初恋エンドロール①「僕は君が好きなんだ、悠仁」
虎杖にする告白は、これが最初だ。
そして通算十回目になる。
虎杖は眉を八の字にして、琥珀の瞳を少しだけかなしそうに目を細めて、昨日と同じ台詞を言うんだ。
「ごめんね」
こうして初めてで、十回目になる告白は、想いを遂げることはなく、行き場のない気持ちがぐるぐるととぐろを巻くのだ。終着点のない列車がレールを周り続けるように、ピリオドを打つことの出来ない恋心は、いつまでも周回していた。
*
混じり気のない魂がそこにあった。
呪いと交わっていない、不純物のない魂、気高くあろうとする純粋な志、眩しい闇を見据える心を、初めて見たように思える。
五条は虎杖本人を、初めて見たように感じた。
宿儺と混じった直後の虎杖と顔合わせした時が、五条と虎杖のはじめましてだった。
今の虎杖から、宿儺の呪力は感じない。
正真正銘、虎杖だけの魂がある。
五条よりは短いけれど、それなりの長さがある睫毛が、時折揺れている。琥珀の瞳は閉じられたままだ。虎杖は、身体を横向きにして、丸まって眠っている。胎児のようだ。
生と死は同じものと言う考えがある。仏教では生死と言い、生と死を分けて考えてはいない。過ぎてしまった日に戻ることは出来ないし、失われてしまったものは取り返せない。昨日へ時計の針を巻き戻すことは出来ないし、明日へはカレンダーを捲ったって一足飛び出来ない。
眠りは小さな死だとか、誰かが言っていたけれど、まさしくこれから目覚める虎杖は、今よりこの世界に生まれ落ちると言ってもいい。宿儺は居ない、もう呪いに縛られることのない、虎杖の人生が始まるんだ。
「悠仁」
かわいい生徒の名を呼ぶ。
五条の声にしては甘みが出てしまったかもしれない、砂糖いっぱいのココアのようだ。家入辺りに聞かれたら、珍しいこともあるもんだ、と隈がこびり付いている目元を細めたかもしれない。
しかしこの部屋には虎杖と五条二人しか居ない。高専の寺社の一室、隔離された離れで、封印が厳重に施された部屋だ。
提灯が床いっぱいに敷き詰められていて、部屋に居る二人だけの人間達を取り囲んでいた。橙の温かみのある灯りが少年の輪郭を照らしている。
硬い材質の床に寝たまま、虎杖は穏やかに眠っていた。
少しだけ丸みの残る少年の頬に、指の背を伸ばした。短い髪をさらりと撫で、代謝が落ちていて体温が低くなっていることを指先で感じた。
「ゆうじ」
ほっぺたを摘んで伸ばしてみた。筋肉だるまのような身体をしているくせに、案外柔らかく伸びる。何処まで伸びるか試してやろう、と餅を引っ張るようにつねっていると、虎杖が唸った。睫毛がふるりと揺れて、覚醒を教えている。
「……、せんせい?」
ブラウンの睫毛の隙間から覗く、琥珀の宝石が、五条の姿を映している。
「おめでとう、悠仁。宿儺は死んだよ」
「しんだ?」
ぱちくりと虎杖は瞳を星のように瞬かせた。
「でも俺は死んでない」
「今の悠仁からは、宿儺の呪力がなくなってる」
「そうなの?」
「悠仁にあるのは、悠仁自身の呪力だけだ」
「そっか……」
虎杖は起き上がって、自身の顔にぺたぺた手のひらを当てた。目の下をなぞって、宿儺の爪痕のような古傷に触れた。宿儺の眼は残ったままだ。けれどあの呪いの王が現れることはもうない。
「悠仁に伝えたいことがあるんだ」
心臓が内側から破裂してしまいそうに、五条はらしくなく緊張していた。
本当は伝える気なんてなかった。教師と生徒で、処刑人と死刑囚で。この気持ちなんて胸にしまっておいて、ぐるぐると簀巻きにして海に沈めておいた方がよかった。けれど心は気泡がぶくぶくと内から湧き上がって、沈めようにも勝手に水面に上昇して、どうしようもなかった。
