背筋を伸ばして⑦背筋を伸ばして⑦
『…ゾラーヤス、お前は私を、恨むだろうか…』
***
パッチさんに秘密を打ち明けてから暫く経った。
あの日、彼は「お前が楽なら、ここにいるときくらい蛇のままでいたっていいんだぞ」って言ってくれたけど、私は未だに人の姿をとっている。
私にとっては人の姿は少しだけ煩わしいけど、無いと落ち着かない。成長期になったら着けるファウンデーション(下着)みたいなものだと言ったら「あぁ、あるよな。そういうの」なんて言って、それ以降は何も言われなかった。
兎に角、私は少しだけ大人になり、少しだけ吹っ切れた。
パッチ商店の仕事にも大分慣れてきた。
あまり込み入った修羅場でなければ一人でも任されるようにもなった。
ただ一つ…ゲルミア火山方面の仕事だけは除いて。
パッチさんも何かを察してくれているのか、連れて行くことも私を派遣することもない。
いよいよ火山館が過去のものになろうとしていることに、私は期待と罪悪感を抱えながらこの少しだけ幸せな日々を過ごしている。
本当にそれでいいのだろうかと、思いながら。
「よぉラーヤ。お前も戻ってたか」
「おかえりなさい。昨夜戻りました。ん、その手に持ってるの何ですか?」
「ケネス・ハイトがくれた火酒。最近寒いとこで仕事してるって言ったら、先日の案件ん時の報酬と一緒に土産にくれてな。お前もまぁ身体だけは大人だし、興味あるなら飲んでみるか?」
「一言余計なんですよパッチさんは。でもお酒、いいですね。私の方もお土産あるんですよ。今回の仕事、私もリムグレイブ方面だったでしょう? だからついでに魚獲って来ました。初めて一人で海に入りましたよ!」
「おいおい、誰かに見られなかっただろうな」
遠泳、潜水…蛇は泳ぎが得意な生き物だというところに目をつけたパッチさんが私に提案し、会得したこの隠れた特技は、私とパッチさんの食生活を豊かにし、取引の幅を持たせてくれた。
火山館の蛇人達のようには戦えないけど、私なりにできることが増えたのはとても嬉しい。
もっとも、これは蛇の姿で行なう技なので、基本的にパッチさんとペアの時にしか今までやったことがない。だから柄にもなく、彼は心配しているのだ。
「大丈夫ですよ。……あの辺はカーレさん以外、もう殆ど人がいないし。今外で凍らせています。商人さんに塩を分けてもらったので、薄く切ってお酒のアテにでもしましょうか」
「わかってきたじゃねえか。早速今晩やろうぜ」
そう言ってお酒を冷やすためにパッチさんは小屋の裏に回った。「でっけ…嘘だろ、なんだこの魚。やべ」「食って大丈夫? これ」「やべ…タコもあんじゃん」 といった嬉しそう? な声を聞きながら、私は初めての晩酌の用意に浮足立った。
今日は初めてだらけだ。大人っていいな、なんてその時は思っていた。
「Cheers! 今日もお疲れー」
乾杯して一口飲んだ火酒の味は…味は、よくわからなかった。すごくカーッと熱いものが喉を通って咳込んでしまいパッチさんに笑われてしまった。でもなんだかすごく良い匂いだし、このふわふわした感じは好きかも。
ニコニコしながらお酒を舐めているとパッチさんが「蛇の神様って酒好きらしいぜ」なんて話をしてきた。
「そうなんですか?」
「『外』の世界の話だから詳しくは知らねえけどな。悪い蛇神が大好きな貢物の酒樽に頭から突っ込んで酔っぱらって寝たところを退治された、なんてマヌケな話を聞いたことある」
「まぁ…ふふふ。それだけ聞くとなんだかのんびりした話ですね。こちらの世界のデミゴッド達にも聞かせてあげたいくらい」
「違えねぇ」
パッチさんはそう言うと、私が作った海鮮料理をつまんだ。
「やべえなんだこれ。すげえ美味い」
「ですよね」
この魚料理の名前はわからない。凍らせてスライスした赤身の魚や蛸に塩を振っただけのシンプルなものだけど、口当たりが滑らかで実に美味しいのだ。
