Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    せんべい

    チラシの裏に描くようならくがきを置いてます。
    せんべい(@senbei_gomai)

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💛 💚 🐉 🐥
    POIPOI 39

    せんべい

    ☆quiet follow

    10/30神ノ叡智5で出した鍾魈漫画「灰色のスパークル」のプロット代わりの文字データを小説にしたものです。小説の方が台詞が少し多いです。漫画の時とはニュアンスが少し違ってみえてしまったり、表現的に難しくて変えている部分がありますが、同じことを目指して描いて、書いています。

    灰色のスパークル




     魈は望舒旅館の最上階まで伸びる大樹の太い枝に座り、遠くにある孤雲閣を眺めていた。
     近頃、この国はとても穏やかだ――魈は最初こそ警戒の気持ちを込めていたが、何も変わらぬ孤雲閣とその周りに広がる煌めく海面を見ている内に、ただその景色を眺める格好になっていたことを随分と呆けてから我に返る様に気が付いた。
     風が吹いて周りの細い木の枝や葉がそよぐ。魈の髪もその風に乗る様にふわりと浮いた。柔らかい風に心落ち着かせていると、強い風の気配がして、間もなく頭上の枝葉がざざっと大きな音を立てた。次の瞬間には魈の周りにもその風がやってきて、体の前から後ろへと流れていく。翡翠色の髪が舞い、近くの枝葉も同じようにしなった。
     目を閉じて風を受ける。洗い流されるような気分になった。目を開くと、変わらず向こうには穏やかな孤雲閣と海、あるはずもないその向こうの匂いを感じた。
     そして揶揄うような風が終わると、ひらりと一枚の黄色の葉が腿に落ちていることに気付く。
     葉柄を二本の指で挟むと、その葉を摘まみ上げた。
     指を擦る様にしてくるりと回転させる。何の変哲もない黄色の葉。腕を上げ、その葉を顔の前に持ってくる。そして肩を上げ、顎も上げ、何と無しにその葉を陽に翳した。周りの枝葉がまた揺れる度、陽が差しては陰るを繰り返す。葉の黄色が濃くも薄くもなる。黄色、黄金、たまに橙、葉の向こうにある強い光が溢れ、零れていく。それを眺め続けた。
     そうして暫く眺めていたが、この最上階へと近づいてくる人の気配がして止める。葉を摘まんでいた指を緩めると、丁度吹いた風に乗って葉は消えていった。
     魈は視線を下げ、望舒旅館の露台へと向ける。そこは基本的にはこの旅館の客は来ない。ここへ来るのは限られた者だけだ。
    「しょー、いるかあ?」
     露台へと現れ、そう声を大きくするのは宙を飛ぶ小さな生き物、パイモン。
     そしてその傍らに旅人である空がいる。
    「しょーおー」
     露台の手摺の方へと歩いて行きながら、更に声を大きくする。
     魈はさっと立ち上がるとそのまま跳ねて露台の建物側、二人の背後に回る形で小さな音を立てて着地した。
    「なんだ」
    「うわあ!」
     着地するなり声を掛けるとパイモンは身を仰け反らせ、驚きの声を上げる。
    「おお、なんだ。近くにいたのか?」
     いつもであれば仙人の力でもって何もない空間から現れる魈の、それとは違う登場方法にそう尋ねた。
    「上にいた」
    「何をしてたんだ?」
    「何もしていない」
    「何もしてない?」
     パイモンは首を傾げる。けれどすぐに人差し指を立てると指揮するように振った。
    「へへ、分かったぞ。今日はいい天気だし、日向ぼっこしてぼけっとしてたんだな」
    「……パイモンじゃないんだから」
    「なんだよー。だってこんなにぽかぽかなんだぞ、気持ちよくって溶けちゃうだろ」
     空が呆れたように肩を竦め、空の横槍にパイモンは口を尖らせた。
    「確かに呆けていた」
     その二人のやり取りを見ていた魈は、やり取りが終わったのだと分かると腕組みをしながら答える。その思いもかけない答えに空とパイモンはほんの一瞬目を丸くした。
    「そうなの?」
    「ほらほら、流石の魈も今日のぽかぽかな陽にはぼけっとしちゃうぞ」
     パイモンは満足気になって何度も頷く。最後には小さな鼻が天にも届くような勢いで顎を上げた。空は一瞬口を尖らせたが、すぐに気を取り直して魈へと振り返った。ごそごそと自分の携帯鞄から物を取り出す。
    「何にせよ時間があるなら良かった。今日は魈に杏仁豆腐を作って来たんだ」
     空は目を細めて笑みを浮かべ、深さのある皿を魈へと差し出した。
    白い器の中に入っているのはまた白い杏仁豆腐、照りを感じさせる甘い汁も一緒に入っている。
     魈は自分へと向けられるその皿を見つめた。
     空とパイモンを見ればにこりとした表情のまま魈の次の動きを待っている。
     望舒旅館の言笑でもその料理を用意することは可能だが、空がわざわざ作ってきたということであれば、それを無視する訳にもいかなかった。何より、それは自分の好物である。魈は半ば観念するように、もう半分はその好意を零すことなく受け取る為に、皿へと手を伸ばした。
    「今日はこれなのだな」
     ぽつりと小さな声で言う。そして皿を受け取る。空が小さく頷いた。
    「今日、薬はないよ。これだけ。だけど――」
     そこまで言ったところで空は魈から視線を外した。魈の後ろ側、建物へと向ける。
    「あ、鍾離先生!」
     そして空はそう大きな声を上げる。
     魈の目尻がぴくりと動いた。
