心の実る処③「おっ、信介」
「……アラン」
桜が散り始め少しずつ朝晩の気温も上がってきた頃、人間たちが種蒔きを始めた。土から芽がおよそ一斉に出るまであっという間で、昔よりかなり多くの芽が出るので、人間の技術の進化はすごいものだと思う。発芽や出芽が好調だとか思わしくないだとか、その年毎の異なる状況を報告していた頃が懐かしい。
ここまで順調であることを黒須に報告しようと社の奥へ向かうとこちらへ向かってくるアランと会った。
「久しぶりやん……何、元気ないやん」
「そうでもないで」
嘘はついてない。特に元気がないということはない。
「……そう? ならええけど」
「……あ、誕生日か。おめでとう」
社の奥への用事は祈祷か黒須への報告かのどちらかであることが多く、アランが奥から出てきたということはこの時期では報告だろうと思い至り、そして友の記念日を思い出した。
「ありがとうな」
「今年は何か?」
「ん? あぁ、褒美か。今年はな、妹が人間のなんとかランドに行きたい言うとって、休みもらおうと思うてん」
「きっと喜ぶやろうな」
「おん。ただな、まだ一日中変化を保ってられんから、その日だけ耳と尻尾消すこともできるかお願いしてみた」
「神さん許可してくれるとええな」
「な。黒須さんは今までの分もあるからいけるやろ言うてくれたけどな。また明日結果聞きに行ってみるわ。信介は報告?」
「おん」
「ほんま真面目やな。大きな出来事がなければ書簡でもええ言われとるやろ」
「まぁ、別に大して稼働変わらんから」
「ほうか。ほな無理せんとな」
「おん。アランもな」
そうして向かった奥の間では黒須に同じように、真面目なやっちゃな、と言われた。恐らく信介は神様や黒須から指示として来るなと言われない限りは、これからもずっとこうして直接報告に来るのだと思う。
自分では真面目だとは思っていない。仕事のやり方がこうであるだけだ。年に一回の誕生日にもらう褒美もそう。日頃の仕事の対価は毎日をちゃんと生きることができていることそのものだから、これまで必要を感じず褒美を受け取って来なかった。
その分アランなどに分配できたらいいのに、と思ったこともあるが、それはだめだと神に申す前に黒須から断られてしまった。代わりに休みの分の仕事を請け負うことを打診してみようと思う。妹と思う存分楽しんできてほしい。
……褒美か。
信介は目を瞑ってでも歩けるほど慣れた廊下を渡る。アランの誕生日。褒美。今まで使いきれていない分。
──自分の使いきれていない分。これまでの全ての褒美分。治の笑顔。あの人間の女性。
思わず足が止まる。頭を振ってだめだと思考を散らす。他のことを考えよう。
歩き出しながら考える。種蒔き。天気。気候。今のところ荒れることはない。良かった。良かったと喜ぶ治の顔。声。黒髪。俺がいいのに。いや、そんなこと。出汁の香り。おにぎりの温かさ。海苔の香ばしさ。握る治の眼差し。だめだ。触れた指の温度。米を握る繊細な手先。それをずっと見ていたい。だめ。治。治。側で見ていたい。俺が。あの人間の女ではなく、俺が。
今度こそぴたりと足が止まった。目を向ける木の床にぽた、と一粒落ちた。
「治……」
狐では、雄ではだめだろうか。だめだろう。ぽた、ともう一粒。
いや、だめだと誰が決めた? 古い記録書には人間が狐に恋することも、狐が人間に恋することも、そして添い遂げることも記載があった。数例の、非常に稀なことであるが、過去には事実あったのだ。だから治のことを好きになることは悪いことでも前例がないことでもない。想いが向いてしまったことはしかたがない。
でも治はどう思っている? 好意を向けてくれていることは確かだ。慕ってくれている。でもそれが自分と同じ恋心かはわからない。お互い雄だ。はなから恋をする対象から外れていたのなら。それほど心苦しいことはないだろう。性別や種族を超えるもの。褒美。これまでの分。それがあれば、どうにか。
