ライトニング・メアリー 発端は些細なことだった。
「あんた、随分モテモテみたいだけど、ウチだって昔は相当モテモテだったんだけどぉ? ウチの器用な指遣いを求める人妻たちがいっぱい寄ってきたんだよねぇ〜。意味わかる? グッヘッヘ!」
つい先日新しく縁を結んだランサー、メアリー・アニング。彼女とマイルームにて交流を深めようとしていた折、それは起こった。テーブルの向かいのアニングが、両手指を触手のようにくねらせながら戯れに放った言葉に、カルデアのマスター、藤丸立香は頭のてっぺんからつま先まで茹で上がったかのような感覚に襲われたのだ。
くねくねと軟体動物のように動くアニングの指に、ごくりと息を呑む。何か言い返さなければと思うものの、言葉がうまく出てこない。
「……って、何カマトトぶっちゃってんの? あんただって年頃なんだし、まさかおぼこってワケでもないんだろ?」
烏の濡れ羽のような睫毛。その睫毛に縁取られた黒曜石。未知の果実のように甘やかな唇。そして、それらに似つかわしくない、仁王像のような猛き肉体と――節くれだった大きな手指。長い指が胎の奥底でゆるゆると蠢くたび、行き場を失った熱が次々に渦巻いて――。
先日の魔力供給での、未だ記憶に新しい生々しさが一気に甦り、下腹がむずむずと疼くのを感じる。
「おい、なあ。何か言えよ……。何か言ってよ、ねえってば!」
予想外の反応にうろたえ始めたアニングに両肩を激しく揺さぶられ、やっと立香は我に返った。
「あ……うん。ごめん、アニング」
「なあ……ひょっとして、怒ってる?」
「怒ってないよ。ただ、ちょっと……アハハ……」
もじもじと視線を逸らしながらごまかそうとすると、アニングの顔がさっと青ざめた。
「立香、ごめんな……。ウチはただ……あんたをちょっと、からかいたかっただけなんだ」
アニングは合わせる顔がないとでもいうようにしゅんと俯くと、訥々と続けた。
「生前のウチ、主な収入源が学術用の化石標本だったんだけど……ウチが生きた時代ってさ、女が学問で男と渡り合うなんてとんでもない、って時代だったから……大っぴらに営業もできなくてさ。要は、学者連中の奥様に取り入って、良きに計らってもらったってコト。……って、別にいかがわしいヤツじゃなくて、ただの文通だから! 中身は売り出し中の化石たちのセールストークだし! ……ホントだよ?」
アニングが上目遣いに立香の様子を窺う。不器用に言葉を紡ぐ彼女が、決してその場凌ぎで出任せを口にしているわけではないことは明らかだった。
「……疑ってないよ」
立香は柔和に微笑んだが、アニングの表情は何故か硬いままだ。
「ウチは、その……あんたが望まないことは、絶対無理強いなんてしないから……安心しなよ。だからさ――」
言うなり、アニングは立香の両肩を再び――今度は、掘り起こしたばかりの貴重な化石を扱うかのようにそっと――掴んだかと思うと、今にも泣き出しそうな表情で見つめた。
「何かあったら、いつでもウチに言いなよ? あんたの代わりに、ソイツをぶちのめしてやるから」
どうやらアニングは、自身の軽率な失言がマスターの何かとんでもないトラウマを掘り返してしまったのだと、すっかり勘違いしてしまったようだった。高圧的な態度はどこへやら、病人を労わるような声で告げた。
「う、うん……ありがとう」
早めに誤解を解きたいところではあった。しかし、同じ女性とは言えカルデアに来たばかりのアニングに真実を打ち明けることは流石にためらわれ、立香は仕方なく曖昧に微笑んだ。彼女は先ほどの失態がまだ気掛かりなのか、しょんぼりと肩を落とし俯いている。
「もう気にしないで。それより、もうすぐ夕食の時間だし、よかったら一緒に食べない?」
穏やかな声色とともに微笑みかけると、アニングはようやくのっそりと顔を上げた。
「…………いいの?」
「もちろん! 化石や発掘の話、もっと聞かせてほしいな」
