傘の話 雨が降る。
ぽつり、ぽつりと降っていたそれは、いつしか視界を遮る程の豪雨になっていた。
「魈!」
空が自分の名を呼びながら駆け寄ってくる。
「酷い雨だよ。どこかで雨宿りをしよう」
「魔物は雨だからと待ってはくれない」
「そうだけど」
「雨が嫌なのであれば、お前はどこかで休んでいるといい」
「そんな!」
更に何か言おうとそして手を伸ばしてくるので、自分はその場を離れた。空のその目を見れば自分の身を案じていることは分かったので、少しだけ体が重くなった。
そうして一人になって槍を振るう。
魔物を滅して、また滅して、それを続ける。
雨のおかげで体は綺麗なままで、今日はそれが自分を許さなかった。泥だけが散っては纏わりつく。嫌な雨に、嫌な風だった。振るうだけ振るった後に、冷えた肌とは反して身の内は熱く、僅かながらに上がった息を整えていると背後に何者かの気配を感じた。
すぐさま魈は振り向いた。
「愚かな子だな」
そう言ったのは鍾離だった。
魈はその言葉に奥歯が軋むほど食いしばって何かの情動に耐えた。自分の抱えた焦燥はこの方にはお見通しなのかもしれない。そう思いながら、声にしたい安易な謝罪の言葉など、この方に投げたところで意味はないと既に分かっていた。けれどどうしても見開いた目は懺悔を求めてこの方を映していた。
「お体が濡れます」
自分と同様に雨の中で立ち尽くす鍾離に向かって魈は声を発し、その人を気遣う言葉で浅はかに体裁を整える。
「濡れない為の傘を持ってきた」
人間の道具だった。それをばっと開いて、自分へと傾ける。
「我に、傾けては意味がありません」
「では、お前が俺に傾けてくれるか」
そう言って、なお一層その傘を自分へと傾けた。目を見張った。
「俺を屋根のある所まで送り届けてもらいたい」
「……承知しました」
それを手に取って、掲げる。掲げなければその人を雨から十分に守れなかった。肩に触れそうになりながら、触れないようにそれでもこの方の頭を雨で濡らさない様に、傘をこの方に傾ける。
それなのに所々にある水溜まりには意に介さず足を踏み入れる。立てる音は雨音で消える。踏んで起きる水飛沫は雨に紛れる。傘から落ちる水が肩に落ちては弾ける。
こんな道具など不要であると、お互いに知りつつも、けれどそれにそれぞれの体を傾けて歩く。この真円に区切られた空間がこの世の全てであると盲信するがの如く、世を知りすぎた頭を濡らさぬように降る雨を遮って、地から染み入るものを受け入れて、ただゆっくり歩く。
「寄りたい所があった」
たった今思いついた様に鍾離は言った。そうして立ち止まったので魈も足を止める。
「瑠璃袋を見に行こうと思う。雨上がりのあれを見たい」
有無を言わさないそれは命だった。
「……承知しました」
答えはそれしかない。
「早く雨が上がると良いが」
この真円の中で、この方は自分を見る。
「我もそう願っております」
この真円の中で、自分はこの方は見る。
「せめてゆっくりと歩くことにしよう」
「はい」
この雨が、貴方を濡らさぬように、この身でこの雨を凌ぎたい。
風で雨が煽られぬように、自分の風で全てを相殺したい。
この身はどれだけ濡れても構わないから、貴方の身に一滴の雫さえもつかぬ事を願って止まない。
けれど、貴方はこの自分に傘を傾けた。
そして、自分もその貴方に傘を傾ける。
そうして同じ雨を身に受ける。
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