心の実る処【治北】②「アラン、おはよう」
「路成やん。おはよう」
「なぁ、信介見んかった?」
「それ、俺も練に聞いたんやけど。見てへんなぁ」
ここ二週間ほど彼の姿を見なかった。いや、全く見なかった訳ではない。廊下の向こうを歩いている姿や鳥居を潜る姿は幾度か見たものの、挨拶ができるほど近いところにはいずれもいなかった。
「なんや最近忙しそうなやぁ」
「田んぼ手伝っとるらしいで。あ、今は畑やったかな。稲荷崎の」
「へ? ほんまかそれ」
アランは驚いた。
「おん。本人から聞いた」
「なんでやろ」
「ちゃんと知りたいんやって。学び直すんやって言うとった」
「いや、豊穣の神さんに仕える狐が、今更何言うてんの」
一番最近会った時、信介はいつもと変わらない様子だった。あの友のことだ。忙しくしても、仕事と同じように寝食は怠らず日々を過ごしているのだろう。元気ならそれでいい。それでいいのだが。
「想い人でも……できたんかな」
「おっ、さすがアラン」
「何、何か知っとんの」
「信介本人は何も言わんし、証拠を見たわけやないんやけどな。多分当たりや」
「誰やの?!」
「んーなんや少し前に稲荷崎にできたおにぎり屋っちゅーてたかなぁ」
「あぁ、あそこの……」
美味しくてつい何度も食べに行ってしまう、仕事も丁寧で心地が良い、といつもの表情で話していたのは前回会った時だった。随分と固い仮面を被って本音を隠していたのかもしれない。
「あいつらしいなぁ」
「せやなぁ」
「まぁ俺らはなんも気付かん振りしてたらええわな」
「せやな。そっとしとこ」
そう言って路成と揃って窓の外を見てみれば、すっかり季節は冬本番で、雪こそ降らないものの冷たい澄んだ空気が茶色い木の葉を揺らしていた。
◇
今月はぶりの照り焼きだった。甘辛い味の一切れとお米が海苔で巻かれている。
あの後、信介はもう一度さつまいものおにぎりを食べに行った。こないだは少し調子が悪くて、と妙な嘘をついて再び訪ねても、治は何一つ変わらずにおにぎりを提供してくれた。その時、必ず毎月の限定おにぎりを食べに来ようと決めた。それから田畑にもっと関わろうということも。以前から顔を出していた田んぼと畑を持っている農家にしばらく手伝わせてほしい旨を相談するとすんなりと事が運んだ。季節は稲作は終えていたから、来季に向けた肥料の準備を手伝ったり、大根や小松菜といった冬野菜の収穫をできる限り手伝った。
「これ」
「わ、またええんですか。こんな沢山のおみかん」
定休日前の営業時間が終わる頃、野菜や果物を持って行くことが何回か続いていた。みかんが詰め込まれた紙袋を開きながら治が感嘆の声を漏らす。
「手伝うてるとこが趣味でみかんもやっとって、見た目は良ぉないんやけど言うて山ほどお裾分けくれてん」
「見た目って…全然なんともないやないですか」
「そう。食べたらめっちゃ甘かった」
「うわ。食うの楽しみや」
信介はおにぎりに齧り付く。治はカウンター目の前の調理台を拭き掃除しているようだった。
「あー、北さん?」
「はい?」
「毎回こんな持って来んでもええですよ」
「……迷惑やったか」
「いやいや! 迷惑なわけないですよ。ただ毎回気使うてもらうん申し訳ないなって思うて」
ここで信介は自分が浮かれていることに気がついた。しばらく忙しくて来れそうにないと話せば遅い時間でも構わないと言われ、こうして閉店後の他の客がいない店内でおにぎりを頬張ることに嬉しさを感じてしまってしまった。
行き過ぎた行為だった。治は信介を客として丁寧に扱ってくれているだけだ。冷静になって自制しなければ。
「……すまん」
忙しいことを分かっていたのに、治の優しさと居心地の良さについ甘えてしまっていた。
「ほんまにええんです! 北さんが無理してなければ。こうして食べに来て話できるだけで俺は嬉しいです」
「……ほんま」
「はい」
「……基本はちゃんと早い時間に来るけど。もし、食べたなったら遅くなってもええの?」
「もちろん。北さんなら」
「……ありがとう」
浮かれるなと言い聞かせながら頭の中では治の言葉を反芻していた。自分なら遅く来てもいいという言葉は冷静になったはずの信介の心を再び波立たせた。
食事を終え会話も区切りがついたところで、そろそろだと席を立った。会計を済ませると治が、あれ、と呟いた。
「北さん。他に何も着てませんでしたっけ?」
「これだけやけど」
セーターとズボンでこの季節の人間の服は間違っていないはずだった。
「今日結構冷えるんで風邪ひきますよ」
「平気や」
変化すれば冬毛だから、とは到底言えないがとにかく寒くはなかった。