「好きなんだ、悠仁のことが、ずっと前から」
自覚したのは、確かに死んだはずの虎杖が、開くことのなかった筈の瞳を開いた瞬間だった。
人の死なんて慣れていた五条で、必要とあらば生徒を死地に向かわせることもあったのに、親友を自らの手で殺したのに。覆る筈のなかった死がひっくり返った時に、もう二度とこの命を失いたくはないと固く誓ったのだ。
「キスしたいとか、ハグしたいとか、いっぱい触れたいって言う意味の、好き」
誤解されないように、はっきりと、逃げ場のないように伝える。
虎杖は、じわじわと頬を紅潮させて、やがて制服のフードと同化する程に、顔を赤らめた。五条カスタムの制服は、やはり最高に虎杖に似合っていて、虎杖の血潮の色をしている。
床とお見合いするように、虎杖は俯いてしまった。
うなじも、やはり真紅に染まっている。
「え、ええと、その、俺、今まで先生のこと、そんな風に見てなかった、って言うか、考えたこと、なかった」
奥歯に物が挟まったようにもごもご喋る虎杖だが、それでも真摯に向き合うとしている。
「宿儺が、いなくなったわけじゃん、俺これからも高専に居ていいのかわからんし」
「居ていいに決まってんじゃん」
「でも、俺死刑だと思ってたから、こんなん突然で、将来設計変わるんじゃん? だから、えーと、色々考えたい……」
赤いうなじがくっきり見えるほどに、虎杖は俯いてしまった。
期待と先程のやり取りから予想していたものとは違った回答だったが、前向きに考えてくれると言うことだろう。状況の変化についていけない心境も理解出来る。大人だ、待つなんて余裕で出来る、と五条は年輪を感じさせる笑みを浮かべた。
「わかった、前向きに検討してね、明日二人の想い出の場所で待ってる。時間は正午ね」
「いや明日 せっかちさんだな、考えるって言ってんのに! つか想い出の場所ってどこ! そういう待ち合わせは脈がある時にするもんじゃない」
「脈がなきゃ、すっぱり断るでしょ? 悠仁みたいな人間ならきっと、変に気を持たせることなんてしない」
むぐ、と虎杖が虎のように唸る。
「一日後も一週間後も、悩んで出した答えなら同じもんじゃない? 考えた末の結論ならそんな変わらないよ」
「えー、今日と明日とじゃ、気が変わってるかもしんないよ? 俺も人間だもん」
「悠仁はそんないい加減なこと、告白の返事にしないよ」
「買い被りすぎじゃない?」
「僕が好きになった子だもん」
しっかりと目を合わせて、五条ははにかんだ。
顔の良さは自覚している、武器は使ってこその武器だ。虎杖に効果は抜群だったようで、赤みが引いていた頬をまた林檎の色にした。
「き、期待はしないでよ」
そっけなくそっぽ向いた横顔、短髪で隠しのようない耳朶さえも、噛み付きたいほど色が良かった。
噛み殺せない笑いのまま、五条は頷く。明日が楽しみだったことなんて、成人してから早々なかったのに。今すぐカレンダーを捲って明日にジャンプ出来たらいいのに。
気を抜くとスキップしてしまいそうな足取りで、処刑部屋だった場所を後にする。虎杖はこのまま高専の寮に帰るらしい。伏黒と釘崎達に、処刑の結果を教えに行くのだ。「オーシャンパシフィックピースしよ!」、と五条が提案するが「それしたら殺されるわ、せっかく処刑回避したのに」、と虎杖はげんなりと首を振った。
太平洋どころか、世界中にだって平和と笑顔をもたらせるのに、と五条こそむくれつつ、虎杖を見送った。
五条にはまだやることが残っていた。
*
