初心なタル 食欲、性欲、睡眠欲が凡人の根源的な欲求であるが、ファトゥス第十一位・「公子」タルタリヤは性欲が戦闘欲にすげ変わってしまったような男だという。鍾離と相対するとき、彼はあくまで協力を求める者として慇懃な態度を崩さなかったが、なるほど。大理石の床に開いた大きな穴を見るに、どうやらそれは本当のことのようだった。送仙儀式が執り行われるよう取り計らったり、魔人オセルを復活させたりと、岩神モラクスの心を手に入れるため彼は彼なりに奸計を巡らせていたようだが、本来、闘争こそがタルタリヤの本質なのだろう。
純粋な所感としてそう述べたところ、「ただの狂犬よ」と女はバッサリ切り捨てた。
「躾のなってない、ね。扱うのに苦労するんだから」
「ふむ、そうは見えなかったが。事実、汝は公子殿を隠れ蓑に危うげなく俺の心を手に入れた」
「あら? あんたがそれを言うの? アイツをいいように泳がせて、あんたの大事な国をあんたの思う方向へと導いた張本人が!」
やっぱり亀の甲より年の劫よねぇ。
誰もいない虚空に女の甲高い笑い声が響き渡った。
璃月港、未明。黄金屋にて。
神の座を降りたとはいえ、三千年以上見守ってきた愛しき国だ。自身に端を発した今回の騒動の被害をこの目で見ておこうと寝静まった街を回っていた鍾離であるが、まさかその道すがら淑女の名を冠するファトゥスに再び会うとは思わなかった。曰く、『依然スネージナヤの最大の貿易先たる璃月の損害状況を把握するのもファトゥスの仕事』ということらしいが、所詮は彼女も影の下を歩く人間。その言が嘘か誠かは測りかねた。と言うより、そもそも鍾離にはどちらでもよかったのだ。否、それは些か乱暴な物言いかもしれないが、いずれにせよ今の璃月の民ならファトゥスが如何に暗躍しようと必ずや打ち克つと信じているからこそ、こうして呑気に駄弁を弄しているわけである。
「ところで、汝はとっくにスネージナヤに帰ったと思っていたが?」
故に、これも鍾離からすれば純粋な疑問だった。相手には牽制の言葉に聞こえたようだが。
淑女は意地悪く目を細めると、「さっさと立ち去れって?」と口を開いた。
「心配しなくてもすぐに出て行くわよ、こんな国。潮風が酷くて、肌にも髪にも最悪なんだもの。ただ、次の任地が決まったから手筈を整えているだけよ」
「次の任地? スネージナヤに帰るのではなかったか?」
「そうしたいのは山々なんだけど……すべてはスネージナヤ女皇の御心のまま、よ」
「そうか。では、公子殿も共に行くのか?」
「あら? アイツのことが気になる?」
「そういうわけでは……」
指摘されて、答えに窮する。決して気に掛けていたわけではないが、裏を返せば、するりと言の葉に乗ってしまうほどにタルタリヤは鍾離の日常に溶け込んでいたのかもしれない。
「安心なさい。アイツはここに置いていくから」
「いや、置いていかれても困るのだが……」
「これも女皇の意志よ。経験不足甚だしいんだもの、ここでお勉強するくらいがちょうどいいでしょう? おあつらえ向きに、引退して暇を持て余していそうな老練の先生もいることですし?」
そう言うと、淑女は再び可笑しそうに笑った。
高圧的な言動を前に、鍾離は腕を組んで目を閉じる。別に気分を害したわけではない。古来より、女が元気な国は良い国とされている。スネージナヤがどうかは知らないが、璃月を見ればそれは一目瞭然だろう。天権にしろ玉衡にしろ、今回璃月を導いたのは彼女達の気概に他ならない。故に、鍾離はそういう女の溌剌さを好ましいと思いこそすれ、疎ましいと思うことはなかった。ただ、それはそれとして疲れることもあるのだ。そういうとき、鍾離は貝のように沈黙するようにしていた。
淑女はそんな鍾離に構わず話を続ける。
「けど、覚悟することね。戦闘に飢えた子供にとって、元・岩神モラクスなんて最高のおもちゃ以外の何物でもないもの。必死に伸ばされる手をふり払うのにも苦労するんじゃない?」
まぁ、あんたからすれば子犬をじゃらすようなものかもしれないけど。
そう付け加えられた淑女の言葉は、鍾離の耳に不穏に響いた。
...
