狡い男たちの話「道を間違えるな」と言われ決別したあの日以来、その言葉を守って自分なりに真っ当に生きてきたと乾は胸を張って言える。しばらくは報復にきた相手と拳を交えることはあったが、時間が経つにつれそんな輩は徐々に減り、いつしかいなくなった。そして、いつのまにかバイク屋の経営者だ。平和ボケしているともいえる今の暮らしは、あの頃の自分が見たら信じられないかもしれない。
九井が最後に望んでくれたように、その言葉に反することのないように、生きていこうと。あの日に決めた。幸いにも次第にバイク屋も軌道に乗り、生活への不安も薄れていった。ずっとこの先もそんな道が続いていく。
――そう思っていた。
今、乾がいるのは大きなベッドの上で、自分の店でも家でもない。
「ココ、」
「ん?」
「楽しいか、それ」
乾の髪の毛を指先で何度も梳いている九井。ベッドに横たわる乾のそばに腰をおろし、鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さだった。かれこれ十五分ほど続いているだろうか。
「あぁ、楽しいね。イヌピーをこうして手元において可愛がれるなんて、こんなに幸せなことないだろ?」
「大袈裟すぎる」
「オレにとってはそれくらい価値があるってことだよ、イヌピー」
髪の毛を弄んでいた九井の指先が、火傷の跡をツ、となぞった。
◇
遡ること半年程前、乾は夜道を歩いているところを襲われた。大柄な人物に背後から羽交い締めにされ咄嗟に反撃しようとしたが、飛び出してきた第二の人物に首筋に強い電流を押し当てられ、同時に意識が飛んだ。一瞬の出来事である。目を覚ますと、そこにいたのは懐かしい幼馴染の姿。
「イヌピーには、これからここにいてもらう。この世界にいると、どこを小汚く嗅ぎ回ったのか、昔いた幼馴染の存在を見つけてくる輩がたまぁに出てくんだよなぁ。オレを脅すためのカードにでもしたいらしい。まぁそんなヤツを排除するのはワケねぇんだけど、きりがねぇし一々面倒臭くなっちまって。ここにいたらイヌピーも安全だろ?オレの手を煩わせることもなくなる。な?そのほうがいいと思わねえ?」
正直なぜ今更、と思った。乾は価値がないといって手を離された側だ。九井の弱味として自分を利用しようとする奴は見当違いである。それなのに、九井はまるでそれを認めるかのような口振りで説明するから、乾は尚更意味が分からない。
乾に価値があるというのなら、あの日、自分の手を取らなかったのはなぜだ。思いの丈をぶつけあって、傷つけあったことを認めて、そして二人で生きていく未来もあった。最後まで九井のことを諦めるつもりなんか微塵もなくて必死に手を伸ばしたのに、呆気なく振り払われ、どうしようもなく悲しかった。そしてもう乾がどう言葉を伝えようとも九井には届かないことを知った。
(オレじゃあだめだって言ったのはお前だろ、ココ)
損得勘定で考えることが得意な九井にとって、容易い判断だっただろうか。本人の口からはっきりと答えを聞くのが怖くて、そればかりは口にするのを避けていた。
しかし、目の前に立つ乾を通して、九井が「赤音さん」と姉に優しく触れたあの時。それが答えなのだと悟った。お前は不要なのだと、突きつけられた現実を受けとめなければ。縋りついたところで乾には――赤音ではない青宗には、九井を救うことなんてできない。
そう諦めていたのに。否、諦めようとしていたのに。
乾だけ持っていても仕方のない不毛な感情。何十年かかるか分からないが、少しずつ端のほうから砕き、砂のように細かくして流してしまえば、きっともう形作ることもない。関わることもなければいつか風化して忘れられるだろうと思って過ごしてきた。
そんな時薬に期待する乾を嘲笑うかのように、あっさりと目の前に現れた九井。そして言うのだ、「オレのそばにいてくれ」と。
なぜ今更。──不幸なことに、説明されるまでもなく乾は気付いてしまう。幼馴染を利用しようと狙う輩がいるという話はきっと建前でしかない。そう言う彼の瞳の奥に灯っていたのは、隠しきれないほどに恋焦がれる火。狡い男だと思った。
たとえ焦がれている相手が自分自身ではなかったとしても、そんな顔を向けられてはもう離れることはできない。乾もまた、この幼馴染にどうしようもなく焦がれていたのだ。幼い頃から、ずっと。
砂のように細かく砕いて流したはずのそれは、結局同じところに留まっていた。
◇
梳くのには飽きたのか、今度は金髪を指に巻きつけて遊ぶ九井。まるで恋人同士の戯れのようなその優しい手付きは、乾の心臓をちくちくと刺す。九井が、赤音の髪が好きだと言っていたことを覚えていた。日にあたって柔らかく光を反射する細い髪。風が吹くときらきらと舞って綺麗だと。
(……せめてオレが女だったらよかったのに)
何度となく考えてきたこと。そうすればもっとまともに姉の身代わりにだってなれたものを。性差の目立たなかった頃ならともかく、今では成長しきり筋張った体。出っ張った喉仏を震わせて出てくる音は低く、まさか女とは似ても似つかない。姉と同じものといえば、青い目、色白の肌、金髪。もはやそんな些細なところしか残っていない。しかし、少ないながらに先天的なそれのおかげで、自分以上に赤音と似通ったものを持っている者を見たことがないのもまた事実である。
そんなちっぽけなところに執着されるくらいなのだ。もしこれが女の体であったなら?――言うまでもなく、尚更だろう。きっと九井の隙間を埋めてやれた。柔らかいしなやかな腕で抱き締めて、肉色の唇を歪ませ「あいしてる」と言ったら、九井はどんな顔をしてくれるだろうか。
「イヌピー、」
(オレが。オレじゃなければ)
触れては離れるを繰り返す指先。とろりとした甘い声音が何を孕んでいるのかには気付かないふりをして。呼び掛けには答えないまま、乾はゆっくりと目を伏せる。まるで心地良さに身を委ねるかのように。
乾青宗は、狡い男だった。
***
あとがきと補足
あと一歩でハッピーエンドになりそうなのになぜかそうならない、すれ違いまくる二人が好きです。
上手く表現できなかったんですけど、ココはイヌピーと決別した後にイヌピーに対してちゃんと愛を認識したので、手元におけて(拉致監禁できて)本当にハッピーなんです。イヌピーは逆に赤音さんのことを引きずって自己肯定できない。ココが何を言っても「自分が愛される」っていう選択肢自体がはなから消えてしまっているので…。
幸せになってくれココイヌ…。