夏の暑さから逃れるような、あの涼しくて薄暗い一室。液晶の明るさが齎す湿っぽさ、二人だけの狭い空間、あそここそが二人の始まりだったかもしれない。
現在三十歳である五条は、二十八歳のあの夏に戻りたいと言うつもりはないが、それでも地下室で虎杖と過ごした二ヶ月は、かけがえのない時間だった。
恋心を自覚して、死なせないために鍛えて、五条好みの映画を観させて、映画がそこまで好きだったわけじゃない虎杖を映画漬けにして、そこそこディープな話題も出来るほどに染めた。ぬいぐるみを抱えて真剣に、液晶に釘付けになっている横顔をこっそり眺めるのが好きだった。
半開きの口がおかしくて、ポテチを口に運んだら、そのまま食べてしまったこともあった。三枚ほど食べさせた後で、虎杖は「あれ?」、と首を捻ったのが、またおかしかった。
交流会の後、特に大きな事件も起こらず、時々過酷な任務をこなして、指が見つかったり、指を取り込んだ呪霊と戦ったり、そんなことを繰り返している内に、とうとう虎杖は二十本の指をその胃の腑に収めた。
二〇二〇年十二月五日、五条の誕生日。めでたいはずの誕生日に、宿儺の指、その二十本目が見付かった。
でも虎杖の処刑は回避した、宿儺は祓った。虎杖は上の老害共に手出しはさせない、そういう縛りも結んだ。昨日処刑部屋を後にした時に、上層部との話し合いを済ませている。話し合い、と言うより五条の一方的な要求を告げたのだが。
虎杖に、私の生徒に手を出すなら、この私を敵に回すことになると、努々忘れずに。そう五条が言い放った時の上層部の顔は見えていなかったが、きっと大爆笑ものの滑稽な顔をしていただろう。
これからの虎杖の人生には輝かしい未来が待っている、誰にも邪魔はさせない。
でも、その青春の邪魔を、五条自身がすることになるかもしれない、と考えると、少しだけ憂鬱になった。
本当に告げる気はなかったのだ、言うとしてもせめて卒業してから伝えるつもりだったのに。かっこつけたかったが上手くはいかない。口を滑らせてしまった。
しかし、昨日の虎杖の反応を見るに、感触は悪くないと思う。脈はあるはずだ。紅葉のようなほっぺたを思い出すと、自然と五条の顔がにやけた。
二人の思い出の場所。ざっくばらんな指定だったかもしれないが、虎杖が約束をすっぽかすことはないだろう、きっとここに辿り着いてくれる。
明かりのついていない地下室は落ち着かない。人間は闇を恐れる生き物だ。五条は六眼があるから、一条の光もない空間だろうと、閉じ込められようと、何処だろうと平気だが、何もせずに待っているのも、虎杖が来た時に気まずい感じがする。
机には映画のパッケージが粗雑に並んでいる。五条の趣味で、多種多様なジャンルの作品がある。
恋愛映画、もベタな気がして恥ずかしいし、虎杖も好きなアクションものにしよう。DVDを入れて再生を始めると、やがて大音響が煉瓦に吸い込まれた。
――おかしい。
真っ黒なエンドロールが終わり、DVDの再生はトップメニューに戻っていた。五条もお気に入りの名作だし、少しだけ見入ってしまったが、映画二本再生する時間があっても、虎杖は来なかった。待ち合わせに指定した正午はとっくに過ぎて、お昼ご飯の時間からおやつの時間になっていた。
虎杖は約束を反故にするような、不誠実な人間ではない。
けれど、この場所に来ないこと、それこそが、告白の答えだったなら。
そもそも、想い出の場所と言っても、虎杖にはそこまで思い入れのない場所の可能性だってある。実質軟禁されていたのだ、鬱憤すら溜めていたかもしれない。虎杖にそんな様子はなかった、と思うけれど。
悶々と考えていると、どんどん良くない方向に思考が突き進んでいく。待っていると言った手前「今何処に居るの? 早くここに来てよ」、と連絡するのも違う。