「いやあかんですって。ちょっと待っててください」
そう言って治は調理場の奥へ消えて行った。何かそおかしかっただろうか。思い起こせば、確かに道を行き来する人は皆厚着だった気がする。
「はい、これ」
「なん」
「俺の上着。着てってください」
「いや、ええって」
治の両手で差し出された黒い布の塊を信介は丁寧に押し返した。
「また次来た時に返してくれたらええんで。いつでも」
「俺は寒くない。治が着るのなくなるんちゃうん」
「ははっ、ありますよ。ほんまに着てってください。途中で脱いでもええから、とにかくしばらくは着てって」
そうしてぐいっと押すように渡され咄嗟に受けっとってしまう。あ、と思っていると治は店の戸の前まで行ってしまった。狐の街では見ることのないサラサラとした生地だった。
「うわ。ほら、寒い」
外の空気が一気に流れ込み、確かに店内と比べると随分と冷えた空気だった。信介は歩いて店に来たのだ。外の気温を知らない訳ではないのに、ブルっと震えた後の治のしたり顔を見て思わず笑ってしまった。
「ほな借りるな」
黒いそれを広げて袖を通す。表面は冷たいが中に綿か羽毛が詰まっているのかじんわりと温まる。
「温い」
「でしょ」
「ありがとう。早めに次来て返すわ」
「いつでもええですよ。あ、お礼もお返しもいらんですからね」
早速何をお礼に持ってこようかと巡らせていた頭の中を見られたのかと思った。
「考えてたでしょ」
「……まぁ」
外に出ると借りた上着のおかげで体は全く冷えを感じなかった。顔や耳、手に触れる冬の空気がすっきりとしていて心地良かった。
「見送りはもうええから。治こそ風邪引いてまう」
おにぎり宮の半袖シャツの下に長いものを着ているようだが、交差した両手で自身の腕をすりすりと擦っていた。
「はいはい。気をつけて帰ってくださいね」
「また」
片手を上げて背を向けた。
まさか上着を借りてしまうとは。痩せ我慢でも何でもなく本当に寒さは感じないのだが、こうして一枚切るだけで全く心地は変わるのだなと思った。少し歩いてから振り返ると、店から漏れる灯りの中にまだ治は立っていた。手をひらひらと振って早く中へ入れと伝えたつもりだが、暗くて見えないのか治は呑気に手を振ってきた。
神社の前まで来て借りた上着を脱いだ。誰かに見られたら何と説明したらいいか分からないので、とりあえず腕で抱えて鳥居を潜った。腕の中でもそれは暖かく、そしていい匂いがした。人間の雄臭い。でも優しいくてやっぱり暖かい。匂いで季節や天候を感じることはよくあるが、匂いに温度があるとは知らなかった。
──話できるだけで。
治はそう言った。話。はなし。話とはなんだろう。話をしたらもっと治との仲が深まるのだろうか。これまで誰かと仲良くなろうとして会話などしたことがなかった。何を話すといいのだろう。天気? 季節? 田んぼや畑の話?
……それではない、と独りで頭を振る。こういうときは相手を知り相手に知ってもらう内容が良いはずだ。飯の話、昔の話? 治の昔話を聞くのはいいが、自分の話をするときは気をつけなければいけない。嘘はつきたくないが内容によっては本当のことを避けて話す必要があるかもしれない。自分は大して楽しい話はできないけれど、そう言ってくれるのなら沢山話をしようと思った。
ひゅ、と風が吹いた。抱えた上着に顔の口元だけ埋めた。冷えは感じなくても風を避けられるだけでも温かく感じた。
借りてしまった。治の匂いがするそれを借りることは人間同士でも決して頻度高いことではないと理解している。次に会う口実をあちらから作られた。つまり治もまた会いたいと思ってくれているということだ。そうやって根拠もなく都合よく心が捉えてしまっていることも分かったが、この状況では仕方がないことと、浮かれている自分を今だけは許すことにした。
先日は学生時代の話、今日は開店準備の話、さて次は、とその日毎に話題を決めて来店をした。話題を思い付けば書き付けて忘れないようにした。そうしなければ何を話したら良いか迷ってしまうとは、自分のこととは言えなんて不器用なのだと自笑したが、他に術がないのだと諦めて日々真剣に話題を考えた。
そうして話せば話すほどやっぱり治の傍が心地良かった。信介が知ることのなかった世界を持っていて、そこで見せていた顔があるのだと思うと、せめてこれからは治のどんな顔をも見たいと思った。
そしてそれは信介の身勝手ではなかった。憶測でものを語らない信介でも思うほど、治も好意的に会話を受け取ってくれていた。紛れもなく仲が深まったと言えるだろう。
