初めてのキスは檸檬味、だなんて言うけれど、無理やり奪った唇からは、薬用リップクリームの味しかしない。
「……なんだ、」
落胆が声色に滲んでしまったのは、仕方のないことだろう。けれど、僕の勝手な思い込みと好奇心と探究心、諸々エトセトラ。彼からしたら関係のないことに巻き込んだ上、勝手に見当外れだと不満を漏らしたのはいただけない。
「すみません」
これで拭いてください、とハンカチを押し付ければ、僕は開いた扉の隙間に体を滑り込ませた。
瞳を見開いたまま硬直した、旭さんを置いて。
それが、数日前のこと。
ワンダーランズ×ショウタイムとTHE CENTER THEATERの、第二回合同公演に向けての稽古、その休憩中。
「旭さん、ここの演出なんですが……旭さん、僕ではなく台本を見ていただけますか」
「両方見てるから大丈夫」
「大丈夫と言われても……」
読み合わせの時も、そうだった。旭さんの出番が無い時、且つ僕が台詞を読み上げている時は殊更に、視線が痛くて。
「そんなに気になる?」
「当たり前でしょう。寧々曰く、美形の真顔ほど怖いものは無いそうですよ」
「類くんがそれを言うんだな」
「何か支障でも?」
「いや? ただ、俺よりも類くんの方が美人だよ」
「それはどうも。そろそろ、本題に戻っていいですか?」
旭さんは僅かに目を見開いて、硬直した。
「え、何か」
「いやいや、何もないけど……前途多難だなあ」
「へ?」
「それで、ここのシーンが何だって? 類くんの頼みなら何メートルでも飛んでみせるよ」
「飛んでほしいわけではないんですが……」
まあ、話を聞く気になってくれたのなら、何でも構わない。
「……どちらが悪いのやら」
「この二年、旭も頑張ってたんだけどなあ……」
背後でひそひそと繰り広げられていた会話は、生憎、僕の耳には届いていなかった。
読み合わせをしながら軽く動いたから、稽古の後に柔軟をしていた僕の背を、誰かがぐっ、と押した。なんとなく感じる掌の大きさと、僕に対する力の掛け方。これは、多分。
「司くん?」
「残念、旭さんだよ」
「……すみません」
顔を上げれば、司くんはネネロボに追い掛けられ、ネネロボはえむくんに追い掛けられ、そのえむくんの背中をスタミナ切れが近いのであろう寧々が追っていた。柔軟が終わったら、声を掛けに行こう。
と、そこで僕の背中に居る存在を思い出した。
「……ありがとうございます、旭さん」
「ううん。本当に柔らかいな、類くん」
「それは、どうも」
何故、そんなに楽しそうなのだろうか。そう思ったところで、つい先程の彼の発言を反芻して、上体を起き上がらせた。そのまま、体を仰け反らせて旭さんの顔を覗き込む。
「旭さんで残念だと思ったことは、ありませんよ」
「……類くんって、俺のこと、なんだと思ってる?」
「THE CENTER THEATERの、中枢の」
「そうじゃなくて。『神代類』くんは、どう思ってるのか、聞きたい」
「……ショー関連ではなく、ということですか」
そう言われてみれば、考えたことがなかった。僕にとっての、旭さん、旭さん、は。
「……犬? いや、猫かもしれないな……」
「予想の斜め上だなあ……せめて人間ではありたかった」
「ああ、いえ。そうではなく……疲れた時や辛い時には、傍に居るだけで癒されるというか、活力が湧いてくるというか……そうですね。元気をくれる存在、だと思います」
これでどうだろうか。及第点くらいは貰えるかもしれない、と視線だけで旭さんを窺えば、何やらブツブツ――上目遣い?――と呟いている。
「旭さん?」
「ああ、いや……それなら、類くんの傍にずっと居ようかな」
「旭さん、この公演が終わったら、またお仕事が忙しくなるでしょう。ずっとだなんて、居られませんよ」
至極当然のことを言った筈なのに、旭さんから表情が消えた。ついさっきは半分冗談で言ったけれど、ああ確かに、美形の真顔は本当に怖いらしい。
「……類くん」
「は、い」
「この後、空いてる?」
「特に予定は」
「なら、二人で話したいことがあるんだ」
「分かりました」
一もなく二もなく頷けば、旭さんはパッと笑顔になって、離れていった。
「……大丈夫、かな」
安易に頷くべきではなかったのかもしれない、と気が付いても、時既に遅し、腹を括るしかない。
ネネロボの追跡モードをオフにすれば、今日は特に何か道具を使ったわけでもないから、すぐに僕と旭さんの二人だけが、残る。
「それで、旭さん。話というのは――」
振り返った先の旭さんに、僕は少しだけ、面食らった。
「……なんて顔してるんですか」
「……それを、類くんに言われるとはなあ」
あの時の僕も、同じような表情をしていたのだろうか。いや、けれど、それなら旭さんにとっての欲しいもの、って。
首を横にぶんぶんと、何かを振り払った旭さんは、僕と真っ直ぐに視線を合わせる。
「……類くん」
「はい」
「……もう一度、キスをしよう」
「え?」
思わず頓狂な声が出てしまって、片手で口元を覆った。それと同時に、思考を巡らせる。
きす、鱚、キス。――キス?
「……え?」
「俺と、キスしてほしい。何の感情も湧かないのなら、それで、いいから」
「……わ、かり、ました」
僕はどうも、この人の押しには特に弱い。その理由も、あの唇を重ね合わせるだけの行為で、分かるのだろうか。
旭さんの掌が、僕の頬に触れて。
――あれ?
年上の男性らしい、骨張った手から、子供体温が直に伝わってきたかと思えば、僕の頬が、それを上回る熱を帯び始めた気がする。
鼓動が跳ねて、目の前の彼がやけに眩しく見えて。堪らず、目をぎゅっと閉じた。
「っ」
唇に、柔らかいものが触れる。流石、人気俳優。少しだけ手入れを怠ってかさついている僕のそれとは、大違いだ。
「……類くん」
離れたばかりの、まだ吐息を感じる距離で名前を囁かれた、僕は。
「は、え」
「……俺の勝ち、だね」
見上げた旭さんの表情は、見たことのない、少し意地の悪い笑顔だった。