虎杖を信じて待つしかない。しかし時間が経てば経つ程に、泥水をかき混ぜたように、心は重く重く沈んでいった。
*
教師ってむちゃくちゃ辛い仕事なのではないか、と五条は教室の扉の前で立ち尽くしていた。
先生なのだから、始業の時間には教壇に立たなくてはいけない。時間にルーズな質が幸いしていると言うか、多少時間に遅れても、いつものことか、と訝しまれない。
本日は全学年による合同授業だから、一年担任である五条も、三年生である虎杖と顔合わせしないといけない。
憂鬱だ。
結局、虎杖は地下室に来なかった。一日中待ち続けたが、姿を現すことはなかった。
要するに、それが答えなのだろう。返答すらないこと、二人の想い出の待ち合わせ場所として指定した、五条にとって想い入れの深い地下室に来なかったこと。
振られたのだから、きっぱりと諦めてしまえばいい。そう割り切れたなら、どれだけいいか。五条は人の心がないだとかよく言われるけれど、振られて傷付かない人間など居るものか。本当に好いていたのだから尚更。
はああ、と首を横四十五度に傾けて、教室行きたくねえ、と不登校児のように拗ねてみた。しかし大人の五条を許してくれる者も居ないし、自分の機嫌は自分で取るしかないのが大人である。
「……おっはー! グレートティーチャーにしてグッドルッキングガイの五条先生が来たよー! おまたー! はいみんな盛り上げてアゲアゲでー! どしたのもっとフロア沸かせてー!」
勢い良く教室の扉を開き、くるくるとスケート選手のごとく三回転しつつ、教壇に立つと、五条はダブルピースを顔の横で作った。
歓談していた生徒達は、突然ハイテンションでやってきた遅刻教師を冷ややかな視線で出迎える。
「遅刻だバカ目隠し」
「おかか」
「悟、社会人としてどうかと思うぞ俺は」
「……」
「伏黒、気持ちはわかるけど何か言ってやりなさいよ、アンタこの中で一番付き合い長いんでしょ」
「あはは、先生おはよー」
四年生である真希、狗巻、パンダ、そして三年生の伏黒、釘崎、そして虎杖。十分遅れで教室に入ってきた教師に各々言葉や沈黙を投げかける。
一年と二年は任務があるので、次の時間に合流するのだ。
興味なさげに五条から視線を外した真希は、くるりとポニーテールを靡かせ、釘崎と談笑を再開した。
男子達は男子達だけで、和気あいあいとくっちゃべっている。中心にいたのは虎杖だ。死刑も撤廃され、理不尽に処刑されることもなく、友達の輪の中で笑っている。
「どったの先生、俺の顔なんか付いてる?」
虎杖はころりとした瞳で五条を見上げた。
振った人間に対する後ろめたさのような類のものは、一切見えない。
「朝食の菓子パンが付いてるわよ」
「えっ、うっそ! ……って、何もないじゃん! なんだよもー釘崎、騙したなー!」
「虎杖オマエ、寮の朝食の上に菓子パンまで食べたのか」
「足りなかったから! つか釘崎なんでわかったの? 菓子パン食ったって」
「アンタいっつも朝食の後に早弁してんじゃん」
「だってすぐ腹減るし、寮母さんには大盛りにしてもらってるんだけどな―」
「朝からそんな食べられるのがないわよ、これだからゴリラは」
いつも通りの顔をして笑っている。死刑になるはずだった少年が、何事もなく、教室で、友達と戯れている。
眩しいほどに焦がれていた光景なのに、五条はその光に灼かれそうに胸がちり付いている。
一世一代の、この五条悟の告白を、ちっとも気にしていないのか。
「悠仁、あのさ、昨日の……」
