真名を聞かせて「最近親分、元気なくないか?」
黒や茶や、白や斑、様々な毛色の猫又たちが、マタタビの木の枝を囓りながら、噂話をしていた。
ここは雲夢。蓮花湖とその周りの平地、そして低い山が連なっている。人も多く栄えてもいるが、緑豊かな場所だ。
その山あいの、人里から隔離された場所に、猫又などの、動物が変化したあやかしが多数集まっていた。彼らは長生きした猫たちが変化した者で、尾を二本持っている。まだまだ新米猫又の彼らは、一本は元々ある長い尻尾だが、もう一本は短い。
「でも時々山の上で叫んでたり、見晴らしのいい一番高い木の上に乗って、よく東を眺めているぞ。」
「東になんかあんのかな?」
「東なんか、姑蘇っていう場所しかないだろ?」
「あそこはおっかねぇ龍神がいて、俺達あやかしを毛嫌いしてるだろ?怖いよな~。」
「親分は警戒しているのかもな。龍神共にここが見つからないようにさ。」
「くうっ、しびれるなぁ。かっこいいよ。俺達の親分。」
「でも、龍神なんて見た事ないぞ。警戒する程か?」
「親分はさ、猫又の中でも飛び抜けて長生きして、尾が三つに分かれた『猫魈様』だからな。きっと俺達に見えないものまで見えるのさ。」
「違いない。親分は、人間より賢く、どんなあやかしよりも気品に溢れていて、神に最も近いもんな。」
「それに、親分はとっても美しい!眩しすぎて目がつぶれちまうぜ。」
「美しくて強い親分のおかげで、俺達、世間の鼻つまみ者も、安心して暮らせるんだ。ありがたいよ。」
猫又たちは、拝むように手を合わせた。
そこへ、猫魈様の側近を務める、立派に二本、同じ長さに生えそろった、修為の高い猫又が通りかかり、
「こら、お前ら。『親分』と呼んではいけないと、この前お達しがあっただろう。猫魈様の事は、『宗主』とお呼びしろ。宗主、江晩吟様だ。親分と呼んでいるのを宗主に聞かれたら、紫電で雷を落とされて、丸焼きになるぞ!」
と、小言を言った。猫又たちは、縮み上がって、
「へへえ。」
と、平伏した。
あやかしの宗主、猫魈様、またの名を江晩吟。百年に一匹の逸材、もっとも修練を積んだ猫又が為しえる頂点。それが「猫魈」である。三十年生きた猫が猫魈になれるとされているが、大体は猫又止まりだ。
猫魈は結界をはれるばかりか、仙術という不思議な力も使えて、その力は神にも匹敵するとさえいわれる。江晩吟が持つ仙術は、紫電といわれ、その手を天にかかげれば、雲一つない青天であっても、好きな時に紫色の雷を落とすことが出来る。
あやかしは、災いを招くと人間から忌み嫌われ、普段暗い森の中で隠れ住んでいるが、猫魈が張る結界の中では、同じ世界でありながら並行世界の空間を作り出し、あやかしだけが人の目に触れなくなる。つまり、自由に闊歩していても危険もないし、空間の隙間から食べ物をいただいたりも出来る。まさに、あやかしたちにとっては天国であった。
人の住む雲夢を統治している雲夢江氏の屋敷で、かつて飼われていた猫だった江晩吟は、自身の思い深い場所を真似て、住んでいる山を「蓮花塢」と名付けた。雲夢の町を一望出来る場所で、山を下りれば蓮花湖からの恵みの小川と、雲夢の市があり、食べ物や飲み水に事欠かない。
人間の蓮花塢に飼われていた頃は、「江澄」だとか「阿澄」と呼ばれていた。だが、今は誰も、その名前を呼ぶことはない。その名は、あやかしにとっての弱点、「真名(まな)」になり、秘密にせねばならない。魂の名であり、心を許した相手にしか知られてはならないのだ。だから自分で字(あざな)をつけ「江晩吟」と名乗っている。
それなのに、出会ったばかりの者に、真名を尋ねられたことがあった。
「あなたの『真名』は、なんですか?是非お聞かせ願えませんか?」
それから、江晩吟の心は乱されっぱなしだ。