「褒美……」
聞き届けられないのならそれでいい。でも、申し出るだけなら。これまで真面目と称されるようなことをしてきた。それを見ててくれているのなら、難しいことではないかもしれない。
「治」
着物で袖を拭う。ず、と鼻を啜る。
治。一番近くでその名前を呼ぶことができるのなら。烏滸がましくも自分がそんな存在になり得るかもしれないと、いつからか思っていた。でもきっと、それは叶わない。叶わないのは人間と狐だからか、男同士だからか。そもそも、想い合う相手ではなかったのか。
「……はっ」
苦しい胸のつかえを吐くように、呼吸を思い出したように口を開けた。不器用な自分が憎たらしい。でも、思いついてしまったからにはこの方法を試さずにはいられない。
信介は顔を上げて踵を返した。
本格的な梅雨に入った。人間の天気予報士はそう告げたらしい。それでもこの地域はまだ大した雨に見舞われることもなく順調に田植えを終えた。低いところにある稲の青々とした葉先が温かい風に靡いている様子が美しい。
信介は世話になっている米農家たちに挨拶をし田んぼを後にした。手には紙袋を下げていた。
「いらっしゃいませ……あ、北さん!」
帽子の下の影になっている目が輝くのがわかった。
「……久しぶりになってもうた」
「ええです。忙しいんですね」
そう言いながらいつものカウンター席の椅子を引いてくれた。店内は一人客が二人しかいなかった。昼営業の終わりぎりぎりに来たのは正解だった。
「……まぁな。……なぁ、これ」
「あ、すんません。ちょお待ってて」
はぁい! と治が顔を上げて張りのある声を出す。テーブル席に座っていた客が会計をすると呼んだのだ。信介は持ち上げた紙袋を一旦下げ膝の上に置いた。
続けてもう一人の客も席を立ち治はレジ前で会計をこなした後、暖簾の向こうまで客らを見送った。
「すんません」
「あ、いや……えっと、そら豆ご飯、と味噌汁を」
「はい。おおきに。そら豆、北さんに食べて欲しかったんですよ」
そう言って信介の目の前、カウンターの先の調理場で、蓋を開けた炊飯器からたくさんの湯気がふわっと立つ中に治は立った。
「旬やからな」
「美味しいって好評で」
「そうか。……あ、あんな」
「はい? あ、どうぞ」
目の前からお味噌汁の椀が出てくる。溢さぬようそっと受け取った。中身は玉ねぎとじゃがいもだった。皮付きの芋だから新じゃがかもしれない。手元に置くと出汁と玉ねぎの甘みが香った。こちらも新玉ねぎのようだ。続いておにぎりが出てきた。
「……いただきます」
「なんかありました?」
「いや?」
「なんか、失礼なことしました?」
はっと顔を上げると、眉を下げた治が口を小さく開いて言った。
「いや、治は、何も」
「ほんまですか?」
「おん。ほんまに」
調理台に両手をついてはぁ、と大きく息をついた。帽子の上部がこちらに見える。
「良かった。こないだもちょっとちゃうかったんで、何か嫌な思いをさせてしまったのかと」
「いや、そんなことは。治はほんまに何も……」
なら良かった、と手元に置いていたらしいコップから水をごくりと飲んだ。
「……あんな」
「はい?」
「……米を」
「米?」
「おん。米を、もろてん。良かったら……お前に食べてほしくて」
「俺?」
信介は隣の椅子に置いていた紙袋の中から結ばれて袋状になった手ぬぐいを取り出した。おにぎりの隣にそれを置き、結び目をゆっくり解くと二合分の米が出てきた。
「綺麗なお米ですね」
「うん」
「ありがたいですけど、何で俺に?」
「試食を。米のことがわかるやろうから、試食をしてもらいたくて」
「俺でええんですか?」
「ん。治に食べてもらいたい」
