2021.12.11「不死身の長兄」web拍手お礼画面⑨ 夜中に目をさますと、隣に寝ているはずの彼女の姿がなかった。
何かあったのだろうか。体調が悪いのだろうか。
不安に駆られた俺は、寝室を出て、階下へと降りていった。
階段を下っていくと、リビングに人の気配を感じた。
明かりはなく、格子窓から差し込む月の明かりだけが、仄かな光源となっていた。リビングの椅子に腰かけている人影がある。暗闇に慣れた俺の目には、それが誰なのか、すぐに分かった。
俺が近づくと、足音に気付いたのか、彼女はこちらに目を向けた。
「ヒュンケル。」
いつも通りの声が、俺を呼んだ。
その声色に辛そうな響きはなく、俺は、少しだけ胸をなでおろすことができた。
「どうした。眠れないのか?」
俺が気づかわしげに声をかけると、彼女は困ったように答えた。
「うん・・・。ちょっと痛みがあってね。」
そう言って、彼女は、大きくなった自身の腹を撫でた。
痛み、と聞き、俺は気が気ではなかった。
「大丈夫なのか?」
「うん。なんか、収まっちゃって。違ったみたい。」
「・・・そうか。」
「陣痛かと思ったんだけどね。」
マァムはそう言って、俺と同じ感想を口にした。
彼女は今、臨月だ。
いつ、何があってもおかしくない状態だということは、俺にもわかっていた。だからこそ、夜中に姿が見えなくなった彼女に不安を覚えたのだ。
マァムは、大きく膨れた自分の腹を撫で、息を吐いた。どことなく、しんどそうにも見えた。
俺が心配そうにしているのに気付いたのか、彼女が答えた。
「痛みは落ち着いたんだけど、なんだかどきどきしちゃって。眠れなくなっちゃったのよ・・・。それで、下に降りてきちゃった。」
「そうか。気が高ぶっているのかもしれないな。
お茶でも淹れようか。」
「ありがとう。」
マァムがほっとしたように笑みを浮かべた。
俺はマァムに釘を刺した。
「少し時間がかかるから、長椅子に横になっていた方がいい。少しでも、体を休めておかないとな。」
「うん。」
マァムを長椅子に移動させると、俺は、長椅子の上に畳んであった毛布を広げ、彼女の腹にかけてやった。
俺は、ランプに明かりをともすと、竈の火を起こして湯を沸かした。そうして、レイラさんからマァムがもらってきていた、妊婦用のハーブティを淹れた。何種類かのハーブがブレンドされているようだが、俺にはよくわからなかった。
本当は、彼女の身体のことを考えたら、早く寝かした方がいいのだろう。だが、どうにもマァムの気が高ぶっているようだった。少し落ち着かせた方がいいと思った俺は、淹れたばかりのハーブティを、彼女の前に運んだ。
マァムは、俺が近づくと、長椅子の上に半身を起こした。俺は、湯気の立ち上るカップを、彼女に差し出した。
俺からカップを受け取ったマァムは、両手でそれを包んだ。温かさと、立ち上る独特の香りを感じ、それだけで安心したようだった。彼女の表情が和らいだのが分かった。
マァムは、しばらくカップを握りしめていたが、少しすると、少しずつ、その中身を喉に流し込んでいった。
飲みながら、マァムは、俺に笑みを向けた。
「ありがとう。落ち着くわ。」
俺もつられて、微笑んだ。
「それはよかった。」
少しすると、マァムのカップが空になった。俺は、それを受け取ると、テーブルに置いた。
また、マァムが長椅子に横になった。腹が大きくなったので、マァムは、最近はあおむけに眠れないと言っていた。このときも、彼女は、体を横向きにし、長椅子の下に足を投げ出して、体を横たえていた。
俺は、長椅子の前に椅子を出すと、そこに腰かけた。腕を伸ばし、横になったマァムの髪をそっと撫でた。マァムは、安心した表情で目を閉じていた。