どうして告白の返事すらくれないのか。そう問おうとして、そんなことしてなんになる、と首を振った。訊いてどうする。振られたってのに、更に追い打ちを食らってしまう。致命傷になりかねない。
「いや、なんでもない」
「?」
虎杖は、きょとんとしている。猫の子のようなくりっとした瞳を向けてきた。
愛しいはずの相好なのに、今は叩き折ってしまいたいほどに心は火の粉を噴いていた。
*
簡易な包装を左右に引っ張り、袋から取り出した飴玉を、赤い舌に乗せる。虎杖の真紅の舌の上に、青色のキャンディーがころりと転がった。
休み時間、虎杖は友達にお菓子を配っていた。制服のポケットから、童謡のようにぽろりぽろりと飴玉やチョコレートが転がっていく。
「しゃけしゃけ」
「しかし悠仁の持ってる菓子って節操ないよな、大量に袋買いしてんのか?」
「バラエティパックじゃないのか」
「いやいや真希さん、コイツパチンコの景品のお菓子ばっか食べてるんですよ」
「オリジナルの菓子とかもあるから、虎杖に同じもん食いたい時に訊いても『余り玉の景品だからどれかわかんねー』って」
「高菜」
高専所属の未成年のくせに、堂々と風俗営業店の話をしている。僕ここに居るんだけど、と五条は黒板に背中を預けていた。
「全く、コンプラ抵触だよ、少年誌だったらアウトだ。つーことで僕にもお菓子ちょうだい」
「貢ぎ物ですぅ、ワイロあげるから見逃してお代官様ぁ」
「お主も悪よのぉ」
「いやいや、お代官様ほどじゃないっすよぉ」
にひひ、と悪い越後屋のようににやけながら、虎杖は緑色の飴玉を手渡してくる。抹茶の飴だ。
倫理観がないわけでもないのに、小六から代打ちをしていたり、その辺りの観念はゆるゆるな虎杖だ。他人に暴力を振るったり、傷付けたりすることの方が躊躇いなく悪いと言い切る。自分の責任で負えることなら、社会的に良くないことでも悪気なく行う。善人であると間違いなく断言できるけれど、俗っぽくて高尚すぎないところが好ましい。自分にも他人にも高潔を求めすぎると、現実との摩擦で擦り切れてしまう。
飴玉はポケットに仕舞って、目隠しのまま虎杖に笑いかけた。
告白に応えてくれなかったくせに、悔しいくらいいつも通りに振る舞う虎杖だ。振ったからこそ、元通りの関係でいようとしているのか。
「五条先生って、和スイーツ好きだったよね」
飴玉みたいな瞳を細めて、虎杖はきれいに生え揃った歯を覗かせた。
和スイーツ。もしかして抹茶味の飴玉を渡したのも、適当なチョイスではなく、五条が喜びそうなものを選んでくれたのか。正確に言うなら、和菓子が特別好きという訳ではなく、すぐに食べられるからという、忙殺仕事人だからよく口にしているだけなのだけれど。余り玉の景品で、統一性のない銘柄のお菓子ばかり持っているくせに。
ずるい。
その気もないのに、振ったくせに、気を持たせるようなことをするなんて、この人たらしめ、無自覚にやばいフェロモンを振りまくんじゃない。
一人になった時に噛み締めて、初恋が砕け散るように、飴玉を噛み砕いてやろうと思っていたのに。捨てることさえ出来ないじゃないか。
ポケットに突っ込んだ手を、きつく握りしめる。初恋は行き場もなく、ループするように環状線を走り続けていた。
*
「飴? 何の話? 昨日、俺先生になんかあげたっけ?」
銘菓を抱えたままの腕が宙吊りで止まる。なんて無慈悲な言葉なのだろう。五条にとっての特別は、虎杖にとって何でもないことだったのか。
早朝から任務に行き、夕方に高専に帰って来た。五条の手にはお土産のお菓子がある。いつも出張帰りにはお土産を買うが、基本人にあげるものではなく、五条が一人で食べるものだ。