「ほんなら、お言葉に甘えていただきます」
信介は再び米を手ぬぐいで包みながら、まだ人に食べてもらう段階ではないから、くれぐれも治だけで試食してほしいと念を押した。
「信介さんおすすめの米を独り占めなんて、贅沢ですね」
「……まだあるから、食べたなったら言うてな」
「楽しみや。ありがとうございます」
こちらこそ、と返事をして、やっとおにぎりを手に取った。
「はっ、なんて?」
黒須はそう言って大層驚いていた。
「誕生日の褒美を、これまでの分を、まとめていただくことは叶うでしょうか」
「いや、そこちゃう。そこちゃうねん。何が、欲しいって?」
一度口にするとなんという願いなのだと、ここまで勢いで来た自分が恐ろしくなった。
「……っ」
でももう来てしまった。一度口に出してしまった。外へ出た言葉はもう胸には戻らない。信介は息を飲んで意を決した。
「……人の心を、動かす術は、得られますでしょうか」
「人の心……」
目の奥を覗くようにひたりと目が合ったまま何秒も経ったような、それとも一瞬のような、感覚がわからなくなる間があった。
「そうか」
黒須はそれ以上信介に何も聞いてこなかった。
「……わかっとると思うけど、叶うかは神さん次第や。それしか言えん」
「はい」
「そんで、その願いはお前の心が濃いやろうから、俺からは申し上げられん。自分で申せ」
「はい」
「この襖でちゃんと祷って来い」
「……はい」
黒須が数歩下がり信介は襖の前に立つ。引き手に両手の指をかけゆっくり開くと何枚もの畳が敷かれた部屋がある。普段ここには実りの報告をするために黒須としか入ったことがない。信介は緊張しながら足袋を滑らせるように中へ入った。
するとどこからか、シャン、シャン、と鈴の音が聞こえてきた。その音に導かれるように奥へ進み、厚みのある座布団の前で立ち止まった。
「……」
決して声は出さぬようにそっと息を吐いた。それから顔を上げ高いところにある鏡に向いた。膝を曲げ座布団に握った両手をつき、その中央に腰を下ろす。決められた礼で挨拶をすると鈴の音が止み、しん、と静謐な空気が残った。
真言を唱えていると聞こえるのは自分の声だけだ。なのにじっと見つめるような視線を感じる。そうすると手や背に汗が吹き出し、鼓動がどんどん速くなる。見られている。きっと。心臓の奥の心を、見られている。
祈祷を終えると再び鈴の音が聞こえ、視線は感じられなくなった。信介は額に浮かぶ汗を拭わないまま座布団から降り、鏡に顔を向けたまま部屋から下がった。
襖を閉めてから漸く大きく息をついた。これまで何度も報告のためこの部屋に入ったが、これほど息を潜むことになったのは、日照りや雨続き、虫で収穫が危機的になったときでもなかった。
「お疲れさん」
部屋の外にいた黒須に声をかけられ、随分と情けない格好を見せていたことに気がついた。背筋を直し、はい、と腹に力を入れて返事をした。
「五日後。五日後にまた来い」
「わかりました。失礼します」
これまで自分のために祈祷したことなどなかった。慣れないことをした代償かひどく疲れた。眉間に皺を寄せて信介は自室への廊下を渡った。
そうして信介が神から賜り治に渡したのが、心を自分に向ける米だった。
◇
「ほんっまに美味しい、いいお米でした」
治はそう言って興奮した様子で感想を聞かせてくれた。
ここ最近は上がる一方の気温や突然の土砂降りの雨、かと思えば雨が降らない日が続いたりと天候が落ち着かないため、本来の勤めの祈祷や、手伝いを申し出ている田んぼの作業など忙しい日々だった。
その中でなんとか時間を作って店に行けば、治が笑顔を見せた。
「それは良かった」
「俺だけいただくのんが、ほんまに勿体無いくらい」
「そうか……まだあるんやけど、いるか?」