私も先程味見して感動したのでパッチさんの反応ににこにこしてしまう。
「あー…これ炙ってもイケるじゃねえか。こんな料理よく思いついたな」
「いえ、これ私のアイデアじゃなくて、英雄様のレシピなんですよ。あの方の生まれ故郷には、冬場に獲った魚を凍らせて少しずつ食べる習慣があったって仰ってたのを思い出しまして」
この話を聞いた時、魚を殆ど生で食べるなんて恐ろしいなんて思ったけど、凍らせているから保存もきくし寄生虫も死ぬんだそうで、生活の知恵に感心してよく覚えていたのだ。
「ふーん。アイツ確か葦の方の侍だよな。昔俺んとこの馴染みの客にアイツと同郷の褪せ人いたけど、こんな食い方聞いたこと無かったな」
「きっと英雄様のお産まれはもっと寒いところだったんでしょう。奉公先の文化の違いで食べる機会が無くなったとも仰ってたので」
「食文化の話は結構好きだぜ。今度俺も会ったら聞いてみるかな。……つっても、あいつ、今頃何してんのかね。火山館出た後に日陰城で再会した時は、火傷だらけで嫌な目をしていたが……」
急にとんでもない情報が飛び出して、口にしたお酒を噴きかけた。
「火傷!? そんな大怪我を…」
「そうそう、全身にな。焦げててすげえ深そうなケロイドが妙な形で胸とかがこう……何変な目で見てんだよ、いやほら、あいつ下着でウロウロする蛮族だっただろ。だから」
初めて会った時からさも当然のように下着姿で豪快な振る舞いを崩さなかった美人のお侍の顔を思い出した。
「相変わらず服着ないんですねあの方……」
「着てなかったな、相変わらず。まぁ見た目は禍々しいが、中身はいつも通りだったぜ。曇り川戻った時も……何も言わずにいつも通り普通に買い物に来てたし」
火傷は心配だけど元気そうならよかった。
でも『嫌な目』って何だろう。普通にしてるなら大丈夫なのかな。強い人だし。
「……英雄様って、少し奇矯な方ですけど、情の深い人ですよね。故郷の話をする時は少し寂しそうでした」
「過去を置いてきた連中ってのは、そういうもんかもな。特に『外』の記憶を持ってる褪せ人なんてのは」
「パッチさんもそうなんですか?」
「俺は別に。今の方がずっとマシすぎて忘れちまったよ」
「ふふ、そうですか。……生まれ育った場所と、人生を捧げた場所、……どちらに帰りたく思うものなんでしょうかね」
それきり会話が途切れて、静寂が訪れた。
焚いている火の、ぱちぱちと乾いた木が燃えて爆ぜる音が時々聴こえる。あとは何となく、お酒を飲む音とか、食事の音。
昔は気まずかったけれど、今はもうそんな風には思わなくなった。
それほど私は、この生活に馴染んでいるのだ。
「お前さ。ここで生活して結構経つじゃねえかよ。そろそろウチ帰ってみたりとかは……」
「それはダメですよ。私まだまだ修行不足ですから」
パッチさんのその気まずそうに繰り出した台詞は少しだけ場の空気を重くしたけど、私は懸命にこのささやかな宴を維持しようと努めた。
「火山館にいるお前のお袋、どうなってるか気にならんの?」
けれど、その『女主人』ではなく『お袋』と言う言葉には、流石に息を呑んだ。
「……それも、知っていたんですか?」
「いくら若い娘だからって、ただの使用人のスカウト巡業にわざわざ見守り役なんてつけさせないだろ。それにな…、お前がいつも身につけてるペンダント」
思わず顔が熱くなって、常に服の下にしまってある胸のカメオを布越しに触れた。
「まぁその、見覚えのある女だなと…。それで合点がいった」
見覚え? タニス様は人前で決して仮面をお取りにはならなかった筈。この人は何処でどれを…――。
――あぁ、それでわかってしまった
タニス様が私を通さず唐突にやってきた得体の知れない男を、易々と招き入れた理由を。
それは確かに、信用に足るだろう。
利用していいものかどうかは別として。