江晩吟は、猫又たちの噂していた、山のてっぺんで、もんもんとしていた。
真名を尋ねられた日の事を、二ヶ月経った今でも、忘れることは出来ない。その時の事を考えると、腹が立って仕方ない。
ある日、雲夢の外れでうっかりイノシシ用の罠にかかってしまった。尻尾の一本が、棘のある罠に噛みつかれたように挟み込まれ、どれだけもがいても棘が食い込んでいくだけで外れず、困っていた。猫魈の尻尾は霊力の源である。切りたくはない。だが、先何寸かを切り落とせば助かる。
晩吟は、普段つけている、顔の上半分を覆う黒い猫の面を外し、意を決したその時、さらりと冷たい風が吹いて、赤や黄色の枯れ葉が踊る中、空から美しい男が舞い降りた。
その男は、光を集めたような白い衣に、太い尻尾の鱗を輝かせながら、その華奢な手指からは想像も出来ないような猛烈な力で、まるで薄紙でも裂くように、罠を破壊した。
額に白い抹額を巻き、袖と帯に雲紋の模様がある。
『この尾の鱗、怒れば地を割るほどの怪力を持つと言われ、目がつぶれるほど光り輝く白い衣を纏う者・・・これは噂に聞く、りゅ・・・龍神?!遙か西に住む、龍神姑蘇藍氏!』
晩吟は目を見開いた。
龍神は、清らかさをよしとする。あやかしや物の怪の類いを邪道と嫌い、猫魈の晩吟にとっては、天敵とも言える。龍神が清めの舞を踊ると、その一帯のあやかしは、力が失われると聞いた事もある。実にまずい時に、まずい者と出くわした。
ただ、心の中で「危険だ!逃げろ!」という警告を発しているのに、目は龍神に釘付けになった。
『美しい・・・美しすぎる・・・。これに消されるなら、かまわないと思うほど・・・。』
そう見とれていると、龍神は、晩吟の尻尾を、手から不思議な光を出して、治療し、晩吟の顔を見た。そして、うっとりと頬を赤らめ。
「あなたはなんと美しいのでしょう・・。近くで見ると、とても感動します。」
と感嘆のため息をついた。そして言った。
「あなたの真名はなんですか?是非お聞かせ願えませんか?」
晩吟はその時の事を思い出しては、神に救われ、あまつさえ見とれてしまうという、あやかしとして恥ずべき行為に身もだえた。
山で息が切れるまで飛び回り、宙に蹴りや、突きをくりだして散々暴れたあと、
「ああっ、龍神のくそ野郎ぉぉぉっ。」
と、叫んだ。
すると、後ろから、
「嬉しい。私を呼んでくれて。」
と、穏やかな声がした。
晩吟は、聞き覚えのある声にサッと青ざめて、ゆっくり振り返ると、木の影から、白い衣が見える。
「おや、今日は猫の面をつけているの?顔が見たいのだけれど。」
衣の裾でしとやかに口元を隠し、穏やかなに目を細めている。いつからいたのか、あの時の龍神である。
晩吟は、面の下で思いっきり眉間に皺をよせて、チッと舌打ちすると、無視して跳び上がった。枝から枝へ飛んで逃げる。すると、長い黒髪と、髪に左右対称に刺した簪から伸びる薄布をはためかせながら、恐ろしい速さで飛んでついてくる。
「つ、ついてくるな!」
晩吟は見ないようにして叫んだ。
「でも、あなたが呼びましたよね?龍神のくそ野郎って。」
「呼んでない!神がくそとか言うな!」
「ふふふっ。照れているのですか?私に聞かれたから?」
なんでもないように微笑みながら、必死で逃げる晩吟にぴったりついてくる。
このままでは埒があかない。猫又たちの多く住む場所にさしかかれば、宗主が、あやかしの敵である龍神と追いかけっこをしていたと噂になれば、猫魈としての沽券に関わる。
晩吟は、観念して、岩の多い谷に降りていく。岩の多い湿っぽいところは猫は好まない。誰にも見られないはずだ。
陽の光があまり届かないために、草も生えない。そんな地獄のような場所に龍神を誘導し、足を止めた。
龍神も、ふわりと岩に降り立ち、晩吟に近づいてきた。神の背から発せられる光明は、ほんのり辺りを照らす。