昨日貰った抹茶味の飴玉のお返し、と言うには倍返しどころではない金額の差がある。そもそも飴玉は景品のお菓子だ。対してお土産は、いつも五条が買う抹茶味やずんだスイーツではなく、洋物のお菓子。
伊地知に買いに行かせたら、僕好みの和菓子じゃなく洋菓子を買って来られた、だから君にあげる。口の中で復唱する。用意した台詞を五回繰り返して、深呼吸して寮の虎杖の部屋の前に立つ。伊地知はそういうしょうもないミスをすることはめったに無いし、五条の好みを知り尽くしている、と言うかご機嫌を取るために覚えないといけなかったのだけれど。
実際は買いに行かせたものじゃなく、五条自ら選んだお菓子だ。
薔薇の花弁を模った、見た目も美しいアップルパイだ。五条も以前食べたことがあり、味はお墨付きだ。ドライアイスを入れて貰っていて、高専に辿り着くまでの時間で、程よく解凍されている。
高級すぎるものは、虎杖は受け取ってくれないし、程よく俗っぽいものが好まれるようだから、高校生でも手が届く範囲の値段のものだ。五条本人が選んだことに意味がある。虎杖当人に伝わらなくても。
「悠仁ー、居るー?」
ノックもなしに無遠慮に、扉を開けた。五条の六眼には虎杖の呪力が視えていたから、在室していることは知っていたのだけれど。
中に入ると、まず水道などの水回りがあるキッチンスペースがある。ベッドが備え付けられている生活スペースはその奥に、扉を隔ててある。ぱたぱたと足音がして、リビングの扉が開いた。パーカーでラフな格好をした虎杖が出迎える。
「五条先生? どしたん? 出張じゃなかったっけ?」
「今帰ったとこ」
「そうなの? おつかれさま!」
今日一日の疲れが吹き飛ぶほどの破顔だった。茈が上空に向けて撃ち放たれ、雲を散らして空を晴れ渡らせる心象風景が広がった。やっぱり、振られても好きだった。
そもそも、はっきりと虎杖から気持ちを聞いていない。
嫌いとも付き合えないとも、虎杖の口から答えは貰っていないのだ、だったら諦めなくても良いのではないか。大人としてもっと格好つけて、外堀を埋めていき、断れないほど惚れさせてしまえば良いのだ。せめて嫌いと拒まれるまでは。そうでないと、この恋は終わらせられない。
はっきりしない結末なんて嫌いだ。恋愛映画だったとして、振られたかもわからず勝手に諦めて終わってスタッフロールだなんて、監督に直接文句を言ってやりたい。
今は、もう一度告白する勇気は持てなかった。一縷の望みを持てないほどに手酷く拒まれれば、この恋を諦めるしかなくなってしまう。地下室で待ちぼうけしたような、がらんどうに照明のない部屋で過ごす時間は嫌だ。我ながら未練たらしいけれど、と五条はお土産を虎杖に向かって見せびらかした。
「あっ、それお土産?」
「う、うん、そう、昨日の飴玉のお返し」
あ、間違えた。
用意していた台詞は口から出ず、正直なことを言ってしまう。飴のお返しに高級洋菓子ってなんだ。虎杖は貰えるものは貰うという物怖じしないところがあるが、さすがに落差が過ぎて引かれてしまうのではないか。
首の後ろでだらだら冷や汗をかいていると、虎杖はいやにゆっくりと、スローモーションで口を開いた。
「飴?」
休んでいた間の授業の話を聞いたように、きょとんと小首を傾げる。
「何の話? 昨日、俺先生になんかあげたっけ?」
なにかがひび割れるような音がした。
五条だって他人との付き合いに遠慮はしないタイプで、生徒を名前で呼ぶのだって、大した意味はない。
雑踏の中で、唐突に「あの時はありがとうございまいした」、なんて声を掛けられたことがあった。おそらく呪霊を祓った時に助けた人間だろうが、正直一人ひとりの顔なんて覚えていない。結果として命を救っただけで、その人だったから助けたなんてこともなく、大して頓着していない。ただの行動としての帰結だ。