そうしている内に稲荷崎から見える遠く遠くの山の雪が溶け、春風が吹くようになった。
これまで誰かに恋したことなんてなかった。仕事はやりがいがあって充実していたし、友にも恵まれていた。だが、これは他の対人とは全く違う種類のものだ。だからやり方が分からない。この先どうしたいのかも分からない。
でも、もっと知りたい知ってほしいという願いだけで、信介は来店し話を続けた。
「なんで、おにぎり屋かって?」
「おん。米使う店なら、他にも色々あるやろ」
「うーん。確かに、自分で店やろうって考えた時から、何がええかなってずっと考えとったんですけど」
時刻は午後七時過ぎ。いつもなら店内で食べる客も持ち帰り客もまだまだという時間だが、店の外は台風の強い雨風が吹いていて、あいにく客足は鈍かった。先ほど信介と反対の端のカウンター席に座っていた客も帰ってしまい、そのため店内は二人きりだった。信介もくぎ煮のおにぎりを平らげた。
「ピザとか、うどんとか、まぁ色々ありますよね」
「せやな」
「でも俺、勝っても負けても、悔しくても嬉しくても、しょっちゅうおにぎり食うてたんですよ。おかんが作ったやつ」
以前聞いたところによると治は双子らしい。スポーツ選手の双子の兄弟がいて幼い時から二人ともよく食べたが、特に治の食欲はよく周囲を驚かせていたようだった。
「店を自分でやるんなら、どんな日でもみんなが食べるもんがええなって思うて」
「それでおにぎりなんや」
「はい」
ガラ、と戸が引く音がして出入り口の方を振り返ると肩を濡らしたスーツ姿の男性が立っていた。
「まだやってますか? 持ち帰りなんですけど」
「はい!」
治が調理場から出て男性の元へ駆け寄る。その手には白いタオルがあった。
「お客さんこれ、良かったら使ってください」
「え、あ、ありがとうございます」
「こちら座って。今、お茶出しますね」
信介が座るところから数席先の椅子を引きながらそう言うと、治は一度調理場に入っていった。それからまたすぐに出てきて、湯呑みと湯気の上るおしぼりを客に差し出した。
「雨すごいっすね」
「傘が意味なかったですね。スーパー行くにもちょっと面倒やったんで、おにぎり買うて帰ったらええかなって思うて」
「おおきに」
その客は十個ものおにぎりを注文した。
「少しお時間いただきます」
「そら、もちろん。もう作って貰えるだけでええですから」
はは、と笑った客に治は味噌汁も出した。仕事で疲れてさらに冷えた体に温まると言って、あっという間に飲み干していた。
「こんな日に来てもらって、ほんまに」
「いえ。なんやこのままやと停電になるんちゃうかっていう話もあるらしくて。妻に電気使わんでもええもんで、子どもらも食べるなんか買うて来い言われまして」
「それで」
カウンターの前の調理台で治は俯きながら作業をしている。
「土日なんかよく子どもがおつかいで買うて来るんで、おみぎり宮なら喜ぶやろ思うて」
「あー! あの男の子の、兄弟の!」
「そうですそうです」
「確かにいつも十個買うてくれますわ」
「よくおつかいから帰ってくると、店長さんにあめちゃんもらった言うて喜んでます」
「ふふ。俺ん時なんて、おつかいなんてせえへんかったかも」
「俺もです。今妻が妊娠中であんまり動いたらあかんので、俺よりも子どもらの方がしっかりしてきました」
おめでたいですね、と弾む会話を続けながら、その手はどんどんおにぎりを作っていく。
「ラップとパック、どっちがええんですっけ?」
「ええと……パックでええかな」
「ほんなら、中身濡れんようにビニール袋二重にしますね」
「ありがとうございます」
あっという間に注文通りのおにぎりを仕上げて客に渡し、会計を済ませ出入り口で見送る治の後ろ姿を目で追っていた。
「少し雨弱まってます。北さん、帰るの今のうちかも」
そう言いながら暖簾を下げた。今日はもう仕舞いだと決めたようだ。
「……治のおにぎりは」
「はい?」
「雨でも晴れでも、大人でも子どもでも、みんながいつも食べるおにぎりなんやな」
戸を閉めた治は帽子を取りわしゃわしゃと手櫛で髪を崩していたその手が、はたと止まる。
「地元の米が、こんなに愛されるおにぎりになってほんまに嬉しい」
治の髪の毛の黒さが目に入る。これまでは帽子を被ったところしか見たことがなかったから、初めて素顔を見たような気持ちになった。
「そうであったら、ええなと……思います」
「ん。そしたら、俺は帰ろうかな」
「は、はい」
顔を赤くした治が可愛く思えた。客を、店を、米を、大切にしている姿勢がたまらなく愛おしい。