     この一瞬の驚きをなんとか落ち着けて、けれどやはり急いたまま、すぐに後ろへ振り返った。鍾離が静かにゆっくりと階段を上ってくる姿が見えた。もう一度目尻がぴくりと動いた。
     ――帝君、何故。いや、何故ではない。何故ではないが。しかし何にしても。
     ここまで近くに居たのに気付くことが出来なかった、と酷く苦々しく思った。緩慢な動きで階段を上ってくる鍾離の姿をじっと見ていると、最後の一段を上り切った所で視線がぶつかる。鍾離の石珀のような、黄金のような目が真っ直ぐに魈を捉える。魈は喉が鳴りそうになるのをぐっと我慢した。目を逸らす大義名分としてまた空へと向き直る。
    「帝君をお呼び立てしたのか」
    「俺が呼んだんじゃないよ」
     空は両手を広げると、首を小さく横に振る。
    「先生が望舒旅館で待ち合わせようって言ったんだ」
    「帝君が?」
     まさかと聞き返した。
    「そろそろお前に薬を届けようと思っていたからな」
     その答えは別の場所、魈の頭上から降ってくる。
     いつの間にか鍾離は魈の隣に立っていた。
     その気配を察した魈は鍾離を見上げる。また目が合い、今度は逸らしようもなく、暫しそのまま見つめ合う。今回先に目を逸らしたのは鍾離で、そのまま空へと視線を向ける。
    「それから空に依頼をしていた。丁度良かったのでここで待ち合わせたんだ」
    「空に依頼、ですか」
     空を見る鍾離を見つめたまま、呟くように言った。言葉を受けた空は頷く。
    「依頼の品、ここの厨房を借りたついでに預かってもらってるんだ。今持ってくるから待ってて。パイモン」
    「おう」
     空がパイモンに呼び掛けると、あっと言う間にふたりは階下へと姿を消した。
     ふたりが消えるとしんと静かになる。
     魈は手に持った皿に視線を落とした。その動作で皿の中の甘い汁が揺れて、光を反射して表面が微かに光る。そしてその皿の向こうに鍾離の黒い靴が見え、魈は目の焦点をそちらへとずらす。良く磨かれていてその表面もてかてかと光を反射して、よく光っていた。
     ここまで歩いて来られたのだろうか、と塵のひとつも付いていないそれを見て魈は思った。ここまで歩いて来たとは思えなかった。そうして眺めているとその靴先が動き、魈へと向く。右の靴も、左の靴も。その上の体も、向けられる。魈は顔を上げると、鍾離を見上げた。
     また目が合う。
     少しでも間があれば、その隙間に落ちる様な気がして、魈はすぐに口を開いた。
    「お手間を取らせてしまい、申し訳ありません」
     一度頭を下げる。鍾離は小さく二度、首を横に振った。
    「手間、などではないが、しかし、お前を驚かせてしまったようだ」
     ゆっくりと言葉を切りながらそう言って、最後にふっと口元を緩める。
    「……近頃は、空が薬を届けてくれていたので、今後はそうなるものと思っていました。なので、少し」
     下げた頭は戻したものの、目を伏せたままでいた。
     鍾離は魈が荻花洲を守護する任に就いてから定期的に薬――連理鎮心散を魈へと与えていた。岩王帝君の時代では直接与えることは稀だったが、その座を降りてからは散歩と称して望舒旅館に立ち寄っては鍾離自ら届けるようになった。初めて鍾離が今の鍾離として薬を持って望舒旅館を訪れた時、魈は酷く驚いた。膝を突き、首を垂れてその薬を受け取ったものだが、それ以降は膝を突くことは禁止され、ただただ身を硬くしながら薬を受け取ることを余儀なくされた。
     そうして魈の身が硬くなるのに反して、鍾離の纏う空気が柔らかくなっていった。それは対面する魈だけが感じていた。今まで取っていた格好を封じられると、こうも体は不自由なものかと戸惑いながら、加えて鍾離の変化について行けず、更に体は硬くなる。そしてまたそれに呼応するかのように、鍾離の空気は柔らかくなる。ままならないこの事態に、魈は鍾離と対面せずに済むように、悟られないように逃げるようになった。数度に一度。出来るだけ自然に。
     だから最近、鍾離に代わって空が薬を持って望舒旅館をやって来るようになり、魈は人知れずほっとしていた。今日空がここを訪れたのもてっきり薬を持ってきたのだと思っていたのに、渡されたのは杏仁豆腐で、魈が疑問を持つ間もなく鍾離は現れた。
    「確かに、少しばかり立て込んでいてな。ここ何度かはお前の言う通り旅人……空に届けてもらうように頼んでいた」
     静かな声で鍾離が言った。感情の読めない声に堪らず、魈は伏せていた目を上げる。けれどその表情を見たところで、やはり感情はあまり読めなかった。
     鍾離が往生堂で働いていること、また璃月港の人間から何かと知恵を求められることを知っている。だから魈は、鍾離の町での立場が出来上がり、もうこのやり取りをする間はなくなって、鍾離自らここに出向くことはないのだろうという考えに至った。その考えは実に自然であると納得し、またほっとした。けれど今度はわざわざ届けてくれていた礼を言うことが出来なかったことが悔やまれもした。授かる、ということに実際自分は慣れてしまっていたのだと思い知った。けれど思い知っても、悔やんでも、言うべき礼の言葉は思いつかない。この世がまだ混沌であったなら、自分が何をすべきは容易に分かるのに。
     その後悔を知っているのに、いざこの場が来てしまうとやはりまた何も言えなくなった。魈がただただ鍾離の言葉を待ち続けていると、鍾離が腕を組む様な仕草をする。
    「まぁしかし、そもそもこの閑人に惜しむ手間などないが。けれど今日はこうして直接渡すことが出来たので良かった」
     鍾離は視線を離さずに続ける。
    「それ以前はなかなか行き会えなかったものだが」
