Fellow/Crime 酷い雨が降っていた。視界も不明瞭になるような土砂降りで、アントレーが早足で安いアパートの外付け階段を上ると、部屋の前に同居人が佇んでいた。灰積もりの視界の中、桃色の髪はやけに目を引いた。部屋の扉は開いていて、彼は何やら部屋の中に視線を下ろしていた。
「何か…」
何かありましたかと声を掛けようとしたが、言い終えるより先に彼の視線の先を覗いてしまい絶句した。
「…ソレ、生きてます?」
「いや、死んでる」
叫び声のひとつでも上げそうなものだが、案外冷静なまま一応と問掛けるが、同居人は即座に否定した。
「…貴方が?」
「いや」
言葉選びに逡巡しつつ再び尋ねると、二度目の否が返ってきた。不十分な回答だと思ったのか、彼は部屋の中のそれから視線を逸らすことなく付け加えた。
「あー…、俺が帰った時にはもうこの有様…俺も戻ったのはついさっきだけどね」
「…まァ、貴方ならもう少し上手くやるでしょうね」
軽口で揶揄うと、彼は漸く少し笑って、ここで初めて左右で色の違う瞳と目が合った。
「君だってそうだろ…、入ろうか」
「入るんですかァ…?」
思わず辟易とした声で言うと彼はまた少し笑う。幸い血は流れていないようだが、どれだけ冷静でもわざわざ自主的に死体と同部屋に入るというのは流石に抵抗がある。
「まあ…立ちっぱなしって訳にもいかないだろ、雨も降ってるし。…それに…」
「彼の処遇も決めなければ、ですか」
「…そういうこと」
彼の言葉を先読みすると、今度は肯定が返ってきた。正直嫌で堪らないが、一理はある。そもそも家に帰ったら覚えのない死人が放置されているという前提自体に理が無いのだが、これはもう起きているのだからどうしようもない。
開け放しにされていた戸を潜り、後ろ手で扉を閉めた。ザアザアと喧しい雨の音が遠ざかった。それは玄関から入って少し奥に転がっていたが、同居人は構わず跨いでいく。アントレーは顔を顰めて少々躊躇したが、直ぐに彼に続いた。
同居人がボロのカウチにどす、と腰を下ろす。アントレーはその正面の安楽椅子に腰掛けた。リサイクルショップで購入した古い代物なので、ぎいぎいと耳障りに軋む音がする。目の前の彼が深く息を吐いて強張っていた肩の力が抜けたので、アントレーは平静に見えていた同居人も案外動揺していたらしいと知った。
暫く沈黙が続いた。依然として雨は激しく降り続けていて、雨音が無言の静寂を埋めていた。何度か目を瞬かせたが、玄関先の物言わぬ来訪者が姿を消すことは無い。
「どうします?チェイスさん」
耐え難い沈黙…という訳でもなかったが、埒が明かないのでアントレーは口火を切った。
「……どうしようか、アントレー」
同居人…チェイスは、一拍遅れてゆっくりとこちらを見た。質問に質問を返されて、反射的に言葉を探る。
「どうもこうも…どう処理するか考えるべきでは?」
「ああうん…それはそうだ」
どうも上の空の返事に、アントレーはチェイスの表情を窺い見る。彼は数秒ほどして視線に気が付いたようだった。
「…これでも混乱してるんだ」
此方が何か言う前に、彼はそう言って頭を振った。薄暗いせいで分かりにくいが、彼が参っているのは確かだった。
「貴方も取り乱すことがあるんですねぇ」
参っているのはアントレーも同じことだったが、冷静を装って冗談を飛ばす。
「この状況で…正気な方がイカれてるよ。あー…俺達が揃って幻覚剤でもキメてない限り」
「…それはそうですが。ただ、放置する訳にもいかないでしょう?ワタクシ死人と同居する肝は持ち合わせておりませんよ」
これは本音だ。アントレーはネクロフィリアではないし、チェイスにしても同じことだろう。一刻も早く見知らぬ不幸な男に別れを告げて、その足で不動産にでも駆け込んで引越す算段を付けたいところだった。
「ああうん…そうだな、考えるよ…考えよう」
チェイスは渋々といった様子で、少々大袈裟に顔の前で手を払った。先は長そうだ、と長期戦を覚悟したのも束の間で、案外二の句は早かった。
「…埋めるか」
「埋める、ですか」
実の所、アントレーも同じ考えだった。本来なら自宅に覚えの無い人間の遺体があればまず警察にでも連絡するべきなのだが、互いに多少のアングラな事情により彼らに頼るのは憚られる。
という訳で自力で処理するしかないのだが、とはいえなるべく触れたくないので解体なんて以ての外である。燃やすにしても悪臭が酷いだろうし、第一外は生憎の雨で、これが止むまで死体と時間を共にするのも御免被りたい。
「ワタクシも同意ですが、何処に…それから道具は?」
「…シャベルとブルーシートくらいなら、引戸のクロゼットの中に。場所は…ああ、北の方に山があったよな」
「…随分と手際が良いことで」
先程まで現実逃避気味だったとは思えないあまりの準備の良さに、元から殺人計画でも立てていたのでは、と少し恐ろしくなる。自分は思ったよりも危険な男と同居しているのでは?