聞いてはみたものの信介はほとんど確信していた。治はきっとこの米を褒めてそして次を欲すると。特別な米でなくても、治は美味しいものが好きなのだ。それが確信の材料になる程、初めてこの店に来てから今日までずっと色んな話をしてきた。だから摩訶不思議な米についても治が何と返事するのかは分かっていた。
「ええんですか」
「おん。次持ってくるわ」
「ありがとうございます」
「ほんまに、他の人には食わせたらあかんよ」
「わかってます。俺も美味しいもんは、北さんに食べてもらいたいですもん」
「……そうか」
さっそく米の効果なのか、それとも治の本来の心からなのか。くすぐったい気持ちで治の言葉を受け取りながらどっちだろうと考えた。
そうして二回目の米を渡そうとした店の暖簾をくぐった時、自惚かもしれないが自分の姿を認めた途端パッと華やぐ治の表情に、あぁ、やっぱりやめよう、と思った。また今日も手に紙袋を下げているが、もうやめだ。治は残念がるだろうが、おにぎりを食べ終え帰る時に言おうと決めた。
一度神から賜ったものを返すなど不敬に過ぎるが、きっと大丈夫だろう。
祈祷から五日後、黒須が待つ社の奥へ向かうとそこにはまさか一俵の米があり驚いていると、神さんも燥いどるなぁと黒須が言った。紛れもなく神へ願いが届き叶えていただいたものだが、神の一興でもあるのなら気負うこともない。念のため黒須に相談する必要があるが、きっと問題ないはずだ。
それよりも、治が自分に向けてくれる笑顔に同じ心を向けられていないと気付いた。この笑顔は何によるものか、米を食わなくてもここにあったものか、それとも。そう疑念を抱いた心は治への気持ちとしては燻んでいると思った。治が自分にも想いを向けてくれるのなら嬉しい。が、今でも十分好いてくれていると思う。それが恋心ではなくても、治が様々な経験によって自ら培い成熟させてきた心のままの笑顔を真っ直ぐ見つめていたい。
すまんやっぱりあの米もうなくなった、と言おう。運ばれてきた木の子の混ぜご飯のおにぎりを頬張りながらそう決めた。
「治くん、そういやあの話どうなったん」
馴染みの客だろうか、カウンター席に座っている信介の背後から高齢の女性の声が聞こえた。
「何やっけ?」
「ほら! 好きな人がおるってやつ!」
「いやそんなんええから。冷める前におにぎり食うてや」
「気になるやん。あの小ぃこかった治くんの恋がどうなるか」
「いやほんま辞めてや恥ずかしい」
「あれやろ。春来た時に言うてたもんな」
「もう! ドラマの見過ぎや」
「なかなか彼女とか作らんからええ人紹介してもらったら言うたら、好きな人おるって言うてたやん」
「あれはおばちゃんがしつこいから。もう、ほら食べて食べて」
好きな人。
治の好きな人。
春たはこないだのだろう。
おったんかな。ずっと。
恋してるんか。誰かに。
俺の知らない誰かに。
ずっと。
俺ではない誰かに。
「信介!」
は、と気がついた時すでに鳥居の内側だった。目の前にはアランが立っていた。
◇
「はい。とりあえず、飲み」
「ありがと」
湯呑みの中の香ばしい赤い色の茶に目を向けながら、甘さのある香りを感じた。美味しいほうじ茶だった。
アランの部屋に連れて来られ言われるがままに座り、勧められた通りにお茶をもらった。そこからは何も誘われないし言われもしなかった。ほんの少しだけ飲んだ熱いものが喉を通っていくのが分かる。じんわりと体内に馴染んだのが分かり、身体が強ばっていたのだと気づいた。
アランはというと、座卓の斜め前に座り何かを書き綴っていた。仕事のようだった。何も言わず、何も聞かない、昔からの馴染んだ空気にほっとする。無言の気遣いをしてくれているのだろうと思った。
「……お茶、ありがとう。そろそろ行こうかな」
「おん。湯呑みはそのままでええよ」