     魈はその目から逃げる様に顔を伏せようとする体の反応をなんとか止めた。逸らしてはその裏にある問いに肯定するだろう。鍾離からの視線をそのまま受ける。
     ――けれど、きっと、悟られている。
     うねるような線。逃げていると悟られないようにしていたが、やはり悟られていた。当然と言えば当然なのだが。この視線はそういうことだろう。勝ち目のなさに慄きながらも、魈は安堵していた。この勝ち目のなさは以前と何ら変わらない。
     魈がまた何も言えずに黙っていると、鍾離はふっと笑ってみせた。目が細く伸びる。
    「しかし、何にせよ。大事でなければ、何でもいい」
     ――ああ、やはり。
     落ち着かない。こんな風に、この方は笑ったことがあっただろうか。魈は鍾離の細くなる目から零れ落ちるものを見るようだった。実際は何も零れてはいない。零れると感じるのは、自分がまるで恵みを乞うように両手で皿を持っているからだろう、そう結論付けた。魈は足の裏に根を生やすように力を込める。この空気の中、僅かにでも体を揺らしたくなかった。でなければ、この柔らかな空気に、気圧される。
     鍾離は魈の手元へと視線を向け、その手の中にあるものを確認した。確認するなり魈の隣を通り抜けると露台の手摺の傍にある大きな鉢まで歩いて行く。魈はその方向に体を傾けながら、鍾離の姿を目で追い続ける。鉢に辿り着いた鍾離は鉢の縁に薬の包みをそっと置いた。
    「薬はここに置いておこう」
     言いながら、魈へと向き直る。
    「食事中に悪かった。俺に気にせず食べてもらって構わない」
    「いえ、食事では!」
     気遣いの言葉に思わず大きな声が出た。そして体も大きく動く。
     微動だにしない時間はすぐに終わった。
    「これは、そういったものではございません。ただ空が我に……」
     なんと言ったものかと口ごもる。こうして杏仁豆腐を抱えている姿はどう見ても緩んでいる。鍾離の前に立つ平常の格好とはかけ離れており、今更ながら間の抜けた場面を見られた気がして、この瞬間、鍾離にどう見られているのかと考えると魈はまた落ち着かなくなった。気遣いは不要であるということを、食事ではないと伝えることで主張した。
    「そうか?」
    「はい」
     強く頷く。
    「なら邪魔ついでに尋ねておこう。それはお前の好物なのか?」
     手のひらで杏仁豆腐を示す。
    「好物……と、言いますか」
    「好物ではない?」
     鍾離はじっと魈を見つめた。この問いも、実に間が抜けているような気がして、魈は困惑した。
    「こ」
     間の抜けた問いにも関わらず、けれど確実に感じられる重い圧に魈は僅かに眉を寄せる。
    「……好物、かとは思います」
    「なるほど」
     魈が観念して答えると、鍾離は口の端を上げた。
    「面白いな」
     そして目を細める。黄金の目が三日月の形に縁取られて光る。やはり零れるようだと、魈は思った。零れていくものを、あまり見ないようにして鍾離の喉元に視線をずらす。このままでは零れたものが溢れかえって、その後には底なしの間がやってくるのではと身構えたが、その前に階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
    「せんせーい」
    「持ってきたぞー」
     まだ階段の途中であろう空とパイモンの声が外まで突き抜けて聞こえる。
     鍾離は声のする建物側へ顔を向けて、数秒後また魈へと向き直る。
    「邪魔をしたな。あとはゆっくり食べるといい」
    「……はい」
     魈が答えると鍾離はひとつ頷いてこの場を離れた。
     露台へは出て来ず、階段を上がったすぐの所で空たちは鍾離を待っており、そこに合流する。
     そうして鍾離が十分に離れたことを確認すると、魈は短く息を吐いた。全身に入っていた力が息と共に抜ける。顔を伏せれば杏仁豆腐がすぐに目に入る。空が作った杏仁豆腐。皿に置かれた匙を握り、一口分の杏仁豆腐をそれで掬う。そこまでの動作をしてから、魈は気になってもう一度鍾離へと顔を向けた。
     空とパイモン、その二人に向かい合って立つ鍾離。顔の正面はふたりに向いている為、横顔しか見えない。もうこちらへ注意は向いていない、魈はそのまま鍾離を見つめた。空が草花の束を抱えており、二言三言話した後、その束を鍾離へ手渡した。薬草の類だとすぐに分かる。清心も数本、その束の中にあった。依頼の内容も、それとなく察した。草花の束を抱える鍾離に違和感を持ちながら、けれどその在り様はこの景色に馴染んでいると思った。
     ――あの帝君が、我に、杏仁豆腐をゆっくり食べるといい、と言った。
     反芻する。妙なやり取りだった。とても、間の抜けたやり取り。
     今日は呆けてばかりだ、と魈は独り言ちた。もう一度短く息を吐く。
     魈は視線を杏仁豆腐へと戻すと、一口分掬ったそれを口へと運ぶ。
     柔らかいそれを口に含んで咀嚼すると、すぐに砕けて、溶けて、消えていった。


       ***


    「こんな感じでどうかな? 足りる?」
     空は望舒旅館のオーナーに預かってもらっていたものを抱えて戻ってくると、それを鍾離へと向けた。清心を含む数種類の草花、薬草の類で、それらを集めて欲しいと鍾離から依頼を受けていた。
    「オイラと空で沢山集めたぞ」
     空の隣でパイモンが腰に手を当て、胸を張った。
    「ああ、十分だ。礼を言う」
    「なら良かった」
    「お安い御用だったぜ」
