夜来る獣 それは真夜中を少し過ぎたくらいの時間に、いつも来る。
「おつかれサマンサ〜」
ドアを開けると、絵に描いたような軽薄を纏い、しかし誰よりも美しい最強の男がそこに立っている。
「五条さん。何の用ですか」
私は密かに、真夜中のこの時間帯は、彼が最も美しく見える時刻だと思っている。都会の闇夜に彼の銀髪と青い瞳はとても良く映えるから。直接本人に言ったことはないけれど。
「わー七海、相変わらずひどい顔じゃんうける」
私の言葉を無視して、五条さんは勝手知ったる風で玄関に入り込む。
私が会社員になってからも、この人は頻繁に部屋を訪れてくる。特に高専の話はしない、呪術師に戻れとも言わない。ただ会って、会話をし、人間らしい暮らしから遠ざかりつつある私の様子を面白がっている。
「ね〜七海、さっきの男だれ」
そっけない私の様子に、暗闇に紛れたその青い目が、発火したように一瞬炯って、消えた。
昼間とは明らかに違う輝きを放ったそれを私は何度も見て知っている。嫉妬と、少しの劣情が入り交じった火花。
「見てたんですか、良い趣味ですね」
「だってこれ見よがしに家の前でいちゃいちゃしてたじゃん」
「してませんよ。ただの顧客です。私が勧めた株がだいぶ利益を出したので、お礼に食事をご馳走していただいて、家まで送ってもらっただけです」
「ただの仕事相手がそこまでしないでしょ。下心ありありじゃん」
私も、仕事を超えた意味ありげな視線に気付いていないわけではなかった。
若くて金回りのいい男というだけで、正直男女問わず多くの誘いがあって、適当に寝てもいいかな、とチラリと思う時もある。仕事が面倒なことになるとしても、何もかもどうでもいいと思ってしまうことだって私にもある。
でもそういう時に、いつも脳裏をよぎってしまうのが、目の前にいるこの男の顔なのだ。その事実に割とうんざりする。
「私はもうアナタのものじゃないんですよ」
「ふぅん、最強から逃げられると思ってるの?」
「逃げられるとは思ってませんが、諦めて欲しいなとは思ってます」
五条さんのことが嫌いなわけではない。むしろその逆だ。だから今でも彼に会うと安心して大きく息をつけるような、どこか甘えてしまいたくなる自分が嫌だった。
何のために呪術師を辞めてここにいるのか、よく分からなくなって混乱してしまう。まるで高専にいた時の弱くて無力な自分のままみたいな気分になる。
五条さんは、はぁ〜〜とすごく感じ悪く大きな溜息をついてソファにどっかりと座り込んだ。気に入った海外メーカの一番大きな三人掛けサイズを選んだのに、190cmの大男が座るとひどく窮屈そうだ。
「七海が他の男とつきあうなんて考えられない」
「女だったらいいんですか」
「そういう問題じゃない」
「何なんですか、面倒ですね」
そしてこの人が面倒じゃなかったことなんて一度もないな、と思って一人で可笑しくなった。
「だってさ、オマエ一見理性的でさも常識人みたいな顔して、すごい滅茶苦茶じゃん」
「滅茶苦茶?」
「そう」
そして、僕はそこが好きなんだけど、と五条さんは付け足した。
「心外ですね、仮にそうだとしても、滅茶苦茶の世界代表みたいな人に言われたくないです」
すると五条さんは、オマエのそういうとこも大好きだよ、と綺麗な顔で微笑んだ。
「だってさ破滅願望……とも違うな、オマエ、自分の死や恐怖に対する耐性みたいなのがありすぎるだろ。呪術師じゃなくなって全部関係ないみたいに生活してる今だって、例えば目の前で子供が呪霊に喰われそうになってたら、オマエ特級相手でも我が身を省みずに飛び込んじゃうでしょ」
ふと、そんな場面を想像する。
途端に、彼と共に死地に立っていた頃の記憶が蘇る。瞬時に全身の血が沸騰するような、戦いのスイッチが入る瞬間の刻み込まれた感覚が立ち上がる。目をつぶっていても、今でもまったくぶれずに正確に鉈が振れるにちがいない。
「……まあ、そうかもしれませんが」
「だからオマエは自分と同じくらいか、それ以上に強い人間と一緒じゃないとダメなんだよ。オマエをこの世に留めておける人間と一緒じゃないとダメなの」
「私より強い人間はあんまりいませんね」
「まあそうだろうね。目の前の一人以外」
五条さんは私の身体に腕を回し、頬を寄せて呟いた。
懐かしい匂いが鼻先を掠めて、本当はいますぐその胸に顔を埋めたくなる衝動を必死で抑える。
薄々解っていた。
彼は、私が死なないようにしている。
かつて高専から逃げたように、今度は人生から逃げないように、それがこんな頻繁に私の元を訪れてくる理由の一つなのだろう。
選んで教職に就くような人間なのだ。本当は面倒見が良く情に厚い男なのだとよく知っている。
そして、誰より嫉妬深い男であることも。
五条さんは私のシャツのボタンに骨張った長い指をかける。
「やめてください」
言葉とは裏腹に、私の声は期待を込めた色を含んでしまう。それを解って、五条さんは私の顔を覗きこんでうっすらと笑った。
「嫌だよ」
関係を断とうとして何年経っても、彼の青い瞳で射すくめられると私はいつも動けなくなってしまう。
「七海はぜんぶ僕のもの。忘れるなよ。オマエを生かせるのは僕だけなんだ」
私を暴き、その爪で、歯で、熱で、私の身体と魂をこの世に縛り付けようとする。
その獣はいつも夜に来て、生の限りを尽くして去って行く。