「火焔(ほむら)の華」
私の言葉に、パッチさんが肩を揺らした。
これは若かりし頃のタニス様が、異国で流した美しい渾名だ。
「タニス様に…恋してらっしゃったんですか」
「ばぁか。そんなんじゃねえよ」
パッチさんが分かりやすく照れ隠しに笑って火酒の残りを煽った。
それはいつものパッチさんのようでいて、目だけは少し優しくて寂しげだった。
この人でもそんな顔をすることがあるんだなと、少しだけ切ない気持ちになった。
「……でも、あの女のお高くとまった様をもうちょっと見れたらよかったとは、今でもほんの少し思っている。あの綺麗な横顔を見るのは嫌いじゃなかった。…っへへ、アイツ、火山館じゃ全然素顔出さなかったけどな」
自分の母親がその相手とはいえ、大人の男性の破れた恋の話は興味をそそられる。私はその火酒で少し灼けた掠れ声を、胸をときめかせながら聴いていた。
なのに。
「まぁ。結局はそれまでの女だったってことだ。魅せ方が上手いだけの不器用な女で、器じゃなかったのさ」
それまでの女。器じゃなかった。
いつものパッチさんらしい軽口だけれど、タニス様のことだからだろうか。そんなところに何だかかちんときてしまって少し台無しな気分になった。
「…タニス様は素晴らしく強いお方です。いずれまた再起するんです。そんなふうに言うのはいくらパッチさんでも許しませんからね」
私はできるだけ冗談めかして言ったつもりだった。けれどパッチさんも何か気に入らないのか、笑ってはいるけどこめかみに少し青筋を浮かせた。
「ほう、許さねえって? 随分お偉いじゃねえか。許してもらう必要は無えけど何怒ってんだよ。母親を万能の神かなんかだと思ってんだとしたら、まだまだガキの証拠だ」
ざわりと髪が逆立つような熱い感覚が身体を駆け上った。お酒がまわっているんだろうか。こんなことで怒りに支配されるなんて自分でも驚きだ。
「なんだ? この話題はお前の地雷だったか? 目がタテになってるぜ蛇娘。でも本当のことだろうが。お前は知る前に逃げ出しちまったから知らねえだけだ。火山館の真の目的も、あの女がそんな器でもねえのに器以上に見えるよう立ち振る舞った本当の理由も知る前にな」
真の目的? 本当の理由って?
言っている意味がわからない。
「あなたは……何を言っているの。あなたに何がわかるっていうの」
いけないとは思っていても、何故か感情が抑えられない。お酒の席ってとても楽しいって思ったけど、こんな風になるくらいなら、興味本位でお酒なんて飲むものではないとも思ってしまった。
「私があの方を一番長く近くで見て来ているんですよ。あの方は、いつだって凛としていて、誰よりも強くて美しくて…優しくて……今はちょっと、ちょっとだけ躓いてしまっただけで、きっとまた以前のようにっっ……!」
「…そうかよ。じゃあ…」
さっきは儚げで綺麗な表情をしていたパッチさんが、いつも以上に露悪的な怖い顔で顔を寄せて来た。
「俺が間違っていると思うなら証明してくれよ。あの女が人間らしく矛盾を抱えながらでも芯は気高く凛としたイイ女だってことを、なりふり構わず帰って確かめて俺に教えてくれよ。なぁ? あの女がどうなったかなんて、今となっちゃお前の言う『英雄様』しか知らねえんだよ。娘のお前を差し置いてな。……その英雄様が何も言わねえから何も聞かなかったが、いずれにせよお前ならきっと一層面白いものが見れるだろうよ」
憔悴し小さくなった母の背中が浮かび、思わず頬を思いっきり叩いてしまった。
こんな風にカッとなって暴力まで振るうなんて初めてだ。
「パッチさん、貴方って最低です」
身体が震える。悔しくて涙が出そう。最低。本当に最低。
「……気付くのが遅い」
パッチさんがそう言って、私に打たれた赤い頬に構いもせず、私にゆったりと笑いかけた。
笑ったまま、昏くて冷たい流し目で私を見た。
ああ、私。