     鍾離は薬草の束を受け取り、片腕で抱える。持ち上げて顔へと寄せると、その一本一本をゆっくりと確認した。そしてその視界の端、その向こうに魈の姿も一緒に見えた。ほんの少しだけそちらへ体を傾ける。草花の隙間から魈を見た。皿を抱え、匙で一口、また一口と杏仁豆腐を食べている。
    「お前たちは、いつもああして彼に食べ物を?」
     鍾離は空たちに視線を戻した。彼、と言う時だけ魈に目配せする。空も一度魈を見る。
    「そういう訳じゃないよ、たまにだけ。魈はなかなかこっちからのものを受け取ってくれないけど、杏仁豆腐だけは受け取ってくれるから、労いのつもりというか」
     空の言葉に鍾離はすぐに納得して頷く。
    「なるほど。しかし、ああしたものを贈るとは面白いな」
    「これの始まりはお前だぞ、鍾離」
     鍾離があまりに頓着なく感心するのでパイモンが堪らず口を挟んだ。
    「俺が始まりとは?」
    「岩王帝君が死んじゃったって時に、魈に話を聞いてもらう為に杏仁豆腐を用意したのが始まりだよ」
     空が代わって説明する。鍾離は小首を傾げた。
    「そんなものがなくても彼は話を聞いてくれると思うが」
    「そんな感じじゃなかったぞ!」
     その物言いにパイモンはまた堪らずと発した。
    「魈はすぐに消えちゃおうとして、オイラたちあの時すごく必死だったんだぞ」
    「そうそう。あの時の魈は素っ気なかった。まぁ先生の言うことなら魈は素直に聞くんだろうけどさ」
     空も同調する。
    「素直に聞くというのは語弊があるが、それは悪かった」
     鍾離は肩を竦めた。
     自分の言うことなら素直に聞く、と捉えることは極自然であると強く否定しなかったが、しかしその認識は現状やはり少しそぐわないのではないかと鍾離は思った。契約に基づく命令であればその通りであるが、それ以外ではどうだろうかと。それ以外、なら、旅人である空からの言葉の方が素直に聞くのではとまで思う。しかしそれをここで言えば、また忽ちに言い返されることも想像できたので黙っておく。一応のところ、今はこの他でもない見届ける者の見識をそのまま受け取ることとした。
    「それで先生は魈に用事があるって言ってたけど、終わったの?」
    「ああ」
     身軽になった空が手振りを交えながら問いかける。鍾離は首を傾ける様に頷いた。
    「用事って何だったんだよ?」と、パイモン。
    「お前たちも知っているだろう。いつもの薬を渡していただけだ」
    「あの、俺たちが届けていたやつ? それって今までは先生が届けていたんだよね?」
     今度は空が疑問により首を傾けた。
    「そうだ」
    「ふーん」
     鍾離から間を開けず同意の言葉が出てくるが、空はもやりとして、それが曖昧な相槌の音になって口から洩れた。では何故自分たちが届けていたのかと、決して鍾離自身が届けられないような状況ではなかったはずだ、と思った。けれど何処か踏み込んだ問いにも思えて、言い淀んだ。空が人知れずモヤモヤを抱えていると隣のパイモンがすっと片手を鍾離へ向ける。
    「じゃあなんでわざわざオイラたちに頼んできたんだよ。すごく暇そうにしてたくせにー」
     最後はまるで動物が歯を見せて威嚇するような顔になって言った。
     けれど威嚇というよりは赤子をあやす様なその顔に、鍾離は口の端を少しばかり上げる。
    「然したる理由はない」
     そう言って、外を見る様に鍾離はもう一度、視界の端に魈を入れて、その姿を見た。
     まだ杏仁豆腐鵜をゆっくりと食べている。こちらの視線に気付くことはない。匙を使って杏仁豆腐を頬張っては頬や口元が小刻みに動く。それから喉が小さく隆起する。黙々と、陽の光の受けながら杏仁豆腐を食べ続ける。邪気はない。その姿にこの国の安寧の全てが詰まっているように思えて、何故か今この瞬間、神を降りた自分を祝福した。けれどそれはあまりにも身勝手で、業が深く、この世のひとりになるまで黙っていようと思った。
     そして先程の、魈の反応を思い出す。
     逃げる魈も何処か愉快だったが、驚く魈もまた愉快だった。
     こんな乱れた思考がまた面白く、頬が緩む。
    「強いて言うなら、今日は良い天気だったからな。少し歩きたくなった」
     十分に魈の姿を目に焼き、視線を二人に戻すと言った。
     パイモンは思い切り眉を寄せる。
    「全然理由になってないぞ!」



       ***



    「魈」
     突然、その声で自分の名前が呼ばれ、魈は驚いた。
     望舒旅館の最上階の露台に立ち、荻花洲を眺めていた。今日もパイモンの言うところのぽかぽかの陽が差している。驚いた魈は、また自分は呆けていたのだと知る。でなければここまで近付かれて気付かぬ訳はない。もし呆けていないのであれば、気付かれぬように近付かれたということになる。前者にしておいた方が考えることは少ない。
    「帝君」
     振り返って、魈はその人の名を呼んだ。
    「どうしてここに。何かございましたか」
     分かり易い焦りの声が出る。
     鍾離は一歩、二歩と魈へと近付いて目の前まで来ると、右手を少し上げて小さな包みを見せた。
    「薬を届けに来た。それから――」
     今度は左手を持ち上げ、違う包みを見せる。それは薬の包みより随分と大きい包みだった。
    「杏仁豆腐を」
    「あ、んにんどうふ?」
     素っ頓狂な声で言ってしまう。その戸惑う魈に杏仁豆腐の包みを掲げながら、鍾離は先に薬の包みを手渡した。魈はそれを両手で授かる。この薬もいつもなら身を硬くして受け取るところ、今はそれどころではなかった。そのまま大事に、そして素早く懐へ仕舞った。
    「な、何故? どうしてそんなものを」
    「これはお前の好物なのだろう?」
