7.7.
パチン、と爪を切る。両脇をそっと切って、次に真ん中。そして最後にヤスリを掛ける。
何度もやっていれば慣れたもので、切られているフロイドの方ももう文句は言わない。従順にジェイドに足を差し出している。そんなフロイドをベッドの上に座らせて、床にジェイドが膝を付く。
長く、しなやかなフロイドの足。足の裏を優しく持ち上げ、伸びた爪を一つ一つ丁寧に切ってゆく。
パチン。
「……ジェイドが爪を切ってくれるのも、慣れたけどさぁ」
フロイドはじっとジェイドの頭を見ている。切られている間、スマートフォンや雑誌でも見てても良いと言っても、フロイドはいつもジェイドが爪を切るのを待ってくれている。少しだけ退屈そうに。けれど、興味深げに。
「そうしてると、なんか跪かれてるみたいで、変な感じ」
パチン。
「ふふ、女王様にでもなったような気分でしょうか」
パチン。
「馬鹿なこと言ってんねぇ」
呆れたように笑って、フロイドは俯いたジェイドの額を優しく指で弾く。顔を上げて、「痛いですよ」と文句を言えば、ベ、と舌を出された。
全ての爪を短く切り終えると、ジェイドはフロイドの足の甲に唇を落とす。騎士が女王に忠誠を誓うかのように、恭しく。
ジェイドがフロイドの爪を切る時の、最近のルーティンだ。
「……そういうとこが馬鹿っぽい」
「酷いですねぇ」
切った爪の欠片を片付けながら、ジェイドは機嫌良く笑う。ベッドの上に座る兄弟の耳が僅かに赤く染まっている事は、ジェイドも気付いている。自分の心臓が、それにぎゅうっと締め付けられるようになるのも。
「今日はフロイドの作ったカレーが食べられて嬉しかったです」
「カレーって次の日のが美味いんだってぇ。明日また残ったの食べよ」
「そうですね」
フロイドが作った物はなんだって美味しい。稀に気分が乗らない時は口に合わない物を作る事もあるが、それでも不味い出来ではない。天才気質な兄弟は、料理の腕もやはり天才気質なのだ。
数日前にバスケ部の合宿に行っていたフロイドは、そこで他の部員達とカレーを作ったのだと言う。カレーを作り、皆で食べて、その後に大きな風呂に入ったのだと。
それを電話で聞いた時、ジェイドははっきりと胸に昏い感情を抱いた。自分以外と楽しげにしている兄弟に。兄弟の体を見たであろう人間達に。
苦しさにも似たこんな感情を胸に抱くのは初めてで、ジェイドは自分自身で戸惑っていた。
「僕も、フロイドと大浴場に入ってみたいですね」
つい、そんな言葉が口を衝く。ベッドに座るフロイドの頭を撫でながら、正面から顔を覗き込む。フロイドは驚いたように目を丸くして、ジェイドを見上げていた。
「……別にいーけどさぁ、寮にはおっきいお風呂ないじゃん」
オクタヴィネル寮には、温泉や銭湯といった施設はない。あるのはシャワールームのみである。
「そもそもジェイドとお風呂って、海で泳いでんのと変わんなくね?」
「今は人間の姿ですからね、また意味が違いますよ」
足もありますしね、と言いながら、ジェイドはフロイドの脹脛を下から上へと撫でる。ハーフパンツから見える足は、肌が滑らかで美しい。「擽ったい」とフロイドが笑うのに、ジェイドはゆっくりと手を離した。
「じゃー、明日一緒にシャワー浴びる?」
フロイドは片膝を抱え、こてんと首を傾げる。あざとく見えるような仕草だが、本人は何も考えていないのだ。
「え」
「だってここシャワールームしかないじゃん。二人だとすげえ狭いけど」
「……フロイドは大浴場でどんなことをしたんですか?」
「どんなって……ふつーだよ。髪の毛洗って体洗って……あー、カニちゃんに背中を流してもらったぁ」
「ではそれを、僕にもやらせてください」
「いーけど」
腹の底で煮え立つ炎を無理矢理抑え込み、ジェイドは愛想の良い笑みを浮かべる。そんなジェイドを見て、フロイドは不思議そうな顔をするが、何も言わなかった。
部屋着用のシャツを脱ぎ、ハーフパンツも脱いで、あとは下着だけだという姿で、フロイドは顔を上げた。
「なんか視線が痛いんだけど」
「そうですか?」
まだ一枚も衣服を脱いでいないジェイドは、フロイドの言葉に困ったような笑みを浮かべる。勿論、そんな笑みが兄弟に通用する事はない。
「オレの裸なんて見慣れてるっしょ?」
確かにフロイドの言う通りなのだが、それとこれとはまた話が違う。思えば人間の体になってから、二人は一緒に風呂に入った事などない。そもそも人魚には入浴の習慣がないのだから、当たり前なのだが。
程よく筋肉の付いた、均整のとれた体。細身だが、ガリガリと言うほどでもない。腹筋はうっすらと割れているし、手足もすらりと長い。恐らくジェイドと殆ど変わらぬ体だが、フロイドの方が美しい体をしているように見える。