『暗ければ、あの顔を直視しないで住むと思ったが、瞑色の場所に連れてきても、自ら発する光背で、ますます美しいじゃないか。くそっ。』
晩吟は、ギリッと奥歯を噛みしめてから、
「待て。それ以上こちらに来るな。聞きたいことがある。」
と、手を開いてつきだし、制止した。
「私に聞きたいこと?おやおや。逢瀬も三度目にして、ようやく私に興味を持って下さったのですね?」
嬉しさが隠せないといった様子で、龍神の声は弾んだ。晩吟は、ふとすれば心を奪われそうになる自分にしっかりしろと厳しく叱責しながら、わざと冷たい声で、不愉快さを演じ、言った。
「俺は逢瀬のつもりはない!お前が勝手に来たんだろうが。」
「おやおや。素直ではないね。私に会いたくて、あなたの守る雲夢の東の外れまで来てくれたのではないの?私たちの出会いの場所に。」
図星である。晩吟は、モヤモヤするとあの山に行った。龍神と出会った場所であれば、この気持ちが晴れるかと、思った。それが「会いたい」という感情なのかは、自分では分からない。ただ、ものすごく気になる。晩吟は、気まずくて、口角を引きつらせながら、話題をそらす。
「今、俺は、『お前』と呼んだんだぞ。少しは怒れ!神なのに。」
しかし、龍神も負けてはいない。
「『お前』だなんて、親しい者を呼ぶような言い方で、とても嬉しいですけど。」
「は?」
「とうとう私も認めてもらえたのだなぁと、心が躍りました。そろそろ真名を教えていただけるかなと期待してしまいます。」
そう言って、花もほころぶような笑顔を浮かべて、小首をかしげる。その顔に、晩吟は一瞬かわいいと思ってしまい、ますます険しい顔になる。
この心の強さ、押しの強さは何なんだろうと、晩吟はくらくらして、三本の尻尾もすっかり戦意をなくし、岩肌に横たわってしまう程だ。
「龍神がこれほど恥知らずとは恐れ入る。あやかしにとって、真名がどれほど大事なものかすら、知らぬと見える。龍神にとっても真名は大切なはずだ。簡単に人には教えまい。だいたい、お互い、字(あざな)すら知らぬのに。」
晩吟が一気に言い捨てると、龍神は、
「ああ、なるほど。そうですね。私としたことが、性急すぎました。」
「ようやく分かったか。」
「では・・・。」
龍神は、腕を外側から回して、身体の中心で組み、美しい拱手をする。たっぷりとした袖がひらりと揺れると、まるで光の粒を織り込んだように輝く。
「私は、龍神姑蘇藍氏の宗主をしております。藍曦臣と申します。」
龍神藍曦臣は、そう名乗ると、続けて、
「真名は、藍・・・。」
といともたやすく口にしようとする。それに気づいた晩吟は、まずいと思い、
「わーわーわー!!やめろ!言うな!」
と叫んだ。岩肌に音が、ぐわんぐわんと反響して、木霊のように何十にも聞こえた。その音がおさまるのを曦臣は待ち、
「では、改めて・・・私の名は・・・。」
「やめろ!このバカ龍神!」
晩吟は、目を閉じ、耳を塞いで、その場から逃げ出す。ぴょんと強靱な後ろ足で後ろ飛びに飛び退き、そのまま、谷の岩場を足がかりにして、上がっていった。
「待って。」
曦臣は、その太い尻尾をしならせると、びゅんと真っ直ぐに飛んで、晩吟の後を追い、あっという間に横に並ぶ。
「くっ!」
なんということはないと言うように追いついて、ぴったり横に張り付くように、身体を近づけてくる曦臣にカッとなり、さらに跳び上がろうと不安定な岩を蹴ってしまい、晩吟の体重と力がかかって、落ちてしまった。足場を失なった晩吟は、岩と一緒に落ちていく。反射的に、藁をも掴むように手を伸ばす。すると、曦臣がすぐさま降りてきて、宙を舞う晩吟の手を取り、もう片方の腕で、するりと晩吟の腰を支えた。
「ふふっ、捕まえた。」
曦臣は舞い落ちる枯れ葉でもとらえたように、ふわりと優しく抱きとめる。