    「そうは言いましたが、何故帝君がこれを」
    「お前の好物と聞いたからだ」
     今一度よく見せる様に包みを掲げる。
    「食べないか?」
    「食べますが!」
     この押し問答は一体なんだと魈は一層に困惑した。
     間の抜けたやり取り。隙間風が吹くような。この大きな岩の何処に隙間があるのか、ないはずだ。けれど――。
    「しかし、帝君にこのようなことをしていただく訳にはいきません。今後はどうかお控えください」
     魈の訴えに鍾離はぴたりと動きを止め、掲げていた杏仁豆腐を降ろす。
     魈が固唾をのんで次の動きを待っていると、鍾離はゆっくりと空いている手を顎へと添えた。
    「お前がそのように考えることについて、改めろと言うことはない」
     帝君然として始まる言葉に魈は身を硬くした。けれど鍾離は声の質とは反対に頬を緩める。
    「また改める必要も、お前が感じないのであれば必要ない。好きにするといい――」言いながら、小さく頷いてみせる。そのまま続ける。「そのお前とはまた別に、今の俺はただの凡人として生きているし、その時間を俺は好きに使っている」
     緩んだまま張り詰める。
    「だから、俺も好きにする」
     張り詰めた間の抜けたやり取り。
     魈は静かに口に溜まったものを飲み込んだ。
     そして頭を下げると口を開く。
    「……承知しました。帝君のご随意に」
     魈の言葉に鍾離はふっと息を吐くように笑うと口角を僅かに上げた。
    「帝君というよりも、鍾離としてだ。この方がより正確だ」
     その正確さを正確に捉えることができず、目の前の人の輪郭は曖昧なまま、困惑に歪む自分の顔を隠す意味で魈はもう一度小さく頭を下げる。少しばかり冷静になると、あの修羅の中で長年この国を護ってきた帝君が、このように穏やかになった世の中で、自らの時間を持ち帝君の好きにすることは自分にとっても望ましいことだと魈は思い直した。
    「では、これを」
     そう言って鍾離は魈に杏仁豆腐をもう一度差し出す。
     けれど、望ましいと思うものが、自分の好物になって跳ね返ってくるようなこの状況は腑に落ちなかった。落ち着かない。魈は鍾離が差し出す包みに手を伸ばすと受け取って、包みの中がどうなっているのか分からず、その中身を零すまいと大事に抱えた。
     それが今出来る最善だった。
     そしてその日から、鍾離自らまた薬を届けるようになった。
     鍾離は薬が切れる頃、望舒旅館へやってくる。
     ある日の魈は階下から駆け上がるように駆け付け。
     ある日の魈は別の場所から跳び帰って駆け付けた。
     とうとうある日、魈は薬が切れる頃――実際にはまだ薬はあるのだが、露台で鍾離が来るのを待った。そろそろ来る、と分かっていれば、おそらくこの日この時間帯ということはなんとなく分かるものだった。そして思い定めていた日に鍾離がやってきて、魈は露台の手摺に手を置き、どう出迎えようかと頭を悩ませていたが、悩んでいる内に後ろから名前を呼び掛けられる。
    「魈」
     呼ばれれば振り返ることは容易い。
     魈が振り返ると、今日も小さな包みと大きな包みを持つ鍾離がいた。先に小さな包み、薬の受け渡しを終えると、片手の空いた鍾離は大きな包みをその場でさっと取り、中から蓋付きの深皿を出した。包みと蓋はまた鉢の縁に置き、深皿と匙だけを魈へと向ける。
    「これが本当に好物なのだな」
    「どうして、そう思われるのですか」
     魈はそれに両手を伸ばすと自分の体へと寄せた。
     よもや自分が浮かれているように鍾離の目に映っているのかと堪らず問う。
    「これを持ってくるようになってからは、お前が待っていてくれるようになった」
    「これが好物だから待っている訳ではありません」
     決して好物に釣られている訳ではない。
    「では、何故?」
     鍾離は間を置いてからそう尋ね、じっと魈を見つめた。
     言葉を選んでいる余裕はない、間を置かず魈は口を開く。
    「万が一にでも、帝君に、これをお持ちいただいていたらと思うと、無駄にする訳にはいかないからです」
    「つまり、これがあるから、ということだ」
    「……そう……なります」
     それはそうなのだが、これも腑に落ちなかった。降伏未満のこの敗北感に、思わず口が尖った。すぐに気付いて口を噛む。使ったことのない部位が動いたようにも思う。緩んでいる。こんな姿を見せる訳にはいかない。魈はほんの一瞬で自分の緩みを締めたが、鍾離は小さな声で刻むように笑った。
    「面白いな」
     目が細くなり、その頬が隆起する。
     魈はまた鍾離の喉元に視線を落とした。
     やはり零れていくようだと思う。加えて、その隙間だらけの姿を見る訳にはいかないと、見てしまってはいけないと思った。伏せた視線の端、両手で持った皿、その中の甘い汁がテカテカと光っているのが分かる。出来るだけ垂直にと意識して皿の縁を握る。



     妙なやり取り。
     妙な温度。
     妙な粘度。
     緩んだ空気の中で、浮力を持った何かが行ったり来たりを繰り返しながら、ゆっくりと落ちていく。隙間に落ちていく。間が抜けているから。そうして落ちてしまって、落ちてしまっては嫌だなと感じた。けれど落ちてしまってはもうこの手では拾い上げられない。それが分かる。落ちてしまってはとても、きっと後悔する。それが分かる。けれど手を伸ばそうか、迷う。
     一枚の葉が額に落ちて、それで魈は目を覚ました。夢ともつかない夢を見ていた。