シャワールームには人がいない。二人がセットで現れた事で、他の寮生達は蜘蛛の子を散らすかのように居なくなってしまった。ジェイドはそれにほんの少しの安堵を覚えながら、自身も衣服を脱ぐ。フロイドの方はといえばさっさと裸になり、一人で狭いシャワー室へ入っていった。
「不思議なんだけどさ、」
シャワーのコックを捻りながら、フロイドは後に続いてやって来たジェイドを振り返った。
「ジェイドはなんでオレとお風呂入りたいのぉ?」
視界を覆うほどの白い湯気が立ち上り、フロイドは自身の足をお湯で洗い流す。おいで、とジェイドの方へ手招きをすると、ジェイドの体にもシャワーでお湯を掛けてくれた。
「フロイドがバスケットボール部の方々と入浴したと聞いたので」
「なにそれぇ」
肩から腕に流れるシャワーは少し温めの温度だ。入浴という行為に慣れたとはいえ、熱過ぎるお湯を好んでいるわけではない。
「そう言えばカニちゃんが、煮魚になっちゃわないんですかぁって言ってたぁ」
「おやおや。フロイドにそんなことを言うとは、随分と勇気がありますね」
背の高い男二人が入るには、この個室はやはり狭い。ジェイドはフロイドの手からシャワーを取ると、フロイドの髪の毛をお湯で濡らしてゆく。
「洗っても?」
「……いーけどぉ」
部屋から持参したシャンプーを手にし、軽く泡立ててからフロイドの髪に指を差し込む。白い泡と共に、ムスクの甘い香りがふわりと広がった。
「いー匂い。新しいやつ?」
「ええ、以前ヴィルさんから勧められたシャンプーです」
ムスクの香りですよ、とジェイドは言いながら、フロイドのこめかみから耳の後ろを丁寧に洗ってゆく。フロイドは気持ち良さそうに目を閉じて、ジェイドに身を委ねてじっとしていた。
「……これがしたかったの?」
泡を流し、トリートメントを付けた髪を綺麗に洗い終わると、ずっと大人しかったフロイドが口を開く。濡れた前髪の隙間からオッドアイが真っ直ぐにこちらを見るのに、ジェイドの心拍数が跳ね上がった。
「……髪の毛もそうですが、背中も洗いたいです。エースさんにはやらせたのでしょう?」
「強制したわけじゃねーけど」
ジェイドの答えに、フロイドは愉しげに口角を吊り上げる。
「合宿で作ったカレーが食いたいとか、お風呂一緒に入りたいとか……なんかジェイド、ヤキモチ妬いてるみたい」
「……は、」
揶揄するようなフロイドの言葉に、ジェイドは虚を衝かれたように目を丸くした。
そんなことは──と、否定の言葉は喉から出て来ない。この腹の奥底でぐつぐつと煮え滾る感情を、薄々そうではないかと自身で思っていたからだ。
自分以外と楽しげにしているフロイド。フロイドの体を見たであろう他の部員達。フロイドが気に入っているエースや、監督生、陸の世界の人間達。
ジェイドはそれら全てが気に食わない。自分以外の人間が、フロイドの隣にいるというだけで嫌な気分になる。体の奥が、腹の奥底が、燃えるように熱くなってゆく。
この燃え滾る炎の正体は──恐らく嫉妬だ。
「……そうですね」
そんな気が狂いそうになる想いの正体を、ジェイドは漸く認める事にする。自分の中にある、醜く昏い感情。何故そんな風に思うのか、ジェイドはもう分かり始めている。
「……僕は、確かに嫉妬してます。あなたを他の人間に取られたくないと思っている」
「え、」
今度はフロイドが驚く番だった。言葉を失い、目を大きく見開いて、目の前にあるジェイドの顔を見つめる。沈黙が落ちたシャワールームに、出しっ放しのシャワーの音だけが響いていた。
「僕にも、独占欲はあるんですよ」
濡れた髪を掻き上げて、ジェイドはフロイドの耳許に唇を寄せる。甘く、柔らかなムスクの香り。この匂いは、フロイドにとても良く似合っている。
「……それって、オレにだけ?」
「勿論。フロイドにだけです」
「……ジェイドが、そーいうこと言うの珍しーね」
フロイドは小さく息を吐くと、濡れた体をジェイドに押し付けてくる。温かな体。僅かに下腹部が触れ合うのに、ジェイドは気付かぬ振りをする。
「ジェイドに嫉妬されんのも、悪くないねぇ」
「おや、酷いですねえ」
二人は殆ど抱き締め合うような体勢で、クスクスと笑い声を漏らした。嬉しそうに頬を緩めるフロイドの顔を見つめるだけで、ジェイドの胸もまた熱くなる。
こんな感情が自分にもあったとは──戸惑いや驚きと同時に、新鮮な想いも抱く。そしてほんの少しの恐れ。
どんな未知な感情も、自分にそれを与えてくれるのはフロイドなのだ。フロイドだけが、ジェイドをいつも楽しませてくれる。苦しい事も、嬉しい事も、フロイドはジェイドに色んな事を教えてくれる。
そしてきっと、これからも。