初めてこの人を憎たらしいと思った。
「タニス…さま、は………火山館は……」
噛んだ唇から血の味がして、胸の中は渦のよう。
そのニヤケ面(私も口が悪くなった)を見ていられなくて、小屋を飛び出して走り出した。走って走って、崖の端まで来た。
地上から伸びて静かに佇む大きく綺麗な黄金樹が目に入って、堪らず泣いた。
「うわああぁん……!!」
『気付くのが遅い』
『気付くのが遅い』
『気付くのが遅い』
そう、私は、何もかも気付くのが遅かったんだ。
彼のことじゃない。私の人生について、全てにおいてだ。
私はタニス様の娘でありながら、あの人の迷いにも、悩みにも、弱さにも、こんな状況になって尚、何も気付いてあげられなかった。
気付かないように、見たいものだけ見ようとして、目を背けて逃げていた。
あの人を理解して支えてあげられるのは私しか居なかったのに。
少し考えたら理解できた筈なんだ。
あのスラリとした脚を血だらけにして、そうとは見えないよう立っていたことに。
「ごめんなさい……! ごめんなさいぃ……っっあああぁぁ、ぅあああああ!!」
膝が崩れ落ちる。身体中に沁みる冷たい雪にも構えない。
体の底が熱くて苦しい。私の中にもう一人の蛇がいてのたうち回っているかのよう。
どうしたらいいの?
どうしたら贖えるの?
どうしたら、私は、あの人に。
「でも、私が何をしても……私は……私は…ッッ」
タニス様。大好きなタニス様。
私は呪われていて、穢れていて、無知で、愚かだった。
必死に繕いながら保っていた綺麗なだけの虚勢の壁はいとも容易く崩れ、私は今ようやく受け入れた。
火山館の崩壊を。
偉大なる王の敗北を。
何をしたところで、最早誰も救われないことを。
***
あの日。
英雄様への置き手紙を書いた後、私は火山館に戻り、誰もいない館で一人打ちのめされたタニス様を見た。
初めて見る母のそんな姿がショックでなんと声をかけたらいいかわからず、私が声をかけそびれている内に、タニス様はよろめきながら立ち上がって姿を消した。
必死に感覚を研ぎ澄ませて追いかけた先は、洞窟の奥に広がる大きな空間。
沢山のシャンデリアに、沢山の死体の山。そして中央に、何かが悍ましく蠢いている崩れた大きな顔に、寄り添うあの姿……。
それだけで、ここが何処で、『それ』が何なのか察してしまった。
『敗北は終わりではない。我が王は不死、いつか、より強く蘇る』
愛おしげに『それ』を撫でて、力強くタニス様は言った。
『ライカードよ、どうか、私の内に宿ってください』
タニス様が自らの下腹を熱っぽく摩っていた。半壊したその顔に頬を寄せながら。
『私は貴方の蛇、そして貴方の家族になりたい。そして今度こそ、共に神を喰らいましょうぞ…』
鼻先、唇に舌を這わせて、そして。
『……愛しています、貴方』
口付けをするように、『それ』を貪り始めた。
夢の残骸を喰らう母の口からは、私の名前は最後まで出てこなかった。
脳が痺れてしまったのか、私はどこか無感情のまま、そのグロテスクな情交をぼんやりと眺めていた。
やがてそれにも飽きて、私は背を向けて自分の部屋に行き、荷造りをした。そうだ私は旅に出るんだった。旅に出なくちゃ。火山館のタニスの娘として、いつか、母の志を継ぐために。
例え道半ばで死んでしまっても後腐れがないよう、身軽に、荷物は少なめに。
胸には、大切だと信じていたカメオ。
鞄の中には、尽きたらそれでおしまいの沢山のパンと一瓶の葡萄酒、少しばかりのルーン、そしてアレが見えないように封じ込めたこの黒塗りの瓶を詰めて。
……詰め、て。
『おっかさんが心配してるど。おれも一緒についてっちゃるから、家に帰ぇんべよ』
私が自らの生まれを呪って打ちひしがれたとき、厳しくても決して嘘を言わない英雄様が言ったその優しい言葉を、私はアレを見るまで信じていた。