     魈はいつかの日と同じように、望舒旅館の最上階まで伸びる大樹の太い枝に座り、孤雲閣を眺めていた。今日も変わらずその景色は穏やかそのもの、またぽかぽかの陽というものだ。それを眺めている内に枝に横たわって眠ってしまっていた。
     額に手を伸ばして葉を取り、一緒に体を起こす。
     手元へ寄せた葉はやはり大樹のもので、黄色の葉だった。手のひらに乗せて、何ともなしに葉脈を撫でた。二度三度撫でていると、体の奥底がうねる様に痛んで、思わず手を強く握る。葉がぐしゃりと手の中で潰れた。
     体の奥がねじ切れるような悲鳴を上げる。薬を呑まずにいると、途端に強く痛み出す。
     薬がない訳ではなかったが、もうすぐ無くなる。無くなると思うと、呑むのを止める。だから、少しずつ中身の残った薬の包みが魈の手元にはいくつもある。そんな収集が始まったのも神ではない鍾離が望舒旅館を訪れるようになってからだ。膝を突けなくなった弊害だと思っている。膝を突いて受け取ることができたなら、包みも何の気兼ねもなく捨てられたのではないかと思うが、今のところそれを確認する機会がないので分からない。分かるのは、今回も薬を最後まで呑めず、またこの苦痛に襲われていて、そして薬はもうすぐ無くなる。
     ――つまり、またそろそろ帝君がいらっしゃる。
     ということだ。加えて夢の自分を思い出す。あのじっとりとした後悔は、覚えがある。魈は苦痛ではなく苦悩で頭を垂れた。苦痛は耐えられる、耐え難いが慣れている。
     また薬と杏仁豆腐だろうか、薬は甘んじて受け取っても、杏仁豆腐は話が違う。しかしこうなっては受け取らない訳にはいかない。魈はゆっくりと握った拳を緩める。痛みの頂点は過ぎた。葉は柔らかく、潰れてはいてもボロボロに崩れてはいなかった。両手で葉を持つと、また葉脈を撫でる様に潰れた部分を広げていく。完全とは言えないが形の戻った葉の葉柄を二本の指で持つ。
     陽に翳す。
     顎を上げて、葉を見た。
     これもいつかの日と変わらない。そこにあるのは黄色、黄金、たまに橙。溢れて零れていく光。
     最近はこうやって帝君を見上げているなと、上げた顎で思い出した。落ち着かなくなって喉元を見る動きをする。視界に入ってくる孤雲閣。海から突き出るように伸びる岩峰――正確には突き刺さっている岩峰。帝君の、石の槍。結局、落ち着かない。
     ――どうしたものか。
     もう一度、葉を陽に翳した。



     この日、きっと帝君はやってくるだろうと魈は鍾離を待っていた。灰色の雲に埋め尽くされた荻花洲、雨は降っていない。だからあの艶のある靴も汚れることはない。そんなことを考えながら。出迎え方はまだ定まらず、露台ではなく、木の枝の上に立って。
     暫くすると鍾離がやってきて、露台の手摺の傍まで歩いて行く。手には小さな包みと大きな包み。魈はすぐにはどうしても動けず、そのまま暫く鍾離の背中を見つめていた。このような不敬を働くのは初めてで酷い葛藤を抱えた。どうしてもまだ動けない。じりじりと、ちりちりとうなじが痛む。
     魈は両腕いっぱいに草花を抱えていた。
     全て薬になる草花、薬草だ。以前、鍾離が空に依頼をしていた品を揃えた。それ以上にきっと揃えることが出来たと思う。礼のつもりだった。上手く動けなかったのは、これは初めてする礼で、どう反応されるのかが、あまりに未知だったからだ。あまりに落ち着かない。これから返ってくるであろう反応を考えると、魈は恐ろしさすら覚えた。
     そもそも本当に礼をする必要があるのか。自問する。
     けれど、やはり、何もしなければまた自分は悔いるだろう。それは前以上に。
     直視できない柔らかな笑み。それが無駄になるような気がして。
     静かに息を吸って、そしてまた魈は鍾離の背中を見つめた。自分の存在を見破りながらも、自分を待っていてくれているように思えた。
     ――いや、待っていて下さっているのだ。
     そう自覚しなければならない。認めなければ。枝の上、滑らせていた爪先を自分の体に真下に戻す。両足に均等に重心をかけて立ち、魈は一度真っ直ぐに立った。
     それから腰を少しばかり落として膝を曲げると、そのまま跳ねる。
     露台に着地した。
    「帝君」
     膝を突いてそう呼びかける。
     これは着地の衝撃を吸収する為の格好で、畏敬ではない。ゆっくりと立ち上がって、背筋を正す。これが今出来る最大限の畏敬の姿勢だ。呼び掛けに応じて鍾離が振り返る。ひらりと舞う長い裾。体の正面が魈へと向くと、胸にある飾りが灰色の中の僅かな光を反射して一瞬光った。
    「これは見事だな」
     魈の姿を目に入れると短い感嘆の言葉を口にして、そう続けた。
    「礼になればと……前に空たちに、依頼をして、いらしたので……」
     草花を抱えた腕に力を込めながら、言い訳の様に歯切れ悪く言葉を口にする。最初こそ鍾離の目を見て話し始めたが、顎は下がり、最後には目を伏せた。反応を見るのが恐ろしい。うねりそうになる口、下唇に力を入れて、耐える。反対に鍾離の口元は綻んだ。
    「なるほど」
     歯切れ良い音で鍾離は言った。その音に誘われて魈は視線を戻す。鍾離の緩む頬と盛り上がった頬で細くなる目が視界に入ってくる。
     鍾離は魈へと足を進めながら、持っていた包みを最早慣れた手つきで鉢の縁に置く。そして魈の正面までやって来ると、顎を引いて視線を合わせて柔らかく微笑んだ。魈は落ち着かなかったが、先程までの恐ろしさはなくなっていた。
    「我に言って下されば、いつでも用意します」
     つい、言ってしまった。
    「そうか。お前の手を煩わせることもないだろうと思っていたが、次からはそのようにしようか」
     ほ。
     ――ほんとうに?