「!」
龍神は自身の霊力のみで、鳥のように自由に空を飛べる。その上龍神は怪力である。晩吟を支えながらでも、なんら問題ないようだ。
「面を取りますよ?あなたの顔が見たい。」
曦臣は、晩吟の後頭部の結び目をほどいて、猫の面を取った。鼻の下までを覆う面を外されると、一気に新鮮な空気が流れ込んできて、晩吟の顔を撫でた。
『くそ・・・いい匂いがする・・・。』
晩吟は、間近に曦臣の顔を見て、あの時のことを思い出した。
罠から救ってくれた時もこれくらい間近でこの龍神を見た。ただ素直に「美しい」と思った。おまけに清廉な香りをまとっており、近づくだけで、龍神に包まれているように感じた。そして、今はまさに抱きしめられ、あの時よりもさらに濃く感じ、とくんとくんと、心の臓が弾む。
晩吟は、この世で美醜などどうでもいいと思っていた。
かつて美しい猫だと重宝がられ、かわいがられたが、尻尾が二本になった途端、呪われた生き物だと気味悪がられた。それに衝撃を受けて、人の蓮花塢を出た。
「美しい猫」が「尻尾が二本ある醜い猫」に墜ちたのだ。美醜などなんの意味もない。他者の目を通した、自分の価値はどうでもいい。自分が自分を誇れるように生きていくことが、格好いい生き様になる。それでいいのだと、思った。
蓮花塢という狭い世界で生きてきた猫にとって、外の世界は過酷だった。食べ物は自分でどうにかしないといけない。
蓮花湖の船着き場で人間の捕った魚を横取りしたり、飯屋のごみ箱を漁ったりした。
自分に尻尾が二本生えたのは、霊力を持つ猫又というあやかしになったということだと、物知りの猫に教えてもらった。ならば、猫又になった意味は何かと考えた。
小さく弱い者達は、えさにありつけずに弱っていく。見ていられなくて、弱い猫達にえさを獲ってきては与えた。でも皆、普通の猫どまりで、どんどんいなくなっていく。
それでも諦めずに世話をしていくうちに、どんどん修為が上がったのだろう。三本目の尻尾が生えてきて、猫魈になった。
美しい猫魈様と呼ばれたが、晩吟自身が満たされたことはなかった。いくら美しいと言われても、心に響かなかった。むしろ、昔自分がかわいがられていた過去を思い出して、辛くなった。
だが、この龍神の事は素直に美しいと思った。その上誰の目からも美しい存在が、自分を美しいと言う。「美しい」と言われて、悪い気はしなかった。そして、あの熱っぽい瞳。本気で、心の底から思って言っていると直感的に感じた。あとなぜだか、懐かしいような、安心出来るような感覚がした。あれは何だったんだろうか。
曦臣は、面の下の晩吟の顔が現れると、もっと明るいところでじっくり見たいと思った。それに晩吟はしきりに周りを気にしている。龍神との逢い引きを、誰かに見られることを恐れているのだろう。
そして、晩吟の手をより強く繋ぎ、細腰を片腕で抱いたまま、上昇し始めた。ぐんぐん暗い岩場が遠くなり、山が小さく霞んでいく。蓮花湖が手鏡くらいの大きさになり、雲夢全体が見渡せるくらいになったところで、晩吟があんぐりとあけていた口からうわずった声が出た。
「ま、ま、待て!ちょっと!どこまで行く気だ!」
晩吟は、猫魈といえど、おおよそ落ちたら助からないと感じ、曦臣の背に腕を回して、しがみついた。
「人目を気にせず、お話したくて・・・。私の名を他の者に聞かせるわけにもいきませんし。」
「あそこも人目はなかった!」
「ええ、あなたが私と会っているところを誰にも見られたくなくて、あそこへ誘導したのですよね。」
何もかもお見通しなのかと、晩吟は尻尾を一瞬、ピンと緊張させる。曦臣は、
『尻尾の変化は何より饒舌だな。』
と、心が暖かくなり、晩吟の背をきゅっと抱きしめ、幸せに酔った。
