あと五百年待ってくれ(1) ──残念ながらもう、目も見えないし耳も聞こえないからさ、と。
青年は言う。相棒と呼んだ少女の腕の中で。
──あのひとに、言伝を頼むよ。そこにいるのが誰なのか、わからないけど……抱えたまま死ぬのは、ちょっと悲しいから。
そうして微笑み、あのさみしがりやに、と。ずっとずっと、おれは、と。
けれどその先を紡ぐことなく、青年はそっと目を閉じた。
「……は、っ?」
口元を押さえる。そうでもしなければ今すぐにでも、叫び出して暴れ回る自信があったからだ。
「なん、え、えぇ……?」
時は夕暮れ。穏やかな茜色が差す部屋の中で、困惑した声を上げる青年の名はアヤックスといった。
「……お、れ……?」
彼の頭を苛んでいる、ひどい頭痛すら意識の外に放り投げられるほど——手にした本の内容に、とあるファンタジー小説で死んだ男に、どうしてかひどく「覚えがある」。
……否、「どうしてか」ではない。アヤックスは既に理解していた。この状況を他人に告げれば頭の心配をされることも、けれど明らかに、「こうやって」死んだ覚えがあるということも。
ああ、だって鮮明に「思い出せる」。金髪の少女としか書かれていなかった、あの子の顔も剣筋も。瞳孔が開くのを意識しながら、アヤックスは一度目を閉じてまた——開く。
「……作者は……う、っわあ」
そして目にした表紙の隅に、見慣れた名前があることもまた、偶然ではないのだろう。しかも長命かつ記憶保持のスペシャリストが、かつて名乗っていたものと同じだという辺り、どう考えても。
「……鍾離先生、じゃん」
呟いて、アヤックスはふらりと立ち上がった。最初こそ友人から勧められて、小説好きじゃないのになあ、なんて思いつつ目を通したはずのそれを、気付けば読破していたのだから相当な筆力だ。だってまるで、全て見てきたかのように描写が生きていた。
机の上のタブレット端末を手に取る。検索にかけられたのはもちろん「鍾離」と名乗る作家のことだ。
……ほんの少しだけ、期待した。別人であればよかったのにと。そうすればアヤックスだって、脳裏によぎるいつかの人生を否定できたはずだった。けれど検索結果に表示された「鍾離」は、記憶の中と寸分違わぬ姿を、していて。
流れるような黒髪と、切れ長の目が印象的な、相変わらずの美丈夫だった。アヤックスの記憶と相違する点があるとするなら、服装が現代のものになっている、というだけで。
生年月日が嘘のような昔であることを、散々ネタにされているようだが「あながち間違いにも見えない」と話題になっているらしい彼は、確かに間違いなく——かつての岩神、そのひとだった。
検索を続ける。どうやら今の所在地は、アヤックスの生まれた家とそう遠くない。会いに行ける、とよぎった歓喜にも似た感情を否定したかったけれど、空いた穴からこぼれる水を止められない理屈と同じだ。ああ、とため息が落ちる。
「……そっか。『俺』、あのひとのこと好きだったんだね」
タブレットを手に、ベッドへと横たわる。見たところ、現在の彼はテイワットの歴史研究における権威であり——それ関連の本も多数出版しているようだ。そしてアヤックスが読んだのは、彼がその「研究結果」に「多少の脚色」を加えて出版したというファンタジー小説だ。
名目としては歴史を学ぶための足がかりに、ということらしい。しかしまあ、とある項目ひとつを除き——何も嘘が書かれていない。なんならその嘘というのは、世界からすればどうでもいいようなことで、つまり書かれているのは純度百パーセントの真実だった。
当たり前だ。だって彼は全て見てきたのだろう。そしてそれを忘れないまま、全て見てきたまま書いた。おそらくは——そういうことだ。
もう一度、息をつく。なんなら今出発しても、門限までには帰って来られる距離だった。どうする、と思ったのは一瞬で、タブレットと財布、スマートフォンと件の本をカバンに放り込んで家を出る。
もちろんアヤックスは混乱していた。この本を読んで記憶が戻りました、いつか会ったことありますよね——なんて言えば明らかに不審者だというのに、その可能性すら失念している。
それでも会いたかった理由なんて、言葉にするのも忘れるほどに。かつてのアヤックスもといタルタリヤは、鍾離のことを深く愛していたので。