俺は、彼女に尋ねた。
「しんどくはないか?」
「うん・・・大丈夫。気持ちいい・・・。」
俺の目の前に、彼女の大きな腹がある。姿は見えないが、そこに別の命があるのだと思うと、俺は不思議な思いがした。
「マァム。」
「なに?」
「触れてもいいか?」
「・・・うん。」
何に、とは言わなかったが、彼女はすぐに分かったのだろう。マァムは、俺の手を取ると、自身の腹に導いた。
俺の手が、マァムの大きな腹に置かれた。
彼女の手のぬくもりと、腹部の温かさに俺の右手が挟まれた。
しばらくそのままにしていると、俺は、手の下で何かが動く気配を感じた。マァムの腹の皮膚がゆがみ、ぐにゃりと、その下で何かが動いたのを感じた。
俺は笑みを浮かべた。
「元気だな。」
「でしょう?おかげで眠れないのよ。」
マァムは苦笑した。
体の中で、他の生き物が動く、というのは、どんな感じがするのだろうか。俺には想像もできなかった。
この手の下に、別の命がある。そして、別の意志がある。
俺は、手に伝わる感触に想いを馳せ、ぽつりとつぶやいた。
「不思議だな。」
「なに?」
「いや・・・まだ生まれていないのに、もう意志を感じる。
この子は、俺とも、お前とも違う。別の意志を持っているんだな。」
俺がそう言うと、マァムもうなずいた。そして、困ったような笑顔を浮かべた。
「そうね・・・きっと、やんちゃよ。よく動くんだもの。」
「そうか。」
だが、その言葉さえも微笑ましく、俺は笑みを浮かべた。
俺は、マァムの腹に視線を戻した。手の下に、確かなぬくもりと、命の息吹を感じる。そして、確かな意志も。それが、不思議でたまらなかった。
俺はつぶやいた。
「この子は・・・どこから来たのだろうな。」
俺は、かつて魔界で学んだことを思い出していた。
「魔界にいたときに、俺はさまざまな学問を教わった。化学や生物学も学んだ。そのときに教えられた。無から有は生まれないと。」
俺は、魔界で様々な学問を修めた。その中に、こんな法則があった。
様々な物質は、いろいろな条件の下で変化するが、その質量やエネルギー総量は変わらない。すなわち、無から有は生まれない、というものだった。
では、この俺の手の下の命は、それが持つ意志は、どこから生じたのだろうか。
俺は言葉をつづけた。
「この子は、確かに俺とお前の血を継いでいるのだろう。
だが、その魂はどこから来たのだろうな。
俺ともお前とも違う意志がすでにある。
それは、無から有が生まれたように思えたんだ。」
するとマァムがぽつりとつぶやいた。俺にも覚えのある言葉だった。
「意志があればそこには魂がある。」
「メルルの言葉だな。」
「うん。」
マァムは、言葉をつづけた。
「魂はどこに還って、どこから来るのかしらね。
うん・・・不思議ね・・・。
私のお父さんも、あなたのお父さんも、その魂はどこにあるのかしら・・・。
でもきっと、どこかにあるような気がするのよね。この子を守ってくれるような気がするの。」
「そうだな。」
俺もうなずいた。
俺の父も、マァムの父も、今はこの世のものではない。
だが、その魂はどこかに存在し、きっと、俺たちを守ってくれている。理屈も根拠も何もなかったが、俺もマァムもそう信じていた。
マァムが、俺を見て微笑んだ。
「どんな子なのかしら。楽しみね。」
「ああ。」
俺は、もう一度マァムの腹に視線を落とすと、その手の下に向かって呼びかけた。
「・・・俺も、マァムも、ちゃんとお前を待っている。
ゆっくり、出ておいで。」
俺は、マァムの中にある、もうひとつの魂に向かって呼びかけた。
まだ見ぬ、我が子へと。
ヒュンケル