     胸の内で聞き返す。
    「はい」
     ――ほんとうに?
     もう一度。
     ただの薬草集め。それに大きな充足を感じた。
     けれどそのただの薬草集めに、この殺戮しか能のない夜叉が充足を感じるなど、あまりに不釣り合いで滑稽に思えた。魈は心を鎮めるように努めた。胸の内ではまだ聞き返している。
     暫く黙っていた鍾離が手をすっと上げると、それを魈へと伸ばす。草花を避けながら進むと魈の頬に辿り着く。鍾離の親指が目尻に、手のひらの膨らみが頬に添い、人差し指は耳を掠めた。
     魈はどきりとした。悟られて、それを諫められたのかと思った。けれど鍾離の顔を見れば、それは違うのだとすぐに分かる。
    「何かついておりますか」
    「いや。随分と穏やかな顔をするものだと」
     その言葉は妙に口惜しく感じられた。
     魈は鍾離の手の中で僅かに更に顎を上げる。
    「……鍾離様に、感化されたのかもしれません」
    「俺に?」
     それを聞き逃さず、鍾離はくしゃりと顔を綻ばせる。その顔を見て口惜しさが溶ける。
    「お前の好物を持って通ってみるものだな」
     鍾離はすりと、もう一度魈の目元に親指を滑らせた。柔らかく、少し力を込めると指は沈み、別の場所がふっくらと膨らむ。今度は口元から、その膨らみを追いかけるように指を滑らせる。鍾離が目尻を撫でると、魈は目を細めた。それは気持ちが良かった。
     その触れ合いを続けていると、鍾離が本当に小さな声で刻むように笑い、「祝福を受けている気分になる」とまた更に小さな声で言った。自分に言ったのかと魈は鍾離の意図を汲み取ろうと努めて視線を合わせようとしたが、その前に鍾離の手が顔から離れていった。
     鍾離の手が顔から離れ、そのまま背中へと回る。もう一方の手も同じように背中へ回った。草花が潰れないように隙間を作りながら、鍾離はそのまま魈を両腕で抱いた。腰を折り、背中を丸めて首を垂らすと、魈の耳元に頬を寄せる。鍾離の鼻は魈の右肩に付くか付かないかの所でぴたりと止まり、まるで花に顔を埋めているような格好になった。
     魈は視界が突然変わったので驚いた。鍾離の肩越しにその向こうの景色を見る。
    見知った荻花洲。その灰色の空が見える。その向こうに高い岩山、更に遠くに山脈、薄暗い中では曇天の中に溶け込むようだ。そして焦点の合わないすぐ近くに、先程まで少し遠くにあった色がある。
     ――背が。背が曲がっている、この方の。
     曲がっているから、向こうが見える。曲がる背中を見て困惑した。
     ――これは曲がるものではない。これは嫌だ。とても。
     そうとても嫌だと思うのに、何も嫌ではなかった。
    「これは?」
     魈が声を発すると、耳の付け根も動く。鍾離の髪や頬を感じる。もう一度声を発しようとしたが、これ以上言葉は出てこない。もう一度もう一度、と必死になった。本当にそこにいるのかと確かめたかったが、結局もう一度言葉を発する前に鍾離の髪がふわりと頬を撫でていく。
    「思わず寄りたくなった」
     曲げた背中を真っ直ぐに戻しながら鍾離が答える。
     すっかり荻花洲の景色は見えなくなった。その代わり、鍾離の胸元が見える。
     魈が顎を上げて見上げると、そのまま目が合った。一本の指が近づいてくるところだった。
    「蝶の、ような?」
     鍾離は人差し指で魈の鼻をとんと一度叩いた。
     そして悪戯に笑って、すっと体を離す。一歩、二歩と後ろ歩きで離れてから両手を魈へ伸ばした。今度は一体何だろうと、魈はほんの一瞬だけ体を硬くしたが、その手は草花へと向かっていく。それはそうだ、下唇を噛む。
     自分の思い違いが悟られない様にすぐに意識的に力を抜いて、魈も鍾離へ両手を伸ばして、草花を差し出す。受け渡すその時にほんの少し指が触れたので、折角力を抜いた魈の体は先程以上に硬くなった。気付いているだろう、気付かない訳がない、胸の内で言い訳を考えた。何に対しての言い訳なのか、分からない。草花が体から離れていくまでずっと身を硬くしていたが、それ以上は何も起こらなかった。言い訳をする必要もなかった。それはそうだ、魈はまた下唇を噛む。
     手持無沙汰になった両腕は垂れる。
    「助かった」
    「……いえ」
    「次はお前に頼むとしよう、魈」
    「はい」
     自分の名前に反応してすぐに声が出る。
     草花を抱えた鍾離が満足そうに頷くのを魈は確認できたが、その表情は草花のせいで見ることができなかった。艶のある鍾離の靴先が方向を変える。左の靴も、右の靴も魈の正面を向かなくなったと思えば魈の脇を通り過ぎていった。ひらりと長い裾が舞う。ひらりと舞うそれがやけに目につく。通り過ぎると、今度は一気に鍾離とのこのやり取りの全てが蘇り、何故だか憤りに近いものが沸々とわいてくる。こちらへ向けられたものを返そうと礼をしたはずなのに、それは自分の手を離れてあちらへと行ったはずなのに、まだこちら側にごっそり何かが残されたような気がして。
    「鍾離様」
     寄って、去っていく背中をこのまま見送ることが出来そうにない。
    「では、我は……」
     じりと爪先に力を入れた。けれどそこから動かない。
     今は根を張る必要はない。根を引っ剥がして足を浮かせると、振り返る。