「しょ……しょうがねえな〜。水棲爬虫類の基礎知識もないのにウチの話を聞きたいとか、二億年前においで! と言いたいところだけど――今日は特別に許してやるよ!」
乱暴な口調とは裏腹に頬を赤らめながら話すアニングの、爬虫類のように細長い瞳孔に力強さが戻るのを見て、ようやく立香は安堵の息を吐き出したのだった。
「今日のオススメは……エミヤさん特製『ハーブ香る塩豚と夏野菜の具沢山ポトフ』かぁ〜。美味しそうだね!」
食堂の配膳カウンター前の立て看板に書かれた手書き文字と貼りつけられた写真に、立香は口中に唾液をじんわりと滲ませ、アニングへと視線を向けた。彼女はどこか遠い目で、ほかのサーヴァントたちがアーチャー、エミヤからスープを受け取るのを見つめていた。
「もしかして、苦手だった?」
問いかけにアニングは苦笑を見せる。
「ウチ……こんなに具の多い、しかも塊肉がゴロゴロしてるスープなんて、生前はめったに食べたことなかったから、ちょっと驚いてさ……。発掘は大物を当てればデカいけど、その分必要経費もバカにならないから……。やっと大口の契約を取りつけても入金が遅れることなんてザラだったし、ずっと赤字との戦いの毎日だったから」
「アニング……」
生まれてから――そしてカルデアに来てからも、命の危険はそれこそ無数にあれど――立香には食べ物で苦労した経験がほとんどなかった。生前のアニングについて詳しく知るわけではなかったが、生涯を通じ金策に苦心したであろうことは、彼女の日頃の発言から十分察せられた。しかし、流石にイクチオサウルスやプレシオサウルスなどの大物を得たときは懐が潤ったのではないかと漠然と考えていたのだ。自分の見通しや想像力の甘さを恥ずかしく思い、かけるべき言葉を見失う。
「なーんつって、な!」
アニングに勢いよく肩を叩かれ、立香は我に返った。
「なんであんたが辛気臭い顔するかな……ったく。終わり良ければすべて良し、って言うだろ? ウチはさ、今は――トレイと一緒にカルデアのウマい飯が腹いっぱい食えりゃ、それでいいの!」
アニングがいたずら好きの少年のように瞳を光らせニヤリと笑う。恵まれた現代人の戸惑いを笑い飛ばすかのような、したたかであっけらかんとした仕草に逆に励まされる思いがした。
アニングがカウンター越しのエミヤに何やら相談をしている間(漏れ聞こえてくる会話から、どうやら愛犬トレイの晩ご飯に関するものらしいことが窺えた)、立香はデザートを物色していた。
デザートコーナーは食堂の中でも完売必至の激戦区である。アニングがブーディカ特製のプリンを食べたがっていた(彼女は自身が生前から知るパンプディングとは外観が全く異なることに興味を抱いたようだった)のを思い出し、ショーケースを見回した。棚の奥にひっそりと一つだけお目当てが残っているのを見つける。これ幸いと手を伸ばしたその瞬間、プリンの反対側から伸びるヤツデの葉のような手と接触した。
「ひゃっ!」
短い悲鳴とともに、雷にでも打たれたかのように勢いよく手を引っ込める。
「おっと。これは失礼」
いつになく涼やかな声を聞かなくとも、顔を見なくとも、その大きな手の持ち主を間違えるはずもなかった。アルターエゴ、蘆屋道満。身の丈二メートルの派手な袈裟姿が立香を遥か上から見下ろしていた。
「ど、どっ、どっ……どう、まん……」
ああ、どうして、今日に限って。
ようやく忘れかけていたのに、またあれを思い出してしまった。しかも、よりによって指先に触れてしまったせいで、余計に意識せざるを得ない。
「マスター……もしや、拙僧の爪で御怪我を?」
眉尻を下げた道満が心配そうに尋ねる。
「いえ、だい、じょうぶ……です」
直視もままならなくなってきた立香は、俯きながらぼそぼそと片言で答えるのが精一杯だった。
「ンンン……マスタァ?」
困ったのは道満であろう。明らかに普通でないマスターの様子に、そのまま引き下がるわけにもいかない。あるいは、霊基に刻まれた彼の悪性に潜む、隙あらば己が主の弱みを握らんとする悪戯心が僅かに刺激されたのかもしれなかった。
