傷と誘惑2 協力者ではあるが、危険な奴だ。感化されたり、入れ込んだりしてはいけない──そう自分に言い聞かせはしているものの、シェーシャの視界には優美なリーベリの姿が度々入り込むようになっていた。
「本当はこの世のあらゆることに興味がないけれど、円滑な人間関係のためにはそれなりの態度が必要だと言うことは心得ていますよ」という感じの空疎な微笑みは相変わらずシェーシャの神経を逆撫でしたが、なまじ顔の造作が整っているせいで、常に甘いものでも含んでいるようなパッセンジャーの微笑に騙されるものは多いだろう。
もっとも、それなりにつき合えば、彼がほとんどの事に関心がないことは否応なしに理解させられる。エンジニア部のメンバーで彼を誤解する者はすでにいなかった。
とはいえ、艦内ですれ違う程度のオペレーターの中には、その美貌に惑わされている者もそれなりにいるようだったが。
朝のロドス艦内は賑やかだ。朝食を終えて職場に向かう者たちと、早朝勤務を終えて休憩に向かう者たちがすれ違い、顔見知りが挨拶を交わす。
「おはようございます、パッセンジャーさん!」
「ええ、おはようございます」
声高に自分を呼ぶ声に上辺だけ微笑み返した彼は、やはり見た目だけは美しい。
「今日もお綺麗だった」
はしゃいだ声を上げる一般オペレーターとすれ違いながら、シェーシャは通路の角を曲がって消えた後姿に思いをはせる。
美しさも優雅な所作も、虫も殺さぬ微笑も、すべては偽装だ。シェ―シェのそれは自分を狂人に見せかけ、深入りさせないための偽装だが、パッセンジャーの振る舞いも似たようなものだろう。甘い蜜のように相手の全てを受け入れるように見せて、自分の内心には決して触れさせない。巧妙に懐に誘い込み、罠に嵌める──入り組んだつくりの、堅固な城塞のようなものだ。
彼はもう闇市の顔役ではないのだから、そんなものは必要ないだろうに、長年アンダーグラウンドで生きるために己に施した偽装は、半ば彼自身と化しているのだろう。ロドスに所属する元暗殺者たちが、気配を殺して暗がりを歩く習慣をなかなか捨てられないように。シェーシャがもはや、ほとんど意識せずに魂と武器について語るのと同じように。
とりとめのない思考に浸るうち、今日の職場に辿り着く。ドアの横についているインターホンを押すと、すぐに「どうぞ」と言われた。
「よお、ドクター」
「ああ、おはようシェ―シャ。今日は君か」
朝っぱらから景気の悪い声だ。徹夜でもしたのだろうか。
シェーシャが秘書としてドクターの部屋に詰めるのは久々だった。オペレーターたちに順番に当番が回ってくるらしいのだが、どういうローテーションになっているのかは不明だ。
角がぶつからないよう身を屈めて室内に入ったシェーシャは、飾り気のない内装を眺めて鼻を鳴らした。
「相変わらずつまんねえ部屋だな。こんな所で仕事ばっかりしてちゃ気が滅入るだろ」
「そう言って、置物やら観葉植物やら持ってきてくれるオペレーターはいるんだが……」
ドクターは乾いた笑いを漏らした。そこに「すぐ『こんなものはドクターの部屋には不要です』って処分されてしまうんだ」というセリフが込められていることを感じ取り、シェーシャは肩を竦める。ロドスで誰が一番偉いかは自明の理だ。
「で、今日の予定は?」
「突発的なトラブルがなければここに缶詰だな。ノルマは最低限ここからここまで。可能ならこっちも」
示された書類の山に、思わずうめき声が出た。
「……前より多くなってねぇか? 倍くらい」
「正直、今日の担当がシェーシャでほっとしたよ。君は意外と真面目に手伝ってくれるからね」
そう言って、ドクターはまた虚ろに笑った。昨日(ここ数日かもしれない)は秘書に唆されたか影響されたかで盛大にサボってしまったのだろう。指揮官がオペレーターと交流を深めるための当番制なのだろうが、そのせいで通常業務が滞るのは本末転倒ではないだろうか。
「意外は余計だ──ホラ、俺が代わりにやっても大丈夫なやつはどんどんこっち寄越せ。終わらねえぞ」
「うう……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
ドクターが呻きながら山の三分の一くらいを押しやってくる。その量に自分の発言をちょっと後悔しながら、シェーシャは秘書用のデスクについてペンを取った。ドクターが真面目に仕事をしたがっている気配を察し、時折判断を仰ぐ意外は黙々と書類を片付けていく。
昼食時も休憩とはいかず、テイクアウトのランチを食べながら仕事を続ける。ドクターは龍門風焼きそばを啜りながら書類を眺め、シェーシャはサンドイッチを咀嚼しながらドクターあてのメールをチェックしていた。
「おいドクター。ペンギン急便から飲み会の誘いが来てるぞ」