「ああ、あなたから、私に触れてくれることがこれほど嬉しいとは。このままあなたを連れ去れたらいいのに・・・。」
曦臣は、晩吟の形の良い、大きな猫の耳に唇をよせた。黒い耳は、敏感な場所だ。晩吟は、
「ひゃっ!」
と、身体をビクッと揺らして、尻尾の先まで毛を逆立てた。ぞわっとする感覚に、晩吟はますます曦臣にしがみついた。
「おや、そんなに気持ちが良かった?」
のんきに言う曦臣に、晩吟はキシャーッと牙と、鋭い爪を出して、曦臣の背に食い込ませて威嚇する。
「こんな所に連れてきて、この俺にこんな辱めを・・・。俺の牙とこの爪で、お前などたやすく切り裂けるんだぞ!」
「切り裂いたら、あなたも一緒に落ちますけど・・・。」
「わかっている。下ろせ。今すぐに元来た場所に戻れ。さもなくば・・。」
晩吟が、真っ赤な顔で、眉間に縦皺を何本も寄せ、目も、瞳孔を収縮させて、紫色に光らせ脅しても、曦臣は穏やかな顔で、微笑んでいる。晩吟は、ますます頭に血が上った。
「早くしろ!俺を雲夢の山に返せ!」
曦臣は、困ったように笑って、晩吟の目に、視線を真正面から合わせる。
「あなたはその態度と裏腹な本心をお持ちですね。これを見て、私は確信しました。」
と、晩吟を片腕で支えながら、もう片方の手で、黒い三本の尻尾のうちの一つに軽く触れた。晩吟は思わずびくりと肩を揺らす。猫にとって、耳同様に、尻尾も感度が高く、弱いところだ。
「にゃっ!」
曦臣が手にした尻尾は、いくら触れても、抵抗することはなかった。その一本には、薄い青紫の細帯が巻かれている。まさに、曦臣の額に結んでいる抹額と同じようなものだ。
晩吟は、びくりと肩を揺らした。そして冷静を装いながら、
「・・・何がだ。」
「まだ尾は痛むのですか?この布の巻いてある尾は、この間の罠にかかった・・・。」
「そ、そうだ。まだ痛むから・・・巻いてある・・・。私の衣と同じ色だろう。同じ布だ。」
曦臣は、小首をかしげ、
「おかしいですね。私の記憶では、もう少し先だったような・・・。怪我をしたのはこの辺りでは?」
と、尻尾の先から三寸ほどの場所をつまんだ。傷はすっかり治っており、触れても腫れも、傷の痕跡さえない。
晩吟は、誤魔化せないとわかり、何と言って話題をそらそうか考えていると、曦臣は巻いている布をすりすりと撫でる。晩吟は息をのんだ。
「この布は・・・確かにあなたの衣と同じ色ですけれど、同じ布ではないでしょう。手触りが違うし。これは私がよく知っているものだ。」
「勘違いだ!」
「これは、私が巻いて差し上げたものを同じ色に染めたのでは?」
「くっ・・。」
「ほら、姑蘇藍氏の布はね、細かく独特の護符の織りが施されているのだ。いくら染めても織りを変えることは出来ないよ。」
曦臣は、話している間、笛を吹くときの運指のように、トントンと晩吟の尻尾を軽くつつく。猫にとって、尻尾で遊ばれるなど、屈辱的だが、晩吟は何も言わなかった。
曦臣は、傷口を見て、迷うことなく、額に巻いてある抹額をほどき、晩吟の傷の血で汚れることもいとわずに手当てしてくれた。
不思議な布なのか、数日後にはすっかり傷が治った。しかし、晩吟はどうしても、傷口に巻いてもらった布を捨てる事ができず、綺麗に洗い、つけていても猫又たちに怪しまれぬよう、自分の衣の色に染色したのだ。
どうしてそうしたのか、晩吟は、自分の中の感情がよく分からなかった。手当てしてもらった感謝なのか、神に対する尊敬なのか。だが、そんな明るい感情ではない。胸がモヤモヤして、考えると頬が熱くなる。何度も何度も、あの時掛けられた言葉、尻尾の手当てをする指や横顔を思い出しては、心が潰されるようにきゅっと音がする。これはなんだというのか。
