色に「シモベは透け透けの下着を穿く変態だ」と勘違いされていることを悟る。何でも良い、何か……何か言葉を絞り出せ。
「……これは貴方様のために準備したものです」
「俺にか?! これで一体何を隠せと言うのだ……? 幾らなんでも悪趣味……」
「いいえ! お聞きください! Tバックは素晴らしい機能を兼ね備えているのです!」
俺は一体何を口走っただろうか。記憶は朧げではあるし、思い出したくもないが、下着の機能とその歴史、そして通気性に優れ、かつあらゆる衣装のラインを崩さないTバックの有用性について、その悉くを語った。気がする。気が確かでなかったために、脳味噌が出来事を無かったことにしようとしている。忘却とは実に優れた機能だ。
「貴方様はいずれはこの魔界を統べるお方……閣下には見えないところまで完璧でいていただきたく。言わば紳士の嗜みというやつです」
「分かった、分かったから……熱弁するのはもうよせ」
腑に落ちていない様子の主人ではあったが、俺の熱意に折れるかたちで、下着を渋々と受け取った。そして手に取ったそれを訝しげに眺めた末に、ため息を吐いた。
「これは一体……どういう顔で身に付ければ良いのだ……?」
困惑しながらも目の前のことに真摯に取り組まんとする主人の何と健気なことか。先程まで張り詰めていた俺の心に柔らかな風が吹き、そして凪が訪れる。それでこそ我が主。お慕いしております。
「ところで──フェンリッヒ、かく言うお前はどうなのだ?」
「はい?」
「主人が完璧であるのなら、そのシモベにも完璧でいて貰わなくては……無論、見えないところまで、だ」
そう言って閣下は俺にずいと近寄ると、躊躇無く俺の腰元に手を掛けた。その細指によってファスナーが落とされる。
「閣下!? 一体なに、を、」
「フェンリッヒよ、ひとつ問うぞ。俺の武器、防具、そして下着に至るまで……それらを取り揃え、世話をしてくれるのには感謝している。まさに至れり尽くせりといったところか」
上目遣いの閣下は俺の手を取る。何を、何をしたいのです、我が主……!
あまりの至近距離に気まずくなり、ふっと目を逸らしたその時、閣下は俺の指に光るデビルリングに触れた。
「しかしだ。俺が気付いていないとでも思ったか? お前は俺の装備ばかりを優先させて……そのお下がりだけを、お前はじめ、者どもに使わせているだろう! このリングもそうだ! 何でもかんでも俺を第一にすれば良いというものではない。未だにヨレヨレの服を着ているプリニーが気の毒だ!」
で、だ。そう言って閣下は俺の逸らしていた視線を捉え、にこり笑う。その表情は、珍しく悪魔じみている。まずい、そう思ったが、俺が逃げるよりも主人が肩をがっちりと掴む方が僅かに早かった。
「ま・さ・かとは思うが……見えもしない俺の服飾の出費のためにお前は爪に火を灯し……ゴムの伸び切った使い古しの下着を穿いているのではあるまいな? ことと次第によっては──この上等な下着もお下がりとして着用してもらうが──覚悟は良いか?」
──ヴァル様に暴かれる日が来るのであればもっとまともな下着を穿いておけば良かった──いや違う、そうではなくて──溢れ来る様々な心の叫びを呑み込めるはずもなく、地獄の夜は、騒々しく、更けていく。
fin.