「いつだ?」
「今夜」
ドクターは、盛大な溜息をついて天井を仰いだ。
「無理だ。断ってくれ……今夜くらいはまともに眠りたい」
「おう」
シェーシャは残ったサンドイッチを口に押し込み、文面を考え始める。その様子を眺めていたドクターがぼそりと言った。
「怒っていないのか?」
「あン?」
突然何を言い出すのかと思ったが、すぐにピンときた。パッセンジャーにシェーシャの復讐の手伝いをやめるよう命じたことを言っているのだ。というか、自分とドクターの間にある確執など、それくらいしかない。
「自覚あるなら言うな。それとも、文句の一つでも言って欲しかったか?」
「……そうかもしれないな」
「そりゃ、腹は立ったさ。だが、あんたらの立場を考えりゃ当然の事だ。それに──」
本当にそれだけで満足なのですか? ──暗闇から囁きかける声。
自分はパッセンジャーを怖れた。彼は明らかに、こちらに引き金を引かせたがっていた。
「真実に辿り着くためには代償が必要だ。俺には、まだそいつを支払う準備ができてなかったってことだ」
この話はこれで終わりだと肩を竦め、出来上がったお断りのメールを見せる。
「こんなんでどうだ?」
「いいよ。いかにも私が書きそうな文章だ」
「んじゃ送信、と」
キーを押してメールを送る。ドクターは妙に関心した様子で頷いた。
「慣れてるな。どこかで秘書をやっていた経験があるのか?」
「見当はつくだろ?」
胸の奥に走る痛みに顔を顰め、シェーシャは上司を睨んだ。兄の研究所でインターンとして働いていた数か月、秘書めいた事もやっていた。こちらの経歴を勝手に調べたのだから、察しはついているだろうに。
「そういえば、パッセンジャーもすごく有能な秘書だよ。研究助手だったらしいから、そのせいかもしれないな」
シェーシャが終わらせた話題がまだ頭の片隅に残っていたのか、ドクターがそんなことを言った。
「研究助手? ……なるほどな」
「彼はエンジニア部でもそういう感じなのか?」
「ああ。確かに、誰かの手伝いをしてる時の方が生き生きしてるかもな……といっても、あの態度は変わんねえけど」
エンジニア部に配属されたパッセンジャーは、職人肌の機械マニアばかりの混沌とした職場にある種の秩序をもたらした。始めの頃は大人しくしていたのだが、彼の経歴を知ったクロージャが決算書類の作成を手伝って欲しいと頼んだことが契機だったらしい。
クロージャのオフィスから「ごめんなさいごめんなさい!」という悲鳴が聞こえたとか、パッセンジャーがいつもの笑みを浮かべたままクロージャの顔面を鷲掴みにしていたという噂の真偽は不明だが、それ以降、彼は密かに改革の決意をしたらしかった。といっても、シェーシャが同僚から聞いたのは、領収書の提出を半年間忘れていたとあるエンジニアが雷撃のお仕置きを受けたという噂だけだが、それ以降、提出遅れが激減したらしいので、一定の効果は上がっているのだろう。
それだけでも、彼が今までどんなふうに働いてきたかわかるようだった。サルゴンの闇市など混沌のごった煮のようなものなのに、サンドソルジャーが取り仕切っていた頃の沁礁闇市は怖ろしく秩序だっていたに違いない。彼の手が離れた今となっては、あっさり元の混乱に呑まれているだろうが。
サルゴンの権力者たちを二十年かけて暗殺してきた手腕は、まさに混沌の使徒と呼ぶに相応しい。だが、秩序を愛する優秀な助手こそ、彼の本来の姿なのだろう。天才が思うままに才能を発揮するためには、場を整える者が必要だから。
本当は、ずっとずっと尊敬する「先生」の研究を手伝っていたかったのだろう。自分がそうだったように──そう考えたところで胸の奥にまた痛みが走り、シェーシャは眉をひそめた。自分とあの男には共通点が多すぎる──嫌というほど。
「結構見てるんだな、パッセンジャーのこと」
「あいつを連れてきたのは俺だ。奴は混沌の使徒だが、ロドスにもサルゴンと同じ闇を振りまくというなら、俺は責任をもってそれを止めねばならない。奴の動向に気を配るのは当然のことだ」
「あっ、うん……そうだね」
ドクターは急に上の空になると、龍門風焼きそばをもそもそ食べ始めた。
首尾よく追及を交わしたシェーシャは、昼食のゴミを片付けながら考える。
ドクターがパッセンジャーを止めたせいで、こちらの情報収集は頓挫した。だが、そのせいで、パッセンジャー自身の人となりに目を向ける余裕ができてしまっているのだ。
もし、あのまま復讐の道に突き進んでいたら、自分たちはもっと緊迫した関係のままだっただろう。
(べつに、今だってただの同僚だけどよ)
冷やかされるような事は何もないのだ。苛立ったシェーシャは、なかなか食べ終わらないドクターに消しゴムの欠片を投げつけて「はやく食え」と言った。