……本当は今でも信じていたい。でも、これだけ時が経っても自信がない。
あの方は偉大なる王への焦がれた恋心でいっぱいで、他はどうでも良かったんじゃないか、とか、火山館の再興こそが皆の幸いになるのだと信じているが故なんじゃないかとか、色々考えた。
良かれ悪しかれ、いずれにせよ…私はその他大勢、皆の中の一人なんだろう。
偉大なる王と、タニス様。互いしか要らなかったのであれば、私はそうまでして、何故生まれたのだろう。何のために。
そうだ。何故、偉大なる王は、母様は、あんなものに手を出してまで、私を何故。
何にもならない私を何故……。
……でも偉大なる王やタニス様が何を思っているのか、それは本当は重要じゃないのかもしれない。
私の人生だ。私の選択が重要なんだ。
私は自分では死ねないからと仕方なく生きることを選択し、母の輝くような一面だけを見て他は黒く塗りつぶして重要なことに目を背ける選択をした。
もしあの時、寂しい背中に声をかけていたら、何かが変わっただろうか。
何も言わずとも丸まってしまった背中を摩り、抱きしめたら、母と二人で静かに暮らす道もあっただろうか。
私はそうしなかった。だからここにいる。
どうすれば報われるのだろう。
それに気付いたところで、今更私の命をなんの為に使えばいいのだろう。
おかしな話だ。
私、あんなに自分の生まれに絶望していたのに、今ではこんなことで悩んで泣いている。
母様。
*
「何で連れ戻したんですか」
外に出て泣き喚いたことまでは覚えているがそこから先の記憶は無く、気付けば小屋で毛布に包まって眠っていた。
昼過ぎまで寝た上に、起き抜け一番に人に文句を言うのは生まれて初めてだ。
「そりゃあ崖っぷちに見知った蛇が泣き腫らして丸まって落っこちてたら回収するだろうが」
「放っておいてくれたって良かったのに」
私が(小声とはいえ)やけっぱちなことを言ったのが気に入らなかったのか、パッチさんが思いっきり舌打ちした。
「いい加減にしろ。いつまでも拗ねやがって。ガキじゃあるめえし、自分の機嫌くらい自分で取れ」
そう言う自分は時々の都合で私を子供扱いしたり大人扱いしたりしてるじゃないの。どこまでも勝手なんだから。
「……ご迷惑をおかけしたことは謝りますけど、パッチさんも謝ってください」
「は? 何のことで?」
「っっだから、あの、…!」
また頭に血が上ってしまい、咄嗟に言葉が出なかった。昨夜こういうのはお酒のせいにしたけど、感情に支配されると意外と喋れないものなんだな。
「……酷いことを言わないで……ください」
何とか深呼吸し、ようやくそれだけ言った。けれどパッチさんは満足せず、黙って二の句を待っている。言葉…言葉を出さなきゃ。
「大切なんです。タニス様は大好きな私の主人で、母なんです。悪戯に残酷なことを言うのはやめてください。すごく…傷付きますから」
苦しい。傷付いた自分の心を吐き出すのってこんなに苦しくて勇気がいる。エネルギーがいる。
それでもこの人は敢えてそれを私にやらせている。なんて残酷で厳しい人なんだろう。
「……わかった。メシ、食うだろ。支度しろ」
ようやく私の言い分に満足してくれたのか、私から目を逸らしていつもの日常に無理やり戻そうとした。
そして、
「俺も言い過ぎた」
そう後ろを向いたまま、聞こえない程度の声量で小さく言った珍しくしおらしい言葉を、私は一応謝罪として受け取った。
こう言う部分があるから、私はこの人を憎みきれないないんだろう。
それは少しだけ暖かいけれど、一層苦しい。
*
「そりゃあ……欲しかったからじゃねえの? 子供が」
行儀悪くパンに齧り付きながら、パッチさんはそう言った。
このぼやっとしたコメントは、私が温かいスープを啜っている内に昨夜眠りに落ちる寸前に浮かんだ強い疑問をなんとなく話す気になって言ってみた結果得た、彼なりのご意見です。
「欲しかっ、た…」