外に出れば湿気が酷かったが小雨で風も穏やかだった。でもそれも小一時間もすればまた荒れてくるだろう。
「またな」
「はい。お待ちしてます」
あぁ、好きだな。はっきりと認識をして信介は帰路を辿った。
台風の日から数日後、信介はいつものように店に行った。カウンターはいつもの席を含めて埋まっていて、信介と入れ替わるように帰った二人組の客が座っていたテーブルを拭き上げられた後その席に着いた。
菜の花のおにぎりを味噌汁付きで注文して、待つことしばし。このおにぎりが到着するまでの時間にも心地の良さを感じ、店内が賑やかであっても本を片手に待つことは苦ではなかった。
「お待たせしました」
そう言って見慣れた手から出されたおにぎりは今日も艶々として、味噌汁から上がる湯気からはふわりと出汁が香った。
「ありがとう」
あれから治の手に触れることはなかった。それでもあの手で握られて運ばれてきたものからは温かさを感じるようだった。
「なぁ治くん!」
突然の耳にキンと刺さる声に隣を見た。
「なぁ、今日のおすすめ何?」
「今日のって、何、あんたよぉ来てんの?」
「仕事の帰りにな。ね?」
女性客が二人。随分と気安い雰囲気のように見えた。
「おおきに」
「あ、またそうやって畏まって」
「いやお客さんやし」
「元同級生のな!」
「わかったって」
直感でこの女性の意図が分かった。そして知ってはいた。治は多くの人から好意を向けられていることを。
「おにぎりは菜の花が今月限定です」
自分が注文したものを他の客も注文する。そして治はそれを握って提供する。至極当たり前のことだ。
「菜の花苦くないの?」
「お出汁でさっと煮てるから、苦味はほんの少しやと思うけど」
そんなこと何十回もこれまでもこれからもあったはずだ。
「お出汁って聞くと美味しそう」
「美味しいで」
こんな自然な笑顔を見せることだって。それに、信介にだって笑顔は見せてくれる。──比べると、随分と控えめにだが。
「ならそれにしよ!」
「はぁい。お友だちさんは?」
「私は──」
目の前のおにぎりは変わらず宝物のように艶めいているし、店内の賑やかさも、治のテキパキとした動きも通る声もいつもと変わらない。
「……いただきます」
変わらないのに、途端に喉が狭まる感覚はなんだろう。こんなにもいい香りさせている美味しいものが目の前にあるのに。
手を合わせて箸を割って、左手でお椀を持ちながら右手でその中をゆるりとかき混ぜる。そうしてから一口啜る。食道に温かいものが通るのを感じながらお椀を置いて箸も置く。次に、まだハリのある海苔で巻かれたおにぎりを両手でそっと持ち、口を開けてかぶりつく。咀嚼していると米の甘みと菜葉の青さが鼻を通る。
美味しい、美味しい。これは美味しいものだ。だって、治が作ったのだから。
目の前だけを見て、きゅっと狭くなっているように感じる喉に詰まらせないようによく噛んでよく噛んで、一粒も一滴も残さずに食べ切る。
「……ご馳走様でした」
手を合わせれば短い食事の終了だ。
「すんません。今日ばたばたしてて」
「ううん。今日も美味しかったで」
「ありがとうございます……何か、ありましたか?」
「何が?」
「いや、なんか……」
すいません! と向こうの席から声がかけられた。
「あ、はぁい! 北さんすんません。また今度ゆっくり食べに来てください」
「おん。ご馳走様」
外に出て戸を閉めきる最後まで、治はこちらを見ていてくれていた。心臓が強く脈を打ちながらも、足には力が入らずふわふわと道を歩く。
頭の中は大丈夫、と、大丈夫ではない、という声がが往復していた。
何がだろう。何が大丈夫で、何が大丈夫ではない? 治のこと? 自分のこと? あの人間の女のこと? 何がこんなに胸を騒つかせるか分からない。落ち着け、落ち着けと、やたらと酷く鳴る心臓を宥めて細くなった喉で唾をごくりと飲み下す。
あれは誰だったのだろう。随分と気安い仲のようだ。これまでも彼の知り合いだという客に会ったことはあるが、たまたまなのか、あのような若い女の客だったことはなかった。
女。人間の女。……そうか。
治は人間。信介は狐。治は男。信介も男。治と信介の間に恋というものが生まれるにはもしかして、いや、もしかしなくても、難しい状況なのではないだろうか。
どんなに相手を知り相手に知ってもらっても、この二人では恋心が育まれることは到底なかったということか。
こんなの、大丈夫なものか。
恋とは恐ろしい。わかりきったことに対して強制的に盲目になってしまう。今更気づいた治との相違と共通項に目の前が真っ暗になった。
信介はたまらなくなり縋るように空に浮かぶ月を見上げた。