「何やら御顔の色が優れませんな……熱でもおありでは? ちょっと失礼して――」
腰を屈めた道満が掌を額にかざそうとする。立香はそれを避けるように上半身をのけ反らせ、一歩後ずさりした。
「ほんとに、だいじょうぶ、だから!」
立香は思わず叫んだ。両手に握りしめたプラスチック製のトレーは大量の手汗でぬめり始めていた。
「急に大声出してどうした? って、道満じゃん。なんかあったん?」
エミヤへの相談を終えたアニングがこちらへやって来た。親しげに法師の名を呼ぶ声に驚く。彼女が召喚されてから今までの短期間、さして接点もない二人がいつどのようにして気が置けない仲になったのか。興味が湧いたものの、今はそれどころではない。
「おや、メアリー・アニング殿。実は、マスターの御加減が優れないようなのですが、御本人は『大丈夫』の一点張りでして。熱を測ろうとしても拒まれてしまい……」
アニングは二人を見くらべるように素早く一瞥を送ってから、道満のほうへと近づいた。
「ちょっと耳貸しな」
そう言って道満を屈ませると、耳打ちでひそひそ話を始めた。何を話しているのか不安だが、悪いようにはしないだろうと信じ、立香は内緒話が終わるのを待った。ものの数分も経たずに話が終わり、道満は立香へと姿勢を正した。そして、申し訳なさそうに眉根を寄せ、謝罪を述べた。
「立香殿。拙僧としたことが行き届かず、まことに失礼をば。どうか許されよ」
「うん……もう、大丈夫だから」
立香はわけが分からないまま、とりあえず相槌を打った。
「それと、プリンはお譲りします。食欲のない時は、柔らかいものが良いでしょうから」
道満はプリンを立香のトレーに載せ、自分のそれには木苺のタルトを載せて軽やかに微笑むと、早々とテーブルの方へ行ってしまった。立香はおそるおそるアニングに尋ねる。
「アニング……道満に何て言ったの?」
「ん? ああー。女の心と身体はすげーデリケートにできてるから、本人がいいっつったんならそっとしとけって」
「やっぱり……」
立香は今度は別の意味で顔を火照らせることになった。本当の理由を知られるよりはずっとましだが、恥ずかしいことには変わりない。それが、魔力供給という名の性行為をともにした間柄であったとしてもだ。
それはともかく、道満があっさり引き下がったことについて、一点気になることがあった。立香はピルを常用しているので月のものが発生することはない。道満に直接話したことはないが、彼がカルデアに来てからはそれなりの期間が経っており、マスターの体調管理に関わる重要な事項でもあるため、どこかで耳にしていても不思議ではなかった。もしかしたら道満は空気を読んでくれたのかもしれない。とにもかくにも、アニングの機転に感謝する立香であった。
食後、デザートをゆっくりと味わいながら、アニングの話に耳を傾ける。立香は道満につられてこっそり彼と同じ木苺のタルトを選んだ。甘酸っぱい木苺、まろやかなカスタード、そしてバターたっぷりでサクサクのタルト生地の三重奏を楽しむ。アニングは話の合間にプリンを少しずつ口にしては、こんなに柔らかくて美味しいものは初めて食べたと幼い子供のようにはしゃいだ。
アニングの生前の体験は、何もかもが未知の世界だった。化石に関する知識や発掘技術だけでなく解剖学にも精通していることに驚くと、彼女はあっけらかんと笑った。
「化石は掘り起こしてからが本番。ここからがウチの腕の見せどころってワケ! プレパレーションつって、骨の周りの岩を取り除いてその生き物本来の姿が観察できる状態にするんだけど、化石の骨って超もろいから。どこまで削るか、あるいは削らないかってのは、最終的には解剖学の知識が物を言うのさ。あとは、経験と根気な」