信介が立ちあがろうとすると顔を上げたアランから、なぁ、と声がかかった。
「ええの?」
「ん?」
「何も、話さんでええの?」
「……なんで」
「お前が話さないって決めてんならええけど。喉になんかつっかえてるものがあんなら取った方がええと思うで」
「……なんでそう思うん」
「自分の顔が見えたらええのになぁ」
「何」
「信介、お前、苦しそうな顔しとるよ」
途端、アランの言うつっかえているものが肥大してますます胸や喉を締め付けた。息ができず苦しくなった。
「お前は知らんのやろうけどな」
そう言って信介の湯呑みにほうじ茶を注いでくれた。白い湯気が立った。
「思ってることを、口に出してもええんねんで」
「……何が」
細くなった喉で声を無理やり出すと、言葉が震えた。
「悲しいときは、思いっきり悲しんでええねんで」
堪えようと顔に力が入る。腹も締めて震えを抑える。
「……それが、何になるん」
「お前が明日からもお月さんを見上げて過ごせるように、や」
「……」
「この部屋では、我慢せんでええねん」
やめてほしいと思うのに制止の言葉が出せない。今喉を開けばきっと溢れ出てしまう。ただひたすらグッと力を入れる。
「……」
「ほら、茶飲み」
アランがそっと笑って湯呑みを信介の方に押し出した。それでもう、堪らなかった。
「っ……」
ボロっと一粒落ちてしまうのを止めることができなかった。止めたくても自分の意思とは関係なく勝手に出てきてしまう。次から次へと溢れては落ちて、袴の上にボロボロと落ちた。
「っ……、っ……」
差し出された手拭いを受け取ったがお礼が言えなかった。
あまりにも楽しかったから。居心地が良かったから。どうなりたいかなんて考えていなかったが、治が他の人を好きになるという当たり前の可能性を想定できていなかった。あの米を食べさせる前から、治には好きな人が今もずっといたのだ。
奇蹟の米があっても、最初から叶わなかったのだ。
会話をしても、心に残らなければ、入り込まなければいけなかった。そしてそこにはすでに誰かの影があったのだ。
再び腰を下ろすと、アランは座卓の側の窓から月を眺めながらお茶を啜っていた。
◇
ここ最近は以前より信介の姿を見かけたが、引き続き人間の里にはよく行っているようだった。漸く訪れた収穫の季節だ。きっと精が出ることだろう。
収穫期に入る少し前、目を真っ赤に張らした信介とすれ違った。驚いてどうしたのだと聞くと案の定、なんでもない、と返されそのまま行ってしまった。
そして今日、騒めく気持ちを抱きながら社の外にいたアランを見つけた。
「信介、何かあったか」
「さすが練やなぁ……多分、お前が思うてること間違うてないで」
「……ほんまか」
「ほんま」
恋なんて一人では成り立たないのだから成就するかしないかのどちらかしかない。可能性は同じだけあるのに、それでも不器用な友人の恋は上手くいってほしいと願ってしまっていた。友の、あんな顔が見たくてあの日話を聞いた訳ではないのに、と悔しい思いがした。
「で、それからどうしてん」
「ひとまず収穫まで頑張るんやと」
「そうか」
彼らしいことだ。始めたことは中途半端にせず最後までやり通そうということだ。
「……あ、噂をすれば」
街のほうから歩いてきたのは信介と路成だった。
「二人して何してん」
「そっちこそ」
「俺はいなり寿司買うてたら信介とばったり会うてん」
「俺らも、偶然やな」
路成がみんなで食うかと言えば、信介が、足りるかいな、と笑ったのを見て練はほんの少し安堵した。
たまたま皆このあと急ぎの用事はないことがわかり、とりあえず近くで座れるところを探した。よく老狐のじいさんたちが集まり腰掛けている岩や切り株を思い出し、その公園へ向かった。
「んで、信介はこれからどうすんの?」