人間は、自分がした施しばかり覚えている、そういう生き物だ。しかし、きっと昨日、虎杖がお菓子をあげたこと、五条の好みを覚えていて、選んでその味をくれたことは。なんでもない行為だったのだろう。誰かにとっては恩人で、誰かにとっては顔も名前も聞いたけど覚えていない誰か。大した意味のない善意、たまたま殺さなかっただけの擦れ違いの行き違いの善意無過失。
「……、僕、これ、いらないから、悠仁がもらって」
無理矢理虎杖の手に洋菓子を押し付けて、視線を合わせず、部屋を後にした。五条先生。呼び声が後ろ髪を引いたが、振り向かず逃げ去る。
ばからしい。飴玉なんかではしゃいで、もしかしたら脈があるんじゃないかと浮かれて。
恥ずかしい。特別に思ってくれてるんじゃないかと先走って、虎杖のことを考えながら洋菓子を選んでいた自分が。
それでも思い出す、気持ちを伝えた時、宿儺を祓った直後に話をした時に、虎杖が顔を赤らめて俯いたこと。けして迷惑そうじゃなく、むしろ嬉しそうにはにかんで、将来のことはまだ考えられないと、顔を上げてしっかりと視線を絡めた、あの相好を。
伝えたいと心から思った。未来ある若者に、絶対に何者からも壊させたくない、青春を送るべき少年に、澱んだ恋心を。
虎杖の実際の気持ちなど関係なく、五条の気持ちをぶつけてしまいたかった。かっこつけられなくても、とっくに無様に恋に縋る男になってしまっているのだから。
*
捨ててしまえればよかった、飴玉を放り投げるように、恋心も一緒にゴミ箱に捨ててしまえればよかったのに。
簡素な包装で、商品名も銘柄もない、パチンコの景品であるお菓子。同じものを探すことも難しい、虎杖本人にも恐らく同じ飴玉を出すことは出来ないだろう。ギャンブルに傾倒しているわけではないし、特定のパチンコ店に思い入れがあるわけでもない。時間潰しに立ち寄るくらいの遊び方をしている。青少年として健全かは置いておいて。
呼び出しがあれば、パチンコに勝っていたとしても、換金所に寄らずお菓子などの景品と交換して、まっすぐに速攻で来る虎杖だ。ギャンブル好きならこうは行かない。
「だから、好きなところをついつい探すんじゃない……」
もうちょっと、恨み節でも綴ってやろうと思ったのに、気が付けば好ましいところを見つけている。五条自身にも度し難い。抹茶味の飴玉を握り締めて、捨てることも口にすることも出来ず、手のひらであたためている。
「……、仕事しよ」
ワーカーホリックでショートスリーパーの、重度な仕事人間である五条だ、いっそのこと仕事と結婚してしまおう。そうだ、目の前のことに打ち込もう。そして初恋も忘れてしまえたらいい。
結局、飴玉は自室の引き出しの奥に仕舞い込んでおくことにした。五条の恋心の具現であるように、一歩も進むことが出来ず、せめて勝手に飛び出してしまわないように、鍵を掛けて厳重に封印しておくしかなかった。
*
一週間、五条は呪術師としての仕事に没頭した。教職は無視し、高専には寝に帰るだけで、極力虎杖と顔を合わせないように避けた。出来るだけ遠方の出張を入れ、仕事漬けの日々を過ごした。
そんな日も長くは続かず、夜蛾に言われ、授業を入れることになり、渋々高専の教室に行くことになった。
虎杖とは顔を合わせ辛いが、ポーカーフェイスで乗り切るしかない。目隠しだけど。
廊下を歩いていると、日が差し込んでいる。十二月の太陽が低い日差しは、冷たいけれど突き放すような空気はなく、長い廊下をじんわりと照らしている。