     魈が振り返ると、鍾離は足を止めて待っていた。もうこれ以上この背中を待たせるな、すぐに魈は後の言葉を続ける。
    「我はどのように、あなたによればよろしいですか」
     鍾離も振り返り、そしてじっと魈を見る。じっと見つめた後に、目尻が少し下がる。
    「俺は花のようにはなれないが」と、何処か愉快そうに言う。
    「あなたは我に蜜を与えてくれました」と、それに対抗する気持ちで言った。
    「蜜? ……ああ」
     僅かに首を傾げ、そして魈の意図することに気付くと、深く頷いた。また魈のもとへと戻って来る。こつこつと靴音が今度ははっきりと聞こえる。魈はその鍾離を見上げながら、一歩も動けずにただ待った。待たせて、呼び寄せて、不敬。けれど、またどうしても動けない。
    「確かにそうだ」
     鍾離が魈の前でぴたりと止まった。
    「では、蝶が止まってくれる?」
     左手を伸ばすと、手のひらを魈へと向ける。目を細めて笑った。
     魈は強く握っていた右手を広げて、ゆっくり持ち上げる。鍾離へと伸ばして、その手のひらの上に乗せた。指の腹を擦る様に指先から滑らせる。
     手套をはめたお互いの手は摩擦も少なくよく滑る。魈は自分が鍾離の手の上を滑っていると思っていたが、実際は鍾離の手が滑っていた。下から掬われる様に手が滑って、魈の手首を掴む。手首を引かれてその力のまま体を寄せる。魈の目の前にあった草花がいつの間にかなくなり、頭の後ろでワサワサとそれが咲く。合わせて背中に鍾離の手が添う。そして背が曲がる。
     またこの方の背が曲がってしまう。
     それがとても嫌で、出来るだけ曲がらない様に踵を上げる。けれど全く足りない。いくら伸びても、この方の背は曲がったままだと自分の見合わなさに打ちひしがれそうになった。魈は更にぐっと踵を上げると爪先で立つ。これ以上にないほどに高く上げると、鍾離の腕の中で体が傾いた。傾いて、そして爪先が床を離れていく。魈の体はそのまま鍾離に抱え上げられた。
     鍾離の草花を持たない手が魈の足の付け根に滑り込んで、力を込められる。視線を交わす高さまで抱え上げられ、同じ高さの目線、見下げることも見上げることもなくお互いを見ることが出来る。
    「俺はやはり花にはなれないようだ」
     また何処か愉快そうに言う。
     ――何にも曲がらないこの方が、やはりこの方だ。
     鍾離の曲がった背が伸びていくのを見て魈は安堵する自分を感じた。
     そうして安堵をして、少しの罪悪感を覚える。ざらりとして残る。
    「我も」
     だから魈は鍾離の背に手を添えた。
    「我も蝶になどなれませぬ」
    「確かにお前は鳥だ」
     笑ったままの鍾離がぐっと顔を魈へと寄せる。魈はその視線から目を伏せて逃げた。
     逃げながら、花だからよっていった訳ではないと言い訳をする。言い訳をしてから、そうか自分のことを花と見立てて蝶の様に寄ったのだと言ったことに気付いた。なら、自分も花になどなれないし、そもそも花などではないと言いたい。蝶にもなれない。ただの呆けた夜叉だ。けれどよっていった。鳥ならこうして留まれるだろうか、こんな思考、やはり呆けている。
     疼く様な気恥ずかしさを抱えて、魈は伏せた目を上げる。待っていたかのように鍾離が探る様に視線を合わせて来る。じっと見つめたまま鍾離の目が離れないので、魈はおずおずとそれに合わせた。羞恥と罪悪と葛藤と歓喜が綯い交ぜになって、実に間の抜けた顔をしていることだろうと思った。落ち着かない。足に力を入れたいが、ただぶらぶらと揺れるだけで、半端に力の入った腿が鍾離の腹の脇を撫でるだけだった。ふっとまた鍾離が笑う。
     間の抜けたやり取り。
     間が抜けていて、ならこれは底なしの時間。
     腐ったような時間、血みどろの時間、打ち付ける時間、凪の果ての時間、継ぎ目もないほどに時間を圧してきたと思っていたのに、ここにこんな時間があったのだと妙な気分になる。この時間も授かってしまってしまったのだろうか。慣れたくはない。またこれを返さなければ。
    「丁度良い天気……とは言い難いが」
     灰色の背景の中、魈を更に高く抱え上げると、今度は鍾離が魈を見上げる。
    「このまま散歩に行こう」
    「承知しました。我で良ければお供いたします」
     慣れない角度に戸惑いながらも、その申し出にすぐに答える。
     そして待っていれば降ろしてもらえるのだろうと考えていたが、一向にその気配はなく、魈はたじろいだ。
    「では、その……お、降ろして下さい」
     魈は鍾離の肩に手を突くようにすると上半身を起こした。鍾離は眉を上げ、わざとらしく驚いてみせる。それからやっと魈をその場に降ろした。
    「面白いな」
     魈は足を着き、自分の足で立つとすぐに鍾離を見上げた。やはりこれがしっくりときた。鍾離の目は柔らかく曲線を持ちながら、自分を見ていた。黄色、黄金、橙の目。やはり落ち着かない、と魈は思った。手はまた手持無沙汰。
    「では行こうか」
     けれど零れるようなそれを零さないようにはもうできる。おそらくは。
    「はい」








    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💘💘👏❤💘😭🙏💘💘💘❤💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works