器用に頬を膨らませた路成がふぐふぐとくぐもった声で聞いた。
「この収穫で人間のとこ手伝いに行くのは一旦終わりでええかな」
「ふーん。おにぎり屋は?」
努めて自然に、ぎこちなさを生まないように、練は葉に包まれたいなり寿司を手に取った。
「……もう一回行って、最後かな」
そう言った信介は手元に目を落としたままであるものの、意思を固めたような芯のある声だった。
「すまんな。たぶんみんなに心配かけた」
「そんなん気にせんでええって」
練がそう言えば、
「信介のこと心配できるんは、同期の俺らの特権みたいなもんやしな」
路成が言う。
「お前が好きにやれてたんなら、それでええよ」
アランも添えた。
「ほんま、ありがとう」
久しぶりに晴れやかな信介の笑顔を見た。
「ほんならその最後に行く日、決まったら早よ教えてな。お前がええなら飲もう」
「日程調整したら言うわ」
大事な友の願いは叶わなかったが、もう少しすれば彼らしく顔を上げることができる気がして、練はほっと息をついた。そして美味い酒でも用意しておこうかと考えた。
◇
振り返れば、食べたおにぎりのメニューを一つずつ残らず思い出すことができた。皆には頻繁に行っている、と思われていたが何を食べたか記憶に残せるほど多くは通っていなかったようだ。鳥居から、または世話になった田んぼからここまでの道のりを彩った四季の花々も脳に残っている。この一年は信介にとってこれまで以上に豊かな日々だった。
戸を引く音。暖簾の頭にかかる具合と店主の溌剌とした声。店内を満たす甘い米の香り。そのどれも一つも余すことなく胸の奥に積み重ねながら案内された椅子にかけた。
そう、このカウンター席の少し硬めな座る心地も。
「久しぶりですね」
「おん」
「何にします?」
「治のおまかせで二つ頼めるか?」
「はい」
味噌汁と小鉢のセットも注文して、遅い夕食には十分な量を頼んだ。今日ばかりは八分目でなくてもいいだろう、胃をたっぷり満たして帰るのだ。そうして明日の夜は早々に仕事を終えて皆と朝まで飲み明かす予定だ。
店内の客はすぐに自分だけになり、治が調理している間や店じまいを進める中、新米や食材の話などで会話が盛り上がった。
ほんの数ヶ月前と変わらない気やすさで二人の間で言葉が行き交うことが、自分がその一人であるにも関わらず、ちゃんとこれまで通りの会話ができているなと客観視していて不思議な感覚になっていた。
「お茶のお代わりいりますか?」
治に聞かれ湯呑みの中を除くと、わずかな量しか残っていなかった。
「ううん」
ここでの時間は楽しくて楽しくて。いつのまにか恋をし、もっと治のことを知りたくなった。知ってほしいと思っていた自分がいたことも今ならわかる。
色んな話をしてきた。治にもいい時間であると思ってほしくて努力もした。その結果ますます治のことが好きになったが、治が自分のことをどう思っているのかはわからないままだ。不安になって焦って、神に我儘を申し出た。それでも叶わなかった。
今後はこの恋を忘れ、自分の本来の役割をこなす日々に戻ろう。
「そろそろ、行こうかな」
「はぁい」
会計は先に済ませた。席を立ったら迷わずまっすぐに戸の外へ向かうことができるように。
「……治」
最後だから。正面から治の顔を見る。
「はい?」
意に反して強く鳴る心臓をなんとか押し止めるように、腹に力を入れて声を振り絞る。
「しばらく、来れんようになった」
「え」
そんな顔、治はする必要なんてない。
「今までたくさん美味しいおにぎり食わせてくれてありがとう」
「待って、北さん、何」
これからも、たくさんの人にいつもの笑顔と美味しいおにぎりを届けてほしい。
「体には気いつけてな」
「いや、」
戸を開けて冷えるようになってきた夜風を浴びる。いよいよ、これでおしまい。
「無理すんなよ」