「おう悟、結構久しぶりか? 意外に休まないよな、たまにはゆっくりしたほうがいいんじゃないか?」
「しゃけ」
「このバカにんな気遣いいらねぇだろ、バカ目隠しなんだから」
遠目でも目立つ巨体のパンダ、口元を隠した狗巻、そしてばっさりとした短髪の少女。目付きの鋭さを際立出せるように、かつての長髪からがらりと印象が変わっている真希。
前回会った時は、合同授業で、虎杖から飴玉を貰った日だったと記憶している。その時はポニーテールをなびかせていた。
「どしたの真希、失恋?」
「髪切ったら失恋って、おっさんの思考だよな」
「昆布」
半目で睨んでくる真希、呆れている狗巻。
真希の様子からは後ろめたいものが見えないし、精神的なものが影響しているとか、たとえば大怪我を負うなどして髪を失っただとか、そういったものは感じられなかったので、五条は風船のようにふわふわ軽く調子づいた。
パンダが経緯を説明する。昨日の任務で呪霊に髪を掴まれて、逃れるために真希自らばっさり髪を切ったのだ。
「鬱陶しかったしな、ついでだから短くした」
「そうしてるとほんとに姉妹だって感じするよなぁ」
「明太子」
「……やっぱ伸ばそ」
妹の顔を思い浮かべているのか、ぶっきらぼうに前髪をいじる真希だが、本気で嫌がっている風には見えない。つくづく複雑だな、あの家がそうさせてるんだけど、と五条は内心舌を出す。
「真希さーん! おはようございまーす! やっぱショートも決まってますね!」
真希に懐いている釘崎が、仔犬のように真希に駆け寄った。
「でもクソ呪霊、私が百回釘打ち込んでやりたかったですよ」
「はいはい、気持ちだけ受け取っとくよ」
経緯を知っているらしい釘崎は、怨念に唸りながら呪霊を呪っている。真希はと言えば、誰にでも吠える愛犬を見るような目つきだった。
そんな若人たちを眺めている内に、今まで避けていた気配が近付いて来た。
――大丈夫だ。なんでもないふうに振る舞え、五条らしく、軽薄に俗っぽく、周りを振り回すような傍若無人さで。
くるりと一回転して、虎杖と目隠し越しでも目を合わせないように振り向いた。
「やあ、おはよう若人」
「おはよー五条先生! あれっ、……真希先輩 いつの間にイメチェンしたんすか?」
虎杖が誰にでもしっぽを振る犬のように、ぴょこぴょこ駆け寄ってきたかと思うと、真希を見て瞳をまん丸くしていた。
だいぶ印象が変わった真希の姿に驚いているのだろうか。
「んだよ悠仁、昨日も見たろ、なんだよそのリアクション」
真希はむくれたように唇を突き出している。
そのやり取りに、違和感を覚えた。
「虎杖オマエが、ボール取りに行って何しようとしてたか忘れるような犬みたいな頭だとしても、それはないだろう」
のろのろ歩いてやって来た伏黒は、低血圧のような顔色で虎杖の肩を小突いた。
「そうよ! だいたいアンタ、最近なんかヘンよ、物覚えが悪いっていうか、犬頭だろうが鳥頭だろうが、真希さんに失礼働いたら私が許さないわよ!」
「おい、別にいいからやめろ」
渦中の真希が順番に頭を叩いていった。釘崎、伏黒、虎杖が呻き声をあげる。
「だ……って真希さん、コイツが最近おかしいのはホントなんですから、この際はっきり言っとかないと!」
排水溝を棒で掻き回すように、薄々感じていた不信感が中心に集まっていく。
「虎杖、アンタ昨日言ったじゃない、はっきりと! 真希さんのショートヘア見て、びっくりはしてたけど、確かに『似合ってますよ』って」
「昨日?」
釘崎の糾弾に、虎杖が額から汗を垂らして、一直線に顔を伝っていった。
「昨日……なんかあったっけ?」
*
【続】