しかし、アニングの仕事はそのような地道で繊細な知性に左右される作業のみでは完遂しなかった。彼女は知識も経験も学者たちと議論を交わすのに十分過ぎるものを有していたが、学者を名乗ることは許されず、また実態も学者と言うには些か泥臭いものであった。その真の姿は調査、発掘から営業、販売まですべてを一貫して行う化石販売業者であり、彼女がその生業に費やす時間の半分近くは命の危険を伴う肉体労働が占めていた。断崖絶壁たるブラック・ヴェンの崖下で、発掘作業に夢中になるあまり、迫り来る満潮に気づかず危うく溺れかけた話を聞いたとき――もっともアニングは、笑い話のつもりでそれを話したようだったが――立香は背筋がぞっとするのを感じた。
「そんなに危険な仕事なのに――」
それに見合う対価を得られなかったのはどうしてかと尋ねようとしたが、詮ないことと思い直し、口をつぐむ。しかし、憤りにも似たやるせなさは、言葉を介さずとも届いてしまったようだった。
「未知の生物は未知であることにこそ価値があるし、謎が謎でなくなった瞬間から、人はそれに見向きもしなくなる。以前見つけたのよりずっと完全な状態の子を、命がけで掘り起こして、汗水垂らして運んで、神経擦り減らしてプレパレートして、最高に美しい状態に仕上げても――奴らに言わせりゃ、『もはや珍しいものではない』のさ」
アニングは忌々しそうに告げた。
「ハッ……あの子たちはそんなの関係なしに、一億九,〇〇〇年前から変わらずそこにいたっていうのにな」
猫の目のように移ろいゆく価値観と、宿命的に凝り固まった価値観。その狭間で、彼女はいったい何度涙を呑んだのだろう。立香は気が遠くなるような胸苦しさを覚えた。そして、その苦痛が初めて経験するものではないことに気づいたが、一体いつどこでそれに苛まれたのかは、少しも思い出すことができなかった。
「化石の値打ちは金銭的価値だけじゃないってことも、化石を欲しがったのがそんな奴らばかりじゃないってことも分かってる。真面目に探究してるウチらに、未知も謎も、ゴールなんてあるわけないんだ。……ただ、ウチはさ……ほかに生きてく術がなかったのも、ホントのことだから――って、なんであんたが泣く?!」
アニングに指摘されて初めて、立香は自分が涙を流していたことに気づいた。
「……ごめん」
「いや、謝んなくていいけど……。つーかウチ、何であんたにこんな話しちゃったかな……? とにかく、ウチがあんたに言いたいのは――神秘を暴くだけ暴いて、好き勝手にカテゴライズして、標本棚に飾り終えたら満足して見向きもしなくなるような奴には、気をつけろってこと! 分かった?」
「うん……わか……った……」
アニングの真意は完全には掴みきれなかったが、自分を案じてくれていることだけははっきりと感じられ、彼女のぶっきらぼうな愛に立香は途切れ途切れの涙声で応えた。
「ま、アイツがいるなら――クセはスゲー強いけど――心配いらないか」
聞き捨てならない三人称が登場し、立香はぴたりと泣き止んだ。
「……“アイツ”って、誰のこと?」
「あんた、こっそり道満とデキてんでしょ? さっきはヘンな勘違いしちゃって、悪かったな」
アニングがプリンの最後のひとくちを口へと運びながら呑気そうに答えると、立香の頬はたちまち火を噴いた。今日三度目となるあれを思い出してしまったのだ。立香は蚊の鳴くような声を絞り出した。
「……道満は……そういう、のじゃ……ない、です……」
いっそのことそういう関係であればこれほど弁解に窮することもなかったはずである。自身の置かれた立場にますます恥ずかしさを覚える。
「え、……そうなの? ウチの女の勘も、一世紀半以上くたばってる間に鈍っちまったのかな……。立香、何度もごめんな」
非礼を詫びながらも、眉間に皺を寄せ何度も小首を傾げるアニング。当たらずとも遠からずな勘の良さに冷や汗をかきながら、彼女に本当のことが知れるのも時間の問題かもしれないと、立香はすっかり生ぬるくなってしまったダージリンティーを一気に飲み干した。
〈以下後編『指先』に続〉
参考文献:『メアリー・アニングの冒険 恐竜学をひらいた女化石屋』吉川 惣司・矢島道子(朝日選書,2003)/『アンモナイトの目覚め』フランシス・リー(ギャガ,2020)