「いくらタフそうなタニスでも、ほら、あのナリのライカードとじゃな……おっと失礼。まぁとにかくその、普通にはできねえだろうしな」
本当のところはわからないが、私はそんな風には思い至らなかったので興味深い。
適当なのか的を射ているのか、それは別として。
「子供が欲しい…ってだけで、そこまでしてしまうものなのでしょうか」
「ガキ嫌いな万年独身貴族の俺が知るかよ。訊く相手を間違えてるぜ」
間違ってるのは百も承知ながら相談する相手を選べないのが辛いところで…って喉まで出かけたのをスープで流し込んだ。
「アイツらのことはアイツらしかわかんねえ。考えるだけ無駄ってやつだ。そんなことより、とっとと食って仕事に出ようぜ。片付かねえし」
これは適当な方のご意見だっただろうか。うーん…。
まぁでも…言われてみればその通りだ。人に訊いたところでどうしようもない。
そして本人達にも、最早訊きようもない。
もう考えるのはやめよう。
どうせ答えも出ないのに、辛くなるだけだ。
*
それから、またなんとなく日々が過ぎて行った。
なんだか色々あったが、ありすぎて慣れてきた。
絶望しても、お腹はすく。
喧嘩をしても、また笑い合う。
泣き腫らしても、立ち上がる。
ご飯を食べて、誰かと話して、空を見て、眠るように、私の内面は波乱なようでいて特別なことは無いのかもしれない。
すべて世は事もなし、だ。
「ゴーリーさん? …あぁ、あのケイリッドの」
「そ、みんなだいすきケイリッドに住んでる顔色の悪い賢者のおっさんだ。結構前にだだっ広いエオニアの沼のどっかにある針を探せとかいう無茶振りされてドブ攫いしただろ? 結局割に合わんくて降りたけどよ。アレに進展あったとかでな。再度依頼が来た」
何気ない日常の一角。いつもの仕事の話だ。
ケイリッドってことは、一人では危険だな。久々に二人で仕事になるかな。
「一度袖にした相手に、よく仕事を依頼する気になりましたね、彼。こう言ってしまってはなんですけど、私あの人ちょっと嫌な感じがするんですよね……。娘さん想いで優しい人だとは思うんですけど…なんとなく」
「ほぉ、流石元スカウトマンだな。イイ勘してると思うぜ。アイツの性根は多分ケイリッドの腐れとどっこいだ。ウチにまた依頼したのも、他の褪せ人に片っ端から断られたから仕方なしにって感じだからな。何かがあんだろ。……まぁ、正直断られる理由はアイツの人間性以前に、一番はあそこん家のデカイ番犬のせいだと思うがね」
「あっはは…アレ本当に番犬なんでしょうかね……。とりあえず準備して――」
そして何の前触れもなく、感じたことのない焦燥感に肌がぞわりと粟立った。
「あ……」
「どうした? ……!? なんだ、この揺れ」
少し遅れてやってきた地震に、パッチさんが気付いた。
殆ど変化の無い凍てついたこの山が揺れている。いいえ、山ではない。もっと大きな何か。今まで停滞していたモノが動き出しているような感覚。これは一体……。
パッチさんが血相を変えて外に様子を見に行ったが、直後信じられない言葉が飛び込んできた。
「黄金樹が、燃えている…? どういうことだ」
心臓が跳ね上がった。
私の…私『達』火山館の、形があるようでない、大きな仇敵。世界の樹。
それが炎にまかれている? あの不動の存在が。一体何故――。
まさか……英雄様が?
「ラーヤ…!」
その血相を変えた声で、我に返った。
気付けば地震は大きくなり、小屋のあちこちがミシミシと悲鳴を上げていた。
脚がすくみ、崩れそうな天井をただ眺めていた私を、パッチさんがいつかの時みたいに腕を伸ばして捕まえて、小屋の外へ引っ張り出して抱えるように覆いかぶさった。
この人の行動にもびっくりしたけど、私はこの時、別のものをずっと目で追っていた。
あの棚がひっくり返る様を。
あの日奥に隠したものが、ゆっくりと床に落ちていくのを。
続