龍神にもう一度会えば、謎が解けるかと思ったが、二度目に会った時は、言葉が紡げずに顔を見ただけですぐに逃げてしまった。今日も会った途端逃げ出したい衝動に駆られたが、逃げられぬ状況に追い込まれたのだ。今日こそは聞かねばならない。
「・・・お前に聞きたいことがある。その布には・・・その・・・護符の効果の他に、何か別の効果があるのではないか?俺は、その布に意志を感じる・・・。俺に何をしたんだ。」
「え?護符以外の効果?そんなものは・・・。あっ。」
曦臣は、言いよどんだ。晩吟は、見逃さなかった。
「なんだ!はっきり言え。何かあるんだな。」
「えーと。別に効果があるかは・・・定かではありませんが、姑蘇藍氏の抹額には特別な意味があります。」
「なんだ。」
「抹額は神聖なもので、むやみに他人に触れさせてはならないのです。親や子・・・親族・・・それ以外は・・・。」
曦臣は、そこまで言って目をそらした。晩吟は、曦臣の胸ぐらを掴む。
「言え!俺は、その布のせいで、おかしくなってしまったんだ。他人が触れたら悪影響があるような、呪いが掛けられているのだろう!」
「心に決めた、愛する人。伴侶になる人には触れさせても良いのです。」
曦臣は一気に言って、急に頬を赤らめて、バツ悪そうに口をきゅっとつぐんだ。
「は?伴侶と言ったか?」
晩吟の心の臓がドクンと大きく跳ねた。そして妙に納得した。そうか、これは慕情だったのだ。今まで生きてきて、体験したことはないが、他の猫又たちが話していた恋の話と合致する部分は確かにある。抹額によって、強制的に恋を誘発する、惚れ薬のようなものだったのだ。
「そんな大切なものを、俺の傷口に?なぜ・・・。は?もしや、これを巻かれた者は、自然にお前を伴侶としてみてしまうという呪いか?はっ、それなら納得出来る。そうか。この気持ちは・・・、この湧き出すような感情・・・呪いのせいだったのか。くそっ。」
晩吟は、曦臣の手から器用に尻尾を抜き取り、巻いた布の端に手を掛けた。すると、曦臣は、その細く長い指で制す。
「待って。」
「邪魔するな。神ともあろう者が、親切なふりをして、あやかしを騙すとは。」
「騙してなどいないよ。抹額にそんな効果はない。」
「しかし、実際に俺は、これを巻かれてから、寝ても覚めても、お前の顔ばかり浮かんで、お前のことを考えると変に心の臓が跳ねる。落ち着かない気持ちを抑えるために、この雲夢の外れの山に来ていたんだ。それも全部、この布にひそませた神通力の効果なのだろうが。これを捨てさえすれば、元の俺に戻れる!」
「あなたは、私に想いを寄せているのですか?ドキドキしたり、胸が熱くなったり、顔が見たくなったり・・・。」
曦臣は、声を震わせた。
「少しは、私を気にしてくれたのかと思ったけれど、まさか。」
「まさかも何も、しくんだんだろうが!くそ、離せ!」
「暴れないで。気を落ち着けて聞いて欲しい。」
「なんだ!」
「藍渙といいます。」
「は?」
「私の名・・・真名は、藍渙と申します。」
晩吟は、何を言われたのか一瞬理解出来ず、ぽかんとした。曦臣は、凍り付いてしまっている晩吟を見つめながら、
「藍氏の抹額、そして私の真名。この意味が分かりますよね?真名は、神やあやかしにとって命を捧げる行為です。あなたに私のすべてを差し上げます。あなたを愛しています。」
と、告げた。そして続ける。