「北さん」
月が見てる。ちゃんと顔を上げて伝えよう。
「ほんまありがとうな」
「待って」
くるりと向きを変え一度も振り向かずに真っ直ぐ歩いた。良かった。ちゃんと言えた。突然のことで驚かせてしまったことは申し訳ないが、精一杯のことはした。
きっと振り向けばまだ治は店の前にいるだろう。灯台のように夜道に浮かぶ店の灯りが美味しいものがそこにあると教えてくれていた。あの光の中に立っているだろう。
これで良かった。思えば人間と狐なのだ。普通ではない。初めから実らぬものだった。米と同じだろう。土と稲だから米が実る。組み合わせは決まっているのだ。そうでないことはない。
──そうだと分かるのに。
「……っ」
歩幅は変えない。速度も変わらない。でも、一歩進むごとに苦しくて悲しくて涙が溢れる。
好きだった。本当に好きだった。人間と狐でもいいじゃないか。前例がないわけではない。前例がなくても好きなものは仕方がない。
でも、自分はだめだった。
「っ……」
気がつけば頭上で狐の耳が風を受けていた。歩く動きに合わせて後方でゆらゆらと尻尾も出てしまっていた。体から力が抜けて瞼で堪えることもせず、なるがままになって歩いた。こんなつもりではなかったのに。心に決めて友に伝えて月に誓って今日来た。揺るがないはずだったのに。
治はたぶん何かを言おうとしていた。それを聞かずに帰ってきてしまった。なんて自分勝手なのだろう。一方的に告げて相手の言葉を聞こうともしない。いや、聞く勇気がない。やっぱりこんな自分ではだめだったのだ。
さようなら。愛おしい人──
「北さん!」
「……えっ」
「待って!」
何故、どうして。
振り向くと前掛けをしたまま帽子は手に持って街頭だけの暗い道を駆け寄ってくる。
「な、なんで」
「それは、こっちの、セリフや」
はぁ、はぁ、と息を整えながらも真っ直ぐ立って信介を見ている。
「ほんまに、もう来れんのですか?」
「……おん」
「なんで?」
笑わずにじっと、少し怖いくらいこちらを見つめる治は信介が知らない顔をしていた。
「……忙しくなった」
「嘘や」
「嘘ちゃう」
「嘘や。……俺、何かしましたか」
「別に、治は」
「北さんがもう来たくなくなること、してましたか」
「しとらん」
「じゃあなんで!」
治が語尾を強める声を始めて聞いた。でも気圧されてはだめだ。ここでちゃんと区切りをつけないと。
「……だから、忙しくなるんやって」
「嘘や!」
「なんで」
「北さんが嘘ついてんの、わかるよ。だって、ずっと見とったから」
「…なん」
「北さんを見とった。……好きやから」
ひゅ、と一つ強い風が吹いた。今、何て。風。耳が。慌てて耳を手で覆うとすぐに治が手を掴んだ。
「隠さんで」
「やめっ」
「北さんは? 俺のこと好きやない?」
「離せって!」
「いや。離さん」
「俺は人間やない! だからあかんねん」
「何がっ」
「見たらわかるやろ。人間のお前に、俺はあかんねん!」
ぱっと手が外されたと思ったら抱き締められた。治の腕が、胸が信介を包んだ。
「俺は、北さんが好きです。どんな姿でも」
「やめろって」
「なんで? ほんまにあかんの?」
あかんと、ちゃんと言わなければ。
「嘘つかんで」
一層強く抱き締められて、治の体温も匂いも、声で震える胸も全部苦しい。
「治」
「なに」
でも、店に背を向けて歩いた道のりの方が苦しかった。だからといって、こんなこと。
「お前の周りには人間も、人間の女もたくさんおる」
「それが?」
首筋に治の額の熱さと前髪が押し当てられる。
「俺の何が、そんなに」
「なんでも。目とか声とか笑った顔とか」
──目、声、笑った顔。
「ちゃんとしてるとこも、たまに叱ってくれるとこも。美味しそうにおにぎり食うてくれるとこも」