「…何があるか分からないだろ、お互いにさ」
流石にこんな嫌がらせをされるとは思わなかったけど、と彼は付け足す。想定していたのはトラブルが起きた時の正当防衛だと言いたいらしい。嫌がらせ、なんて形容をするのは、これが自分達の何方かへの意図的な濡れ衣だと考えているからだろう。
「兎にも角にも、準備があるならもう出ましょうか」
アントレーが重い腰を上げるのに合わせて、チェイスもゆるゆると立ち上がる。
「車出すよ」
そう言って彼はそのまま放置されている死体を跨いで部屋を出た。雨音が一瞬鮮明になって、すぐにまた遠ざかる。その間にアントレーはのろのろとクロゼットの戸を開けた。目的の物はすぐに見つかった。
シャベルとシートを玄関先に転がして、再び安楽椅子に座り込んだ。そう間もなく車をアパート前に寄せたチェイスが戻ってきたので、運搬作業に移る。
酷く不快な形と重みに顔を歪めながら梱包を終える。互いに無言のままその両端を抱え上げると、それまで下に隠れていたらしい引き摺られてきた体液の形跡が顕になり眩暈を覚える。持ち上げた一層の重みが余計に吐き気を煽った。
豪雨のお陰と言うべきか、外にはまるで出歩く人も居らず、運搬の際に目撃される心配だけは不要で済んだ。
トランクにそれを運び入れた後、車に乗り込み発進してからも無言は続いた。30分もしない内に人気の無い山道の分岐を細い方へと進み、車が止まる。二人は帽子を被り直して車を降りた。
辛うじて舗装されていた道路を外れて草々が茂る中に足を踏み入れる。再びの不快な重みに加えて、濡れて身体に張り付く服、首筋を伝って纒わりつく雨、鬱蒼とした植物の青臭さ、全てが厭わしく胃液が込上げる。それはチェイスの方も同じようで、何度か喉仏がくつくつと上下していた。
車が見えなくなったところで何方ともなく荷を下ろした。暫く歩いたような気がするが、大した距離は進んでいないかもしれない。ポリエチレンに包まれた塊が鈍い音を立てる。
シャベルを持ちながら何か言おうとしたが、一言でも声に出した瞬間に決壊してしまいそうで、結局口を噤んで一度顔を見合せたのみに終わる。
シャベルを土に突き立てた。手前に引き倒すごとにブチブチと草の根が千切れる音がする。ただ感覚を遮断することに集中して、土を横に捌ける。細かく千切れた草の先が散らばって、裏返された土の茶色から触手のように短く伸びた根の端と明るい緑色が混じる。
機械のように同じ作業を繰り返す。無心に進めるうちに手首程度、肘先程度、頭部程度、と掘り返された穴は着実に拡がっていく。身体の普段使わない部分を使っている感覚に、酷い筋肉痛になりそうだ、と呑気なことを考える。いつしか草の根の切れる音も聞こえなくなって、拡がっていく穴が雨を呑んでいく。
「充分、ですかね…」
掠れ声で言う。ここで初めて自分が息を切らし肩を上下させていることを知った。作業に没頭したせいか、気分の悪さは幾分かマシになっていた。
「少し…やり過ぎたくらいかもね」
降り止まない雨で辺りの薄暗さは変わらず、時間の経過は分からない。ただ、人間一人分にしては少し過剰に思える穴の規模やそこに溜まった雨水を見れば、そう短くない時間集中していたことが窺えた。
泥水に塗れたブルーシートを引き摺るのに抵抗は無かった。底に溜まった雨水に衝突して飛沫が立つ。
「これ、シートは回収しなくて良いので?」
「したい?」
「したくはないですよ」
アントレーとしては、シートごと埋めるとこの哀れな死体が綺麗に分解されないのではやら見つかりやすくなるのではやらが気になって尋ねたのだが、そうも引いた顔で言われては本音を述べる他無い。
「…どうせ見つからないよ、なら後のことなんて考えなくて良いだろ」
案外雑だ、と思った。しかし物理的にも精神的にも触れたくはないのは確かだ。…どうにかなるだろう、と根拠も無く信じることにする。
土を被せて埋める作業は、穴を掘る作業より気が楽だった。穴を埋めながらぽつりぽつりと他愛無い会話をした。一度掘り起こしてしまったので最後に表面を整える作業には少し苦戦したが、精神衛生というのは重要なもので、労力に反して作業に対する疲労感は薄かった。
「戻りますか」
「うん、そうだね」
中々満足いく程度には周りと区別がつかない出来になり、漸くその場を後にした。車は思っていたよりずっと近かった。
「ワタクシ、今日はもうクタクタです」
後部座席に座り込んで訴える。水を嫌という程吸った服は重い。着替えを持ってくれば良かった、或いはレインコートでも着ていれば、と思ったがそれこそ後の祭りである。
「俺だってそうだよ…帰りも運転俺なの?」
「ワタクシ無免許ですので。心得はありますが」
「ハイハイ、知ってるよ…さて、帰るか」
チェイスから軽口が飛んできたのは本日初めての事で、アントレーは口角を緩めた。
「ねえチェイスさん、帰り不動産寄りません?ワタクシ引っ越したいです」
「引っ越しは…するべきだな、でも一度帰って着替えるべきだろ」
「そうですねェ、服が張り付いて気持ち悪いことこの上ない」
行きの沈黙とはうってかわり会話が弾む。窓を叩く雨音は相変わらずだったが、鬱屈としたものではなくなっていた。
「腹減ったな…」
「ワタクシ、ラーメン食べたいです」
「名案だ…どの道一度帰らなきゃいけないけどね」
「面倒ですね」
「仕方ないだろ」
共犯者は笑って、ハンドルを切った。