「私は、ずっとずっとあなたのことを見ていました。三十年前、たまたま来訪していた雲夢の地で、手に乗るくらい小さなあなたを見つけました。あなたは立ち上がることも出来ぬほど弱っており、親猫は周りに見えず、このままでは命が危ないと思い、私はあなたを雲深不知処に・・・我々龍神の住処ですが、連れ帰りました。雲深不知処では動物の飼育は禁止されていました。ですが、私としては、動物を飼育するという気持ちではありませんでした。ただ一緒にいたかった。でも許されませんでした。自分で獲物を捕れるくらいしっかりしてきた頃、私はあなたを雲夢に・・・蓮花塢の前で離しました。美しい猫だったあなたを見て、蓮花塢の人間はすぐに気に入り、迎え入れられました。同じ名をつけられるよう、それとなく蓮花塢の人間にきっかけを与え、それからは、たびたびあなたのことを上空から見守っていました。しかし、ある日、蓮花塢からあなたは消えていました。猫又になって、どこかに行ってしまったと聞き、私はずっと探していました。猫又になったのなら、普通の猫のような短い命ではない。私は嬉しかった。でもあなたは見つからなかった。そのうち、美しい猫魈が雲夢の山に住み着いて、あやかしたちを集めていると聞きました。私はあなただと確信し、監視という言い訳をして、あなたの山をたびたび訪れ、時には、式神を使ってあなたの山の猫又に混じり、あなたを見つめてきました。そして、罠にかかったあの日、思わずあなたの前に姿を現してしまった。」
曦臣が切なげに琥珀の瞳を揺らし、今まで自分だけの胸の内に秘めていた事を一気に吐き出す。晩吟は、呆然とそれを聞きながら、思い当たる節がいくつもある事に気づいていた。
時々見る夢や、おぼろげな小さな頃の記憶に、蓮花塢ではないどこか山奥の風景があるのだ。竹林の葉のすれる音が涼やかで、青い光の中、髪の長い優しい人が、自分を撫でる。愛おしむようなその手が心地よくて、大事にされているのを感じて、ゴロゴロと喉を鳴らした。そして、雲夢の山を拠点にし始めた頃からたびたび感じた視線。熱っぽく、切なげに感じるそれは、自分の姿を隅々まで見ているようだった。
「お前・・・あなたが・・・あの時の・・・。」
「覚えていてくださるのですか?」
「いや待て。俺の記憶も定かではないが、俺が子猫の時、あなたは今それほど大きさが変わっていないような?少なくとも子供の姿ではなかった。三十年前なのに・・・。」
晩吟は紫の瞳を見開いて、曦臣の顔をまじまじと見つめた。どう見ても自分と同じくらいか少し上程度に見える。すると、曦臣は薄く微笑んで、
「龍神は、通常の生き物の三倍の寿命を持っています。成長も遅い。三十年前は・・・あなた方の感覚で言えば、大人の入り口ほどの姿だったと思います。」
「そうなのか・・。しっ、しかし、ならば、俺の真名も知っているはずだ。」
晩吟の記憶の中の愛を注いでくれた者は、呼んでいた。甘い声で「阿澄」と・・・。
「・・・知っています。ですが、あの頃のあなたはただの猫で、今のあなたは猫魈だ。本人の口から聞かねば、その効力はない。あなたが私にうっかり真名を教えれば、あなたと私は契約を結んだことになる。」
「契約?!」
「婚姻の契約です。」
「は?」
「あなたが、意地っ張りで、警戒心の強い者だということは知っています。正攻法であなたに好きだと伝えても、受け入れてもらえないと思いました。猫は猫又、猫魈を経て、五十年生きれば『猫神』となる。だから、あと二十年、猫神になるまで待とうと思っていました。神同士になれば、堂々と結婚を申し込みに行こうと。しかし、あなたのことを慕う者は多く、あなたと婚姻をと望んでいるあやかしも多くいる。契約を急がねばと思いました。ここまで待って、あなたを誰かに取られるなど、耐えられない。」
「ちょっと待て。俺と婚姻を望んでいるあやかしが多くいるだと?!初耳だ。」
「あなたがそうやって鈍感で気づかないから、実力行使しようと思っている者もたくさんいるのですよ!」
曦臣は、むきになって、大きな声を出した。雲の壁にぐわんぐわんと響き、もくもくとした雲は溶けるように雨粒になり、一気に地上に降り注いでいった。
「あ、私としたことが・・・。」
龍神の雄叫びは大雨を降らせる故、家規によって大声は禁じられている。なのに、思わず感情のまま叫んでしまい、曦臣は、眉を下げて気まずそうに地上を見下ろした。
