一瞬だって譲ってたまるか「髪、伸びたね」
長いこと彼女の変化に気が付かなかったのは、彼女はこの春からいつもその髪を後ろで束ねるようになったから。それに、彼女と顔を合わせる機会が減っているから。制服を着て髪を下ろした姿のあんずを目にしたのはずいぶんと久しぶりな気がした。ようやくお揃いとなった緑色のネクタイ姿は進級して半年以上経ってもまだ見慣れることができない。
「うん」
「切りに行けないの? 忙しそうだもんね」
最近ちっともあんずに会えない。わざとらしく頬を膨らませればあんずは子供を宥めるようによしよしと頭を撫でてくれる。別に拗ねてはいないけれど、俺がこうすればあんずはこうしてくれるっていう約束みたいなやりとりを去年の一年間でたくさん交わしてきた。これもそのうちの一つっていうだけ。
それに単純に彼女の忙しさも心配だった。去年はいつも忙しそうにしながらも、その髪は肩を覆うくらいの長さから変わることはなかった。首元から指を差し込んでその髪を梳く。肩甲骨まで届くその髪は思っていたよりもしっとりとツヤがあって、嗅いだことのない人工的な花のような香りがした。指先が首筋に触れてしまったことであんずはくすぐったそうに身をよじったけれど、怒られはしないのでそのまま撫で続けることにした。もっと近くで香りを確認したら、さすがに怒られるだろうか。
「ううん、伸ばしてるの」
「伸ばしてるの?」
同じ言葉を返しただけの問いに、あんずは照れくさそうに頷く。
「なんで?」
「え、似合わないかなぁ?」
「ううん。あんずならどんな長さでも可愛いと思うけど」
すると今度はあんずが頬をぷっくり膨らませて髪を撫でる俺の手をぺしりと叩いた。けれどこれは怒っているんじゃくて照れているだけだと知っている。
「あんまり長いとシャンプーとか乾かすの面倒って言ってなかった?」
「……言った」
けど、とあんずは続ける。恥ずかしのを誤魔化すように、伸ばしている途中の毛先を握り締めて。
「せっかく伸ばすならお手入れとかも頑張ってみようかなって」
「ああ、やっぱりシャンプー変えた?」
「うん、ちょっといいやつにした。あとお姉ちゃんオススメのヘアオイルもつけてる」
そう言って毛先を手の甲でかきあげたので、あんずも香りを確かめてほしかったのかとその首元に鼻を埋めた。息をめいっぱいに吸い込んだところで、顔を真っ赤にしたあんずにべしりと頭を叩かれたので渋々頭を引っ込める。鼻に残るのは深みのある薔薇と苦味の強い柑橘。ラッシ〜の好みだろうか、あんずのチョイスにしてはいささか大人っぽい気がする。愛用しているリップクリームはいつだって甘い蜂蜜の味なのに。
「なんかカッコイイ匂いだね〜」
「スバルくん、人の髪を突然嗅いじゃいけません」
「あんずにしては珍しい匂い」
「……やっぱり似合わないかな」
「そんなことないって」
そんなに気にするなら今のままでもいいのにと思った。どんなあんずも可愛いしあんずのいろんな姿を見られるのは嬉しいけど、そんなに無理に大人びるとこはないとも思う。ずっと隣で、ゆっくりと変わっていく彼女が見たかった。
「なんで伸ばしてるの?」
さっき聞いたときには話を逸らされたなと思い出した。あんずは気まずそうに顔を逸らして目線を床で右往左往させて、それから意を決したような顔つきで口を開いた。
「伸ばしてみたら、って言われたから……」
ふぅん。特に意味を持たない感嘆詞が口をついて出た。それもあんまり、あんずらしい理由ではなかったから。
「誰に? ……彼氏?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
「けど?」
答えを催促するように問いを重ねるとあんずは
困ったように眉を寄せて、それから照れくさそうに、悪戯を成功させた子供のような顔で微笑んだ。
「内緒」
「え〜」
あんずの腕をつついて強請るが、こういう場合は俺がどれだけごねたところで教えてはくれない。それもまた俺たちの“約束”だった。一年間で積み上げたあんずとの時間は消えない。けれどほんの少しだけ考えてしまう。近頃は俺の知らないあんずが増える一方だった。この春から俺たちは、新たな約束を交わしたことがあっただろうか。
「……べつに」
ぼそりと零れた言葉にあんずは「うん?」と続きを求めて俺の顔を覗き込む。きっと言うべきではなかった言葉の続きを、きらきらと瞬く瞳は待っている。
「あんずはそのままでもいいよ。いやえっと……、長いのが嫌っていうわけじゃないけどさ」
本音をどうにか取り繕ってオブラートに包んだ台詞にあんずは優しく目を細める。変わらないでほしいなんて、俺の知らないうちに俺の知らないあんずにならないでほしいなんて言ったところであんずは困ってしまうだろうから。
あんずは俺を宥めるように——なんて受け取り方は気にしすぎだろうか。安心させるように頭を撫でて、どこか遠くを見つめるように顔を前に向けた。
「髪を伸ばしたら、っていってくれた子もね、すごく髪が綺麗なの」
どこからか隙間風が吹いてあんずの髪を揺らした。風に乗ってまた漂う、俺の知らないあんずの匂い。
「私も、あんなふうになりたいんだ」
まるで誰かに心を奪われたように、けれど芯の通った意志を抱く瞳で、あんずは俺ではないどこかを見ていた。きっとあんずが言うなりたい姿とは綺麗なロングヘアってだけじゃない。胸の奥をやすりで擦られるようなざわざわとした不快感に襲われる。
俺はこれからも俺のなりたい姿に——アイドルになるために走り続ける。あんずだって立ち止まることなく、プロデューサーとして同じように走っている。それをずっと隣で見てきている。けれど。駆け抜けて、もう戻れないくらい遠くまで進んだ先で、俺たちとあんずは同じ場所に立っているのだろうか。いつか気がついた時にはあんずだけが程遠い場所にたどり着いているんじゃないだろうか。
「……なんか俺、体動かしたい気分。ちょっと早いけどレッスンルーム行かない?」
「まだみんな来てないよ?」
「いいよ。俺が踊りたくなっただけだから」
手を握って急かすように引っ張れば、あんずは慌てて荷物を片付けて俺に付き合ってくれる。これはまだ反故にされることのない約束。
「そんなに急がなくてもレッスンルームは逃げないよ」
「ううん、ちょっとずつ減ってるんだよ」
当たり前みたいな顔であんずが隣にいてくれる時間は刻々と減っている。もっと輝かなくちゃいけない。あんずが目が他のものなんてなんにも見えないくらい夢中になって、俺のいるところを目指すのが当たり前みたいになるくらい、誰よりもきらきらに。
「あんず」
名前を呼べばこちらを向いて笑ってくれる。当たり前の約束は、いつの日か当たり前ではなくなってしまうのかもしれない。
「俺のこと、ちゃんと見ててね」
「うん。ちゃんと見てるよ」
見てほしいと強請れば見てくれる。けれどあんずの視線をどれほど長く釘付けにできるかは俺次第。俺が歌って踊ったら他のことなんかどうでも良くなるくらい夢中になっちゃうのが、あんずの当たり前であってほしい。
指切りはしない。これは俺が、自分の力で約束にしてみせるから。