結論から言うと、淑女の忠告は実に的を射たものであった。
「せーんせ! お仕事お疲れ様! 今から暇!? 暇だよね!? 俺と手合わせしてよ!」
胡堂主からの頼まれ事を終えた帰り道。特に会食の約束をした覚えがなくとも、ここ最近、往生堂前の橋の袂には必ずタルタリヤが待っていた。
ファトゥスとは斯くも暇なものなのかといっそ呆れるが、きっとそうではない。タルタリヤはタイミングを見計らってやって来ているのだ。そのために部下の一人を使って動向を探られているのかと思うと何やらぞっとしないものがあるが、目の前の公子の表情はあくまで無邪気そのものだった。
(なるほど、子犬とは言い得て妙だな)
先日の淑女の言葉を思い出す。
まだ幼さを残したあどけない容姿といい、健気に帰りを待つその姿勢といい、稲妻に伝わるという物語の犬を思わせる。そんな子犬を、確かに最初こそじゃらすような心持ちで往なしていたが、こうもしつこいといい加減煩わしさが勝るというもので。
そも、タルタリヤとはこんな男だっただろうか。以前は(少なくとも表面上は)もう少し礼を弁えていたように記憶しているが、最近の公子はまるで遠慮というものがなかった。結果としてお互いの手の内をすべて晒し合ったが故の気安さか、掌の上で転がしていたことに対する意趣返しのつもりか。とにかく、目に余るものがあった。
であれば、鍾離としてもそれ相応の策を講じる必要がある。
「公子殿」
「うん?」
「これから少しいいだろうか?」
「もちろん! うれしいなぁ、やっと先生もその気になってくれたんだね♪」
嬉々とした声を聞き流しながら、鍾離はもと来た道を戻り始めた。向かう先は戦いに適した拓けた荒野……ではなく、大衆食堂・万民堂だ。まだ早い時間ということもあり、店に客の姿はなかった。鍾離が屋外席に腰掛けると、タルタリヤは大袈裟に目を見開いた。
「あれぇ? ここは万民堂だよ、鍾離先生?」
「そうだな」
「手合わせは?」
「するとは言ってない」
「え~~~~」
公子は唇を尖らせるが、それでも大人しく鍾離の隣に収まる辺りはまだ可愛げがあると言えようか。看板娘の香菱は不在のようで、注文を取りに来た卯師匠にチ虎魚焼きを二つ頼むと鍾離は白湯を一口口に含んだ。その間、タルタリヤは頬杖を突いて不満げに鍾離の横顔を見つめていた。
「それで? 俺と夕餉を取ることが先生の目的だったわけ?」
「それもあるが、それだけではない」
「へぇ? じゃあ俺との手合わせも前向きに考えてくれるのかな?」
「ふむ……公子殿、俺は何度もその依頼は受けかねると伝えたつもりだが?」
「そうだね。だからこうして毎日熱心に口説いているんじゃないか」
全く悪びれる様子のないタルタリヤに、鍾離は溜息を禁じ得ない。しかしまぁ、それも良いだろう。そっちがその気なら、こちらにも考えがある。
鍾離は居住まいを正すとタルタリヤに向き合った。
「その件に関して、一つ、俺と契約をしないか?」
「契約?」
「そうだ。公子殿は俺と戦いたいと言うが、それでは俺の持ち出しばかりで俺には何の利得もない。些か不公平だと思わないか?」
「うーん、まぁ、確かにそうかもね。つまり、俺も何か先生のお気に召すものを差し出せば、先生は俺と戦ってくれるんだ?」
「そういうことになるな」
「いいね。その契約、乗った! それで? 俺は何を差し出せばいい?」
「そうだな。では、接吻を」
「へ?」
「接吻だ。あぁ、キス……と言った方が公子殿には馴染みがあるか?」
ゆるりと笑みを浮かべながらそう言うと、タルタリヤはぴたりと固まった。突拍子もない要求をしている自覚はある。光を映さない瞳からはいまいち感情が読み取れない。思考停止しているのか、はたまた考えを巡らせているのか。
「別に答えは急がない。心が決まったら」
また教えてくれ、と言葉を継ごうとした。そうそう簡単に結論も出ないだろうと思ったのだ。が、鍾離の予想に反して、タルタリヤはふっと薄く口元を緩めた。そのまま雪国特有の透き通った白肌が近づいてきたと思った、次の瞬間。ひたりとした湿り気を唇に感じた。
数秒ののち、それはゆっくりと離れていく。
虚を突かれて視線を上げれば、そこにはしたり顔のタルタリヤがいた。
「はは、驚いたな。一切の躊躇いもなし、か」
「そりゃあね、生娘でもあるまいし。こんなことで先生が俺と戦ってくれるなら、いくらでもしてあげるよ?」
依然として薄ら笑いを浮かべたままそう嘯くタルタリヤには、本当に躊躇いも恥じらいもまるでないようだった。本来この行為がどういう意味を孕むのか、その概念ごと抜け落ちているかのようである。
(まぁ、予想しなかったわけではないが)
可能性の一つとしては十分考慮していた。ただ、ここまで思い切りがいいとは思わなかっただけだ。
目の前では、これで念願の戦いにありつけるとタルタリヤが花を舞わせている。が、鍾離からすれば当然これで終わりなわけがなく。
「喜んでいるところ悪いのだが……公子殿、誰も一回きりで良いとは言っていないぞ」
「へ?」
「百回だ」
「ひゃく!?」
すかさず条件を提示すれば、タルタリヤは素っ頓狂な声を上げた。そんなタルタリヤに構わず、鍾離はさらに説明を続ける。
「そうだ。一度会うごとに一回のみ。累計で百回接吻すれば、契約達成。公子殿の望む通り、手合わせに応じよう」
「…………先生?」
「うん?」
「こういうの何て言うか知ってる? 後出しジャンケンって言うんだよ?」
「ふむ、そんなつもりはなかったのだが」
「元・契約の神が聞いて呆れる……」
「ではその元・神から、契約内容は最後まで仔細に確認すべきだと忠告しておこうか」
「はぁ〜〜〜〜……ホントいい性格してるよね、先生って」
言いながらタルタリヤは大仰に溜息を吐いた。確認するだけ無駄なことと分かりきっていたが、一応「どうする? やめるか?」と聞いてみる。
「それならそれで構わない。無意味に接吻させてしまったことは……まぁ、犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ。詫びとしてここの払いは俺が持とう」
「それだって往生堂にツケるだけでしょ? いいよ、受けて立つよ! 百回? 上等だね!」
契約成立だ、先生!
もはや何を言っても無駄と諦めたのか。タルタリヤはさっさと切り替えると高らかにそう言い放った。
一方の鍾離もまた、平素の涼やかな表情を浮かべながら、上手く事が運んだことに内心密かにほくそ笑んでいた。