龍神によって、豪雨が降るという伝説を、実際に目の当たりにして、晩吟はぷっと吹き出した。
「ははは。とんでもない龍神だ。皆、慌てているに違いない。」
「大丈夫。すぐやみます。」
そういいつつも、焦った様子で、下界を見つめる表情に、晩吟はホッとするものも感じた。龍神と言っても、ただの生き物なのだ。驚いたり、焦ったり、実に表情豊かだ。それに、ずっと抱きしめられていてもなんら不快さがない。晩吟は、幼い頃の記憶のように、曦臣の身体に身をあずけてみた。そして頬をその首筋にすり寄せ、腕を背に回して、抱きしめてみる。
『阿澄・・・。こっちにおいで。』
『抹額が面白いの?では、簪にもヒラヒラしたものをつけてみようか。』
『離れていても、ずっとあなたを見守っているから・・・。蓮花塢でかわいがってもらいなさい。』
他の事は忘れても、ずっと頭の片隅にあったあの幸せな記憶が、現実味を持って感じられ、満たされた気持ちが、全身を駆け巡る。これは抹額呪いのせいでもなんでもないのだ。幼い時の愛された記憶が、運命を引き寄せている。
一方、曦臣は、突然甘えられて、心臓が跳び上がった。落ちると必死にしがみついていたのとは違う、甘やかな抱擁だ。曦臣もおずおずと、晩吟の後頭部に手を添えて、ヨシヨシと撫でてやる。すると、猫の耳を少し伏せた晩吟は、ゴロゴロと喉を鳴らした。
雨がやみ、太陽の光が地上に降り注いだ。地上が色を取り戻していく。晩吟の心も晴れていくようだ。
晩吟は言った。言い聞かせるような優しさを含んだ声音だ。
「いいか?よく聞け。俺の名は江晩吟。真名は『澄』。」
「!」
「あなたの真名だけ聞いて、俺が言わないのは、公平ではないからな。それにあなたは俺の名付け親で、命の恩人だ。子猫の時分も、猫魈になってからも、二度救われた。名を明かさぬのは失礼に当たる。」
「そ、それは・・それは・・・あの・・私の結婚の申し出を受けてくれたということ?」
「調子に乗るな。そこまでは言ってない。」
「えっ。」
「あなたは俺の親のようなものだから、抹額の問題は解決した。」
「それは・・・。」
「真名も親子であれば当然。真名を知ったところで、婚姻に結びつかない。」
「いや、でもね、私はあなたのことが親子の情で好きなわけではないんだ。」
「その事はもうちょっと考えさせてくれ。」
「もうちょっととはどれくらい?」
「おい、もう二十年待つつもりだったのなら、ちょっとくらい待てるだろ。俺の気持ちに確信が持てるまでだ。」
「・・・。」
「今後は、式神など使わず、堂々と俺に会いに来い。」
「!」
曦臣は、目をぱちくりさせてから、希望がある返しなのではと、一気に喜びを噛みしめるような、感極まった表情になる。瞳を潤ませる曦臣の頬に、晩吟は手を伸ばした。
「もういいだろう。そろそろ下に降りてくれないか。」
「はい。でももう少しだけ・・・あなたを撫でさせてください。」
鳥さえも飛べないほど上空で、二人は抱きしめ合いながら、
「阿澄。」
「藍渙。」
と真名を呼び合う。真名の音は実に耳に心地よく、二人とも満ち足りた想いにうっとりとした。
曦臣はずっと見守りつつ重ねてきた想いをこめ、晩吟は幼い日の幸せからここに繋がっていると実感出来た。
その後、猫魈の治める山の蓮花塢には、たびたび龍神が顔を出すようになった。
最初は他の猫又たちがざわついて、大変な騒ぎになった。しかし、あまりに頻繁に来るので、日常と化し、皆が慣れた頃、龍神は猫魈の屋敷に泊まっていくようになり、程なくして、住み着くようになった。
婚姻の頃、この山の枯れ木に一斉に花が咲いたことから、人間達にも知れ渡るようになり、その山の方角に祈れば、良縁祈願・家庭円満の御利益があるとして、伝説となるのだった。
終わり