米に真っ直ぐで、自分に厳しくて、本当に幸せそうにおにぎりを握る姿。
「全部や」
全部。そんなの、自分だって。
「……おんなじや」
「何」
「でも、俺は狐や。男の。だから……」
「北さん、俺もや。俺も男やし、北さんと違う人間」
はっと顔が上げる。鼻先が触れるほど近くで治の瞳の中を見た。
治の指が目の下をすっ、となぞって涙を拭った。一つ一つ丁寧におにぎりを握る、あの指で。
「……でも」
「北さんは、人間で男だからって俺のこと好きやないことあった?」
「……ない……ないよ」
「俺も」
ぐっと胸の底から込み上げてくるものがあって、治の背中にそっと手を伸ばす。
「好きや、北さん」
「……俺も……おんなじ」
治の背に置いていた手と腕で温かい体を抱き締めて、少しおにぎりの匂いがする胸に顔を埋めた。
「俺も、お前の全部が好き」
堪えることをやめた涙は次々に治の黒い服に吸い込まれていった。
◇
米俵を背負いあの戸の前に来た。黒須は何も言わなかった。昨日までに引き止める言葉は幾度も重ねられたが、信介の意志が終ぞ変わらないとわかると口を結んだ。
今までありがとうございました、と礼をしてから戸を引き中に入ろとしたところで、元気でな、と言われた。ぶっきらぼうで温かい言葉につい笑みが溢れた。
過ぎる欲は叶えてもらえないどころか反動が自分に返って身を滅ぼす。
何度も、やめておけ、危険だ、と繰り返し勧告された後、黒須にはそう釘を刺された。
でもそれでも良い。良いと思うほどに信介は治の側にいたかった。治と同じ人間に、とこだわったのは不器用さ故だ。人の営みに入り彼と一緒に四季を過ごしたかった。もし願いが叶わず土に返されて治と別れたとしても、治を愛したかった。治の想いに、自分もそう想っていると答えたかった。
米俵を神に返す。そうして消化することがなかった褒美分全てを一つの願いに込めた。
信介は迷うことなくその部屋の奥へと進んで行った。再び鈴の音が耳に聞こえた。
◇
「いらっしゃいませ!」
店内から太い声が響いた。同時に聴き慣れない細い声も聞こえた。
「そうか、今日からや」
「そうなんすよ。ほら、お客さん案内して」
ぎこちない動作で自分を案内してくれた若いその人に、ありがとう、と伝えた。壁の黒板に目を向けおしぼりを渡してくれたついでに、秋鮭といくらのはらこおにぎりを注文した。店内を見渡すとあちこちでそのおにぎりが食べられており、やはりいくらは人気なのだなと思った。
「お客さん多いなぁ」
カウンターの前から出されたおにぎりの皿を両手を伸ばして受け取った。
「そうですね。やっぱり新米がみんな食べたいんちゃうかな」
「そうやとええなぁ」
先ほどの新人店員がだし巻き卵を持ってきた。緊張からか手が震えているが、それでも小さい音を立てて信介の目の前に置いてくれた。丁寧にしようとする姿勢から治の店であることを感じさせて微笑ましく思った。
「ありがとう。頑張ってな」
「は、はい! ありがとうございます!」
おにぎりに添えられたように優しく巻かれた海苔の部分を崩さないように両手で持って、口を開けて齧り付いた。鮭の身がほぐれて、時々いくらがぷち、と弾けてとても美味しかった。
お茶を一口飲んでから、だし巻き卵に箸を入れる。ふっくらと艶々とした淡い黄色が綺麗に層になっていた。何度も何度も練習した成果がこうして形になっていることが嬉しい。後でこの美味しさを直接言葉にして伝えようと思った。
「すいませーん! おにぎり追加できるー?」
「はぁい!」
治の声が響いた。呼びかけた客に目を向け、その側の壁にかけてあるカレンダーに目がいった。捲られたばかりのそれはおでんが描かれていた。あぁ、おでんをつまみながらゆっくりと話すのも良いかもしれない。
威勢の良い声ときびきびと動く手指を見ながら、信介は一口ずつを味わって食べた。